木綿《マユ》・二


 家へと向かう道すがらからその気配はあり。玄関口に辿り着く頃には、それは最早隠し切れぬほどに色濃いものとして、文彦の表情を曇らせていた。当然と言えばその通りの話で、既に見慣れたものとなっているであろう床に伏す母の姿を、けれど心情的に受け入れることができているかと言われれば、全くそんな事はなく。今日もまた、何も変わっていないであろう現実を目の当たりにせねばならない現実に、怯えすくむのは致し方が無いことであった。

 とん、と。槭樹かえでが文彦の肩に手を置く。急かす訳でもなく、唯静かに。

「…大丈夫」

 一言。短く答えた後、意を決して文彦が玄関の戸を開く。




 戸を開けると。これまでの変調などまるで夢見の事であったかの如く、最早思い出す事も意識せねばならないほどに間の空いた、当たり前の光景が広がっている。母は、夕食の支度の手を止めて、笑顔でこちらを迎え入れてくれる。物珍しい客人に僅か驚きながらも、自分の知り合いだと知れれば朗らかに挨拶をしてくる。




 そんな妄想を、もう何度したのか。


 静まり返る室内。人の気配は微塵も無く、外に有る住人達の声すら酷く遠い。その無音たるや、まるでこの部屋だけが世界中から切り離された風であった。

「こっちに」

 文彦に促され、槭樹が家の中へ。そのまま真っ直ぐ、寝室へと向かう。そこに、木綿まゆの姿があった。


 寝息の一つも立てず、床に横たわるその姿に、槭樹の両目が僅かに見開かれる。

 彼女の驚愕は無理もなかった。と言うのも、横たわる木綿の顔に生気はなく、白い肌などと言う表現には到底おさまらない程の血色の悪さが全身を覆っていた。時折上下に、規則正しく揺れる胸元に目を落とさなければ、傍目でその姿を死人でないと断ずる事こそ困難な程であった。

「起きなくなってから段々、顔から血の気が引いていったんだ」

とは、文彦の談。その言葉に軽く頷きながら…しかし既に、槭樹の関心はそれとは別の所へと向いていた。

「ちょっと失礼」

 文彦と、黙する本人の二方へ同時に頭を下げると、槭樹は木綿の近くに腰を下ろし、横たわるその姿をまじまじと観察し始めた。

「今回はどのくらい目を覚ましていないの?」

「ええと…今回は四日、かな」

槭樹の問いに、思い出し思い出し、文彦が指折り数えて答える。

「その四日間、彼女は全く床からでていないの?」

文彦が頷く。

「体や、着物だけでも清潔な物に着替えさせてあげたいのだけど…重くて、やってあげられなかったんだ」

「重い?」

 槭樹が訝しむ。訝しんで、試しに。その体をぐいっと起こそうと試みる。が、動かない。まるで体ごと床に縫い付けられたかの如く微動だにしない。槭樹が不思議そうに首を傾げる。それもその筈…木綿の体躯は、どう控えめに見てもかなりの細身であった。寝姿との対比ではあるが、背格好も明らかに槭樹より小さい。その小柄さから、梃子てこでも動かぬその様子は些か奇妙な物であった。

「なるほど」

 木綿に触れた自身の掌を見つめながら、槭樹が一人得心がいった様子で呟く。その姿に、文彦があからさまに動揺を見せる。

「な、なにかわかったの?」

 これまで頼った先の人々もまた、この異様な状況に立ち会っている。その上で…これは当然なのだが、皆一様にその奇怪さに匙を投げるばかりであった。検診をしても、呪いで観ても。分からぬことが分かるばかりであったのだ。そんなこれまでがあったものだから、たった数瞬触れて診ただけで、何某かの手掛かりを掴んだそぶりを見せる彼女の姿に、文彦は驚愕を禁じ得なかった。

「まぁ、おおよそは。…くだんの離れに案内してもらえるかな」

 文彦の動揺などにどこ吹く風。あっけらかんと言ってのけた槭樹の言葉に、忘我の隙もなく。頷いた文彦が先導し、二人は家の裏手の離れへと向かった。


「あれ、壊れてる」

 先程。仕方がなかったとは言え、先導させたことによって文彦が感じた苦悶を、少しでも和らげようとしたのか。離れが見えた時点で、前を行く役目を買って出ていた槭樹が、引戸に手を掛けようとして首を傾げる。その後ろから、文彦が重苦しい調子で声をかける。

「何度目かの頃に、外から離れに入れない様施錠したことがあったんだけど…」

「あー、なるほど。大丈夫大丈夫」

 槭樹が言葉を遮る。彼女なりの配慮であったのだろう。


 夢遊病の如く、夜な夜な離れに入り浸り、読書に耽る。それを食い止めようとした努力はしかし、物理的な破壊で水泡に帰したらしい。それは正しく、奇行でしかあり得なかった。…母親のそんな挙動を、わざわざ事細かに説明させる愚を、彼女は犯さなかった。


 破損した引き戸を半ば無理矢理に開くと、室内の光景が二人の眼前に広がる。

 人一人収まる程度の狭い室内の壁際には棚が設けられ、びっしりと書冊が並んでいた。感想としてこの場にそぐわない事は恐らく分かりつつ、それでも槭樹が感嘆の声を挙げた。

「これは凄い。田舎の方なら商売が出来そうな数だ。本当に読書が好きだったんだね」

言いながらその内の一冊を手に取り、ぱらりと頁を捲る。捲って、一言。



「見つけた」



 はっきりと、呟いた。


 もう今日何度目かになる驚愕の色を見せる文彦の方に向き直り。今し方開いた書冊をひらりひらりと手遊てすさびながら、口を開く。


「見立てはやっぱり正しかった。木綿さんを蝕んでいるのは私の範疇…カカレモノが原因だ」

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