木綿《マユ》


 四方を豊かな山々に囲まれた村には、日頃から多くの者が流れてきた。行商人に客旅きゃくりょ…時には、果たして一体何を生業なりわいとしているのかもよくわからぬ者まで、多種多様に。そんな村なので、各地から様々な物物も同じ様に流れ着いて来るのであった。望む望まざるを問わず。数多あまた書冊しょさつもまた、それら流れ着くモノ等のひとつであった。

 町で話題の新著から、読み古された古書まで。一貫性は無く、実に様々な著書が流れ着いて来る物であった。件の書肆しょしは、そうした書冊共の漂流先でもあった訳だ。閉じた物語が物理的に世界を旅する、それは空想と現実が交錯するかの如き循環の構図であった。とは言えでは、書肆こそ書冊のついの住処であったかと言えば決してそうでは無く。それらは全て、元は誰かへと伝える事を命題として産み落とされた物である故、それを望む下へと移ろうのである。読書家達にとって、村の書肆の存在は、まさに替えの効かないものであった。


 巡り来る物語に胸躍らせるを生き甲斐とする。木綿まゆもまた、そうした一派の一人であった。中でも特に、彼女の関心は専ら絵空事の如き物語へと向かった。

 常ならば起こり得ぬ超常。あるべくも無し超然。それら到底、唯生きる上では巡り会う事無き奇妙で奇怪、荒唐無稽こうとうむけいな話の数々はことごとく、彼女の心を掴んで離しはしなかった。寸暇すんかを盗んでは読書に没頭するその姿を、けれども咎める者はなかった。それはひとえに、彼女自身が熱心な働き者であり、怠ける事を知らないたちであったからである。

 早くに夫を亡くし。傷心の底にありながら表には出さず、忘形見の一人息子を女手一つで育てる。畑仕事にも良く精を出す、彼女の数少ない、生活に根ざさぬ愉しみをとやかく言える程に蒙昧もうまいな者など、そうありはしなかった。そもそもが限られた時間の内に収まる程度の娯楽であり、それらが何か取り沙汰される事すらなかった。


「けれどある時から、母さんの様子がおかしくなっていったんだ」

 変調の兆しは昨春。

 常ならば誰より早く畑仕事に駆り出している筈の木綿の姿が見受けられないことに、村の人々が気付くまでにはそう時間は要さなかった。息子の文彦に至っては、朝食あさげの支度すら無いその調子に、一際大きな違和感を募らせていた。家には、木綿の姿は有りはしなかった。

 とは言えその行方は間も無くつまびらかとなる。自宅の裏の離れに在るその姿を、初めに見付けたのはやはり文彦であった。


 ぶる、と。思い出された当時の状況に、文彦が改めて体を震わせる。それ程に、あの日眼前に広がっていた光景は異様なものであった。

「母さんは離れで本を読んでいたんだ。でも、その様子は明らかに普通じゃなかった」

 文彦が木綿に声をかけても、暫くの間彼女は書冊へと落とした視線を上げる事はなかった。どころか、まるで文彦の事など見えてもいないかの如く、読書に没頭し続けていたのだ。そんな様子だったもので、普段ならば決して挙げないような大声で母に呼びかけながら、文彦はその手にあった書冊を乱暴に奪ったのだという。そこで初めて、木綿は我が子の存在…ひいては自身の異様な行動に思い至ったらしい。僅かな怯えを見せつつ、不可解な弁明をした。曰く——

「物語の中に居て、自分の意思では抜け出せなかった…と、母さんは言ってた」


 木綿の目元には色濃い隈が刻まれていた。夜中中読書に耽っていた事は疑いようがなかった。直後の様子の不可解な挙動は違和感を放ちつつも、だけれども、この一回だけであったならば。夢中になりすぎた故の粗相として、恐らく話は終わった事だろう。

「それ以降も母さんの…奇行は繰り返された。それも時が経つ毎、頻度を増して」

 初めは二週に一度程。間を空けて週に一回。縮まって三日に一度。奇行の内容そのものは変わらず、その間隔は短くなるばかりであった。初めこそは純粋にその身を案じていた村の住人達も、繰り返される奇妙な行動に、段々と奇異の眼差しを向ける様になっていった。やがて孤立するのに、そう時間は掛からなかったという。

 加えて。書冊を読んでいない…日常の生活においてまで、奇怪な変調は及んでいた。

「眠っている時間が極端に長くなったんだ。寝坊とか、そう言う話では無くて…一度眠りにつくと、次の日の夕刻頃までテコでも起きないんだ」

 それは概ね、書冊を読み耽ったその日の暮れのことである。糸が切れた様にとこに入ったが最後、次の目覚めは明けて次の夕刻ないしは夜。そしてこれもまた奇妙なのだが。奇行の頻度が増える程に、眠りの時間もまた同様に伸びていった。そして、今年の春先のことである。


「母さんは目覚めなくなった。時折夜、本を読みに離れに向かう以外は、もうずっと眠り続けている」


 一通り話を聞き終えて。槭樹かえでは少しばかり、考え込む様に顎先を指でなぞった。それから、沈黙とも呼べぬ程の短い間を置いて口を開いた。

「確かに奇妙な話だね…医者には診せたといっていたけれど、その際に何某かの異常は見つかったのかい?」

 文彦が首を振る。

「身体に異常はみられないって。起きなくなってからも数度診てもらったけど、変わりはなかったよ」

 その言葉に。槭樹が僅かに眉を顰める。

「どうしたの?」

文彦が不安気に尋ねる。その様子に表情を緩め、安心させる様に声色を明るくして槭樹が応える。

「大丈夫。ただ正直、今の話だけで原因の特定までは難しいね。やはり、実際に診てみない事にはだね。ともかく、案内してもらえるかな」

 文彦が頷く。その表情は相変わらず暗いが、それでも、その内心は幾分か晴れやかであった。少なくとも、にわかには信じ難い一連の話を、疑う事なく聴き終えた槭樹に対して、既に彼は信頼を寄せ始めていた。槭樹も恐らく、そんな内心を汲んだのだろう。改めて笑みを作り

「大丈夫。きっと原因を突き止めてみせる」

力強く、言い切った。


 日は既に大分傾き。間も無く、夜の帳が下りようとしていた。

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