序…カカレモノ
「カカレモノ…」
初めて聞くその言葉は、改めて自分の口から吐き出したとて、全くしっくり来ない響きであり。ただ、目の前の異形と結び付けるにはこれ以上無く打ってつけの様にも思えたもので、文彦の胸中には奇妙な納得が訪れていた。
「名付けはもうえらく古の話なものでね、由来については諸説あり過ぎて正直定かでは無いのだけど。単に書かれている物、描かれているモノ…変わり種だと厄災を指し示すなんて説もあったりする。共通するのは、この名を冠した存在というのは一様に、既存の世界の理から分断された摂理で生きているという事」
槭樹が鞄から青い組紐を取り出す。
ぱたん、と。勢い良く本を閉じると、その組紐を用いて表紙ごと本を手早く結んだ。
「なにをしてるの?」
「簡易的な封印。書冊の中にいるカカレモノが外に出られないようにしたんだ」
文彦の問いに答えながら、槭樹は今し方…彼女のいうところの封印を施した書冊を鞄にしまう。その挙動を見つめる文彦の声色が、仄かに熱を帯びる。それは最早投げ捨てていた、希望を孕む衝動の熱。
「封印って…そんな簡単にできるものなのか?」
「モノによるかな」
槭樹が鞄の口を閉じ、今一度真っ直ぐ文彦と向き合う。その眼差しは柔らかく…しかし真摯に言葉を伝えようとする真剣さを伴うものであった。
気を抜けば。矢継ぎ早に浅薄な問い掛けが次々口から漏れ出していただろう。彼の置かれた今の状況を鑑みれば、それは殊更責められる話では無いし、恐らく彼女もそんな野暮な言及はしないであろう。それでも文彦が沈黙を選び取ったのは、ひとえに、彼女の姿勢が一貫して『伝える』という一点に於いての誠実さを漂わせていたからに他ならない。そして、そうした彼の素直さもまた同じ様に、彼女には伝わっている様子であった。
「今見てもらったのは
槭樹の声が一段重くなる。僅かながらに増した奇妙な圧に、文彦がややたじろぐ。
「流出した群文は何某かの物語なり伝承なりを下地にして、それらを模した性質を有する一個体へと変容する。それらは既存の世界法則とは完全に分断されたまま、けれど外界へ干渉する力を手に入れる。物語に内包された世界が、物語を模して、物語の中の存在と同じ様な力を持って現出する」
槭樹が、掌を軽く正面に突き出し、それをくるりと反転させてみる。
「だから、逆なんだよ。妖怪がいるから妖怪譚が記されるんじゃ無い。妖怪を記した物語が先にあって、妖怪が生まれるんだ」
全ての超然は人の空想が先に有り。思い描かれた荒唐無稽が、その夢想を追従して現れる。俄かには信じ難い、絵空事としか思えぬような馬鹿馬鹿しさ。こんな話を手放しで受け入れられる者なぞ、そうは居ないだろう。
だが、彼は。文彦は既に、目の当たりにしてしまった。動かぬ筈が動く、奇跡と呼ぶには些か陳腐な…けれど確かに、この世の摂理とは隔絶しているであろう現象を。そして、それらを裏付ける真摯な言葉の数々を、彼は既に知ってしまった。それら厳然たる事実の列挙は彼から、疑う余地の一切を奪い去っていた。
「カカレモノはこの世界にありながら、けれど私達とは全く異なる領域で存在している。故にそれらが視える者と視えぬ者が別れる。にも関わらずその影響だけは確実に与えてくる…これでようやっと本題だ、文彦さん」
槭樹の声が。呼びかける言葉が、軽さを取り戻す。伝えるべき内容の、ここからが本題だとするならば、本来その声色は重く沈んで然るべき様にも思える。
「村の住人から聞いたよ。噂話の張本人…貴方のお母様の話を」
びくり。言葉に、文彦の小さな肩が強張る。その様子を予見していたのであろう。だからこそ、槭樹の放つ言葉は一際優しく、穏やかに。
「さっきも言ったが、お母様を蝕んでいるのは十中八九カカレモノだ。もしそうなら、貴方の言う通り、最早人がどうこう出来る話ではないだろう。けれど、私ならきっと力になれる」
けれど。その言葉には同時に、芯の強さを垣間見せる確かな響きも共存していた。
「…うちにはでも、払える金が…」
事ここに至り、文彦もついに認める。彼女は、違う。これまで力足らず匙を投げてきた医者とも、ただ怪しげな呪いばかりを押し付けてきた占い師とも。そうした連中とは、明確に異なる人種だと。故に、手放しで頼れるならば頼りたいと言うのが彼の本心であった。ただ、渡せる対価など既に持ち合わせていないことも、また事実。
ただ。結果だけを言うならば、これらの心配事は全て杞憂であった。
「報酬の事は気にしなくて大丈夫。…本当はある程度信用してもらうためにも頂いた方が良いのだけれど、今回はちょっと私の都合もあるものでね。その辺りも追々伝えるよ。ただ——」
すくっと槭樹が立ち上がり、軽く伸びをする。和やかな表情はそのままに…しかし今度はあえて、言葉の色味を僅かに落とし、伝える。
「カカレモノの及ぼす影響というのは、自然現象に近い。天災が人の手に余る様に、必ずしも万事が丸く収まるってことの方が少ないのは、確かな事実。力になれるとは言ったけど、何もかもを望んだままに導くとは、必ずしも約束できない。それでも構わないと言うならって話にはなるけど、どうかな」
これが、決め手だった。
助力と解決が常に結び付くわけではない。それはもう、抗う由のない当たり前の事実。けれども同時に、それらは往々にして偽られる事が常でもある。耳障りのいいだけの救いの言葉を由としなかった彼女を、文彦は信じることにした。
その心は依然、深い泥濘の底に有り。確約された救いの見当たらぬ袋小路の最中。それでも選び取った彼女の穏やかな笑みに。不確かでも希望を見出した少年を、愚かであると笑える者が、果たしてどれだけいるのだろうか。
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