序…蠢く文字


 歩き始めて少し。歩み自体はそれほど長くは無かった。幾つかの店や民家の前を通り過ぎ、やがて目当ての建物の前で槭樹かえでが立ち止まる。文彦もまたそれに倣って立ち止まり、顔を上げる。顔を上げて、首を傾げた。

「——本屋?」

 村で唯一のその書肆しょしは、住人たちへの娯楽の提供先として永く重宝されてきていた。決して広いとは言えない室内に、所狭しと並べられた書冊の山。読書家などには大変に心躍る光景ではあるのだろうが、文彦からしてみれば、埃とカビ臭い、古い書冊が乱雑に置かれているばかりの雑然とした空間でしか無かった。


「文彦さんは、妖怪って信じてる?」

 それら、並べられた数多くの書冊に目を向けながら放たれた頓狂な質問に、文彦は思わず目を丸くした。

「—まぁ、信じていないけど」

世の中に不思議なことがないと断ずる程に狭量なつもりはないが、かといってそうした奇怪を大人しく受け入れられるほどの柔軟さはない。そうした文彦の頭の中を透かしたような回答であった。

「それはまぁ、そうだろうね。じゃ、もう一つ質問。

 これまた頓狂な質問である。しかも一つ目の質問よりもややわかりにくい表現。文彦が眉を顰める。

「何処から…って、それはまぁ噂話とか…何処って言ってもな」

 生来の生真面目さから、文彦が俄かに考え込む。その様子を微笑ましそうに一瞥してから、槭樹の視線は再び書冊の山へと注がれる。

「多くの伝承や伝聞は事実に則して言い伝えられる。人々が目にした、原因の定かで無い不可解な現象や状況—もしくは存在を指し示す名を付け、記録し、後世まで残ったもの。各地に散らばる神話なんかも、そうして現在まで息づいてきた。ただそれらは正確な観測に基ない。不確かな現象に際して不明瞭な記録が残され、歪んだ情報が荒唐無稽な御伽話のように伝わる。それが、世の中の怪異とされる者どもの出自で、伝承のからくり…と、

 未だ拭いきれぬ疑心暗鬼による沈黙をもって、暫し槭樹の言葉に耳を傾けているばかりであった文彦の目線が彼女を捉える。

 言葉は概ね、その通りであるように思えるものであった。現実問題として超常現象みたいなものに出会した事はないし、不思議に思える事柄には往々にして理屈があった。

 理屈とは、世界の理。凡ゆる事柄はその範疇に収まり、無知ゆえに未知と捉えられる如何なるも、世界にとっては既知であり周知の事実。幼いながらに聡い文彦は、そうしたこの世界の在り方を拙いながらにも正しく理解していた。

「…どういこと?」

 であったからこそ、彼の困惑は一際大層なものだった。槭樹の最後の言葉は、そうして理解してきた世界の構造に対しての認識がそもそも間違っているという意味だ。

「順番が逆って話だよ…おーい親父さん」

 ますますわからない一言の後、槭樹が店内奥に腰掛けていた老店主に声を掛ける。こちらに気付いた店主の方へ、槭樹が歩み寄る。その手には、一冊の本があった。彼女はそれを店主に差し出す。

「これが欲しいんだけど、幾らだい」

 どら、と。店主が槭樹から書冊を受け取る。その様子が少し気になった文彦は、やや首を伸ばして視線を件の書冊へと向ける。

 薄緑色の表紙はえらく薄汚れており、一見して随分な年代ものであることが窺い知れる。

 槭樹が本を持って文彦の方へ戻る。随分と機嫌の良さそうな様子であった。

「長い事棚の肥やしになっていたそうで、えらく負けて貰えた。ついてるついてる」

嬉しそうにする彼女の姿に、文彦はと言えば、いったい自分は何に付き合わされているのか本格的に不安を感じ始めている頃合いであった。

「どこか掛けよう」

 そんな文彦の気持ちなどどこ吹く風。店を出て少し歩いた先、ちょうど良く腰掛けられそうな隆起を伴った木陰に腰を下ろした槭樹が、文彦を手招く。

 訳もわからぬまま…しかし一体、彼女が何を見せようとしているのか知りたいという好奇心に抗う事も今更に思え、文彦は気怠げに彼女の隣に腰を下ろすのであった。

「さて、まず話の続きだ」

 脇に置いた鞄の中を探りながら、槭樹が口を開く。

「妖怪、ものの怪、神仏…まぁ呼び名は様々だけど、有体に言えば人ならざるモノどもに纏わる文献や伝承は各地に数多存在する。…すべて、とは言い切らないけれど。前提として、

 やがて、鞄の中から黒い糸で編まれた小物入れを取り出した。絞られた紐を緩め、中から取り出されたのは極小の箱。鈍く光を反射する、恐らくは真鍮製の代物。上蓋が前後にずらせる構造になっており、中には白い粉が入っていた。

「ただし…これはさっき既に言ったけど、順序としては逆なんだ。文彦さんは本は読むかい?」

 文彦が首を横に振る。振りながら、目線はしかし、槭樹の手先をじぃっと見つめ続けていた。

「書冊…とりわけ空想を綴った物語には、それを書いた人の魂の断片が刻まれる。そうして紡がれた言葉は、私たちが生きるこの世界とは分断された、独自の世界を内包するようになる。あっさり言えば、『物語の中には世界がある』」

 槭樹が先程の書冊の頁を開く。

「なるほど、印刷ではなく直筆か。とりわけ気配が強い訳だ」

 言いながら。手元の箱からひとつまみ、白い粉を取り出して、それを本に振りかけた。

「見ててご覧」

 槭樹に促され、文彦が視線を頁に落とす。

 達筆故か風化からか。書かれた文字は極めて不明瞭であり、そこかしこ掠れているのもあって、到底彼に読める代物では無かった。

 訝しみ、いい加減募った不満をぶつける為顔を上げた、その時。


 ぞるっ。


 視界の端で。黒い何かが、かすかに這いずるのを見た。

 虫でもいるのか、と。ある意味真っ当な見当違いを、とんだ誤りであると文彦が認識するのには、次の一瞬で十二分であった。

「うわぁあ!」

 驚き、跳びのく。但し視線だけは釘付けに。


 彼が捉えたのは虫ではなかった。

 書冊に綴られた文字共が、こぞって一斉に蠢いていた。

「そんなに怯えずとも大丈夫だよ」

 槭樹がおおらかに笑う。馬鹿にされた訳でない事は明らかであったが、それでも文彦としては幾分恥ずかしさを覚えて仕方がなかった。気を取り直して平静を装い、改めて、蠢く文字群を見据える。


 這いずるように、駆け回るように。あるいはいっそ、跳ねるような躍動感すら伴って、紙の上を縦横無尽に動き回る、文字の群れ。それはあたかも、言葉そのものに命が宿ったような、奇怪な光景であった。


「さっきの続きなのだけどね。物語が内包する世界というのは、読み手の解釈次第で際限ない奥行きを有するものだけど、あくまでそれは空想夢想の類だ。物語の中での出来事というのは、それそのものの内側で完結する。当たり前の道理だね」

 蠢く文字共を見つめる槭樹の眼差しに、恐れの色は無い。代わりに浮かぶのは、愛おしむような、慈しむような、穏やかな表情。

 仏様の様だ。

 文彦はその姿に、生命を尊ぶ神仏の影を重ねていた。

「ところが時折、人の思念と魂の断片を渡しとして、それらの世界が実存の命を持って私達の世界へと姿を現すことがある。私達人間や、その他の獣とは成り立ちから異なる、命と呼べるかも不確かな超然の存在…私達書人かきびとは、これらを総じて『カカレモノ』と呼んでいる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る