一度頭にこびりついた鯨幕は消えることを許さない。

昨今、鯨幕を見かける機会はとんと無くなってきた。
葬式は家で行うものではなくどこかの式場で行うものであり、表立って喪に服すということが少なくなってきた。
よくよく静かに考えて見ると鯨幕というものが現代に生きる我々にとって異質なものに見えてくる。無論、これは人によるところかもしれないが、少なくとも私はそう感じる。

ちょっとした日常の風景にぼんやりと主を失った屋敷が浮上する。
そもそも怪異とはそういうものなのかもしれない。
日常の中に割り込んでくる異質物。完全なる理不尽。
それが汗が出るほどの生々しさを伴って頭の中に浮かび上がる。
これはひとえに屋敷の描写の巧みさに起因する。
丁寧な屋敷の描写から我々はどうあっても屋敷の姿が頭から離れなくなる。
そして古い日本語の妙。
昔の日本語の中で特に動物の名が入った言葉がうまく取り入れられていて、そこから連想する動物の姿と、そこに連なる不気味な屋敷のイメージが不思議なベールをかけられたようになって、異質さを持って読者に迫ってくる。
迫ってくると思ったら霧のように霧散してしまう。
良い意味で薄気味悪い読後感であった。

こりゃあ、どこかで鯨幕見たら怖くなってまう笑
読まんと損でっせ!