白いベンガルトラの赤ちゃん

犀川 よう

白いベンガルトラの赤ちゃん

 午前二時というのは、ひどく中途半端な時間だと思う。午前一時であれば、眠ることによって、朝までの短い睡眠時間の起点として扱うことができるし、午前三時であれば、もう朝まで何をしても許されるのではないか、という気持ちになれる。たとえば、最終話だけ放置してあるミステリー本を読んでしまおうとか、スマホで買うつもりのない服を見ようとか、眠らぬ朝に向かって、価値のある深夜のスタートを切ることができる。だから、その中間である午前二時について、私はどう大事にしてあげればよいのか見当がつかなかった。冷蔵庫を開けたとき、二十グラムにも満たないラップに包まれたひき肉を見つけたような、哀しさと虚しさが胸の中にこみ上げてしまうのだ。


 その日は、そんなやるせない午前二時に目を覚ましてしまった。私は夫を起こさぬように寝室を出ると、台所に立ち、水を飲んだ。飲むために開けた冷蔵庫には中途半端なものは何も存在していなくて、私を少しだけ安心させた。

 そっと冷蔵庫を閉めてから振り向くと、食卓には中学生の娘が座っていて、何かを撫でていた。私は娘の気配をまったく感じなかったのでとても驚いてしまったが、娘はそんな私を見て指に手をあてた。

「静かに。この子が起きてしまうから」

 我が家ではペットを飼っていないのに、娘の膝の上には白い何かがいた。猫だろうか。私は身体をくねらせて娘を見ると、白いそれは犬のようにも見えた。

「ねえ。それは、いったい何なのかしら?」

 私が深夜の時間にふさわしいささやかな声で問いかけると、娘はまるで自分の宝物を見せるような誇らしげな顔をして、白いそれを私に見せた。

「この子はね。ベンガルトラの赤ちゃん。それも希少な白い子なの」

 娘はその白いベンガルトラの赤ちゃんを抱きかかえると、愛情のこもった視線を落とし、猫と同じような扱いで撫でた。私はその光景をどう処理してよいのかわからず、ただじっと見ているしかできなかった。買ってきたばかりのお米を床にぶちまけてしまったときのような、やるべきことはわかっているのに、心と身体が動かない状態だった。

「どうして、その虎はウチにいるのかしら?」

 ようやく口を動かすことができた。そのセリフは、頭でじっくりと考えたものではなくて、ただ反射的に漏らしただけのものであった。

「この子? この子はね。月に一度だけ、一週間くらいかな。ウチにやってくるの。かわいいよね」

 娘の返事はどこかあやふやで、私は未完成なパズルを見せられたようなもやもやとした気持ちにさせられた。

「この子は、わたしが生理の時にやってきてくれるの。午前二時にわたしのベッドにそっと現れて、朝になると、どこかに帰っていってしまうんだ」

 娘はそれが当たり前であるかのように私に説明すると、白いベンガルトラの赤ちゃんを連れて、自分の部屋へと戻っていった。

 朝になると、私も娘も何事もなかったように一日をスタートした。朝には消える白いベンガルトラの赤ちゃんに、何を食べさせようか考えずに済んだのが幸いしたのか、私は夫と娘の朝食をスムーズに用意することができた。娘とあの虎の話になることはなかった。

 娘は忙しそうに支度を終えると、ウインナーだけをつまんで家を出ていった。午前二時の世界を知らない夫は、悠長に新聞を読んでいた。私に見える側の紙面には振り込め詐欺を防いだ青年の記事が、どこか誇らしげな彼の写真とともに載っていた。


 その次の午前二時にも白いベンガルトラの赤ちゃんは現れた。私はもしかしたらと思い、寝ずに娘と虎を台所で待っていた。深夜の台床は不気味なくらいに静かで、古い冷蔵庫のコンプレッサーの音くらいしか存在しなかった。私は冷蔵庫を開け、念のために買っておいた豚肉の塊を確認した。もしかしたら、白いベンガルトラの赤ちゃんがお腹を空かせて、娘を食べてしまうのではないかと心配して買っておいたのだ。牛肉の方がよかったのか、安い豚肉で大丈夫なのか、それだけが心配だった。

 娘が部屋から出てきた。やはり、あの白い猫のような虎を大事に抱きしめながら、こちらへとやってきたのである。娘は私がいることを不思議がることもなく、食卓の椅子に座った。

「その子、お腹はすいてないのかしら?」

「さあ、どうだろうね。昨日は牛乳をあげてみたけれど、飲まなかったよ」

「そうなのね。それで台所にいたのね」

 私はおさまりの悪いもやっとした気持ちを横に置いて、白いベンガルトラの赤ちゃんを見た。娘の腕の中で安心しきって眠っていた。娘と一緒にいるのが当然どころか、娘を母親だと思っているような無防備な寝顔をしていた。まるで、私に抱かれて眠っている、乳飲み子だった頃の娘のような、完璧な穏やかさだった。

 私たちはしばらくの間、台所で白いベンガルトラの赤ちゃんを見ていた。私はぼんやりと、娘は愛おしそうに虎を見ていた。長い無言の時間を経て、娘は一言だけ、「この子がいると、生理のつらさを忘れられる」と漏らした。私は、白いベンガルトラの赤ちゃんを恐る恐る撫でてみた。白いベンガルトラの赤ちゃんは目を開け、一瞬だけ私を見たが、すぐにまた目を閉じて、娘の腕の中で溶け込むように眠ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白いベンガルトラの赤ちゃん 犀川 よう @eowpihrfoiw

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ