ナツメグ

粗忽ぬめり

ナツメグ

スリッパをぱたぱた鳴らしてキッチンへ向かう。チャイティーのパックを取り出して小鍋に入れ、火にかける。ふつふつと小さな泡が立ち始める。私はそれを見ている。ただ、じっと見つめている。


ぐらりと水面がゆれた。スパイスの香ばしいにおいが立ち登り始める。もうそろそろ彼も起きてくる時間だろうか。キッチンのシンクに、汚れたままの皿が置き去りにされている。皿の中に浮いた脂が、差し込む陽の光に照らされて、ぬらぬらと光っている。照り返した水面はちかちかと光る。思わず眉を寄せた。美しいと思ってしまったのが不快だ。こんなのただの汚れでしかないのに。


冷えた指先で給湯器のスイッチを押す。こんなもの、早く洗い流してしまえばいい。


まだ温かかった頃の食卓を思い返してみようか。まあいい、これもきっと最後だからね。たしかに楽しかったね。あの時は楽しかった。私たち笑い合ってばかりで、いつも、ずっと楽しかったよね。私の得意料理のロールキャベツを、あなたは喜んで食べたね。あれ、作るのたいへんなんだよ。すっごくめんどくさいんだ。キャベツ茹でて、玉ねぎ刻んで挽肉と混ぜて。たねができたらキャベツで包んで。サッと隠し味を加えて、そしたらさらにコンソメで煮込むの。でもね。寒い中帰ってきたあなたが、鼻をひくつかせて微笑んでさ。お風呂も着替えもそっちのけで食卓に座ってね。私ができたてのお皿を出すと、拝むみたいにしていたでしょう。あれってすごく間抜けで、おかしくてしょうがなかったんだ。そうしてひと口食べたら、あなたははっとした顔でこっちを見つめたよね。「あれ?ナツメグ入ってる?」って。いつも気づいてくれたでしょう。それだけで、ぜんぶ報われたような気がしたんだ。


隠し味はナツメグ。たった5振り。それだけで味が違う。ひと手間加えるだけで、ぜんぜん違うんだから。水はやがてお湯になった。これは決まり。この世界の決まりだ。水は上から下に流れる。スイッチを入れれば、水はお湯になる。鍋を火にかければ沸き立つ。スポンジに洗剤をつければ泡が立つし、大事な人は嘘をつく。


積み上げられた汚れ物たちを眺める。本当はずっと前に気づいていたんだ。いつかは片付けなければならないって。いつかは向き合わなくてはならないって。きれいさっぱり、洗い流してしまえればどんなに楽だろう。でも、洗い流してしまったらもう戻らないのだ。皿についた脂は冷えてすっかり固まってしまっている。湯で流すとじゅわっと溶け出す。泡で流せばたちまちシンクに吸い込まれて消えていく。あっと言う間に片付いた。何もなかったみたいだ。はじめから何もなかったみたい。私しか、ここにいなかったみたい。ふきんで濡れた手を拭う。しっかりと、ていねいに。すこしの水滴も残らないように。そこに残るのは私と、ナツメグの瓶だけだ。


寝室の方で、ゴトッ、と何かが音を立てた。


鍋がぐらぐらと音を立てている。大きな泡がごぼっと音を立てて弾けた。鍋の前に立つ。チャイのパックから滲み出た茶色が、じわじわと鍋の中に広がっていく。牛乳を注ぐと、ぐるぐると渦を巻くようにして、淀んだ茶色がきれいなクリーム色になった。ほうっ、と深く息をつく。


嘘をついたのはあなただけだって思っていたのかな。私にだって嘘はあったんだ。あのね。まださ。まだ最後まで私、あなたのこと、好きだったんだよ。


沸き立つ液体を、ゆっくりとマグカップに注ぐ。さて、最後にひと手間を加えましょうね。


ナツメグの瓶を手に取る。鼻先を触れさせて、すうっと息を吸い込む。あまいような、すっぱいような、ツンとした香り。あなたと過ごした時間みたいだ、と思う。でももう戻らないよ。洗い流してしまったから。わたしが全部、シンクに流してしまったから。それに、あなたは知らないでしょう。ナツメグには毒があるの。たくさん入れすぎると、めまいがするんだって。呼吸がくるしくなって、幻覚が見えることもあるんだって。あのとき、もっとたくさん振り入れていたら、どうなっていたのかな。知りたくないことを、知らないまま、幸せでいられたのかな。


あなたのマグカップに、迷うことなく振り入れる。隠し味はナツメグ。たった5振り。それだけで味が違う。ひと手間加えるだけで、ぜんぜん違うんだから。


寝室の方で、ゴトッ、と何かが、おおきな音を立てた。


マグカップの中で、液体が冷めていく。私はそれを見ている。ただ、じっと見つめている。

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