泡沫⑦
「シレーナ……」
懐かしい記憶。自らの幼少期。消されてしまった大事な名前。その名を呼ぶだけで、様々な記憶が蘇り、そして、溢れ出してくる。
「思い出されましたか?」
目の前の小さな半魚人が不安そうな顔でエルザに尋ねる。
「えぇ、えぇ。ハッキリと、思い出したわ」
エルザがそう独りごちるように言うと、ルカはすっと短く息を吸った。
「怒っては、いないのですか?」
「怒るも何も。貴方は貴方のやるべきことをしたまででしょ。それに、悪いのは私だもの。貴方に怒る権利なんて、ないわ」
その一言に、ルカは小さく息を吸った。
「あの時は本当に申し訳ないことをしてしまいました。それに、少々荒療治となってしまいましたこと、お詫びいたします」
ルカは深々と頭を垂れて、自らの非を詫びる。
「それは構わないのだけれど……。でも、どうして今になってなの? それに貴方の姿だって……」
ルカはエルザの問いかけに、笑顔を持って答えると、恭しく彼女の手を取る。その微妙な身長差がもどかしく、少しくすぐったいような感じがする。
「それはこれから訪れる場所にてお話いたしましょう」
エルザはルカに連れられるままに歩き出す。屋敷の中だったはずなのに、ルカに連れられて歩いていると、絨毯の感触は消え失せ、やがて土を踏む感触に変わる。
「何処に向かっているの?」
だんだん不安になってきたエルザが訊ねるも、ルカは聞いていないのか無言でどんどん先へと進んでしまう。
「ねえ!」
エルザが語気を強めてそう叫ぶと、ルカはぴたりと足を止めてこちらを見た。
「安心してください。もう着きましたから」
ルカが柔和な笑みを浮かべて一歩横にずれると、少し明るくなった空の色に照らされたリンドウの花が一面に広がっていた。
「ここは……」
「ここはかつて、シレーナ様とエルザ様。お二人が最後に別れた場所でございます」
その言葉にエルザは目を細めて、リンドウが咲き乱れたこの場所を、かつての記憶と重ね合わせる。
「不思議なものね……」
たった一回二人で訪れただけの、彼女の記憶が消えてからは訪れもしなかったこの場所を、こんなにも懐かしいと感じるなんて。その事が面白くてつい、笑みが零れてしまう。
「どうされましたか?」
ルカの心配そうな表情を見ていると、また可笑しくて笑ってしまいそうになる。
「いえ。何でも無いの」
エルザがそう返すと、「そうですか」と、怪訝そうな顔をしながらルカが返答した。
「……そろそろですね」
ルカがポケットにしまっていた懐中時計を手に取ると、そんなことを独りごちる。
「それってどう言う……」
エルザが何事か訊ねようとするが、そのタイミングで朝日が昇り、リンドウの花畑諸共二人を照らす。そのまぶしさに思わずエルザは自らの瞳を閉じてしまう。
ゆっくりと目を開くと、太陽に照らされて美しく輝くリンドウの花が視界に映る。
「……綺麗ね」
エルザが目を細めて、横に立つルカにそう零す。
「そうでございますね」
「――え?」
先程から聞き続けているアルトの声とは違う、低いその声に驚いて横を向くと、かつての記憶通りの姿をしたルカがそこに立っていた。
「十数年ぶりにこの姿に戻りましたが、奇妙な物です。少々違和感を覚えてしまう」
ルカは苦笑混じりにそう言うと、エルザに優しく微笑みかける。
「改めてあのときは無礼を働き、申し訳ありませんでした」
エルザは驚きのあまり声を失っていたが、やがて声を上げて笑い出してしまう。
「何か笑われるようなことを言いましたでしょうか……?」
彼は不満げな声に、エルザはなんだか懐かしくて少しだけ泣きたくなった。
「いいえ、少しだけ、懐かしく感じただけよ」
エルザは瞳に浮いた涙を人差し指の腹で拭うと、大きく深呼吸する。
「どうして、今日はここを訪れたのかしら。それに貴方の姿についてお話し頂けると嬉しいのだけれど……」
エルザの問いかけに、ルカは当たり前の事を話すように淡々と答えてくれた。
「まずはぼくの姿の理由からお話いたしましょう。これはぼくの失態によるものでございます。あの日――つまり、お二人が別れた最後の日。あの後屋敷に戻った後、主人にこってりと絞られましてね。その罰であの姿になってしまったという訳です」
「それは……悪いことをしたわ」
エルザは表情を暗くしてルカに謝罪するが、彼は気にするなとでも言うように微笑んだ。
「別に気にしておりませんよ。それに、今日その罰も終わりました。そして、どうしてそれが今日なのかと言う問いについてですが……」
そこでルカは言葉を一度区切り、遠くを見やる。つられてエルザも同じ方向を向くと、懐かしい人影がこちらを歩いてくるのが見えた。
「あぁ……あぁ……」
エルザは喜びのあまり、口を押さえて小さく声を漏らす。
「本日は、シレーナ様の成人を迎える日なのでございます」
エルザはルカの言葉を最後まで聞かずに、一度記憶の向こうに消えてしまった人物に向かって走り出す。
話したいことは数え切れない程あるし、謝りたいことも山程ある。でも、今は大切なその名前を呼びたかった。
「――シレーナ!」
エルザは彼女の名前を叫ぶと、すっかり背丈の伸びた、かつての親友を強く、強く抱きしめる。
十数年ぶりに再会した二人を。そんな二人を、リンドウの花たちは優しく見守っていた。
〈了〉
泡沫 海 @Tiat726
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