婚約指輪を、今夜食う

笠井 野里

婚約指輪を、今夜食う

 ギャグを思いつくとすぐに、口に出てしまう、それが私の悪い癖だった。

 日曜日の昼下がり、ツイッターを見ていると、声優の結婚報告。指輪が婚姻届を囲み、その銀色の光が私を威圧いあつする。そういう感情を持つのは、いつかどこかで結婚を望んでいるからだろう。大学三年にもなって、彼女すら出来たことないのに。諦めるにはまだはやい? いやあ、そうは言っても…… 地元の同級生たちのインスタには、結婚している奴も仰山ぎょうさんいるじゃないか。やはり、なにかするべきだろうか。しかし、恋愛というのは妙に空恐ろしくて敵わない。


 ため息をついて廻る脳みその中の嫌な思考を吐き出すと、ふと思った。

「なんで指輪が三つもあるの」

 左か右は忘れたが、薬指につけるのが結婚指輪だろう。男と女で二つ。も一つあるけどこれはなんだろう。間男まおとこ用にとって置くのだろうか。それとも愛人用か。

「婚姻届 指輪 三つ なぜ」

 検索をかけると、婚約指輪というものが一つ、結婚指輪が二つで計三つだということがわかった。


 もしかしてメロドラマでよくある指輪を渡すシーンで渡すのはコレだったのか。と驚くと、実際そうでもないらしく、プロポーズリングなるものもあるらしい。結婚と縁遠いのがよくわかって、なんだか声に出して笑ってしまった。

 こうやって自嘲気味に笑うかどには、福より先につまらない考えというものが来る。

「婚約指輪を、今夜、食う」

 つい口に出してギャハハと笑ってしまったが、隣で笑う人は一人もおらず、醒めた瞳で見つめる人さえいない。なんだかむかむかしてきた。



――婚約指輪を今夜食わなければならない。

 ふと、そう、思った。


――――――

 善は急げ。私は家を飛び出して、婚約指輪を買いに駅の指輪やさんへ出かけた。もうクリスマスソングがとけて混ざりはじめた真冬の空を背に、GUの半袖Tシャツ一枚着て。



 しかし婚約指輪というのは高いもんだ。あと一桁増えたらカンマが二つになるぞ。口座には十万しかねえんだ。そんなことを考えていると、ひと昔前に流行った女優のような、きりっとした顔立ちの店員は、怪訝けげんな顔で声をかけようか迷っているのがわかった。一人GUのTシャツで婚約指輪を睨む人間なんざ様子がおかしい。泥棒のようでもある。


「すみませーん、これ欲しいんですけど」


 宝石もなにもない、ただ何かの葉の模様がついただけの、他の指輪より一桁安いものを指さして店員さんに話しかける。

「サイズのほうは……」

「今すぐ現物が手に入るサイズならどれでも……」

 店員は「いやいや、まったく、ご冗談を……」と顔に出るような苦笑いをして、バックヤードに指輪を見に行った。逃げるような早足。


 しばらく待って、バックヤードから出て来たのは七三分けの細身な男だった。写真加工アプリで作ったような口角の上がりかたで、丁寧な声色して、

「こちらでお間違いないですか?」

「十万切ってるなら、間違いないですね」

 店員の笑顔がひくついているのを見て、

「いや、今すぐ、というか、少なくとも今夜までにはほしくてですね……」

 と弁解する。

「なるほど……」

 なんてわかったような台詞をはいても、顔がなるほどとは思っていない。モノ言うのは目や口より顔である。


 ほかにもいくつか問答をして、会計にペイペイが使えないことや、Tポイントがつかないことを確認し、そうしてレジで現金払って外に出る。手には四角い箱。なんだか質感がメガネケースみたいだと思った。

 しかし「今夜」までにはまだ数時間があった。ふと「婚約指輪を渡されて困惑」というギャグ思いついた。やろう。駅前の広間に出て、手当たり次第に婚約指輪の箱を差し出す。しかし迷惑系YouTuberのように思われて、皆ありきたりだというような顔しかしない。困惑を見ることも出来ず、ただ好奇の瞳にさらされた。


 私はYouTuberみたいな、金と馬鹿げた名誉のためになんでもするようなチンケなやからじゃない。じゃあどんな高尚こうしょうなものかと言われると閉口してしまうが、しかし一緒にはされたくなかった。ゲッソリして、足取りフラフラと広場から離れ、公園に逃げて行った。

 近くの公園のベンチに座る頃には、夕焼けが空の半分ぐらいに広がって、空がさびしい色をしている。カラスが夕焼けに向けて一羽飛んでいるのを見て、黒い星のようだと思った。


 婚約指輪を今夜食う。

 それが意味することは、意外と重みを持っている。婚約指輪を食ったら間違いなく喉が詰まる、死ぬかもしれない。いや、死ぬ。

 が、やらなければならない。なぜそう思っているのか、私自身の心理を解剖かいぼうしなければならないとは思ったが、心の奥の部分が、首を横にぶんぶんと振るため、それもはばかられる。

 ただ、空を見上げる。星の命を燃やすきらめきも、地球に届くころには弱々しい光となってしまって、うっすらとしか見えない。どころかビルに邪魔されて、そのうっすらさえ見えないこともある。星という生き物の切なさに同情した私は、できるだけ静かで高い所へ向かい、そこで婚約指輪を食おうと思った。ビルの屋上へ向かうため、ベンチからケツを離すと、腰の部分が妙に痛くて、その主張の場違いさに微苦笑びくしょうした。


 長い階段を上がり、扉を開けると、ビル風がかなりうるさく、扉を閉める音さえかき消されて聞こえなかった。

 航空障害灯がチカチカ光り、あたりを余計に騒がしくする。これじゃ落ち着いて天体観測と洒落こめないじゃないか。

 箱を開け、婚約指輪を取り出す。雑草のような模様が後ろまで繋がっていて、後ろの方に一輪の知らない花が咲いていた。普通は逆だと思う。しみじみ眺めていると、流石に百均の指輪とは違うのがわかる。銀色の鋭い光が生き物のように動くからだろうか。それとも重みか。

 誰にも渡してないのに重みを持った指輪。

 星にかざして見ても銀色の光は変わらない。そのまま食べちゃおう。人間を食べる巨人のように、仰々ぎょうぎょうしく。


 しかし、舌に冷たい感触を感じると同時に、右から声をかけられた。驚いて口からオエッと指輪を出してしまう。

「ちょっと! なにしてるんですか!」


 声のした方向を見ると、航空障害灯を光背に、なにか人影が見えた。影がこちらに走って寄ってくると、その人が女性であることがわかった。白いダッフルコートと赤いマフラーがあったかそうで、今さら自分が半袖シャツでいることを思い出す。寒いよ。掌に乗った、唾液のついた指輪が、さっきよりかがやきを増していた。


「あぶなかったぁ…… どうして指輪なんか食べようとしてたんですか!」

 子どもを叱る母親のような口調で彼女は言う。怒っているような、泣いているような、悲しんでいるような表情。こちらを見つめる大きな瞳が、小さく揺れている。少し年上だろうか。


「いやあ。『婚約指輪を今夜食う』ってね……」

 彼女はふと、あの複雑な表情を崩して、一瞬無になり、そうして、呆れた顔になり、噴き出して笑った。彼女の瞳からは一粒、明るい涙がこぼれていた。

「ふざけてるの……?」

「かもしれないっすね」

 彼女はなにも言えなくなってしまい、へなへなと脱力し、へへへと笑う。長い黒髪がビル風に吹かれて、赤い光に溶けてゆく。

「ね、下、見て」

 楽しそうな声色でつかつかとビルの端まで歩いてゆく彼女。それに私はついてゆく。


「川すね」

「キレイだねえ」

 駅前の大通りに、一直線に流れる青。

 その正体は、海をモチーフにしたイルミネーションだった。

「私さあ」

 航空障害灯が何回か明滅めいめつする間、光の川を見ていた私たちの静寂せいじゃくを、彼女はぼんやりした声で破る。


「振られちゃったの」

「でしょうね。でなけりゃこんなビルの屋上来ませんよ」

「じゃ、君もやっぱり振られたんだ」

「いや。僕は『婚約指輪を今夜食う』をやりにきただけで……」

「だからー なんなのさ、それ」

「なんなんでしょうね。僕にもよくわからないや」

「まあ…… もしかしたら…… ふと、指輪を食べたくなることもあるかもね」


 風に乗ってどこかへ飛んでゆくほど軽い笑い声。

 それを聞いて、なんだか私は、今日一日中ずっとあった、よくわからない不安や義務感から解消されたのを感じた。それはギャグの遂行すいこうとか、そういうものじゃなくて、もっと漠然ばくぜんとした感情に対するものを。しかし、そのかわりに、体が寒い。本当に寒くなってきた。


「婚約指輪を今夜食うの、やめといた方がいすかね」

「うん。食べたら死んじゃうし」

「そっかあ。助かりました。いなかったら多分食べてましたよ、僕」

「私も、君が馬鹿げたことしてなかったら――」


 彼女はそこで言葉を止め、

「……ね、振られた話、していい?」

「振られ話を振られた……」

「……やっぱいいや。それよりさ、呑みいかない? おごったげるから」

 チープな展開だ。都合がよすぎる。しかし、こんな展開に飲まれてしまう自分がそこにいた。

「いいんすか?」


 破顔一笑はがんいっしょう。背後の赤い光が、聖母のような美しさ。遠くの星はもう見えない。


「じゃ、いこ。おでんやさんにしよ。ね。『こんにゃく、今夜食う』これなら死なないし」

なぜだろう。その答えは明白なのに体が震える。

「寒いっす」

「じゃ、これ」

 彼女は赤いマフラーを私の首に巻いてくる。半袖にマフラー。かなり変だ。


――――――

 彼女の背を見ながら階段を下っていく私は、ポケットにしまった指輪を右へ左へと転がしていた。なぜだかその動作に私は、恋愛の恐ろしい象徴を見たようで、やはり寒気が止まらなかった。

「寒いっすね。”Someone is walking over my grave.”っすね」

「なにその急な英語」

「ギャグす。寒いとサムワンをかけたギャグ」

 くだらないことをいいながら、二人は階段を下っていく。あたたかいおでんを目指して。

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婚約指輪を、今夜食う 笠井 野里 @good-kura

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