第8話 明日はもっと、今日より前を向けるように

薫を助けてくれた店主の後を次ぎ、店の名前も、元の「珈琲喫茶ikoi」から"憩い"の部分を薫の名前に変え、「珈琲喫茶kaoru」として、薫の新しい人生がスタートした。

淡いブラウンのシャツに、若葉色のエプロンを腰に巻いて、一日に数人やってくるお客様を、オリジナルのブレンドコーヒーで癒やした。


初めの数ヶ月は、あまりお客様と会話をすることはなかった薫だったが、ある冬から毎週やってくる高校生の女の子が、薫は気がかりだった。その子は毎週コーヒーを頼んでは、プリントやら参考書をテーブルいっぱいに広げて、黙々と勉強をしていた。難関大学の攻略本や、模試なども置いてあった為、きっと受験生なのだ。薫はその子に、"頑張れ"と声をかける勇気がなかった。だが、毎週ここに来てくれると感謝と、応援している気持ちを伝えたくて、ある日薫は、近所の神社で買った合格祈願のお守りを添えて女の子、笹岡優衣(ささおか ゆい)にコーヒーを出した。優衣はしばらくするとお守りに気付き、小さく微笑むと、お守りを大切そうにスクールバッグに付けた。


「お会計、415円です。」

レジ前で支払いを終えた後、優衣が薫に声をかけた。

「お守り、ありがとうございました。」

「いえいえ。」

「来週受験本番なんです。ラストスパートで追い込まれていて、心が折れそうだったので、すごく嬉しかった…。あのお守り、会場にも持って行きます。」

薫はやっと、今まで伝えられずにいた言葉を優衣に話すことができた。

「受験生なんだろうな…って、ずっと気にかけていました。無理せず、頑張ってください。きっと良い結果になります。」

「はい、ありがとうございます。」

「受験が終わっても、またいつでもここでお待ちしています。」

「また来ます!本当にありがとうございました。いつもごちそうさまです。」


1ヶ月後、優衣から手紙で、志望大学合格の報告があった。優衣にとって、自分の淹れたコーヒーやお守りがささやかなエールになっていた事を実感した薫は、これを機にお客様と積極的にコミュニケーションをとるようになった。

ここを訪ねるいろいろな人との交流が、いつしか薫にとって心の拠り所になっていた。薫は再び、自分の居場所を見つけ、生きる喜びを取り戻し始めていた。



最愛の家族を亡くし、もう二度と立ち直る事はできないと諦めていた薫だったが、今は"生きていて良かった"を噛み締める日々を過ごしている。


生きていれば、迷う事もある、間違えてしまう事もある。前に進めない時も、逃げ出してしまいたくなる時もある。だけど…。

泥まみれの毎日でも、希望はある。

忙しない日々でも、安らぎはある。

暗闇の中にも、出口はある。

涙で溺れそうになっなも、明日はまた笑える。

それぞれの夜の中で見つけた小さな灯を握りしめて、自分の手でちゃんと照らしていけるように。


「いらっしゃいませ、ようこそ。」


全ての人にとって、明日が不安で覆われないように、今日も薫は変わらずここで、コーヒーを淹れてあなたを待っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悩める時は、コーヒーを のん @non0415_ari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ