とある怪談のインタビュー
折橋弥生
一話
その建物を、ここでは仮に、小波寮と呼ぶことにする。ある地方の大学の女子学生寮である。
壁本有子(仮名)さんにあてがわれたのは最上階の五階のある一室だった。
部屋の広さは他と同じ縦長の六畳である。手狭かと思いきや、実際にドアを開けてみると、ホームページの写真よりも清潔で真新しい内装になっていて、奥行きのある印象だったそうだ。床が白いタイル張りなのもモダンな様子に見え、ベッドと机と椅子、それからクローゼットもあらかじめ備わっていた。
三月尽の明るい日差しが背丈のある引き違い窓から部屋に差し込んでいて、穏やかで落ち着いた雰囲気を醸していた。有子さんは一目で気に入った。寄宿料が二万もしない学生寮などさぞ鄙びた建物なのだろうと初めは覚悟していた。けれど、実際は部屋も建物もずいぶん綺麗だった。
共有の食堂は冷蔵庫がありクッキングヒーターも使えて、洗面所には洗濯機に加えて乾燥機があった。トイレは洋式だし、お風呂場は三つの個室に浴槽まで付いていた。
とにかく通う大学に近くて安いからという理由で、ほとんど闇雲にこの小波寮を選んだが、それで正解だった、と有子さんは満足した。この様子なら十二分に暮らしていけるだろう。そのときは、これから始まる新生活への期待と不安にのんびりと浸っていたという。
最初の違和感は、安心して荷解きを終えたその夕方だった。
ひとまず身の回りの物の整理を終えて休憩していた有子さんは、早めの夕食をとることにした。今日のところは外食にしようと決め、財布と携帯電話を持って部屋を出た。
有子さんの部屋は食堂の目の前にあった。食堂といっても、各寮生が自分で食材や調理器具を用意して管理し、自炊をする場所である。片方の壁面は私物入れのラックとなっており、寮生はここに食器などをしまっている。
ふと喉の渇きを覚えた有子さんは、ラックからつい先程しまったばかりの自分のコップを取り出し、食堂の水道水を注いだ。
コップを口元に近づけたそのとき、有子さんは微かに生臭いような匂いを感じたという。見かけはいたって普通の水だった。しかし試しに一口含んでみると、鉄錆のような味がした。水道管か、浄水器が古いのか、それとも水質の問題なのか、いずれにせよ飲むには適さなかった。
有子さんはコップの水をシンクに流し、やや気落ちした。けれど、少しぐらいの欠点はあって当たり前だと思い直した。なにせ、寄宿料が格安なのだ。
洗い物にはさほど問題は無さそうなのだから、飲料水をスーパーで買って常備しておけばいい。さほど深刻には考えずそう結論づけ、そのときはそれで終わったという。
その後の新寮生向け説明会では、立地の問題で建物全体の水捌けがあまり良くないということを聞いた。浴室が若干匂うことや、浴槽やトイレの水を流す際に注意があると説明された。そのとき食堂の水道水が飲めないという話は出なかった。しかし有子さんは、自分が感じたあの生臭さや鉄錆の味を、そのような水捌けの問題と漠然と関連づけ、あれも水回りの問題の一環なのだろうと納得した。
そうこうしているうちに大学の入学式の日を迎え、オリエンテーション期間が終わり、本格的に授業が始まった。
有子さんは教職課程を取っていたので履修講義が多い方だった。またアルバイトやサークル活動も始めので、毎日忙しなく生活した。
そのような日々のなかで、その物音を認識するようになったのは、ゴールデンウィークが終わった、五月半ば頃だったそうだ。
講義が六時まであった木曜日のことで、前日は小レポートのために夜更かしをしていた。疲れが溜まっていた有子さんは、寮の自室に帰りつくやいなや、ベッドに倒れ込んで眠ってしまった。
しばらく経って、有子さんはふと目を覚ました。照明がつけっぱなしで、部屋は皎々とした白い光に満たされていた。有子さんは、ぼうっとした重たい頭でベッドの枕元の携帯電話を見て、時刻が零時直前であることを知った。
寝ちゃってなぁ、と思ったその瞬間、こん、という音が廊下から響いてきた。小波寮の個室のドアは、木材にニスとペンキを塗って作られており、叩くと軽い音が反響する。有子さんがそのとき耳にしたのは、まさにその、ドアに何かがぶつかった拍子に軽く響くような音だったという。自分はこの音に起こされたのだと、有子さんはそこで自覚した。音は、有子さんの自室である五〇九号室からはやや離れた場所から聞こえてきていた。
誰かが廊下の掃除をしているのかな、と有子さんは思った。小波寮は掃除当番制があり、寮生が持ち回りで廊下を含めた共有スペースを掃除することになっていた。
廊下の掃除当番の誰かが今箒かモップで廊下の床を掃いていて、時折、個室のドアに掃除道具がぶつかっている――。
有子さんはそんな景色を思い浮かべた。そして、夜間に掃除をされると結構煩いなぁ、と考えながら、入浴の支度をした。ドアを開ける直前、ばん、というやや荒っぽい音がさらに響いたそうだ。
ところが廊下に出てみると、予想が外れて誰もいなかった。廊下はまっすぐ一本道になっていて、十五個のドアが並んでいる。照明が二十四時間点いているため、常に明るい。その光の中に、有子さん以外の人影は無かった。
有子さんは首を傾げた。けれど、誰かが廊下を掃除していたのではなく、どこかの個室の中で寮生が片付けでもしていた結果、先程の物音が聞こえたのだろう、と考え直した。寮の壁はそこまで厚くないため、別の部屋の音が届きやすい。部屋の内部からの物音を、廊下からの音であると思い違えたのだろう。有子さんはそう考えて、お風呂場へと向かった。
あとから振り返ると、この日以前にも深夜零時前後にドアに何かがぶつかるような、軽く響く音を聞いていたような気がする、と有子さんは言う。けれど、共同生活をしているのだからある程度の物音は普通のことであるという意識があり、また、基本的には就寝している深夜帯のことだったので、あまり気にすることはなかったのだという。
次に引っかかることがあったのは、フロアミーティングに参加したときである。小波寮では二ヶ月に一度、各階で生活する寮生たちによるミーティングが開催される。そこで生活の問題点などを話し合い、解決するための制度だった。
有子さんたち五階の寮生は、冷蔵庫の野菜を腐らせないようにということ、そして、四階の寮生から足音が煩いという苦情がきている、という注意を受けた。四階の寮生によると、近頃二日に一回の頻度で五階からどすどすと激しく足を踏み鳴らすようにして歩く音が聞こえるそうだ。その足音は、深夜零時前後、食堂辺りの場所からするらしい。
食堂の目の前の部屋で生活していた有子さんはこの話を聞いて、煩い足音の持ち主とはまさか自分のことだろうかと冷やりとした。けれど、有子さんは廊下を行き来するときはスリッパを履き、いたって普通の歩き方をしていた。だから、階下までそこまで大きな音が響くとはにわかに信じがたかった。
具体的に誰の足音か、という流れにはならず、フロア長によって、共同生活をしていることを意識して特に夜間は静寂を心がけてください、という穏当な注意が促されるに留まったので有子さんはひとまず安心した。そして、ともかく今後はいっそう足音には気をつけよう、と気持ちを引き締めた。
フロア長は、他に何かありますか、と寮生たちへと呼びかけた。有子さんはふと水道水のことを思い出し、思い切って発言してみることにした。
人前で話すことが得意でない有子さんは緊張しながら、そこの浄水器を新しいものに換えてもらえないでしょうか、と必死に意見を述べた。
「水道の水が少し、変な味がしますよね……。あの、浄水器が古いせいかなって思ったんですが……」
寮生たちを見回してみたが、期待していたようなはかばかしい反応は得られなかった。有子さん以外の面子は、皆きょとんとした顔をしていた。
「そうですか。あぁ、まぁ、人によっては飲めないってこともありますよね」
副フロア長が取りなすようにそう言った。有子さんはそこで初めて、食堂の水道水に強い抵抗感を抱いているのが自分だけであるらしいと気がついた。他の寮生はなんら違和感無くその水を飲んだり料理に用いたりしているらしいと。
小波寮には、有子さんと同学年で同じ国文学科の寮生がいなかった。そのため、寮生活の情報交換をする程親しい寮生がおらず、入寮から丸二ヶ月近くが経過するまでこの事実を知らなかったのである。
フロア長は、浄水器の交換は一応大学に相談してみる、と締め括った。しかし、実際に浄水器が新品になることはなく、有子さんは相変わらず食堂の水の匂いを生臭く感じ、洗い物以外に用いることはできなかった。
有子さんは初め、自分の味覚や嗅覚が過敏なのかと考えた。しかし、この件以外で味や匂いの感じ方が他人とずれていると思わされるようなことはなかった。
たまたま、この寮の水が自分に合っていないというだけだろう。小学校でも、校庭の水道水の味がどうしても苦手だと言う同級生がいた。ああいったことと同じなのだろう。
自分自身を半ば無理矢理そう納得させ、有子さんは日常生活を継続した。食堂の水が飲めないとはいえ、洗い物や手洗いをする分には問題無いのである。自分は普段インスタント食品で食事を済ますことが多いから、調理に関した問題も無い。他の水回り、つまり洗面所やお風呂場からは妙な匂いはせず、普通に使えていた。飲料水を買い置きするのも、慣れれば面倒ではなかった。有子さんは楽観的に考えることにした。
そうこうしているうちに梅雨が始まった。有子さんは演劇サークルの練習や中間レポートなどに追われて、ますます忙しく過ごしていた。
有子さんの当時のアルバイト先は寮と大学に程近い、とあるイベント会館だった。ここで行われるセミナーや講演会などの受付や補助といった雑務を仕事としていた。短時間勤務が可能で時給がいいので、なかなか美味しいバイトだったそうだ。
七月初旬のある日、その会館で、年若い大学講師による講演会が行われた。内容は地理学に関することだった。
講演会は夕方につつがなく終了したが、壇上花がひどく余って処分に困るという些細なトラブルが発生した。結局その一部を、有子さんを始めとしたアルバイトたちで持ち帰ることになった。
有子さんが引き受けたのは、紫陽花だった。細かい小粒の蕾の群れが中心となり、その周囲を大きめの花が囲っている、綺麗な青紫色の額紫陽花だった。
白い紙に包んで寮の自室に額紫陽花を持ち帰った有子さんだが、あいにく花瓶を持っていなかった。なので、とりあえずは自分の大きめの硝子コップに生けることにした。
少し迷わないでもなかったが、水は食堂のものを使った。他の寮生たちが普段から飲水し、調理に使用していても食中毒などは起こっていないようだから、花を生けても大丈夫だろうと考えたのだ。コップの中に蛇口から水をたっぷりと注ぎ、瑞々しい茎をそこに浸した。花の馥郁とした香りに打ち消されたのか、例の生臭さはそのとき感じなかった。
有子さんはそうして額紫陽花を生けたコップを自室の机の上に置いた。涼しげな花の色が硝子の縁から咲きこぼれ、くっきりとした緑色の葉が透明な水の中に開いているようすは風流で美しく、気持ちが華やいだ。インターネットで簡単に調べてみると、手入れをすれば一週間程度は元気に咲いてくれるらしいことがわかった。
ミントを加えると長持ちすることもわかったので、明日にでも花屋で買ってみようか。そんなことを考えながら、部屋を出て大学へ向かった。講義の調べ物があったので、図書館へ行く必要があったそうだ。
その日は休日だったので、大学の図書館は十八時で閉まった。閉館ぎりぎりまで作業をして、大学を出た。アルバイトの後にさらに作業をしたのでさすがに空腹だった有子さんは、そのままファミレスで夕食をとり、しばらく本を読んで休憩した。寮に帰りついたのは二十時過ぎだったそうだ。
部屋に戻って明かりをつけると、目の前がぱっと白々とした光に満ちた。有子さんは背負っていた鞄を床に置いて一息つきながら、机の上に目をやった。そして凍りついた。
額紫陽花は酷く萎びていた。それも普通の萎び方ではなかった。
遅い午後の空を溶かしたように鮮やかだった青紫色は、たった数時間で花弁も茎も焦げついたような茶色に変色していた。おそるおそる触れてみると、柔らかく弾力のあった植物の表皮は、有子さんの肌を鋭く固く引っ掻くほど乾燥しきっていた。
花を生けてからまだ四時間も経っていなかった。いくら切り花とはいえ、このようなありさまが自然の条理とは考えがたかった。
どうして、と考えるまでもなかった。答えはすぐ眼前にあった。
水のせいだ。有子さんは慄然とした。
ここの水はおかしい。
無残に枯れ切った紫陽花を処分し、コップに張った、濁りなく透き通った水をシンクに流し捨てながら、有子さんはとうとう確信を得た。ここの寮の水で生けたから、花は命を吸い取られるようにして急速に枯れたのだ。
有子さんは逆さにしたコップを何度も強く執拗に振ったという。振り捨てられた水滴はシンクに落下し、ぼんぼん、と濁った音を響かせた。
それから、冷蔵庫に常備しておいた五百ミリリットルのペットボトルの水でコップを濯ぎ、硝子の表面に一粒の水滴も残らないよう布巾で強く拭いた。不気味な水を自分の私物に一滴たりとも残したくはなかったのである。
有子さんは、その晩は銭湯に行くことにした。その寮の風呂場、つまり食堂の水道とも繋がっているだろう配管のお湯を、さすがにこんな異常な出来事の直後に使う気にはなれなかった。
ビニールバッグにお風呂道具を詰めて一階へ下り、玄関で靴を履き替えていると、受付にいる寮母から声をかけられた。
「壁本さん、五階のお風呂場使えないの?」
寮母は、有子のビニールバックから透けるタオルや着替えを怪訝そうに見ていた。
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、今日は友人と銭湯で集まってみようってことになって……」
「まぁ、そう。外泊はなさいます?」
「いえ、門限の前には帰ってきます」
適当なでまかせを疑われなかったことに安心し、また同時に落胆しながら有子さんは寮母に頭を下げ、硝子扉を押し開けて外へ出た。
歩いて徒歩十五分の場所にある銭湯へ早足で向かうその道すがら、これまで自分が無視し、深く考えまいとしていた数々の不可解な物事の記憶が、有子さんの頭の中でいっせいに隆起し、さかんに駆け巡った。
自分が食堂の水に感じた生臭さ、鉄錆の味。それを他の寮生は感じないなんて。盛りの紫陽花を一瞬であんな姿に変貌させてしまう水だというのに――。
しかし悶々と悩みながらも、有子さんはまだ、自分の気のせい、という可能性を捨てきれなかった。水を変に感じるのが自分だけ、ということがどうしても引っかかったのである。別の階から水がおかしいという話も聞いたことがなかった。紫陽花が枯れたのも、もしかしたら、もともと特別生命力の弱い個体だったからかもしれない――。
だとしたら、やはり自分が過敏で、なんでもないことを大げさに捉え、物事を無理にこじつけて考えているのかもしれない――。
有子さんはそれから何日かは銭湯へと通い、食堂には一歩も足を踏み入れず、食事はすべて外食にした。洗面所を使用することもためらわれて、朝は顔を水で洗う代わりにフェイスパックで拭き取りをした。とはいえ、寮のトイレを使用することは避けようがなかったし、毎晩わざわざ歩いて銭湯へ通うのは手間だった。
そうして一週間もすると、有子さんの気持ちも落ち着きを見せた。
現状はただ食堂の水が変で不気味な感じがするというだけで、体調を崩したわけでも、他の実害があったわけでもないのだから、食堂にはなるべく近づかないように生活すればそれでいいだろう。食事は安いファミレスか、自室の電気ケトルでお湯を沸かしてインスタント食品で済ませればいい。
このときは、気持ちをそう前向きに切りかえることにしたという。
この時点で引っ越しを検討しなかったのかと質問すると有子さんは、「入退寮ができるのは、三月か九月というルールだったので、七月の時点では無理だったんです。それに、やっぱり寄宿料がここまで安い物件は他になかったので、例えすぐ引っ越せても、よそに移ることはしなかったと思います」と答えた。
自分を騙し騙し日常生活を続けた有子さんだが、夏季休暇に入る直前、とうとう決定的な現象が起こった。
気温が三十五度を超えた猛暑日のことだった。一限の講義に出席するために、朝早くに自室を出た有子さんは、階段を下りるために食堂の出入り口の前を横切った。そのとき、シンクの前に見慣れない誰かがぼうっと立っているのが見えた。それはどこか不自然な人影だった。
採光窓の外は清々しく晴れているのに、それが立っている場所は、暗い紺色の仄かな闇が滞留していた。ざーっという音がして、それが水道から水を汲んでいることを有子さんは悟った。背が高く、茶髪のギブソンタックで、インディゴのトップスに白いフレアスカートを履いた若い女だった。背中を向けられているので顔は見えなかった。髪や服装はそうしてなんとなくわかるのに、輪郭がどこか朧気で陽炎のように揺らめき陰っているようだった。
有子さんは怪訝に思いつつも、急いでいたのですぐにそれから目を逸らし、階段を駆け下りた。自分がこれまで記憶していなかっただけで、彼女も寮生の一人なのだろうと思った。けれど、自分が忌避している例の水を目の前で汲んでいたことや、あの暗く澱んだ雰囲気への違和感が拭い切れずに残っていた。
その夜も蒸し暑かった。有子さんは暑さに耐えかねてクーラーをつけたまま就寝した。ベッドに入ったのは零時少し前だったという。
そして有子さんは明け方にふと目を覚ました。カーテンの隙間から青白く仄かな朝日が差し込み、部屋の中は水の底のようだった。白い天井に朧気な模様が伸び、遠く明るく耀く水面を見上げている心地がしたという。
携帯電話を点すと午前五時だった。どうしてこんな時間に起きてしまったのだろう、と有子さんはため息をついた。寝直そうと寝返りをうってみると、目が冴えていてなかなか眠れない。電子書籍のアプリで読みかけの小説でも読もうかと思い、再び携帯電話を手に取った。
そのとき、かり、という音がどこからか聞こえた。何かを引っ掻くような物音だった。
有子さんが軽く頭を起こすと、また、かりかりという音が鳴る。断続的かつ不規則なそれは、窓に取りついた虫が足を蠢かせて硝子や網戸の表面を擦る音に似ていた。寮の周辺には虫が多く、夏になってからはしょっちゅう虫が窓に張りついてきた。有子さんは初め、またカナブンでも窓辺にいるのだろうと思った。
けれど、音の出所は窓とは違う方向だった。それに虫よりも、もっと重たい音だった。有子さんはあれ、と不思議に思い、音を追いかけた。
窓とは反対方向、自分の足元に近い、ドアの方――。がり、とまた音が響いた。有子さんの意識に呼応するような、それまでよりもはっきりとした強い鳴り方だった。
誰かがこの部屋のドアを引っ掻いている。
有子さんは総毛立った。全身から冷や汗が吹き出した。背筋を寒気が走っているのに、なぜか暑かったという。クーラーの稼働音は聞こえるのにも関わらず、だ。
音は止まなかった。がり、がりがり、がりり、とゆっくり鳴り続けた。有子さんは、自分の頭蓋骨を内側から掻かれているような錯覚を抱いたそうだ。
有子は直感的に、動いてはいけない、と判断した。自分が起きていてドアを引っ掻かれているのに気がついていることを、ドアの向こうに今いる相手に気がつかれてはいけない。なぜだか強くそう感じた。
有子さんはもたげていた頭を努めて静かにゆっくりと枕へ戻した。そして目をきつく閉じた。耳も塞いでしまいたかったが、そうすれば抑えきれない衣擦れ音が響いてしまうのではないと怖くてできなかった。
クーラーの稼働音はいつのまにか聞こえなくなっていた。がりり、がり、と己の存在を主張するように響き続ける引っ掻き音だけが残されていた。静寂に満ちた部屋の中で、たった一つの音はかき消されようもなくはっきりと有子さんの耳に届いた。普段ならこの時間帯にはぽつぽつ鳴き始める雀や蝉の声も、車やバイクのエンジン音も、外の世界からはまったく聞こえてこなかった。
有子さんはとっさに、頭の中で法華経の題目を唱えた。少し前の日本語学の講義で読んだそれがなぜだか記憶に強く残っていて、この危難に際して、念仏ではなくそちらの方が思い浮かんだ。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、がりり、がり、南無妙法蓮華経、がりがりがり、南無妙法蓮華経。
有子さんはただ一心に、帰してください、どうか帰してください、許してください、と祈っていたという。初めから自分は自室にいたのに、なぜ「帰してください」と願ったのかは、我ながら今でもよくわからないそうだ。
いつのまにか有子さんは気を失った。毎朝八時に設定しているアラーム音で目を覚ましたとき、あの音はもう聞こえなかった。代わりに、寮生が廊下を行き交う音、挨拶を交わす声、登校中の小学生が喋る声や油蝉の鳴き声などが賑々しく聞こえてきた。部屋は力強い夏の朝日で白かった。
悪い夢を見ていたのかと重く痺れた頭で考えながら、有子さんは恐々と廊下に出てみた。非常口の硝子扉から夏光が差し込み、廊下は眩しいほどに明るかった。階段や洗面所を寮生たちが忙しなく行き来いているのを見て、有子さんは泣き出しそうなほどに安心した。
ドアにはどこも妙な痕跡は無かった。やはりただの悪い夢だったのだと有子さんは改めて胸を撫で下ろし、ドアのすぐ前に置いてあるスリッパを履いた。
次の瞬間、裸足の皮膚が、びちゃっと冷たいぬかるみを踏んだ。有子さんのスリッパはぐっしょりと濡れそぼっていた。そしてスリッパのすぐ横の床には、人間の手形がくっきりとついていた。
「泡を食うってああいうことを言うんでしょうかね」
有子さんは苦笑いをしながら話す。
濡れたスリッパと、ドアの目の前についた手形に腰を抜かした有子さんは、這う這うの体で寮母のいる管理人室へと駆け込んだ。廊下にへたり込んで立ち上がれず、ほとんど四つん這いでふらふらと階段へと向かいながら、目眩のする意識の中で、ああだから音は足元から聞こえたんだ、と妙に合点がいったそうだ。這いながらドアの下の方を引っ掻いていたんだ、と。
そのとき、以前四階の住人が寄せられた煩い足音の苦情や、自分が以前耳にした、ドアに何かがぶつかるような音の正体も、なんとなくわかってしまったそうだ。足音ではなく、床に手をつき、肘を使って匍匐移動する音が、まるでどすどすと激しく足音を踏み鳴らしているように聞こえたのだろう。
寝巻きのまま倒れ込むように管理人室に駆け込んできた有子さんを見て、寮母さんは驚いたように「あれ、何も言ってこないから今年は大丈夫かと思ってたのに」と言った。以下の話は、有子さんが寮母から聞いたことである。寮母は、根岸さん(仮名)とする。
根岸さんが小波寮で働き始めたのは十五年ほど前になるが、五◯九号室の入寮生がたまに、廊下から異音がする、エアコンがたまに動かないなどの身の回りの異変を訴えてくることがあるという。調べてみても、他に同じ物音を聞いていいる寮生はおらず、機械には何ら故障している部分は無い。
そしてそのまま現状維持という措置を取ると、その寮生は食堂の水の味や匂いがおかしい、色も妙だと言い出す。しかし、やはり他の寮生にも根岸さんにも水に異常があるとは感じられない。
「一番最初の子はね、私がそのときは何も知らなかったこともあって、廊下にいるのを見ちゃうところまでいっちゃったのよねェ。悪いことしたって今でも思う。それで近くのお寺の住職さんの所に行ってみたら、その方も何も知らなかったみたいなんだけど、色々助言をくれて。それでとりあえず、やり過ごし方っていうか、対処法はわかってるのよ」
有子さんは、部屋のドアの内側に盛り塩を二つ置くこと、食堂の水は飲んだら使ったりしないこと、スリッパやドアのオーナメントなど中に人が住んでいると知られそうなものを廊下に出さないこと、部屋の中に墨を置いておくこと、という対処法を根岸さんから教わった。
今自分の身に起きていることが怪奇現象であると自覚していた有子さんは、盛り塩などは疑問を持たずに受け入れたが、墨に関しては不思議に思った。どうして墨なのかと尋ねると根岸さんは、「住職さんに直接ここを見てもらったときに言われたんだけど、あれは墨を嫌がるんですって」と答えた。
有子さんは教職課程の一環で、書道の講義を履修していた。自室で課題として半紙に文字を書くこともあり、たまに墨汁を使っていた。
有子さんはこのことについて、
「だから何の対策もせずにずっと放置していたのに、私はあの程度で済んだと思うんですよね。もし書道の講義をあの年取ってなかったらもっと何か起こっていたのかもしれません」
と、述べる。
有子さんは根岸さんに言われたことをすぐに実行した。ドアの内側には小皿に作った盛り塩を二つ、硯で磨った墨は机に置いた。スリッパは部屋の中に入れ、ドアにつけていたネームプレートや好きなアニメキャラクターの飾りは外した。
それきり怪奇現象は発生しなくなった。有子さんは言いつけを守りながら小波寮の五◯九号室にきっかり四年間暮らし、昨年大学を卒業して現在は中学校で国語教師をしている。
あの出来事がいったいどんな由縁で発生していたのかは、とうとうわからずじまいだったそうだ。根岸さんの前任の寮母はもしかしたら何らかの事情を把握していたかもしれないが、その人はすでに鬼籍に入っているため、確認のしようがなかった。
では、地縛霊か何かがいる寮で、最後まで引っ越さずに生活したわけですね、と私は感心して言った。まぁ、貧乏学生だったので、有子さんは苦笑する。そして、彼女はふと表情を曇らせた。
「寮母さんは、廊下にいるのだけだと思っていたみたいですが、多分、あそこにはもう一人いたんですよね。廊下を這っているのと、食堂に立っているの。そう考えないと、辻褄が合わないんです。例えば、自分で立って水が汲めるなら這いつくばってドアを引っ掻く必要はないはず、とか」
それに、と有子さんは続けた。
「寮母さんの話では、あれらを経験した他の人は皆、あの這う人の存在を最初に感知して、その後に水が変に感じるようになっているんですよ。でも私は、入寮初日からあそこの水が不味く感じられたんですよね。すべてが始まる最初から。それってどういうことなんだろうって、今でもたまに、考えてしまいます」
有子さんは、自分の前に置かれたグラスに一度も口をつけていない
彼女に、もう水を生臭く感じることはないんですか、という質問をすべきか否か、私は迷っている。
とある怪談のインタビュー 折橋弥生 @nana_5
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます