くだらないことのすべて、一秒後に胸を揺らすことのすべて

芝草

お高いヤツなら

「トラウマって言うのかな。子供の時に噛まれたから犬が怖いとか。プールで溺れかけたから水泳が苦手とか。たぶん、僕にとってはソレがまさに当てはまると思うんだ」


 僕は晩酌のグラスを揺らしながら、静かに語りかけた。


「小学校の給食に出てたソレが特にダメでね。やたら酸っぱいし、ドロドロしてるんだよ。しかも生温かくってさ。表面に謎の水が浮いてるのも不気味だし? つまり、言いたいことをすべてまとめると――」


 僕はダイニングテーブルにグラスを置いて、彼女と真正面に向き合った。


「――ソレ、嫌いなんだ。僕」


「そんなこと言わないで。大丈夫よ」


 彼女は僕の手を両手で包むようにして握る。

 彼女も少し酔っているのだろうか。頬がわずかに赤く染まっている。乱れた前髪の隙間から覗く黒い瞳は、少しうるんで見えた。


「なんせ、コレはお取り寄せしたお高いヤツなんだから! 給食のヤツとは別物よ!」


 ほら、と彼女がソレのカップを一つ僕に差しだす。


 僕はしぶしぶカップを受けとり、検めた。

 手のひらサイズの小さなカップだ。白を基調とした落ちつきのあるデザインは好感が持てる。「お得用!」みたいな無粋なシールも無い。まぁ、お取り寄せなら当然か。


 何の気なしに「お値段は?」と尋ねた僕は仰天した。彼女が僕に耳打ちした十個セットのお値段は、送料込で僕の予想の二倍だった。まったく心臓に悪い。聞くんじゃなかった。


「なら、なおさらキミが食べなよ!」

 僕はカップを彼女に押し返した。

「なんでわざわざ僕に食わそうとするんだ!」


「え? ……だって、この味を知らないなんて……ねぇ? 貴方、人生損してるわよ?」

 コロコロと上ずった笑い声を立てる彼女。


 怪しい。それも露骨に。


「おい、何か裏があるだろ。全部話してもらおうか?」

 僕はジロリと重たい視線を彼女に向けた。


「裏なんて、そんなそんな。いいから試しに一口、どう?」

「断る! 絶対怪しい!」


 僕と彼女は、白いカップを押しつけ合いながら言い争う。


 その時だ。


「いい年して痴話げんか? くだらないね―。年頃の娘の前でやめてよー?」


 彼女の背後のソファから、からかうような調子の声が聞こえた。ダラダラとスマホをいじっていた一人娘だ。


「ママもいい加減諦めなよー。パパは絶対食べないだろうって、アタシの言った通りでしょー?」

 娘はニヤニヤ笑いを浮かべながら、こちらを眺めて言う。

「と、いうわけで。ママ? 来月からお小遣い五百円アップでよろしくねー」


「そんな! まだ決着はついてないわよ!」

 彼女が娘に向かって抗議の声を上げた。

「そうでしょ? 貴方! これから食べるわよね?」


「お前達……」

 まさか、僕で賭けごとをしてたのか。あまりのくだらなさに、僕は言葉を失った。


「こうなったら仕方がないわ。最終手段よ」

 彼女はおもむろにそのカップの蓋を開ける。

 そして、銀のスプーンを取り上げてそれを一匙すくいとった。

「はい。貴方。あーん」


 後から考えると、全く恥ずかしいことだと思う。付き合い始めたばかりの恋人じゃあるまいし。あーん、だなんて、何年振りだ? 娘だってお小遣いのアップを要求するような年になっているというのに。


 でも。これはもう条件反射だった。

 気がつくと、僕は彼女が差し出したスプーンをぱくりとくわえていた。


 一秒後、僕の胸はどくんと揺れる。


 柔らかすぎず固すぎない絶妙な舌触りのソレは、酸味の少ないマイルドな味わいだった。とろりと舌の上でほどけていく様を例えるなら、春の雪といったところか。

 表面のクリーム層は、濃厚なバターのようにしっとり。くせになりそうだ。このクリーム層だけで、デザートになりそうなくらいに。


 この感覚のすべてを表す言葉を、僕はこれしか知らない。


「……うんまい」

 僕の口から洩れた小さく震える声。


 娘の口から洩れる「嘘でしょ……」というかすれた声。


 それらを聞いた彼女の顔に浮かんだ勝ち誇った表情の、腹立たしいことと言ったら。

 この腹いせに、残り九個のお取り寄せヨーグルトは僕が全部食べてやろう、と誓った。

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くだらないことのすべて、一秒後に胸を揺らすことのすべて 芝草 @km-siba93

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