孫悟空体験

孫悟空体験


 私は頭がでかい。

 ちょっと待って。よく会話で「わたし頭大きいんだよね〜」と舐めたような口調でほざいている方々とは一緒にしないでいただきたい。

自分を卑下するポーズを取るために、ちょっとニヤつきながらそういうことを言う方々は、本心から自分の頭が大きいと思っているわけではないのだ。だって「そうだね、あなたは頭が本当に大きいよね」とこちらが真面目に同意した途端、その場が凍りつくではありませんか。一瞬の沈黙ののち、誰かが「もー冗談きついよお」と突っ込んでどうにか笑いを捻り出してくれるのを待つことでしか、この地獄の空気を乗り越えることができない。一対一の空間であれば、もうどちらにとっても逃げ道はない。ゲームオーバー。

 一旦はその場を切り抜けることができたとしても、「わたし頭大きいんだよね〜」発言に真剣に同意してしまった人間は、おそらくそのコミュニティで次第に浮いていくことになるだろう。友情や恋愛の終わりを迎える一要因になったとしてもおかしくはない。

 思ってもいないのに「わたし頭大きいんだよね〜」などと軽々しく発言する人も、相手の発言の意図をガン無視して返答する人も、どっちもどっちである。どっちかが悪くてどっちかが正しいというわけではない。両方同じだけ悪くて同じだけ正しい。

 人間の会話って大変ですねーというところで、私のでかい頭の話に戻ろうと思う。

 しつこく繰り返して申し訳ないが、私の頭はでかい。でかい。

 私は小学五年生の頃からメガネをかけるようになったのだが、当初からどうもメガネがしっくりこなかった。似合う似合わないの問題ではない。

 無限にずり落ちてくるのである。

 教科書を読む、給食を食べる、頭を下げて挨拶をする。ほんのちょっとでも下を向こうものなら、待ってましたと言わんばかりにズルズルとメガネが滑ってくる。私の鼻はスキーのコースではない。と文句を垂れている間にも滑り落ちてくる。その度にいちいち直さなければならないのが小さなストレスとして積み上がっていく。

しかも、メガネを直す時に「それっぽく」ならないように注意する必要があるのが厄介だ。

映画やアニメで描写される名医師、名探偵、名弁護士などを思い浮かべてほしい。大半がメガネをかけていて、ここぞという場面でクイっとメガネを押し上げる動作をしていないだろうか。

名医師、名探偵、名弁護士らがメガネを押し上げることが、クライマックスへ向かう何かの合図になっているかのようだ。我々鑑賞者はいまかいまかとメガネクイを待ち焦がれ、その場面になると「キターー!!」と歓声を上げるのである。

こうした経験から、メガネを押し上げる動作=なんかかっこいい、みたいな認識が多くの人々の中に出来上がっているのではないかと推測する。絶対そう。間違いない。

かっこいいとは恐ろしいもので、羨望の対象のみならず嘲笑の対象になることが多々ある。

かっこいい動作が一人歩きした結果、それがインターネットミームのように一つのネタとして認知されるようになってしまう。裸眼の視力が二・〇ある小学生男子がクイっと架空のメガネを押し上げて友達とゲラゲラ笑い転げるのは、「かっこいい」がネタ化した瞬間の代表例である。

「メガネを押し上げる」という私にとって日常的な動作が、エンターテイメントのせいで(おかげで)キザ(笑)なものに様変わりしてしまったのだ。

可哀想なのは、私をはじめとするメガネ愛用者だ。ただ何気なくメガネをクイっとしただけなのに「え、あのキャラクターの真似してんの?」とニヤニヤ顔で突っ込まれる。これまで全く意識したことがなかった動作が途端に小っ恥ずかしいもののように思えてくる。なるべく誰の目にも触れないよう、タイミングを見計らってこっそりとメガネをクイっとさせるようになる。どうしても人前でやらねばならない時は、「私は何もしていませんしあなたの目には何も映っていませんけど?」という表情でゆっくりと指をメガネまで持っていき、蕾が開くよりも遅い速度で押し上げる。もう「クイっ」ではなく「ズ……ズ……」である。

 なぜ「ズ……ズ……」とホラー漫画の一場面のようにメガネを上げないといけないのか。ただメガネをかけているだけなのにここまで心を砕かなくてはならないなんて、なんだか人生において損をしているような気がする。

 ひん曲がった不平等感を抱えた小学生の私は、メガネをかけている同級生のことを勝手に「メガネ仲間」と認定し、心の中で「負けないようにがんばろうなあ」と呼びかけるなどしていた。何に闘争心を燃やしていたのかはわからない。

 そんな中、ある日私はふと違和感を覚えた。

 メガネ仲間の中で私だけ、メガネを押し上げる回数が異様に多い気がする。

 気のせいかもしれない、と思いつつ授業中にメガネ仲間たちをこっそり観察してみた。すると、彼らがメガネを押し上げ、次にメガネに手をかけるまでの間に、私は五、六回「ズ……ズ……」をしていることが判明した。

 なんということだ。

 もしかして、私以外のメガネ仲間たちはメガネ押し上げ問題について悩んですらいないのではないか? 私一人だけが、「人差し指だけを使うとそれっぽくなってしまうから人差し指と中指を一緒に使おう」とか「勢いをつけすぎるとフレームが鳴ったりレンズに光が反射して注目を集めてしまうからなるべく穏やかに垂直に手を動かそう」などと無駄な思考を巡らせて生きていたのではあるまいか?

 そうに決まっている。

考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなった。

 私は最初からひとりぼっちだったのである。

 深刻なショックを受けながらも、彼らと私の違いについて考えてみた。

 真っ先に思いつくのは鼻の高さである。

 また別の機会に詳しく書こうと思うのだが、私は幼少期から自分の鼻の低さがコンプレックスだった。もっと鼻根が高ければ、そこがストッパーとなってメガネを食い止めてくれたのではないかと思う。

 次に思いついたのが、頭のでかさであった。

 普通の大きさの頭の人がメガネをかけると、柄の先端付近のカーブがちょうど耳にフィットするだろう。だからいくら頭を振り回しても、耳にメガネが引っかかって落ちることがない。

 しかし、顔デカ選手権宇宙代表の高山春花さんは耳とカーブがフィットしない。つまり、横から見た時に、顔の前面から耳にかけての距離が人より長いのだ。

 メガネをかけて鏡の前で横を向くと、耳のはるか手前でカーブが勝手に始まり勝手に終わっていた。カーブし終えた柄の先端がかろうじて耳に引っかかっている。こんなに不安定な状況では、毎秒ずり落ちてくるのも納得である。

 まさかメガネのかけ心地に己の顔のでかさが関与してくるとは思いもよらなかったので、多少落ち込みはした。しかしでかいものはでかい。今更どうにかできるものではないし、「頭がでかいってことは脳みそもでかいってことカモ……!?」と馬鹿丸出しの安直な発想によって瞬く間に立ち直った。

 時を経て大学生になってからはコンタクトを使用するようになり、メガネずり落ち問題で悩むことも無くなった。ついに平穏な世界へ足を踏み入れたのである。ノーコンタクト・ノーライフ。

 ところが去年の夏、再び頭のでかさと向き合わざるを得なくなる状況に陥った。顔デカ選手権・リターンズである。

 高校時代の親友とディズニーシーに行った。それまで私はディズニーランドもシーも行ったことがなく、これが初めてのディズニー体験だった。

 テーマパークではまずカチューシャを装着するのが礼儀らしいので、私たちは入園して真っ先に目に入ったショップに直行し、吊り下げられている多種多様なカチューシャを物色した。ショップ内はキャピキャピ女子高生やクールカップル、ほんわか家族連れなどで大変盛況していた。互いの肩がぶつかろうが間違えて知らない人に話しかけようが、みんな「ノープロブレム、ドンと来い!」といった様子で、それぞれディズニーを楽しむことへの本気度が窺えるようだった。

 お恥ずかしながら、私はあの代表的なネズミのカップルと蜂蜜狂いのクマくらいしかディズニーキャラクターを知らなかったので、適当に目についたピンク色のふわふわした猫耳カチューシャを買った。親友も同じものにした。なんのキャラクターかはいまだにわからない。親友も知らないらしかった。なんやねん。

 とにかくカチューシャをゲットした我々は、それをしっかりと頭に装着して意気揚々と夢の国へ繰り出していった。

 ディズニーシーは楽しかった。とにかくどこにいっても異国情緒漂う音楽がガンガン流れており、ノリノリでダンスする人間たちがたくさんいた。

 そして私の頭もガンガンズキズキ痛んでいた。

 とにかくこめかみの辺りが痛い。足を踏み出すたびにガンガン、笑い声を上げるたびにズキズキ、ノリノリダンスに便乗しようとするたびにガンガンズキズキ。軽い吐き気もしてくる。

 これはいかん、とカチューシャをちょっと取った瞬間、頭部の血管という血管をザーーーっとものすごい勢いで血が通っていくのがわかった。視界のぐらつきをなんとか抑えながら、乾き切ったスポンジに水が一気に染み込んでいく様子を思い浮かべた。

 ああ、やっぱりこのカチューシャは少し小さいみたいだ。みんな激痛に耐えながら笑顔で園内を闊歩しているなんてとんだバイタリティである。尊敬の眼差しで周囲を見回した。

隣を歩いていた親友に「カチューシャ痛くない?」と尋ねてみた。「メッッチャ痛い!」的な返答を想定していたのだが、返ってきたのは「ん? 痛いかもー」という軽いものだった。

おや? 大して痛くなさそうな反応だ。

「痛いかもー」と言いながら、親友はカチューシャを外すそぶりもなく、涼しい顔でズカズカ歩いている。きっと痛がっている私に合わせて返答してくれただけで、本当は痛くもなんともないのだろう。

であるならば、カチューシャが痛いのは私の頭のでかさのせいだ。カチューシャが小さいわけではないらしい。

もう完全におさらばしたと思い込んでいた頭でかい問題は、こうしてまた姿を現したのだった。

その後私は、頭の痛みが引くと恐る恐るカチューシャを装着し、十分も経たないうちにまた痛くなっては外し、また痛みが引いては装着し……という動作を無限に繰り返していた。外したままでも良かったのだが、せっかく買ったんだし、親友とのお揃いを着けて練り歩きたいという気持ちもあった。

何度もカチューシャをつけたり外したりしているうちに、なぜか次第に痛みが増してきた気がした。まるで、勝手な行動をするたびに頭についた輪っかに締め付けられてのたうち回る孫悟空にでもなった気分だった。それを親友に言ったら大ウケした。カチューシャを外しながら「孫悟空体験……」と呟いたらもっとウケた。嬉しかった。

もう痛くてもなんでも、ウケればいいやと思えてきた。

その日、寝る直前に頭に浮かんできたのは、ディズニーキャラクターでも音楽でもアトラクションでもなく、「孫悟空体験……」で笑い転げている親友の姿だった。ウケたことが相当気持ちよかったらしい。

これ以降、友人とテーマパークに行ってカチューシャをつける機会があれば、その度に「孫悟空体験……」と念仏のように唱えるようになった。だいたいウケるので気分が良い。頭のデカさもたまには良い働きをするものだ。

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