肉の味を覚えて
中原恵一
1.
「――ねえ、私たち、どれぐらいここにいるのかしら?」
彼女は虚ろな視線を向けながら、向かいの席に座る男の子に問う。
二人はとある焼肉店にいる。
よくあるチェーン店で、内装は至ってシンプル。
彼らのいる窓際のテーブル席――卓上には味付けの塩や胡椒、たれの入った陶製の小瓶が並べられている。
五、六人が座ることのできる広い席で、焼肉店である以上、当然の如くテーブルの上には炭火の七輪のようなコンロがある。
ビルの五階にある、小さくて狭い店。
外は雨が降っていて、窓ガラスには降り注ぐ雨粒、窓ガラス越しに波のように広がっていく雨のカーテン。
彼女は今しがた、曇ってしまった窓ガラス越しに、高みの見物とばかりに外の世界を見下ろしていた。
交差点には傘の花が咲く。
人のつがいが群れをなしている。
――下らない。
結局彼女は外の景色に飽きてしまったのか、五分もしないうちに、トングで下処理の済んだ細切れの肉を撮んでひたすら火にくべる作業に戻った。
焼肉を二人で食べに行く男女はかなり親しい関係にある、と誰かが言っていた。
今店内にはこの二人以外人がいない。
店員も奥のキッチンに引っ込んでいるのか、肉を盛った皿を二人の席に出したきり、三十分はホールに出てきていなかった。
パチン、パチンと火花がはじける音――。
血の滴る白い肉はじわじわと、確実に焦げ目のついた茶色へと変容していく。
まるでサイダーの泡のように爆ぜては消えていく彼の記憶。
楽しかったこと、みんなで一緒に笑ったこと、辛かったこと――、
全ての思い出が肉の焼ける音とともに蒸発しては、立ち込める煙となって七輪の上に覆いかぶさるように伸びる排気口に吸い込まれていく。
まるで嘘のように。
「聞いてるの?」
彼女はふたたび問う。
うつぶせに倒れこんだ彼の目の中には、光を失った二つの瞳が黒ずんでしまったビー玉のように嵌め込まれていた。
肉に適量の塩を振って、彼女は食事を始めた。
相変わらず彼は喋らない。
口からは力なく舌が飛び出し、暑い日に外に出たイヌのよう――対して彼女はといえば、汗ひとつかかずにおいしそうに焼いたそれを啄んでいる。
無音。
厳密に言えば、肉が焼けるじゅうじゅう、という音に混じって、耳障りな女の店員が話す声がときたま聞こえるだけ。
――これはおかしい。
切れかけた電灯が、ブウン、とちらつき、さほど明るくはない店内の頼りなく照らす。
なぜ彼は話さないのだろう。
無反応ということが、ここまで彼女を追い詰めるとは。
しかしパートナーが返事をしないとなると、話は別だ。
「あの――私のこと、嫌い?」
哀願するように不安げな声で尋ねる彼女と、それを無視してひたすら黙りこくる彼。
「君、さ。私は今君と食事してるの。二人しかいない晩餐会で、一人しか話さないなんて意味がないし、何かしゃべってよ……それに、そうしないと私……」
口を噤んで、一旦口の中で言葉をためてから吐き出す。
たった、一言。
「さみしいわ」
真っ赤な唇が上下左右に、伸縮自在に動く。
言い終わった後も、彼女は休みなく焼け焦げた肉の塊を口へせっせと運ぶ。
彼女は皿に盛られた注文した肉の方も焼いてはいた。
服が燃えるのではないか、という熱気に包まれても汗ひとつかかずに食事を続ける彼女。
食べごろになったあたりで、金網の上に乗ったコロコロとした肉を、箸で乱暴に突き刺すと頬張った。
口の中に砂利が入ったときのように、ざらついた砂のような味が舌の上で踊る。
やっぱり、不味い。
さっきまで食べていたアレの方が、お豆腐みたいでとてもおいしかった。
ペッ、と勢いよく、彼女はためらいもせずに口内のソレをテーブルの上に吐いた。
ビチャッ、という水分の多い何かが叩き付けられる音が、
彼女がオエッ、と小さく嘔吐する声が、
閑散とした店内に響く。
彼女は口を備え付けの紙で拭くと、改めて自分が吐いたソレを見た。
テーブルの木目の上に唾液と一緒に飛び散った肉は、風邪を引いたときに出る痰によく似ていた。
そのまま、インターホンで人を呼ぶことにした。
彼女は最早、生命活動を維持するためだけに生きているということが面白くもなんともない、ただの自慰行為のようにしか感じられなくなっていた。
もっとも、彼女にとって生きているということは、食べるということと深く結びついているのだ。
つまりこの少年こそ――至高のメニュー。
店員が駆け付けた時には、もう既に何もかも遅かった。
「お客様、どうされまし――」
女性の店員は、少年の凄惨な状態を見るなり血相を変えて、叫びだした。
走ってやってきた彼女は、哀れにも加害者である彼女を除いて最初の目撃者になってしまった。
「きゃああああああああっ!!」
少年の頭蓋骨がパックリ割れて、脳味噌が飛び出している。
脳漿をぶちまけた少年が、テーブルに突っ伏していた。
テーブルの上に赤い絵具のように飛び散った血は、現実感のないリアリティを醸し出していた。
まさに阿鼻叫喚としかいいようがない白昼夢の光景――。
拍車をかけたのは、少年の目の前にいる彼女が平然と落ち着き払って、絶命した少年の脳を焼いて食べていることだった。
肉の味を覚えて 中原恵一 @nakaharakch2
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