かの奉る死の薬

加峰椿

かの奉る死の薬

 俺にとっての煙草はもちろん嗜好品で、有害で、煙ったくて、憧れの象徴だった。百害あって一利なしの癖に値段も馬鹿にならなくて、スモーカーってだけで非喫煙者からは嫌厭されるデバフ持ちで、実際、それが当たり前なほどに迷惑をかけうる代物だった。

 だけど、たとえ健康を害するものだろうとも煙草は俺の憧れであり、憧れであったからこそ、慎重にならざるを得なかった。ことさら、タール値42mg、ニコチン値2.1gを前にしては、ある種の覚悟が必要だったのだ。

 いつ、どんな時に自分がくたばってもいいように。

 二十歳になった。ついぞ、吸えるようになった。昨年、いや一昨年前の俺だったら、迷いなんてなかったはずだ。その時はまだ、憧れでしかなかったがゆえに。

 俺にとっての煙草は、仇敵にもなってしまった。


 今更ながらに、思う。

 あの人はずっと、そんな覚悟を決めながら、命を灰に変えていたのだろうか。


 ◇


 こういうの確か、「魔が差した」って言うんだっけ。

 何もかもが普段より小さい景色を見下ろしながら、俺は思った。まさか、こんなに簡単に入れるとは予想だにしてなかったのだ。

 ただ、殴られた身体がじくじくと痛んで、あいつと同じ空間を共有しているのがどうしようもなく息苦しくて、後のことを何ひとつ考えず実行した無計画な逃避行の先に、寂れた廃ビルがあっただけ。

 そう、きっと魔が差したのだ。俺の心に潜り込んだ悪魔が、俺をここまで導いたんだ。

 そして次は、遠く遠く、遙か下にある地獄を指差している。

 痛いだろう。苦しいだろう。怖いだろう。二十メートル先にある未来を想像する。なんせ、地獄だ。救いがないのは火を見るより明らかだった。

 やめよう。

 言い聞かせると、すっと心が軽くなった。

 そうだ、やめよう。まだ俺も十二歳だ。人生捨てたもんじゃない。大丈夫だ、大丈夫。

 張り詰めていた全身から力が抜け、ようやく酸素が吸えた気がした。深呼吸する。ずっと地獄に向けていた視線を起こす。ポツポツとまばらに生えたマンション。その合間に、

 ポツンと。

 見えた。見えてしまった。小汚くて、こじんまりとしてて、飽くほど見慣れた一軒家が。

 あれは、現実だ。自己暗示なんかじゃ到底太刀打ちできない、逃れようのない俺の人生だ。

 何が、「大丈夫」だ?

 目を瞑ってもこびりついて離れない。数百メートル先の現実を想起して、

 

「おい」

「ぐぇっ」

 何かが首にくい込んだ。拍子に瞼がこじ開けられる。いつまで経っても近づかない地面に、足先に感じるコンクリートの硬さ。そして、背後にある人間の気配。そこでようやく、「何か」が自分のシャツであることに気づく。

 死ねなかった。自覚すると同時に悪魔のドーピングは一瞬で効果切れになり、恐怖が身体中を駆け巡る。爆音で鳴る鼓動に酔いそうになりながらも、両手でフェンスにしがみつく。もう二度と離せない気がした。

「そんなにビビるくらいなら最初からやるなよな」

 命の恩人と感謝すべきか、邪魔者だと邪険にすべきか。どっちにしろ、飄々とした声おかげで幾分か冷静さを取り戻した俺は、その人の顔を見た。

 ──第一印象は、後に知る普段の彼とはかけ離れていたことを覚えている。

 パッとしないおっさんだった。いや、改めて見ると容姿は端正だ。人好きしそうなタレ目をしていて、されどオールバックに上げられた髪と整えられた髭は大人の威厳を醸し出している。

 しかし、それのすべてを、生気のなさで台無しにしている感じがする。原因はその人の沈んだ瞳にあり、影差す表情にあり、何より服装にあった。

 黒。喪服だ。

「死神?」

 悪魔と呼ぶには邪気がなくて、人と断ずるには生気がない。導き出された俺の呟きに、おっさんは酷く曇った笑みを浮かべた。

「はっ、死神ねぇ……」

 そうかもな。声には出してないが、そんな続きが容易に想像できる自嘲。人にしかできないそれを見て、俺は幻想から覚めたと同時に、己の無神経さを呪った。喪服を着ているってことは、きっと、そういうことなのに。

「ガキの癖にそんな顔すんなって。本物の死神にさせないでくれるだけで十分だよ」

 二進も三進も行かない俺に、おっさんが気の利いた助け舟を流してくれた。すぐさま便乗する。ここから動く免罪符としても機能する、完璧なフォローだった。

「……おっさんは、どうしてここに?」

 柵状のフェンスを乗り越え、地獄に背を向ける。やっぱりここは、現実だった。大気を背負った自重じじゅうも、逃れられない確信も、目の前の人間も。ただ、最後だけはちょっとだけ非現実的で、その曖昧さにすがりたくなったのかもしれない。

「え? あー、どうしてっつーと……」

 おっさんは視線をくるりと回転させ時間を稼ぐ。既にあるものを聞いたはずなのに、明らかに新しく答えを探していた。不審げにおっさんを眺めていると、

「そうだ! これだ」

 まさぐったポケットから、手のひらに乗る大きさの棒状の何かを取り出した。

 煙草。

「どうして……ここで?」

「ほら、下で吸うより空が近いだろ?」

 そりゃあ、そうだ。しかし、それが何だというのだ。問い詰める前に、おっさんはライターで火をつけ煙草を吸い始めた。生気を若干取り戻したおっさんの喫煙姿は、なかなか絵にな──

「ゴホッ! ゴホッゲホ、うぇ、」

「えぇ……」

「そんな目で見るなよぉ。はじめて吸うんだからよぉ」

 はじめてって……なぜ? 聞いてもはぐらかされる気がしたから、思うだけにする。目の前の大人は涙目になりながらも、再挑戦でパクッと煙草を咥えた。

 一秒、二秒、三秒。無意識に積んだカウントに比例して、おっさんの顔も険しくなっていき、四秒目に煙が吐き出される。

「げほっ、ん、っんん……甘いな」

 どっかの外国のお香のような匂いがする。あいつがいつも吸ってるのとは全然違うけど、煙たいのは一緒だった。

「それ、意味あんの?」

 ずっと、聞いてみたかったことが口をついてでた。

「意味……意味か。難しいこと聞くな」

 決して、聞いてはいけなかったこと。

「賢い人間にとっては、ないんだろうな、多分。でも、大半の人間ってのは馬鹿だからさ。こういうのにも縋りたくなっちまうんだろうよ」

 おっさんの物言いには、妙な説得感があった。

 そうか。わかっていたけど、やっぱりあいつは馬鹿なのか。だから縋らずにはいられないのだ。酒に、煙草に、男に、暴力に。

 なんとなく、分かった気がする。でも、その理解はあまり気持ちがいいものでは無かった。だって、酒も飲めなくて、煙草も吸えない。色恋沙汰なんて起きようもなくて、他者を虐げるような力もないガキは、

「俺は、何に縋ればいいの?」

 ああ、何言ってんだ。そんなこと、おっさんに嘆いてもしょうがないのに。案の定、おっさんは困った表情をしている。

 どんな答えが返ってきても、どうせ俺は納得できない。だから、なかったことにした方がいい。理性は最適解を編み出したはずなのに、取り消す言葉が喉に突っかかって出てこない。

 どんなのでもいい。納得できまいが、今はただひたすら答えが欲しかった。

 おっさんは瞼を伏せ、一旦、ゆっくり一服してから、

「オレ」

 親指で自分の顔を指差し、そうつぶやいた。

「は?」

「ガキは、大人に頼るもんだろ?」

 少し、むかついた。俺にとっては当たり前じゃなかったことを、さも常識のように語るから。

 だから、からかってやった。

「じゃあさ、俺を誘拐してよ」

「いいよ」

 即答だった。

 あり得ない。万が一、あり得たとしても、一瞬の迷いもなく決断できるのは、ちょっと正気とは思えなかった。

「警察とか、児童相談所に押し付けるのもナシだよ?」

「もちろんだ。犯罪者にはならんように、ちょいと工夫はさせてもらうがな」

 手が、差し出された。縋ってみろよと言わんばかりに、自信満々に。

 怪しいのは確かだ。含みのある言い方が気にかかるのも確かだ。けれど、迷いのないその手に、惹かれないというのは無理があった。

「オレ、神崎信治。お前は?」

「……三宅翔太」

 よろしくって笑いながら、俺と握手を求める神崎信治という男。

 ──それが、俺と信さんの出会いだった。



 結論から言おう。信さんは有言実行した。俺のむちゃぶりな希望は、ほとんどすべてそのまま叶えられたし、信さんは誘拐犯にならなかった。

 彼は児相で働いている友人と内密に連絡を取り、条件付きだが俺を一時保護する権利をもぎ取ったのだ。その条件が、二週に一度の視察と、毎日の連絡。ただし、視察という名目で家にやってきたわけではなかった。

「オレの友達呼んでいい? 大丈夫、あいつ馬鹿だから甥っ子預かってるっていっときゃ、絶対ばれないよ」

 って言葉に、まんまと騙されていたわけだ。実際、児相の人──裕也さんが家に来ても友達らしく飲んだり食ったりしてるだけだったから、気づかなかった。

 そうして、三か月が経った。その間、俺はほとんど時間を信さんの家ですごした。もともと学校は、あいつが勝手に不登校ってことにしやがっていたから行けてなかったし、ここでは信さんが勉強を教えてくれた。その信さんも休職して俺につきっきりだった。

 楽しかった。一緒にゲームをして、勉強して、映画を観て。比喩でもなんでもなく、生まれてからで一番、楽しい毎日だった。

 でも、やっぱり。俺の保護は、一時的なものだった。

 信さんが出かけるときは、大抵俺も一緒について行ってる。だけど、その日は家で待ってろと言われ、俺はその通りにした。

 しばらくして、信さんが帰ってきた。出迎えに行くと、硬い表情をしていて。背後には、裕也さんともう一人、知らない誰かがいた。

 嫌な予感がした。

「ごめん」

 信さんが背中を折る。震えた声音で謝りながら。

「翔太との約束、破ることになっちまったし、お前の母親を追い詰める原因を作ったのも、オレだ」

 どうやら、あいつが──母さんが、死んだらしい。

 当然だが、俺を保護して終わりじゃなかった。信さんは出会った日に俺の身体にあった傷や、ここ三か月でぽつぽつとこぼした身の上話を裕也さんに伝え、児相は母さんとの接触をはかっていたらしい。もちろん、外面だけはいいあの女は否定し続けていたが、かつてあったように俺の口を塞ぐ、なんてことはできずに、どんどん化けの皮が剝がされていって……で、なんやかんやあって、自殺したらしい。

 なんだそりゃあ。メンタル弱すぎだろ! とんだ笑い話だ。

 俺は手を叩いて爆笑したかったが、重苦しい大人三人を前にしてはさすがにできない。なにより、あいつが死んだせいで自責の念に追われている信さんが心配だった。

「俺は大丈夫だから頭上げてよ、信さん。別に、なんとも思ってないよ」

 強がりでもなんでもなく、事実だった。強いて言えば、若干の喪失感はあるかな? ってだけで。それだって、心にぽっかり穴が開いた、なんて大げさなものでもなく、せいぜいシャー芯ぐらいの小さな穴だ。

 それがちょっとスースーするだけで、本当に、平気だったんだ。

 だから、信さんに謝るのはもうやめてほしかったんだけど、むしろ更に顔をくしゃくしゃにして、謝り続けた。

 本当にごめん、今は謝らせてくれ。ごめん、ごめん。

 和解の機会も、本当の親に頼る機会も、お前から永遠に奪ってしまった、って。

 泣きながら、ずっと、ずっと。

 そこでようやく、俺は母親のことを考えた。どうやって死んだんだろう。プライドだけは高いあいつのことだから、多分、死にざまは誰にも見られないようにしたはずだ。だからきっと、あの家で首でも吊ったんだろう。あの、夫にも息子にも逃げられた、一人で生きるには広すぎる一軒家で。ただ、独りっきりで。

 小汚くて、こじんまりとしてて、飽くほど見慣れた一軒家が、静まり返る。

 そうか、もういないのか。本当に、死んだのか。

 悲しくなどなかったはずだ。

 それは変わらない。なのに、胸を貫いたシャー芯の穴が酷く、ひどく痛んで。

 堰が、外れた。

「ぅ、あ……」

 痛い。ただひたすらに、痛い。それを包み込むように、信さんが俺を胸に抱きよせる。

「なあ、翔太。お前が良かったら、本当の親子にならないか?」

 信さんの服に染み付いた、煙草──ガラム・スーリヤの匂い。とっくにこの香りが大好きだった俺に、断る選択肢はなかった。



 あの日の信さんの喪服は、奥さんと、まだ見ぬお腹の中の赤ちゃんへの弔意を示すものだったらしい。

 一緒に住み始めてすぐの頃、ベランダで煙草を吸いながら信さんは話した。交通事故だったと。

「煙草に縋りだしたのは、それが理由?」

「まあ、な」

「身体に悪いとわかっていても?」

 ちょっと意地悪な質問に、信さんはふっと笑って、

「馬鹿だからなぁ」

 煙を空に吐き出した。

 それからベランダでの喫煙タイムでは、信さんの思い出話や、奥さんのことを聞く場となった。

 いつも吸ってる煙草はガラム・スーリヤと言って、世界で一番身体に悪い煙草らしい。

「なんでそんなの吸ってるの」

「懐かしいにおいなんだよ。奥さん、インドネシア人だから」

「へー」

 ガラム・スーリヤはインドネシア産。そういうことか。

「でも、わざわざそんなに身体の悪いやつじゃなくても……」

 煙草を吸ってる信さんは、かっこいいと思う。ダンディで大人な魅力がある。匂いだって悪くない。むしろ、好きな部類だ。だけど、全部が全部、奥さんの影響なのが、どこか気に食わなかった。今ならわかる。明らかな嫉妬だ。

「心配してくれてんのか?」

「別に」

 照れ隠しで顔をそらしたがバレバレだったようで、「可愛いやつめ」と頭をなでられた。

「まあ、もうちょっとだけ縋らしてくれよ。もうちょっとだけ」



 信さんが里親研修などをしている間の数か月、親戚も特にいない俺は一旦施設に預けられた。そして、特に問題なく信さんとマッチングし、久しぶりに再会したとき、煙草の匂いが薄くなっていることに気づいた。

「やめたの?」

「ああ、案外何とかなったな」

「そっか」

 健康のためにはそれが一番いい。自分も過去に望んだことだ。だけど、やっぱり信さんの煙草を吸う姿は好きだったし、俺にとっての煙草はすでに憧れと化していた。だからちょっと、ほんのちょっとだけ残念な気持ちもあったけれど、悟られないようにそっけなく答えた。

 けどやっぱり、それにも気づかれていたようで、

「残念?」

 にやついて聞いてくる。

「まあ、ちょっとだけ。でも、信さんには長生きしてほしいし、別にいい」

「おっ、なんか今日の翔太は素直だな」

 頭をなでてくる。自分でも思ったが、久しぶりの再会だから仕方ない。懐かしい感触を噛みしめていたら、変なことを聞かれた。

「将来、大人になったら吸いたいって思うか?」

 答えは自明だった。

「信さんがやめたなら吸わない」

 信さんの手の動きが止まる。

「なんだぁ、それ」

 頭にあった手が下がってきて、目を覆われた。

「ごめん。やっぱりオレ、馬鹿のまんまだわ」

「?」

 次の日、朝起きると、懐かしい匂いがした。ベランダに向かうと、見慣れた大きな背中があった。



 あれから、六年が経った。

 十八歳になった俺にとっての煙草はもちろん憧れの象徴で、信さんは相変わらずのヘビースモーカーだった。

 あの日、信さんが再びガラム・スーリヤを吸い始めた本当の理由を、俺はまだ定め切れてない。直接聞いても、ただ「吸いたくなった」としか話してくれない。

 昔はそれで納得していた。信さんの健康を思っていても、やっぱり、煙草は俺の憧れだったから。だけど、どうやっても、煙草は毒だった。

 信さんが肺がんになった。原因は言わずもがな。

「ほんと、馬鹿。信さんの馬鹿」

「悪いって。オレもまさか、まだ四十なのにこうなるとは思ってなくて」

「あの時やめればよかったんだ」

「ごめん、ごめん」

 謝れはすれど、否定はしない。こんなに肺がボロボロになっても、後悔してないようだった。

 それも、奥さんのためだから?

 信さんはずっと、早くこうなりたかったの?

 昔なら、聞けただろう。でも、今となっては唇が張り付いて口から出てこない。わかっているから。明らかにこれは嫉妬で、信さんの奥さんに向ける感情としては決して正しくないものだ。

 だから、聞けない。

「こんな姿に、なっても、吸いたいっておもうか?」

「……まあ」

「……そうか」

 聞けなかった。

「ごめんな。オレが、賢い大人だったら、お前に吸うなって、言えたのになぁ」

 これが、肺にいろんなチューブを差し込まれる前に話した、信さんとの最期の会話。

 馬鹿な死に方だったと思う。だけど、あまりにも彼らしい死に方だった。

 俺の二十歳の誕生日。その四日前に、信さんは死んだ。



 何もする気が起きなかった。息子としてやるべきことはたくさんあったのに。葬儀の準備も、信さんの兄弟や裕也さんに任せっきりで、俺は抜け殻のまま始まって、終わった。棺の中の信さんがどんな顔だったかも、覚えていない。

 信さんが骨になっても相変わらずで、いや、むしろ信さんの死をようやく自覚して、無気力は希死念慮の毒と化した。あの廃ビルに行ってみたが、当然もう新しい建物に変わっていて、結局、何もせず帰った。そこで、ようやく気付いた。玄関前にある箱を。その差出人の名が、「神崎信治」であることを。

 急いでその場で開ける。中に入ってたのは、

 『Happy Birthday!』

 ガラム・スーリヤひと缶と、ブライヤー製の高そうなフリント式ライター。



 だから、富士山に登ろうと思った。

 竹取物語曰く、そこが一番、天に近いらしいから。

 俺を心配して見に来た裕也さんにそういうと、「俺もついていく」って言って本当についてきた。そろそろいい年なのに。

「はあ、はあ、」

「裕也さん早くー! そろそろてっぺんですよ」

「はぁ、葬儀ん、ときは……今にも死にそう、だったくせに」

「いや、そのことは……マジで、すみません。全部任せてしまって」

「いいけどよ。……本当に死にに行くんじゃねぇよな? 頂上着いた瞬間身投げとかマジでやめろよ?」

「死にませんってば!」

 もう十回はやった問答。疑う気持ちはわかる。なんなら、あの廃ビルが残っていれば今頃死んでただろうし。でもさすがにしつこかった。

「俺は初煙草を吸いに来たんです!」

 そう、煙草だ。今の俺の状況は、出会った時の信さんと似ている。あの人は煙草に縋った。なら、俺も縋ろう。そうしたら、あの人が吸い続けた理由がわかるかもしれない。

「ついた!」

「すげぇ景色だな」

 絶景だ。雲よりも遥か高みから見下ろす大地の姿に、より富士山の高さを実感させられる。

 でも、ここには景色を見に来たわけじゃない。早速俺はカバンからガラム・スーリヤとライターを取り出し、火をつける。

 着火すると、ぱちぱちと音が鳴り始める。これも、ガラム・スーリヤの特徴だ。なんだか緊張しつつも、思い切って咥え、吸い込──

「ゴホッ! ゲホッゲホ!」

「大丈夫か?」

「ぐふっ、副流煙吸いまくっててもこうなるんっすね……」

 結構、苦しい。でも、口中に懐かしい匂いが広がるのは新鮮だった。

 確かに、言ってたっけ。

『懐かしいにおいなんだよ。奥さん、インドネシア人だから』

 ああ、やっぱり、奥さんだ。信さんの核は、いつだってそれだった。

 すべては、最愛のため。彼女に早く会いに行くため。

 理解と同時に、涙がこぼれた。決壊とともに、傲慢さが招いた後悔もどんどん、溢れていく。

「俺さ、驕ってたんです。あの人に拾われて、一緒に暮らして。あの人はずっと、笑ってて、幸せそうだったから。信さんの最愛の代わりに、なれてたんじゃ、ないかって」

 代わりなんて、いるわけないのに。

「馬鹿、ですよね」

「……そうかもしれないな」

 呆気なく認められて、自嘲する。

 馬鹿め。信さんが差し伸べてくれた手は、最初から最後まで、ただのお情けでしかなかったのに。それを特別なものだなんて、お門違いな勘違、

「だがな」

 強い語調で思考を遮られる。

「あいつらしくない、馬鹿な死に方ができたのは……きっと、お前のおかげなんだと、思うんだ」

 切実に、祈るような眼差しを向けられた。

「お前はそれを、毒として吸いつづけるのか?」

 ふと、思う。

 あの人はずっと、亡き最愛を追い続け、パチパチと鳴る火花とともに、少しづつ命を灰にしていたのだろうか。

 思う。

 俺を拾うくらいの度胸がある人が、そんな回りくどいやり方を、本当に選ぶだろうか。

 思い起こす。信さんとの出会いを。

 あの人は何故あそこにいた?

 思い返す。信さんとの別れの言葉を。

『オレが、賢い大人だったら、お前に吸うなって、言えたのになぁ』

 嬉しさを噛み締めた、満足気なあの顔を。

 甘い煙草のフィルターを噛み締める。

 やっぱり、馬鹿だ。大馬鹿者だ。

 そして、あまりに身勝手だった。

 最期に死の薬を遺したあの人も、その身勝手さの意味に気づいて、嬉しく思えちまった俺も。

 永遠の命を拒んだ帝が、かぐや姫に贈った煙は、未だに天に向かって立ち昇っているらしい。

 そんなもん、御伽噺に違いなかった。煙なんて、あっという間に霧散して、見えなくなっちまう。

 意味なんて、ないのだろう。最初からわかりきっていたように。

 それでも、吸うんだ。そして、吐くんだ。

「本当に、馬鹿だよ」

 満足は一時的なものだろうに。

 知っている。あの人だって、知っていた。

 それでもなお、またしくしくと泣き始めた胸の痛みを、薬で消して。


 吐き出した煙が、天に届くことを祈るんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かの奉る死の薬 加峰椿 @K0kutyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画