舟旅の供に重い紙切れを

翡翠

舟旅の供に重い紙切れを

 世界が白く染まる冬、二十年来の友人が死んだ。

『なぁ、ヨウ。早いよ。まだ三十路にもならねえうちに、一人で勝手に逝くんじゃねえよ。』

 飄々とした態度とは裏腹に、繊細で泣き虫な男だった。人前で本音を晒すことを酷く恐れて、笑うことしかできなくなる男だった。

『トラックに轢かれそうになった猫を助けて? 一晩意識不明の重体で? 一旦目は覚ましたけど急変して亡くなりましたって? ドラマか。というかお前、猫嫌いなんじゃなかったのかよ。』

 俺は別に、本気であいつが猫嫌いだと思っていたわけじゃない。「猫が嫌い」は本人が言ったことだけど、そもそもヨウが自発的にする自分の話は八割方が嘘だった。しかも、大体ヘラヘラしながら「なーんてね」とか「今の嘘だよ」とか言うから、あいつの嘘の七割は別に親しくなくたって分かる。それに、幼い頃の話だけど、ヨウはクレヨンを持つと必ず猫と狐を最初に描いた。だから俺は、どちらかと言うと好きなはずだとは思っていた。とはいえ、まさかその身を挺して咄嗟に助けるとは思わなかった。だからだろうか、こんなに悔しいのは。

『つい先月だぞ。俺と飲んでベロベロになって、ヒロに全然会えないとか言って号泣してたの。しかもその場で残業中のヒロに電話掛け始めてさ。三月までは忙しいけど四月になったら参加するって、言質まで取ったのはお前だろうが。』

 大学時代、俺ともう一人の友人と三人でよく酒を飲みに行った。社会人になってから三人で揃うことは減ったけれど、二人ずつでも会える時に会っては共に飯を食い、酒を飲み、よく喋った。お前らと飲む時じゃなきゃ酔えないんだよ、があいつの口癖だった。なんのことはない、ただ周囲に泣き上戸であることを知られたくなかっただけの話だ。あいつの泣き顔は、俺たちだけが知っている。ひとしきり泣いた後でふにゃりと幼く笑う顔だって、今も脳裏に焼き付いている。

『約束反故にすんなよな。鬼上司なんてガン無視してでもお前ともっと飲みに行けば良かったって、ヒロがお前も目じゃないくらいべちゃべちゃに泣いてるよ。次に会った時、ヒロに謝っておくように。』

 そろそろヒロに貸したハンカチも絞れるんじゃないだろうか。こいつはヨウと違って真っ直ぐで、高身長かつガタイの良い見た目に反して気が小さくて、ヨウと同じでよく泣く男だ。三人の中で一番淡々としているのは俺で、一番正直なのはヒロで、一番笑うのはヨウだった。得意科目も好きな音楽も全然違うのに、不思議なくらい一緒にいた。だから、あいつの嘘くさい笑顔も中身のないマシンガントークも、全部本心の裏返しだったと、俺たちは知っている。

『早々と一人で逝った罰だ。五十年くらいそのまま一人で待ってろ。寂しいからって、化けて出てくんじゃねえぞ。』

 昨日の通夜でヨウの顔を見て、あいつがいつか嫌いだと言っていたものをもう一つ思い出した。同じもの返せないから貰っても困るし、重いから嫌い、だったか。仕方がないから、それを棺に入れてやることにした。そういえば、あの時は嘘だと言わなかったな。だから、俺が代わりに「嘘つけ」と返したんだった。そうしたらヨウは一瞬変な顔をして、その後「ふへへっ」ってよく分からない声を出して、ふにゃりと笑っていたっけ。

『返事なんか最初から期待しちゃいねえから、存分に震えて読めよ。』

 視界がぼやけていくのと同時に、自分でも何を書いているのか分からなくなった。段々と頭が涙に侵食されて、脳が錆び付いたように回らなくなった。これじゃ駄目だ。もっと、もっと他に書けることはないだろうか。必死に探して、素面のあいつと同じくらい、中身のない文字列を生み出し続けた。俺は犬派だからって犬への愛を語ってみたりとか、前にヨウがオススメしてきた動画は面白くなかったとか、果ては直近一週間の俺の献立まで書いた。このままペンを置いたら、今度こそあいつの死を受け入れなくちゃいけない気がして、他の一切がどうでも良くなった。ヨウを死なせたくない一心で、ただひたすらに手を動かした。

「…………嫌だ……嫌だよ、ヨウ……」

 俺はお前が鼻水垂らしながら雪だるま作ってた頃から知ってるんだぞ。何が重くて嫌いだ。

「まだ置いてくなよ、なぁ……」

 これだけどうでも良いことを書き連ねたのに、まだ一緒にいたかったとか、一緒に行きたい場所があったとか、一緒にやりたいことがあったとか、そんなことはひとつも書けなかった。あれだけ一緒に笑ったのに、礼の言葉ひとつだって出せやしなかった。

『ついしん。ヨウのばか』

 震える手で畳んだら折り目がだいぶズレてしまって、そのままじゃ封筒に入らないからもう一度折った。不恰好な便箋を見たら、お前は笑ってくれるだろうか。


 そういえば、あいつは雨が好きだった。これは本当の話だ。

 なぁ、ヨウ。信じられないだろうけど、明日は雨だよ。好きなだけ泣けよ。秘密にしておいてやるからさ。

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