第6話
そのふたりが、遊び仲間の友也が消えたと思われる武家屋敷に忍び込んだのはいいが、ぞっとするようなヒンヤリとした風がそこいらにふんわりと漂っていた。そのふんわりさが、ふたりの背筋に染み込んで来る。互いに顔を見合わせるが、何も言わない。が、
「高広さん、気持ちが悪いですね」
翔はぶるぶるっと肩を震わせた。
それは高広も感じていた。忍び込んだのはいいが、この先どうすべきか、高広にも分からなかった。だいたいが、友也に異常なことが起こったに違いないというのは、高広の想像に過ぎなかったからである。だが、友也があの嵐の日以来何処かにいなくなってしまったのは確かな事実であった。
「あいつは、ここに行ったのはまず間違いがない。きっと、そうだ。この屋敷で何かがあったに違いない」
と、高広はかってに思った。
この武家屋敷は無防備そのもので、門に鍵が掛かっているわけではなく、自由に屋敷の中に入って行けた。
「おい、翔。中に入るぞ」
「はい」
翔の足元は異様なヒンヤリとして空気にふら付いていたが、それでも高広の後に続いた。
「高広さん、ここには人は住んでいるんですかね?友也は、なぜこんな所に行くって言っていたんですか?」
翔はしゃべり続ける。それだけ不安なのであろう。時々彼の体がガタガタと震えているのが分かる。
座敷の中もやはりひんやりとしていて、人が住んでいる気配が少しも感じられない。だか、
「あいつは間違いなく、この屋敷に行くって言っていた・・・」
あいつになにがあった?高広の疑問は増すばかりだった。
「高広さん、もう戻りましょうよ。誰も・・・まして友也がここには来ていませんよ。こんな気味の悪い場所に来るわけがありませんよ」
高広は返事をしない。
「翔、待て・・・」
確かに人が住んでいる気配は感じられない。しかし、何かが・・・いる、人ではない何かが・・・高広はそう感じていた。
武藤条太郎は武家屋敷に急ぎながら、住職とのやり取りを思い出していた。
条太郎には確証はなかったのだが、こういう噂話を聞き込んでいた。それは、単なる、今となっては信じられないようなはなしである。
《小幡信定の墓は確かに常念寺にあった。噂を聞き入れ、条太郎は常念寺に行くと、信定の墓があるのか確かめた。行ったのだが、驚いたことに、その墓は苔むしているのではなく、頻繁に誰がお参りに来ているのか、墓石の御影石はきれいに磨かれていて、上州上田の八月の陽光に眩しく輝いていたのである。
「誰が・・・」
と、条太郎は疑念を抱いた。気になったので、
「一つお聞きしたいのですが・・・小幡信定の妻女の墓は何方に・・・見た処、見当たらないのですが・・・?」
住職は、
「それは・・・こちらです」
といい、指さした。
見ると、信定の隣りに・・・確かに墓らしき石が隠れるように見られた。それは、信定の墓石に比べ、粗末な石ころに見えないでもなかった。
「国峰城であった小幡信定がなぜ遠く離れた上田の地に住まれたのでしょう?その点について、何かご存じのことはありませんか?」
住職は首をわずかに動かした。
「その点について、何も伝わっていません。この地を安住の地と定めたのは間違いないとおもいますが、それ以上のことはこの夫婦にしか分からないことだと思います」
条太郎は夫の信定の墓を陰から守るかのようにひっそりと見守っている妻女きくの墓を見ると、条太郎は哀しさよりも哀れを感じざるを得なかった。
条太郎はもう一つ気になることがあった。
「きく女は誰によって、ここに埋葬されたのですか?」
「それは、常念寺の何代か前の住職によって・・・と、聞いています。それ以上の詳しいことは分かりません」
そこで、条太郎は常念寺の住職に改めて訊いた。住職は、
「月命日ですか・・・ええ毎月十八日に、中年のきれいなご婦人が来て見えますよ」
条太郎は、その方がどなたかご存じですか・・・とは、あえて聞かなかった。思い当たる人物が浮かんだのである。
(あの夫人に違いない・・・)
確信ではない。だが、確信に近いものであった。
条太郎は・・・そう思っただけである。そして、
(みどりが、今夜あの夫人の屋敷に泊まりに行っている。何かが起こりそうな気がするのだが・・・)
条太郎はこの夫人の墓を掘り返したくなった。だが、それは思い留まった。そこまでもして、その真相を確かめる必要もなかった。それに、あの人がきく女だという本性もまだ分かっていなかった。
武藤条太郎は住職にお暇を告げ、武家屋敷に急いだ。彼はいつも家宝の短剣を所持していた。この時代に、彼の周りに敵がいることはない。ただ、彼が若い時からの用心からに過ぎない。
「ワッ、ワワッ!」
翔が引き下がりながら、奇声を上げた。
「高広さん、そこに、誰かがいますよ」
翔が指さす先には・・・確かになにかがいた。いや、
「高広さん、人がいます。ああ・・・女がいます」
と、翔の震える声が響く。
(確かに・・・)
ついに、高広も人の気配を察し、
「誰だ・・・出て来い」
ここまで追い詰められると、高広も恐怖を感じたのか、その声が震えている。
この襖は人ひとりが通れるくらい空いていたのだが、女と思われる白い手が現れ、一気に襖を一杯に開けた。
現れたのは白い着物を着た女であった。
「こんな時間に、何か御用でもあるのですか?」
二人とも黙ったままである。恐怖のためなのか、身体が硬直してしまっていた。
「こっちにいらして下さい」
誘われるままに、二人は白い着物を着た女の後に続いた。
「庭に出て下さい」
そして、
「そこに立っていて下さい」
といい、二人を池の前に立たせたのである。
この時すでにきく女の手には薙刀を持っていた。
「いいですか、ここに入って来てはいけないのです。あの若者も、いけないことをしたので、私が懲らしめました。あなたたちの知り合いですか?」
この時初めて二人は、この不気味な女が友也のことを言っているんだな、と気付いたのである。白い着物を着た女が手に持っているのは木刀であつた。若い二人は、それは分かった。しかし、それが薙刀とは知らなかった。
「あなたたちを懲らしめのために、斬ります。そうしなければなりません」
こういうと、きく女は薙刀の刃先の木の部分を取り払った。満月ではなかったが、三日月は白く美しく輝き、池の湖面を取らしていた。
こうなってしまえば、二人は恐怖のためにもう動くことは出来なかった。声を出そうにも出せない。悲鳴を上げようにも喉に何かが詰まっているようで、キィ・・・とさえ出せなかった。
「たすけ・・・」
カズが辛うじて、こう呻いた。そこまでだった。
「覚悟しなさい」
きく女の薙刀が動いた。次の瞬間、
「きく小母様、待って下さい。いけません」
きく女の動きは止まった。その声のする方に振り返ると、武藤みどりが立っていた。その手には真剣があった。
「みどりさん・・・どうして、ここに・・・」」
「きく小母様、その者を切ってはだめです。殺してはいけません。手首を、右の手首だけを切り落として下さい」
みどりは悲痛な叫びを上げた。さらに、みどりはつづけた。
「この前のような殺生は、今の時代には許されないことなのです。絶対に殺さないで下さい、きく小母様」
みどりは二人の若者の前に立ち、きく女と向かい合った。
「きく小母様!」
みどりは言葉に力を込めた。
「みどりさん、それでも、殺すといったら、どうします?」
みどりは返事に困った。このままでは本当にこの人と闘わなければならなくなるのですから・・・。それでも・・・
「どうします・・・」
この時、条太郎の声が飛び込んで来た。
「切れ!その人を切ってしまえ。躊躇するな。何を戸惑う・・・」
「じいちゃん」
みどりは確かに戸惑いを感じたのだが、武藤条太郎を見ると、微かに頷いた。
「じいちゃん」
条太郎はそれ以上何も言わなかった。
(あの子は分かっている・・・)
老人はこう思う、
(もうこれ以上生きるのを止めてやらなくてはいけない。この女のためにも・・・)
一方、小峰きくにも戸惑いがあった。
「出来ない。私には・・・きく小母さんを切る・・・殺すなんて出来ない」
みどりの声は震えていた。小さな体は小刻みに震えていた。それでも、祖父条太郎はしつっこく言う。
「躊躇するな。いいか、みどり、よく聞け。その人はとうの昔に死んでいるんだ。きく女は・・・目の前にいるその人は、亡霊だ。一刻も早く、夫である信定の元へいかせてやらなくてはいけない。お前がそのきく女にどういう感情を抱いているか、じいちゃんには分からない・・・」
「そう、じいちゃんには私の気持ちなんて分からないよ」
確かに、今のみどりのきもちを、条太郎は計ることは出来ない。
(そうかも知れない)
だが・・・条太郎は思う。
「何を躊躇するのか・・・」
条太郎は叫んだ。
孫娘みどりの返事はない。
だが、条太郎は、さらにいう。
「みどり、その老女を切れ!」
そして、強く叱責した。弱気になるみどりを励ます祖父の叱責であった。
この瞬間みどりの震えは止まった。けっして、祖父条太郎の考えに納得したわけではない。ただ、お前が思うきく女のためなのだ・・・というじいちゃんの言葉に眼が覚めたのだ。この瞬間、みどりの決心はついた。
みどりは剣を左八双に構えた。
きく女の動きが止まった。
「変わった構えをなさるんですね、みどりさんは・・・いいでしょう。お相手しましょう」
きく女は薙刀を上段に構えた。
「みどりさん、いきますわよ」
きく女の声は力強い。これまでに感じたことのない迫力が帯びていた。一緒に風呂に入り、きく女の乳房に触れた時の優しさは微塵も感じられなかった。
(隙が無い・・・)
みどりは動けない。動けば、
「こっちがやられる」
条太郎もそう感じていた。
「負けるのか!」
相当の使い手というのではなく、戦場において何度も修羅場に中を潜り抜けて来た迫力があった。それに比べみどりはまだ幼く、面と向かった相手とはすべての面で力では及ばなかった。仕方がない、と条太郎は諦めるしかなかった。
だが・・・そうはいかない。このままではみどりは負ける。それは、みどりの死を意味していた。
「それは・・・だめだ」
条太郎は叫ぶ。
(それなら、どうする・・・あの子が負けるはずがない。
そんなことがあってたまるか)
「あの子なら・・・私が大切に育てた孫娘だ。きっとうまくやるに違いない」
条太郎は小さく呟いた。彼は孫娘を信頼していた。だが、一つの不安がないわけではなかった。みどりは薙刀と対戦したことがなかったのである。
「勝てるか・・・しかも、相手は実践の中で生き抜いたつわものなのである。今の時代に生きている生半可な人ではないのだ」
熟考の末、条太郎は、
「馬鹿な!孫娘であるみどりが・・・真田の末裔であるこの子が負けるわけがない」
きっぱりと否定した。
「どうしました、みどりさん・・・」
みどりは左足を引き、八双に構えたまま動こうとしない。そして、脇構えにはいったのだが、いつもより深く剣をやり。相手からは一層剣を見えなくした。
きく女の動きが一瞬止まった。
「みどりさん・・・」
こういうと、きく女の呼吸がみどりの耳に入った。
条太郎の手にはいつも所持している短剣があった。
(よし、それでいい。やれ!みどり。いざとなれば、これを使う)
条太郎は決断した。
「みどり、もう一度言う。切れ!その人のためにも・・・切れ。殺すんだ」
老人はきっぱりと言い切った。
みどりの体は一瞬強く震えた。
「じいちゃん」
みどりは言い切り、身を少し屈めた。きく女の顔色が変わった。生気が帯びて来て、薙刀の持つ手を強く握り締めた。
「じいちゃん、その人たちを頼むわよ」
「分かった。もうすぐ刀根さんも来るはずだ。二人とも、引き渡すからな。いいか、殺すのは、その人のためだからな」
「分かったよ。ありがとう、じいちゃん」
だが・・・
やはり、そう簡単にみどりは動けなかった。きく女との間合いさえ縮められなかった。多分、おそらく一瞬でけりは付くに違いない、とみどりは思った。
(きく小母さまの内に入りたい・・・)
みどりは横に動いた。まず、そうするしかなかったのだ。左八双を真横に構え、さらに花壇に移し、次の動きに備えた。
「どう来るの、きく小母様・・・」
(さあ、どうでしょうね)
きく女は脇構えをし、取り敢えず石突で自分を防御しつつ相手を狙いために薙刀を水平に構えた。
みどりの動きが一瞬止まった。だが、すくに動きを続け、きく女の周りを回り始めた。
その内、庭の池をきく女が背にした。池に三日月がさみしそうに輝いている。みどりは、そう感じだ。
(こんな寂しそうな三日月を見るのは・・・)
みどりは見たがなかつた。
「行く・・・」
みどりは剣を左に払った。その剣を、きく女は難なく避け、すぐに穂先で切り払った。みどりは辛うじて避けた。きく女の次から次への攻撃はみどりに休む間も与えなかった。次から次へと刃先、時には石突でもって、みどりの顔や体に向けて当身を咥えようとした。
みどりの若い体は躍動をしていたのだが、きく女の立て続けの攻撃にいつしか呼吸が荒いのに気付いた。
「いけない。このままでは・・・負けてしまう」
そう思ったのはみどりだけではなかった。祖父条太郎も同じ気持ちであった。
「私の孫が負ける・・・」
それはない・・・
「みどり!」
条太郎は声を発した。いつもの孫娘を叱咤激励する時の声である。この瞬間、みどりの背筋に電流が走った。
「じいちゃん」
みどりは走った。きく女に向かって・・・。その天空には、大好きな三日月がしっかりと輝き、みどりを見守っていた。もう一つ・・・庭の湖面にも三日月もみどりを見守り、香が逝いていた。
「お願い・・・二つの三日月様・・・」
みどりはその三日月に向かって、飛んだ。
その瞬間、
「みどりさん、何を切ろうとしているのですか・・・私は、ここなのですよ」
きく女の最後の言葉だった。唯一、きく女のつくった隙であった。きく女の薙刀は天空を切った。みどりの県はその薙刀に払われた。
つぎの瞬間、みどりはきく女の懐・・・内に入ったのである。
「きく小母様!」
その刹那、みどりはきく女と眼があった。
この時、条太郎の持つ短剣が、
「みどり」
みどりのちょうど胸元に届き、
「じいちゃん」
みどりは顔を背け、きく女の胸に短剣を差し込んだ。
闘いが追え、二日が立っていた。空を見上げると、心地よい上田の陽光に、みどりは眼を細めた。家の縁側に座り、みどりはあの瞬間を思い浮かべ、一人で物思いに耽りながら思い出していた。
みどりの奇声は三日月のささやかな明かりの闇に響き渡った。あの瞬間のことは、いくら考えてもぴったりの言葉が浮かんで来なかった。
「きく小母様・・・」
みどりはもう一度呟いた。そして、その後、
「お母様・・・」
と呟き、自分の手を見つめた。まだきく女の乳房の心地よい感覚がはっきりと残っていた。
白い着物の女の亡霊 青 劉一郎 (あい ころいちろう) @colog
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