第5話
その日の夜、武藤みどりは武家屋敷に泊まることになった。
「どうぞ、泊って行って下さい」
と、きく女に誘われたのである。その時、条太郎も傍にいた。
その条太郎も泊まるように誘われたのだが、家でやることがあるので、と辞退した。
(何をやるのかしら?)
みどりは、おかしいな・・・何だろう、と思ったのだが、それ以上考えるのはやめた。
条太郎はみどりの傍に行き、耳打ちをした。
「少し調べたいことがある。これから、まず刀根さんに会って来る」
みどりは条太郎を睨んだ。
(何なの?)
という目付きで祖父を見た。
条太郎は孫のその目付きで、何を言いたいのか推察したが、それ以上相手せずに武家屋敷を後にした。
みどりはこの武家屋敷に泊まるのは初めてであったが、素直に承諾した。それは、先日きく女と一緒に風呂に入りましょうと誘われ、彼女の乳房に触れたことがあった。その感触は今この瞬間もはっきりと残っていた。
「お母さんの乳房も・・・」
と想像してみる。だが、想像だけでそれ以上何も浮かんで来ない。
だけど、みどりは、この人は母ではないとはっきりと意識はしていた。
(それは、私にもよく分かっているんだけど、だけど・・・お母さんの面影に慕ってしまう)
みどりには拭切れない気持ちのまま、母への恋しさはきく女に接してからますます大きくなっていた。条太郎がここに泊るのを承諾したのは、それなりの理由がある・・・それは分かっていたから、みどりは条太郎に頷いた。
「この前の時には、ご一緒にお風呂に入りましたね。良かったら、今夜もまた入りましょうか?」
みどりはきく女のその誘いに拒絶できない、母を知らないみどりは、この女性に母の面影を抱き・・・無今はもう完全に彼女の心の中に染み込んでしまっていた。言い知れぬ心地良さを感じた。
みどりは素直にうなずいた。
しばらくして、みどりは尋ねた。気になっていたのである。
「少し・・・この屋敷の中を見て回ってもいいですか?」
この前の時は、そこまでの余裕はなかったのである。小幡きく女がどういう人なのか全く分からなかったし、気持ち的に言うと、不審な心持ちのまま接していた。今もまだ、そういう気持ちがある。ただ、いつの間にか蘇って来た母への慕情を今も隠し切れないでいる。
「いいですよ。この屋敷は広いですから迷子にならないように気を付けて下さいね」
静かな夜であった。きく女はこんなに広い屋敷に一人で住んでいるのである。そういえば、この屋敷には時間を判断する時計がなかった。
「あのう・・・」
彼女は言葉を飲み込んだ。
「いえ、何でもありません」
みどりは今庭に面した廊下を歩いていた。
いつの間にか・・・もうすっかり暗くなり・・・九時を回っているような暗さだった。みどりも条太郎と住んでいる家も、こんなに広くはないが、二人だけだからひっそりとしている。
「家と、同じだわ」
と、みどりは笑みを浮かべた。
みどりは障子を開けたままの座敷に入った。今は八月で、夏の最中だった。それなのに、少しも蒸し暑くはなかった。ここは信州、上田だった。九月に入れば、もうそこまで秋がやって来ているのを、上田の人たちは肌に感じるのである。すぐに、厳しい冬がそこまで来ている。
みどりは座った。ひんやりとした感じは、幼いみどりの体に染み込んで来た。風が庭から微かに吹き込んで来ていた。そんな感じだった。
「こんな大きな屋敷にきく小母さんは住んでいるんだ。寂しくないのかな?」
みどりはふっと思った。
「ふ、ふっ・・・」
みどりはまた笑った。
突然、みどりの鼻につんとする匂いが吐いた。
「この匂い・・・」
みどりは座ったまま座敷の中を見回した。すると、みどりの視線がある所で止まった。
「あれは?」
欄間に掛かっている薙刀の木刀であった。
この生ぬるい匂いは、どうやらその辺りからの・・・ようだ。みどりはゆっくりと近づいて行き、欄間の薙刀を見上げた。
「間違いない。ここからだ」
みどりは手を伸ばしたが、欄間まで届かない。そこからよく観察すると、薙刀の付け根の所が黒く濁っていた。
「血・・・」
なのかしら・・・。
みどりは薙刀を背伸びをして取ろうとしたが、やはり届かなかった。
あのきく女という夫人が孫娘のみどりに危害を加えることはない、と条太郎は思っている。彼も武将を先祖に持つ家柄だが、彼女の立ち振る舞いに威厳と優美さを感じざるを得ない。
「あの人は国峰城城主の妻女だ。彼女の父も武士だ。その夫人は、今の時代の若者をどう見ているんだろう・・・」
条太郎はふっと考えてしまう。みどりの母のことを思い浮かべた。だが、その妄想を条太郎はすぐ打ち消した。
「やめておこう・・・あの子は・・・あの子は・・・もういない」
条太郎の乱れた気持ちは言葉にならなかった。
武藤条太郎は気分を変えた。彼には気に掛かることがあった。この武家屋敷の中にこの間の嵐の時に若者の遺体が流れ着いたのは、みどりから聞いて知っていた。詳しいことは刀根警部補から聞いて、とみどりは言っていた。
条太郎は思う。みどりは特別な子供ではあるが、生まれた時代が間違っているのか、彼には分からない。みどりはまだ十歳なのだ。その子に警察がすべてを知らせるとは思えなかったのである。みどりも、刀根警部補が話さない何かがあると気付いている。それを、
「聞いて見る必要がある」
条太郎はそう決断し、上田市の丸の内署の行き、刀根警部補に会うことにした。
刀根警部補はいてくれた。会って、型通りの挨拶を済ませると、
「急いでいます、事件について、出来る限り詳しく知りたいことがあります」
といい、こちらの要件を説明した。
「ああ、あれですか。今捜査している所です。ですが、殺した犯人がまだ浮かび上がって来ないのです」
条太郎は訊き返した。
「どういうことです?」
「いくつか不審なことが浮かび上がって来ていますが、はっきりしません。確かに、前日、この辺りでは嵐になり、川が溢れたりしました。当然、千曲の支流が引かれているあの屋敷も被害があったようです。それにしてもおかしいのは、血が・・・ですね、鑑識さんの調べでは微かにですが庭の芝生に多く残っていたようです。嵐の影響があるんでしょうが・・・。なぜ、あの庭に血痕が残っているのか分かりません。若者の遺体が何処からか流れ着いたものであるなら、あそこに血痕が残っているわけがありません。鑑識さんがいうには、当日の風雨が結婚を洗い流したむのかも知れない、と。他には不可解な点があります。これは、みどりさんには言っていないのですが、友也、死んだ若者の名前なのですが、見事に首が切られ、胴体と首の皮膚数ミリがくっ付いているだけだったそうです。昔の剣豪ならまだしも、今はそんな人はいない、と鑑識さんは自信を持って言い切っていました。ああ、もう一つ、
この事件は公になっていません。記者さんに報道を控えてもらっています」
「なぜです?」
「今の時代からすると、余りにも残酷な要素を見られるからです」
「そうですか・・・そうかもしれませんね」
この時、条太郎は妙な胸騒ぎを感じた。
「どうかされました?」
「いや、何でもありません。実は、あの子、今日小幡きくという夫人と一緒にいるんですよ。今日はあの武家屋敷に泊まるように言いました」
「じゃ、今日は・・・」
武藤条太郎は頷いた。
「これから、私はあの屋敷に行って見ます。何・・・大丈夫ですよ、あの子のことです」
「私も行きましょうか?」
「いや、私だけで大丈夫です。あの子のことです。何があっても、うまく処理するでしょう」
刀根警部補の前を去る前に、
「日日が変わった午前一時になっても私から連絡が無かったら、武家屋敷まで、何人かの人を連れて来て下さい。お願いします」
「何か・・・」
「分かりません。少しですが、不吉な予感がします」
といい、条太郎は丸の内署を後にした。
この年寄りの不安が的中市しないことに越したことはないが・・・そうはいくまい。何しろ、相手はとうの昔に死んでいる亡霊なのだから・・・。条太郎は苦笑した。
(あの人が、みどりを殺すことはまずないだろう・・・)
条太郎はこう見ている。だが、
「あの二人が剣を交えることはあるかもしれない。その場合・・・」
互角・・・いや、みどりが負ける・・・そんなことがあるはずがない。
その頃・・・
上田城の二の丸前の広場に、奇妙な若者が四五人屯っていた。奇妙というのは、彼らは何をするでもない。ただ、煙草を喫ったりする者、缶の酒を飲む者、中にはひそひそと話すものもいた。
この時間、もう深夜の十一時を回っていて、観光客は一人もいない。何処からここまで侵入したのか、彼らにしか分からない。おそらく、この城の管理者すら知らない場所から侵入したに違いない。だが、今は、それは大して問題ではない。ようは、彼らがここにいるという事実である。
「おい、俺たちはこれから行く所がある。お前たちは、どうする?」
一人の若者が誰ともなしに呟いた。
「俺たちはもう帰ります。冷えて来ましたから・・・」
三人は帰って行った。
「おい、翔。行くからな」
「はい、兄貴。でも、何をしに行くんです?」
「大した用はない。ただ気になることがある。この前の雨の日、お前覚えているだろう、あの日から友也が行方不明なんだよ。お前は知らないだろうが、あの嵐の日、友也があそこに行って来ます。気になることがあるんです、といって出かけて行ったんだ。ああ、訊いたさ。何がだって、な。だが、あいつ、何も言わずに行ってしまったのさ」
「待って下さい。俺も行きます。連れて行って下さいよ」
「一緒に行ってくれるか。有難うよ」
「はい」
ということで、二人して例の武家屋敷に行くことになった。
条太郎は北國街道まわりで上田の城に向かって急いでいる時に、ちょうど高広たちが追い抜いて行くのに気付くのだが、気にも止めなかった
「あいつら、何を慌てているんだ・・・」
こう、彼は口走ってしまった。
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