雲丹

「『我々』を表現する言葉を、我々は持たない」


「それは至って普通のことなのではないだろうか」

目前の雲丹の軍艦が私に問う。


黒い背広から覗く顔は舎利のように白く、垂れ下がる山吹色の髪は磯の香りを漂わせている。

「自分の顔を見れないのは当然だ。我々は鏡という装置を通してのみ、我々を認識する・・・・・・。カメラでも液晶でもいいのだが。『欺く』という悪意を持たぬであろう純朴な『他者』に映して、我々は我々であることを再認識するのだ」


雲丹は磯の香りを撒き散らしながら高説する。

「自身とは、最も親しい人物であり、また一方で絶対に会うことのできない他人である・・・・・・。どこか聞いたことのある話ではないか」

雲丹が大袈裟に身震いし、笑い声を立てた。乾いた海苔の破片が散る。


笑う雲丹の磯臭さに飽き飽きした私は、後ろの玉子に手が伸びるのを見た。


肉付きの良い、幼い手である。


玉子は自らに手が伸びたことに安堵していたが、伸ばされた手の先に気づいた途端、絶叫した。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ!俺は剥がされたくない、俺はまだ剥がされたくない!」

哀れな玉子の絶叫とは裏腹に、幼い手は玉子の身ぐるみを剥がしていく。

玉子を縛る海苔を引きちぎり、乱雑に醤油に落とす。黒い醤油が、玉子の断末魔の絶叫と混ざり合い、血潮のように飛び散った。


玉子の凄惨な有様に、私は目を目前の雲丹に戻した。


雲丹は高い下駄の上で、相変わらずの高説を垂れていた。

「我々自身が思う『我々』と、『他者』が見る我々の間には、これもまた決定的な乖離が存在する。『他者』は鏡のような意識を持たぬ装置ではないし、無論『我々』自身とも異なるからだ」


雲丹の頭頂部が乾き、海苔が湿る。高説は続く。

「我々は『我々』の本当の姿を知らない。一方で、『他者』の目は、我々と異なる価値観を持ってして、『我々』を判断する。旨いか、好みか、それともその場の気分か・・・・・・」


私は雲丹に手が伸びるのを見た。

ゴムの手袋に覆われた手である。


雲丹はなおも高説を続けていた。

「確固たる近代的自我を持つに至って尚、我々は『我々』の価値を他者に委ねているといえる。我々自身は『我々』を語る言葉を持たず、ただ回転するレーンの上を流されるばかりだ」

「なんと虚しいこと!我々は死すその瞬間を超えてたとしても、愛別離苦を共にした『我々』自身を知らないのだ!」


雲丹は持ち上げられ、吟味されていた。

私には、雲丹を吟味するマスク越しの口が、不快に歪んでいるように見えた。


「会うことのできなかった『我々』に、我々はいつ会えるのだろうか、いや永久に会えはしないのだ!」

雲丹は高らかに歌い上げるかのように、自身の高説を閉じた。そして、胸を張り、自身を摘み上げる手を待っていた。


〈松村さん、ちょっとこのウニ、乾いちゃってるみたいなんだけど〉

〈あー、誰にも取られなかったか。まあ、今日の客入りじゃもう売れないね〉


雲丹は無造作に掴まれ、ビニール袋の張られたゴミ箱に投げ捨てられた。


ゴミ箱には「廃棄」とだけ書かれていた。

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レッテル @little_p

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