それでも道は続いている

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第1話


 川辺浩之は、幼少の頃から敏捷性に優れていた。もちろん浩之本人の記憶の中に残っているのは幼稚園の年長くらいからのものなので、酒が入ると、父親の康雄が繰り返す昔話が、浩之の脳裏に練り込まれた、それは、後天的に浩之の記憶になったものだった。

 浩之は、大分県臼杵市に父康雄、母琴美の二男として誕生をした。兄弟は二人で、年子の兄の哲雄がいた。

 もの心ついた時まで遡ってみても、自分の記憶の中で、浩之が一つ上の兄のことを「お兄ちゃん」「あにき」等の敬称で呼んだことがなかった。二十四歳になった今と同じく、その頃からずっと兄のことを「哲君」と呼び続けていた。

 北東地区に豊後水道に面した臼杵湾を有し、西側が豊後大野市に面した山間部になる臼杵市の、川辺家は山間部の中に居を構えていた。祖父の代までは生産量西日本一位を誇る葉タバコを生産する専業農家だったが、喫煙率の急激な低下に伴い、父親の康雄は、造船所で働きながら、細々と兼業で農業も続けていた。生産の中心だった葉タバコは止め、今は、葉物ほど手入れに人手がかからないカボスの生産が中心になっていた。

 地場産業の造船、味噌や醤油の醸造業が盛んな時には、人口が五万人以上いた時期もあったのだが、今は三万八千人近くにまで減少をしていた。地方の小さな市が抱える人口減少、高齢化の問題は、この臼杵市も例外ではなかった。

 年子ということもあり、また同じ男の子ということもあり、哲雄と浩之の兄弟は、いつも連れだって行動をしていた。大好きなお兄さんの後を弟が金魚のフンのように付いて行くという構図ではなく、たまたま近所の中の良い友だちが同じだとか、遊びの志向が似通っていたため一緒に行動することが多かっただけなのだ。

 だから、一歳違いの兄弟の間には幼い頃から程よい距離感が保たれていた。

 山間部ではあったが、幸い浩之たちが住む地域には比較的住宅が集中していて、通っていた小学校も、各学年五クラスずつあった。

 川辺兄弟が通う小学校は、少し高くなった丘の上にあった。ずっと後ろには標高の高い山がそびえているが、住居が密集した地域から山までは距離があるため、小学校が建つ丘はその集落では一番高い場所だった。

 平日の朝、生徒たちはこの丘を目指して登校をし、夕方には、この丘を下って自宅に帰って行くのだった。

 その日は木曜日だった。毎週木曜日は、高学年の五年生、六年生だけは、六時間目から放課後一時間の間、クラブ活動を行うことになっていた。クラブ活動の中でも、女子の一番人気は茶道部で、一応形ばかりの定員を定めていたが、毎年希望者が殺到をしてすぐに定員オーバーになり、電車なら立ち見も出る乗車率百三十パーセントで、新年度のスタートを切る状態だった。一説によると、人気の要因はお手前の時に毎回お菓子を食べることが出来るからだという噂も出ていた。

 男子の一番人気はなんといっても、フットベースボールクラブだった。野球のルールで、小さなボールをバットで打つのではなく、ピッチャーが転がして来たサッカーボールを足で蹴る、野球とサッカーを混合したスポーツだった。

 このクラブには、五、六年の男子生徒総勢百五十名中、五十名以上の生徒が入部していた。

 クラブは紅白の二チームに分かれていて、毎年秋に行われる市民大会では、この二チームの中から代表選手が選抜される。練習は紅白それぞれのチームで守備やキックの練習をし、月の最後のクラブの日に紅白戦が行われるのだった。

 秋の市民大会のレギュラー選手に選抜をされるためには、まず紅白チームのレギュラー九名に選ばれることが大前提だった。

 五年生に進級をした浩之は、早速哲雄と同じフットベースボールクラブに入部を決めた。クラブのあった木曜日の夕飯の時に、決まって哲雄がフットベースボールのことを喜々として話す姿が目に焼き付いていたので、クラブを選ぶ時に、浩之の中にはフットベースボール以外の選択はなかった。

 四月の最初の木曜日、初めてのクラブの日でもある。五時間目の授業が終わり、運動着に着替えると、フットベースボールクラブに入った同じクラスのメンバーと、われ先にと運動場に急いだ。

 クラブのメンバーは必ず紅白どちらかチームに属することになる。最初の点呼の時に、浩之は「紅組」と指名をされた。哲雄は「白組」だった。同時に、毎月、最後のクラブの日に実施される紅白試合のレギュラーが発表された。

 哲雄は白組のファーストを守り、キックの順番はエースの四番だった。

「浩之のお兄ちゃん、凄いな」

 狭い地域の子供たちなので、哲雄が浩之の兄だということは、クラス中の生徒が知っていた。同級生から兄の哲雄のことを褒められるたびに、浩之は誇らしい気持ちになった。と同時に自分も絶対にレギュラーになってみせると強く念じていた。

 その浩之の願いは、抜群の運動神経に裏付けられて、二学期が始まる頃には現実のものになった。なんと、九月の紅白試合の時に、浩之は五年生で唯一紅組のレギュラーに抜擢をされたのだった。紅白チーム合わせて、たった一人の五年生選手だった。

 九月の練習試合こそ、ライトで八番のキック順だったが、この試合での活躍が認められて、十月にはファーストの守備で、一番のキック順に上がった。そして、十一月には、とうとう、ピッチャーで四番のキック順までレギュラーとしてのポジションを上げていったのだ。兄の哲雄でさえも成し得なかったピッチャーで四番という、エース中のエースにまで、浩之はまだ五年生で上り詰めたのだった。

 十二月の最初の木曜日、この日もフットベースボールの練習を終えて、同じ方向に帰るクラブのメンバー六人で、少しずつ暗くなりかけている県道の脇を歩いていた。

 全員の話題は、来年三月に行われる、卒業生を送るための、オール六年生対オール五年生の「卒業試合」のことだった。毎年三月に行われるフットベースボールクラブの恒例行事だった。

「浩之がピッチャーをやるのは確実だから、今年の五年生チームは手強いぞ」

 浩之と同じ紅組で、キャプテンを務めている六年三組の三越雄太が、一緒に帰っている他の六年生を振り返りながら言った。

「去年は、俺たち五年生チームは大差で負けたけどな」

 哲雄が悔しいというよりも、懐かしそうな顔をして言った。

「10対0だったよな、確か」

 力松邦夫が言う。邦夫も六年生で、昨年の卒業試合に五年生選手で出場した一人だ。苗字は力強いのだが、性格は穏やかでおっとりしている。

「ちがうよ、最後に哲雄が半分やけになって蹴ったら、六年生の鉄壁の守備を運良くすり抜けて、一点が奇跡的に入ったから10対1だったよ」

 雄太が邦夫の思い違いを訂正する。

「ああ、そうだった、そうだった。哲雄が火事場の馬鹿力を出したんだったよ」

 邦夫がその時の情景を思い出したのか、大声で笑った。

「誰が火事場の馬鹿力なんだよ。あれは俺の実力。狙って蹴った結果なの」

 哲雄が邦夫の頭を叩く。

「良く言うよ。目をつむったまま蹴ったくせに」

「おい、俺の大活躍に嫉妬して、いい加減なことをいうなよ、邦夫」

「哲夫のまぐれに誰が嫉妬なんかするかよ。それよりも、弟の浩之の速い球を、目を開けたまま蹴れるようにしっかり練習をしておけよ」

 今度は邦夫が哲雄の頭を叩くと、仕返しを恐れて駆け出した。

「なんだと。待てよ、邦夫」

 すぐに邦夫の後を哲夫が追いかける。元々、川辺兄弟は学校でも有名な俊足の持ち主だった。哲雄はすぐに邦夫に追いついた。

 哲雄は邦夫の首に後ろから腕を絡ませると、自分の方に手繰り寄せようとした。

「止めろよ、哲夫。こんなところで馬鹿力を出すなよ」

 邦夫は哲雄の腕から逃れようと、必死にもがいている。腕を振り解かれないように、哲雄の腕にも力が入る。もつれ合っているうちに二人とも身体のバランスを失いかけて、身体が大きく揺れている。そのまま道路側に倒れかけそうになった。

 その時だった。その後の川辺兄弟の運命を左右する大事件が起きたのは。

「哲君、危ない!」

 浩之の悲鳴を聞いて、振り向いた時には、道路幅ぎりぎりで走って来る大型ダンプカーが、すぐそこまで迫って来ていた。

 けたたましく鳴り続けるクラクションの音、ドライバーが足で踏み、サイドも同時に上げた急ブレーキの、キーンという音が夕暮れの県道に響き渡る。

 ブレーキが作動して大型バンプカーが停まったのは、哲雄たちの居る場所から十メートル以上過ぎた場所だった。すぐに運転手が降りて来る。

 幸い、哲雄と邦夫は歩道側に倒れ込んでいた。身体を起こした哲雄は、そこで信じられない光景を目にした。

「浩ちゃん!」

 道路の端で弟の浩之が倒れていて、まったく動かなくなっていたのだ。

「哲君、危ない!」という浩之の悲鳴を聞いたと同時に、哲雄は誰かに強い力で歩道側に突き倒される感覚を感じていた。

 それは、浩之が一瞬のうちに道路側に出て、哲雄と邦夫の身体を力いっぱい歩道側に押しやった力だったのだと、今更ながら哲雄が気づく。

「浩ちゃん、大丈夫か?」

 大声で問いかけても、道路にうつ伏せのまま倒れている浩之の身体は微動だしなかった。全く反応をしない浩之の身体を抱き起こそうと身体を屈めた哲雄に、駆けつけたダンプカーの運転手から大きな声が飛んで来た。

「身体を動かすな。そのまま動かさない方が良いんだ」

「だって、浩ちゃんが、全然動かないんだよ」

 非情な運転手の声に抗議するように、哲雄は泣きながら訴えた。

「素人がむやみに動かすと、治るものも治らなくなってしまう恐れがあるんだ」

 厳しい声でそう言うと、運転手はすぐに浩之の右手の手首を握って、脈拍を確認した。

「坊主、安心しろ、生きているぞ」

 言葉は乱暴で無愛想だが、この「生きているぞ」の言葉で哲雄はわずかだが、胸を撫で下ろすことが出来た。

「救急車を呼ぶから、この辺りの住所を教えろ。何か目印になる場所や建物はあるか」

 子供たちから情報を聞き出すと、運転手はすぐに携帯で救急車を呼び、警察に通報をした。急ブレーキの音に気づいた近所の人たちも集まって来ていた。

「哲雄、俺・・・・・」

 うな垂れた邦夫の目からこぼれ落ちる涙が、うす暗くなった道路よりも濃い色の黒い斑点を作っていた。

「邦夫、大丈夫だよ。浩ちゃんは元気になるから」

 邦夫にはそう言ったが、哲雄は自分自身にもそう言い聞かせていた。

「大丈夫、浩ちゃんはきっと元気になる」

 救急車に乗せられた浩之を見送った後、哲雄もすぐに搬送された病院に駆けつけたかったが、救急車の後にすぐに到着した警察署員の事情聴取のために、小学生五人はその場で足止めを強いられた。

 事情聴取が終わり、哲雄たちがその場から解放されたのは、救急車が行ってから一時間以上も経っていた。

「このまま病院まで送るから」と、事情聴取をした警察署員が、哲雄だけをパトカーに乗せて、病院まで連れて行ってくれた。

 警察署員が病院の関係者に確認をしてくれて、手術室の前まで連れて行ってくれた。手術室の前のベンチには、両手を組んで祈り続ける母親と祖母の姿があった。父親はまだ駆けつけてはいなかったが、居ても立っていられないのか、祖父は立ったまま点灯をしている「手術中」のランプをじっと見つめていた。

「哲雄!」

 警察署員に付き添われて姿を現した哲雄の姿を見つけると、母親が素早く駆け寄って来て哲雄の身体を強い力で抱きしめた。

「あんたは無事で良かった」

 それまで我慢をしていたのか、母親は哲雄の身体を抱きしめたまま大きな声を上げて泣き崩れた。

「お母ちゃん、浩ちゃんが事故に遭ったのは俺のせいなんだ」

 本当のことを言わなければと何度も思いながらも、この言葉を何度も心の中で繰り返してはいたが、母親の泣き声を聞いているうちに哲雄の中なら、告白の勇気が、まるで花びらを一枚ずつ剥がれるように失われて行った。

「浩ちゃんは……?」

 言葉を振り絞るように、哲雄はそれだけ聞いた。

「母ちゃんたちが警察から連絡を受けて病院に駆けつけた時には、もう手術が始まっていたのよ。幸いなことに頭は打っていないということだけど、ダンプカーに背中からぶつかったようで、背骨を骨折しているので、今はその手術をしているの。浩之は今、あの中で一人きりで、頑張っているのよ。闘っているの」

 それだけ言うと、母親は再び泣き始めた。

「大丈夫だよ、浩ちゃんは強い子だから」

 なんの裏づけもない言葉を吐くと、祖母は必死の血相で、念仏を唱えながら祈り始めた。

「そうよ、浩之は強い男だから、きっと元気になる」

 何かにすがるように、祖父もまた根拠のない言葉を吐いた。

 会社から直接駆けつけた父親が病院に到着したのは、それから三十分あまり経った頃だった。

「浩之の容態はどうなんだ?」

 動揺をしているのが容易に判るくらいに、父親は手術室の前で脚を震わせていた。

「容態なんか分からないよ、今手術中なんだから」

 すでに冷静さを取り戻している母親が、父親に対してそう答えた。

「それで、手術の状況は、命には別条はないのか?」

 父親は矢継ぎ早に質問を続けた。

「康雄、少し落ち着け。CTで検査して結果では、頭は打っていないので命に別条はないと先生は言ってくれている。ただ、脊髄を骨折しているから、今はその手術をしている最中だ」

 祖父が、手術室の前で棒立ちになっている父親をベンチまで連れて来ると、そこに座らせた。

「ああ、良かった。ここまで来る間中、心の中で『浩之、死ぬな』とずっと祈り続けていたから、命に別条がないことを聞いて安心をしたよ」

 まるで風船から空気が抜けて行くみたいに、父親の張り詰めていたものが解れて行くのが、哲雄の目にもはっきりと分かった。

 父親が到着したそのすぐ後に、邦夫が母親に付き添われるように手術室の前に姿を現した。気の優しい邦夫のことだ、家に帰った後もずっと泣き通しだったのだろう、目を赤く腫らしていた。

「ごめんなさい。なんと謝ったらいいのか。うちの馬鹿が、落ち着きがないばかりに、浩ちゃんがこんなことになったしまって、本当に申し訳ありません」

 邦夫の母親は腰を百八十度に折らんばかりに、深々と頭を下げたまま、長い間その頭を上げなかった。その様子を横で見ていた邦夫もまた、それを真似て頭を下げた。

「八重さん、誰のせいでもないんだから、そんな頭を下げられたら私たちが困りますから、とにかく顔を上げてください」

 そう言うと、母親は立ち上がって邦夫の母親の傍に寄り、背中を優しく叩いた。

「ごめんね、琴美さん。浩ちゃんにもしものことがあったら、私、どうしようとそればかり考えていて」

 邦夫の母親の八重は、大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら謝り続けた。横で邦夫もつられるように泣いていた。

「八重さん安心をして、幸い頭は打っていなくて命には別条がないの。ただ、背骨を骨折していてに、今はその手術中だから」

 ハンカチで目頭を押さえたまま、八重は何度も肯いた。

「よかった。うちの邦夫がお調子もんで、浩ちゃんに痛い思いをさせてしまったよね」

「それを言うなら、うちの哲雄も同罪よ。二人でふざけ合っていたんだから、邦夫君を責めたら可哀そうよ。だから、もう邦夫君を叱ったりしないでよ、いい、八重さん」

「ありがとう。琴美さんにそう言ってもらえると、少しは気持ちが軽くなるわ」

 やっと、涙が止まった八重が、ハンカチを目から離して言った。

「おばちゃん、これ」

 邦夫が母親に小さな紙袋を手渡した。

「まあ、お不動さんのお守り」

 邦夫が手渡したのは、隣町にある不動尊のお守りだった。

「お不動さんは交通安全の守り神で、事故を防いでくれるお守りだから、今さら遅いかとも思ったんだけど。浩ちゃんの事故のことを邦夫から聞いて、居ても立ってもいられなくて、お不動さんでもらって来たの。今は、浩ちゃんの怪我が早く治ることを見守ってもらえるよね」

「ありがとう。今は、浩之も頑張って手術を受けているから、きっとこのお不動さんが守ってくれると思う。本当に、ありがとう。邦夫君もありがとうね」

 こうした様子を見ながら、哲雄は居たたまれない気持ちになっていた。邦夫は目を赤く腫らすほど泣き続け、隣町の不動尊にお守りをもらいに行ってくれたのに、浩之の事故の原因になったもう一人の当事者である自分は、浩之のために何一つとして役に立つことをしていない。

 それに、浩之は自分を庇ってバンプカーにぶつかったのだ。これは仮定の話しだが、バンプカーに轢かれそうになったのが、自分以外の誰かだったら、浩之は果たして自分の身を挺してまでその誰かを助けただろうか。いや、それはないだろう。やはり、兄の自分が事故に遭いそうになったから、浩之は自らの危険を顧みずに二人を助けたのだ。

 そう考えるなら、事故の原因は自分一人だ。邦夫は当事者の一人に巻き込まれただけの話だ。全ての原因は自分にある。哲雄は強く目を閉じで、強く歯を食いしばった。

 両親、祖父母、そして、邦夫と八重、哲雄が見守る中、浩之の手術が終わったのは、夜の九時を過ぎていた。

 酸素マスクを装着されて、ストレッチャーに乗って出て来た浩之に、全員が名前を呼びかけ、「良く頑張ったね」と母親が涙声で呼びかけたが、浩之は一切反応を示さなかった。

「痛みが出ないように、麻酔を完全に覚まさないまま出て来ましたので、呼びかけに答えなくてもご心配なさらないでください」

 執刀した医師はそう言って、そこに居る全員を安心させた。

「部屋で詳しいことはご説明しますが、手術は無事に成功をしました。浩之君、しっかり頑張りましたよ。麻酔が冷めたら褒めてあげてください」

 その言葉に、全員が肯いたと同時に安堵の息を吐き、声を上げて泣いた。

「ありがとうございました。先生方のお蔭です」

 両手で顔を覆いながら、父親が何度も頭を下げた。

「琴美さん、よったね。手術が成功をして、本当に良かった」

 八重は母親の両肩を抱くと、涙を流しながらそう言った。

 邦夫も全身を震わせながら、ただ泣いていた。

 集中治療室に入った浩之のことを、完全看護という病院の決まりで、誰も付き添うことが出来なかった。仕方なく自宅に引き上げる全員が、夕食を食べていないことに気づき、帰路の途中にあるファミリーレストランに寄った。

「とにかく、手術が成功して、これでひと安心だよ」

 父親の康雄が、ため息ではなく、安堵の息を吐いた。

「病院に担ぎ込まれた時は意識がないと聞かされていたから、どうなるのか不安で、不安で、先生から、CT検査で確認した限り幸いにも頭を打っていないから、命に別条はないですと聞かされた時には、安心した途端にひょろひょろっと腰が砕けもの」

 母親が、今は笑いながらこうして話せることが嬉しくて仕方がないと言わんばかりに、手振りを加えながら面白く話した。

「琴美さんの気持ちは良く分るわ。母親ってそうしたものよね。私も邦夫から事故のことを聞かされた時、『何をやっているの!』と大声で怒鳴って、げんこつで邦夫の頭を思い切り叩いたもの」

 隣の席に座っている邦夫の頭を手のひらで摩りながら、八重は言った。

「ほら、あの時に殴られた跡が、今でもたんこぶになっているよ。本当、母ちゃんはすげえ馬鹿力なんだから」

 邦夫は頭の上に乗せられた八重の手を取ると、こぶになった辺りに導いた。

「あら、本当だ。ずい分、大きなたんこぶだね」

 八重は、まるで、自分とは全く関係ないことのように、驚いていた。

「やったのは母ちゃんだからな。ちゃんと謝ってよ」

 邦夫がこの時とばかりに、八重に詰め寄っている。

「ごめん、ごめん。痛いの、痛いの、飛んで行け」

「幼稚園児じゃないんだから、もうそんな子供騙しのおまじないなんかに引っ掛からないよ」

 力松親子のやり取りに、そこにいる七人が大きな笑い声を上げた。

 これで、万事上手く行くと、ここに居る誰もがそう思っていた。いや、そう信じ込もうとしていた。浩之が集中治療室を出て、最初の検査を受ける三日後までは。

 時間は限られたが、ほんの短い時間、家族だけは集中治療室に入ることを特別に許された。脊髄を骨折しているので、まるでミイラのように、浩之は上半身全体をギブスで固定されていた。

「身体の自由が全くきかないから、ロボットになったような感じだよ」

 手術の二日後、食事はまだ流動食だったが、寝たままの姿勢で、母親がスプーンで口に運ぶ米粒の少ないお粥や、裏ごしにしたかぼちゃを、浩之は美味しそうに全て平らげた。

「これだけ食欲があれば、すぐに元気になるね」

 食器を下げに来た看護師にも、そう言って太鼓判を押されていた。

 手術の三日後には、集中治療室から、二人部屋だったが一般病棟に移ることが出来た。

 この日、手術後初めて、詳しい検査を受けた。この検査に付き添っていた母親に、担当の医師は、「大事な話があるので、仕事が終わった後、ご主人に直接病院に来ていただくように連絡を取ってください」と言った。

「私一人では駄目でしょうか。今、お聞きしたいのですが」

 母親はそう食い下がったが、医師は首を縦には振らなかった。

 母親の連絡を受けて、父親は仕事を早退すると午後の早い時間に病院に駆け付けた。電話口での母親からただならない様子を感じ取ったからだ。

「あなた、浩之のことで大変なことが起こっているらしい」

 携帯に出るなり、母親が震える声で脈絡もなくそう言ったのだ。今日が手術後初めて検査が行われる日だということは、父親も知っていた。

「どうしたんだ。先生は検査の結果をどう言っているんだ」

「解からない」

「解からないじゃないだろう。たった今、浩之に大変なことが起こっていると言ったばかりじゃないか。琴美、まずは落ち着け。……それで、先生はそう言っているんだ?」

 父親は努めて穏やかな声を出して、母親のことを落ち着かせるように言った。

「今日、仕事が終わったら、あなたに会社から直接病院に来るように連絡して欲しいと言われたの」

「それだけか?」

「大事な話があるからって」

「じゃあ、まだ検査の結果は聞いていないんだな」

「私が一人で聞きたいと言ったら、大事な話しなのでご両親揃って聞いて欲しいと言われた」

 こう父親に説明をしているうちに、母親の中では不安が得体のしれない化け物のように膨らんで来ていた。この不安という名のお化けが母親から冷静さを奪って行った。

「浩之がどうにかなっちゃうんじゃないかと考えると、怖くて、不安で堪らないのよ」

 言葉に出してしまうと、本当にそうなってしまいそうで、その恐怖から母親は身体が震え出していた。同時に止めどなく涙が溢れ出て、もう自分の意思ではこの身体の震えも、涙も止めることが出来なかった。

「琴美、どうしたんだ。大丈夫か?」

 電話の向こうの気配に気づいた父親が、しきりに母親の名前を呼ぶが、携帯を持つ手が震えて、携帯を自分の耳に持って行くことが出来なかった。

「助けて! あなた、助けて」

 母親は大きな声で父親に助けを求めた。その後、通りがかった看護師が、母親の異常な様子に気づき、身体を抱きかかえてナースステーションに連れて行ってくれた。

 看護師は、母親をベッドに寝かせると、医師を呼びに行った。

 駆けつけた医師は、すぐに診察をし、精神安定剤を処方した。

 電話を受けた一時間後に父親が駆けつけた時には、だから母親は。点滴をされた精神安定剤のために熟睡をしていたのだ。

 母親が目を覚ますのを待って、両親は別の部屋に案内をされた。

「私どもの配慮が不足しており、奥様をこのように追い詰めてしまう結果になり、大変申し訳ありませんでした」

 まず、整形外科部長が両親に謝った。

「いえ、子供のことになると、こいつはいきなり極度の心配性になってしまうものですから」

 父親はそう言って整形外科部長の謝罪に対して言葉を返した。

「ご両親がお揃いになりましたので、本日行いました検査の結果につき、詳細にご説明をいたします」

 整形外科部長に変わって担当医の春日が、二人の正面の椅子に座った。

「宜しくお願いいたします」

 そう答えたのは父親だけで、母親は緊張のあまりゴクリと唾を飲み込んだだけだった。

「まず、頭部のCT検査の結果ですが、やはり搬送されてすぐに撮ったCT同様に異常は確認されませんでした。脳は打撲をしていませんので、脳波の異常も認められませんでした。こうした大きな事故に遭遇した中では、大変幸運だったと言えると思います、ですから、記憶や学習能力、言語などに大きく影響を与える、いわゆる脳障害の心配は全くありませんので、ご安心をください」

 机の上のバックライトに透過されたCTの断面写真を見せながら、春日医師が説明をしてくれた。

「琴美、良かったな」

 そう言って父親が握った手を、母親はその何倍もの力で強く握り返した。

「次に、脊髄、背骨のことですが、骨折をしていた箇所は、先日の手術で全て結合をされていますので、完全に骨がくっ付くのは速くて二か月はかかると思います。でも、浩之君は十歳の成長期ですので、骨の成長に合わせて骨折の方は意外に治りが早いかもしれませね。これからは、時間の経過が薬ですから、焦らずに治して行きましょう」

 色々な角度から撮った脊髄のレントゲン写真を見せながら、春日医師は丁寧に説明をしてくれた。脳障害の心配もない、骨折した背骨も時間が経てば完全に治る。今回の交通事故は、確かに浩之にとっては不運だったし、痛い思いもし、これからも治療やリハビリなどで辛い思いもすると思うが、なんと言っても、浩之はまだ十歳なのだ。この事故の怪我を乗り越えて行くには十分過ぎる時間がある。父親は、これまでの春日医師の説明を、好意的に受け止めていた。

「次に運動能力の検査結果になりますが、現時点で、首から下の運動機能が全て麻痺をしています」

 これまでの説明と同じトーンの声で、春日医師は、浩之の運動能力について説明をした。「大変残念なことですが」とも「悔しいことなのですが」とも言わず、いきなり直球を投げて来た。しかもかなりの剛速球だった。

「首から下の運動能力が全て麻痺しているということは、これから、うちの息子の浩之はずっとこのまま寝た切りの人生を送ることになるということですか?」

 父親は、真っ赤に充血をした目を見開いて、春日医師に質問をした。「そんな馬鹿なことは受け入れられない」と、その充血をした目が訴えていた。

「最悪、そうなることは覚悟していただいた方が良いと思います」

 この、両親にとっては死刑の宣告にも匹敵する言葉を、春日医師は冷静かつ、トーンの全く変わらない声で言った。

バターン。春日の答えを聞いた瞬間、母親が意識を失って、そのまま椅子から床に転げ落ちた。

「琴美!」

「奥さん」

 同席をしていた看護師と春日医師が、すぐに診察用のベッドに母親を運んだ。春日医師は素早く母親の下の瞼を開いて何かを確認していた。

「脳貧血を起こしているようです。少し、このまま横になって休んでいたら、症状は回復すると思いますが」

 春日医師は父親の目を真っ直ぐに見ながら言った。この表情からは、「重症ではないですよ」と教えてくれているような気がした。

「先ほども言いましたように、妻は子供たちのことになると、自分のことの何倍も心配をするものですから、寝たきりという言葉を聞いて、今まで不安に感じていたことが、一気に現実味を帯びて、感情がマイナスの方向に爆発したのだと思います。こんなことになってしまい、こちらの方こそご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」

「いえ、ここは病院ですので、こうしたことの対応に関しては万全ですから、お気になさらないでください。それよりも、このまま検査結果の説明を続けても大丈夫ですか。それとも、奥様が大丈夫になるまでお待ちしましょうか?」

 春日医師の問いかけに対して、父親は「私一人でお聞きしますので、説明を続けてください」とはっきり答えた。

「奥様には?」

「私があとできちんと説明をします」

「分りました。それでは、説明を続けます」

 春日医師の説明はこうだった。

 ダンプカーと衝突をした時、浩之が背負っていたランドセルが、衝突の衝撃で上にずれて、結果的に頭を守ることになり、脳機能障害を防ぐことが出来た。けれど、ランドセルが上にすれたために、剥き出しになった背中にダンプカーの衝撃を直接受けることになり、脊髄を骨折してしまったのだ。

 ただ、ランドセルが上にずれていなかったら、ダンプカーの衝撃が直接頭にかかっていたと思われるので、おそらく即死だったのではないかと、医師は説明をした。

 脊髄が損傷したことで、脊椎の中に集中をしている神経も損傷をしてしまい、今現在、浩之は、首の下の全部の運動機能を失っている。

「この身体の麻痺は、もう絶対に治ることはないのでしょうか?」

 父親はすがるように、春日医師の目を見た。

「現在、事故の直後ですので、浩之君の全身に筋肉の硬直が起きています。その影響で身体の自由がきかなくなっている可能性は確かにあります。こうした事後硬直はリハビリによって元に戻すことは可能です。もちろん、本人はかなり痛い思いをしますので、辛い治療になりますが。でも、この事後硬直による一時的なものなのか、それとも運動神経損傷による麻痺なのかの判断は、リハビリを続けてみた結果でしか、申し訳ないのですが、判断をすることが出来ないのです。元のような身体に完全に戻る可能性もありますし、全く寝たきりなってしまう可能性もゼロではありません」

「でも、リハビリを続ければ、浩之の身体は元通りになる可能性があるということですよね」

 父親は、一塁の光を見たような気がした。真っ暗闇な、とてつもなく長いトンネルの向こうに、明るい光が漏れる出口を見つけたような思いだった。

「完全に元通りになることをリハビリの目標にしていただきたいのですが、絶対条件にはしないで欲しいのです。これだけ酷く脊髄を損傷しているのです。もし、全く問題なく元通りの身体に戻ることがあれば、それは奇跡だと考えてください。それくらいに困難なことです」

 やはり医師は現実を見るしかないのだ。この現実の中からいかに奇跡を生み出していくかを医師としての喜びとして、彼かは日々の多忙さを乗り越える源(みなもと)にしているのだ。父親は、春日医師の話を聞いてそう感じた。 

「春日先生、それなら浩之が奇跡を起こしてみせますよ。どんなに辛いリハビリにも浩之は絶対に弱音は吐きません」

 力強い声で父親は言った。

「お父さんのお気持ちは分ります。きっと浩之君は我慢強いお子さんなんでしょうね。でも、お父さんは、浩之君が正直に弱音を吐ける存在でいてやって欲しいと私は思います。リハビリ治療はかなり辛い治療です。人の身体は大きなダメージを受けると、自らの身を守ろうと筋肉を硬くしてしまいます。これは、人間としての本能ですのでどうすることも出来ない身体の反応です。一度硬くなって動かなくなった筋肉を再び元通りに動くようにして行くのですから、並大抵の痛みではありません。筋肉痛の数十倍もの痛みが伴うこともあるくらいです。大の大人でさえもあまりの痛みに悲鳴をあげて、治療を拒否してしまう患者さんも現実にいます。

 ですから、お父さんだけは、辛い治療を受けた時は、浩之君が「痛い」「辛い」「もう嫌だ」と正直に弱音が吐ける存在でいてやってください。浩之君はまだ十歳の子供です。リハビリ治療の効果を最大限に引き出すのは、もちろん本人の意思と治りたいという情熱がもっとも重要ですが、頑張らなくても良いんだと言ってくれる、そうした息が抜ける存在が近くにいることは、それと同じくらいに重要なのです」

 春日医師は、父親の目を強い力で見ながら、真剣にそう説明をしてくれた。

「春日先生、良く解りました。どんな時にも私は浩之が弱音を吐ける存在でいるようにします。それで、少しでも浩之の苦しいリハビリ治療が上手く進むなら、心の中では思っていても、口では決して『頑張れ』とは言いません」

 父親の決意に、春日医師は大きく肯いた。

「希望を持ちましょう。これが大きな力になりますから」

「そうですね。希望を持って家族全員で浩之を支えて行きますので、治療の方、よろしくお願いいたします」

 父親は立ち上がると、深々と頭を下げた。

 脳貧血の症状が治まった母親を伴って、自宅に両親が帰宅したのは午後六時を過ぎていた。夕飯の仕度は祖母がしてくれていたので、両親が帰宅するとすぐに家族五人の食事が始まった。

 いつもになく静かな食卓だった。医師から説明をされた浩之の検査結果を、一刻も早く聞きたい祖父母と、この話題をなかなか出してこようとしない両親との、無言の攻防がこうした重い沈黙を生み出していた。

「康雄、浩之の検査の結果に、大きな問題はなかったんだろ?」

 堪り兼ねた、祖父が父親に話題を振った。

「その話は夕飯が終わったあとにするよ」

 ひと言だけそう言うと、父親は黙々と食事を続けた。

 こうした両親のいつもとは違う雰囲気を、祖父母も哲雄も感じ取っていた。だから、ある程度の覚悟をもって父親の話を聞いくことが出来るはずだった。

「そんな、馬鹿な!」

 浩之の検査結果を父親から聞かされたあとの、祖父の第一声だった。ある程度の覚悟をもって聞いた父親の話が、覚悟の範囲を大きく超えていたのだ。

「なんで、あの子がこんな惨い仕打ちを受けなきゃいないんだい」

 祖母はその場で泣き崩れた。

「俺のせいだ」

 哲雄は自分を責めた。本当は自分がこうなっていても仕方なったのに、浩之が自分を庇ったから、こんなことになってしまったのだ。哲雄は胸をえぐられるような思いだった。自分は浩之になんてことをしてしまったのか。後悔の念は哲雄の胸の奥から無限に湧き上がってきた。

「みんな、何か誤解をしてないか。まさか、このまま浩之が寝たきりになってしまうとでも思っているんじゃないだろうな」

 父親はわざと明るい声を出して言った。

「えっ、浩ちゃんの身体は元通りになるのかい?」

 父親の言葉に、最初に食いついたのは祖母だった。浩之は大のおばあちゃん子だった。祖母だけでなく、祖父も哲雄も父親が発する次の言葉を待っていた。父親の言葉に、救い、いや解決策を見つけ出せると思っていたのかもしれない。

「浩之は、骨折が治ったらリハビリ治療をして、動かなくなった筋肉をもう一度元通り動くようにして行くんだ。その治療は、大人でも逃げ出したくなるような痛くて辛いものだけど、浩之ならきっとこの辛いリハビリをやり遂げて、また、元気な元通りの浩之になってこの家に帰って来るんだよ。それなのに、周りの家族が浩之の明るい未来を灯す光にならないでどうするんだ。これから、頑張るのは誰でもない浩之なんだぞ。痛い思いや、辛い思いをするのも全部浩之一人なんだ。その痛みや辛さを、俺たちは代わってやることは出来ないけど、寄り添ってやることは出来る」

 父親は唾を飛ばしながら、一人一人の顔をくり返し見ながら言った。家族の誰一人とし目をそらすことなく、父親の言葉に何度も肯き返していた。

「浩之が元通りの身体になるなら、わしはこの命を神さんに捧げても構わない」

 祖父は涙を流しながら、真剣な目をしてそう言った。

「父さん、さっきも言ったように、浩之の身代わりは誰も出来ないんだ。浩之自身が頑張るしかないんだよ」

「じゃあ、私らはいったいどうすれば良いんだい?」

 祖母がそう問う。哲雄も同じ気持ちだった。じゃあ、自分は浩之のために何が出来るのか、何をすべきなのか?

「どんなに辛い治療の日であったとしても、明日もまた、リハビリを頑張ろうと浩之が思えるような、明日への希望を、家族の愛情や優しさから感じ取ってくれるような、そんな雰囲気を作り出すことが大切だと、俺は思っている。なんだが、難しい言葉で言っているけど、要するに今までと変わらず家族が仲良くすることが大事だって言っているんだけどな。そんな中でも、ただ、これだけは必ず守って欲しいことがある」

 ここで、父親は一度話を中断した。他の家族は、父親の次の言葉を、固唾を飲んで待った。

「いいか、浩之のことを腫れ物でも触るように、特別扱いをしてはいけない。そして、浩之を見る時に、決して『可哀想だ』という目をしてはいけない。こうした表情を浩之は必ず見抜いてしまうぞ。元通りの身体になって帰って来るその姿を思い浮かべながら、浩之には常に平常心で接して欲しい。

 そして、これが最後で、最も重要なことだが、浩之に対して、絶対に『頑張れ』とは、口が裂けても言ってはいけない。浩之は、今、こうして生きているだけで、もう懸命に頑張り続けている。さらにこれから辛いリハビリに立ち向かって行くのだ。精一杯頑張っている浩之に、もうこれ以上『頑張れ』なんて、絶対に言ってはいけない」

 いつも間に、父親の目からは涙が止め処なく溢れ出していた。

「分かった。わしらも浩之の気持ちに寄り添って、浩之の重荷にならないように応援をして行くよ。絶対に、浩之が元の元気な姿でこの家に帰って来ることを、信じて疑わない」

 祖父もまた、父親と同じように涙を流しながら、力強い声でそう言った。

 祖母も母親も、そして哲雄も、涙にむせいでしまい、ただ嗚咽を繰り返すだけで、言葉を発することも出来なかった。

 翌日、検査の結果が、担当医師の春日から浩之本人に報告された。今日、春日医師から検査結果を直接浩之に告げることは、前日父親から聞かされていた。この残酷な報告を聞いた時、浩之はどんな気持ちになるだろうか、それを考えるだけで、哲雄は昨夜一睡も出来なかったし、今日の授業中もこのことばかりが気になって、先生の声さえ耳に入っては来なかった。

 学校を終えて一度帰宅すると、母親と連れ立って浩之の見舞いに出向いた。自分の置かれている状況を知った上で、浩之は哲雄に対してどんな接し方をしてくるのか、自分は浩之に対してどんな顔をして会えば良いのか。心の中で葛藤をしながら、いつもよりも短く感じる病院までの距離を、バスの窓から流れて行く景色を焦点の合わない目で眺めていた。

 病室に入ると、顔をこちらの方に向けて、浩之は笑顔で「いらっしゃい」と言った。そこには元気だった事故前のままの浩之の顔があった。

「ひょっとしたら、まだ先生から結果を知らされてないのではないか」とさえ思ってしまったほど、屈託のない表情を浮かべていたのだ。

 そして、哲雄の顔を見ると、「哲君、おかえりなさい」と言葉をかけてきた。

「ただいま」と、哲雄は慌てて答えた。やっぱり、まだ、先生から検査結果を聞かされていないんだなと、確信を持った。

 家から持ってきた着替えやタオルなどを仕舞い、ひと段落付いてところで、母親が二人に聞いた。

「何か冷たい飲み物でも買ってこようか?」

「僕、りんごジュースがいいな」

 浩之は即答をした。

「哲雄は、何がいいの?」

「僕が買いに行くよ」

 哲雄はそう答えた。正直このタイミングで浩之と二人切りになりたくはなかった。哲雄の気持ちの中には、あの交通事故の、自分は加害者であり、浩之は被害者という気持ちが色濃く存在をしていた。

「いいよ、お母さんが行ってくるから、哲雄は浩之の傍にいてやって。浩之も聞きたがっているだろうから学校の話でもしてあげなさい」

 哲雄の気持ちも知らないで、母親は病室から出て行った。

 病室のドアが閉まったあとも、哲雄は何を話して良いか分からず、ずっと黙ったままでいた。哲夫にとっては嫌な沈黙が病室を支配していた。この沈黙を破ったのは浩之の方だった。

「哲君、もうちょっと近くまで来て」

「うん」

 浩之にそう促されて、哲雄は浩之のベッドの近くに行った。

「哲君の責任じゃないからね」

 浩之はそう言った。小さな声ではなく、はっきりとした声でそう言ったのだ。

「えっ?」

 でも、哲雄は聞き違いだと思った。自分の都合の良い言葉を、自分の耳が勝手に選び出しているのだと思ったのだ。だから、聞き直した。

「だから、僕が事故に遭ったのは、僕自身の責任で、哲君の責任なんかじゃないからね」

 錯覚でも、勘違いでもない。浩之ははっきりと、今回の事故のことを「自分の責任」であって、「哲君の責任ではない」と言ったのだ。最悪、このまま寝たきりで人生を送ることもあり得るというのに、今回のこの大きな事故の責任を、弟の浩之が全て自分で背負おうとしている。

「そんなことない。この事故は俺を庇ってくれたせいだ。俺と邦夫がふざけ合ったりしていなかったら、こんなことにはなっていなかったんだ。俺が、あのまま事故に遭っていればよかったんだ。そうしたら、浩ちゃんをこんな辛い目に遭わせることはなかったのに。全部、俺の責任だ。浩ちゃんの責任なんてこれっぽっちもないよ」

 その通りなのだ。やっと言えた。あの事故以来ずっとのど元でつかえていた、本当の言葉がやっとのどを通って音となり言葉になって、哲雄の思いを現実のものに出来たと感じた。

「浩ちゃん、ごめん。本当にごめん。どんなに謝っても許されることではないけど。今は、謝るしか方法を知らないんだ。こんなことになってしまって、本当にごめん」

「哲君、勘違いをしないでよ。あの交通事故は、誰の責任でもない僕の不注意で起きたことだから。僕は、誰を庇ったわけでも、誰を守ったわけでもないから。だから、そんなふうに哲君が勝手に勘違いをして、自分を責めるのは止めてくれないかな」

「浩ちゃん……」

 自分の気持ちを軽くするために言ってくれていることは分かっていた。それにすがってはいけないことも十分に分かっていた。けれど、これ以上、何を言えば良いんだろう。

「それに、僕はきっと元通りの身体になって、この病院から退院をしてみせるよ。どんなに辛い治療だって、自分のためだもの、きっとやり抜いてみせる。哲君、見ていて。僕の頑張りをずっと見ていてよ」

 浩之は首から上しか動かせない中で、精一杯に強がって見せた。

「そうだな。ずっと傍で見させてもらうよ。浩ちゃんがどんどん元気になって行く姿を、俺も楽しみに毎日病院に来るよ」

「うん、ありがとう。でも、キックベースボールの卒業試合はちゃんと活躍してよね、僕の分までさ。あっ、でも哲君が活躍したら、僕のいる五年生チームが負けてしまうことになるか」

 浩之は屈託のない声を上げて笑った。こんな境遇に置かれてもなお、浩之はこんなにも明るく振舞えるのだ。

「あの、卒業試合、今回は中止になったんだ」

 昨日、職員会議で決まったことを、哲雄は隠さずに話した。

「えっ、なんで。卒業試合に向けて、みんなあんなに一生懸命に練習をしていたのに。……それは、僕の事故のせい。そうだよね。だったら、僕の事故と卒業試合とは全く関係ないじゃないか。校長先生に哲君から伝えてよ。僕の事故は、キックベースボールの卒業試合とは全く関係ありませんと」

 浩之は心から訴えていた。自分の事故がこれ以上、多くのことに影響しないように、これ以上、この事故によって悲しむ人が増えないように、ただ、それだけを浩之は純粋に願っている。

 キックベースボールクラブ恒例の卒業試合が急遽中止になったのは、確かに今回の交通事故が直接のきっかけだったのは間違いない。それよりも、この事故をきっかけに、市の教育委員会や、PTAから学校側に突きつけられたのは、クラブ活動後の下校のルールが不徹底だということだった。

 特に日が短くなる秋から冬の期間は、通学路の県道は白線で仕切られた狭い歩道の横を、大型バンプカーなどが頻繁に行きかう危険地帯でもある。外灯も少なく、クラブのある日、五、六年生はこの暗い道を歩いて帰るっている。

 こうした、クラブのある日の下校対策が全く取られてなかったことを、市の教育委員会から指摘されて、学校側は、卒業試合だけなく、下校対策が万全を期すまで、五、六年生のクラブ活動自体を一時中止にしたのだった。

「こらからの生徒のことを考えたら、あの交通事故が良いきっかけを与えてくれたんだよ。担任の先生もそう言っていた。もっと早くに対策を考えておくべきだったんだと」

 哲雄が、ことの経緯を浩之に詳しく話した。

「浩ちゃんが六年生になった時には、下校の時のルールや対策もしっかり出来ているよ。だから、安心をして学校に戻って来なよ」

「うん、分かった。哲君、詳しく話をしてくれてありがとう」

 その後、まるでドアの外で二人の話をずっと聞いていたかのような絶妙なタイミングで、母親がりんごジュースの紙パックを二つ持って病室に帰って来た。おそらく、ドアの外で二人の話を聞いていたのだろう。

「お母さん、ずい分時間がかかったね」

 浩之が言うと、「知り合いの看護師さんに会って、つい立ち話をしてしまったから」と言い訳をした。浩之が入院をしてまだ四日しか経っていなくて、知り合いの看護師なんかいるはずなのにと思いながらも、浩之はそのことには触れなかった。

 浩之の脊椎の骨折は、驚くほどの回復力を見せて、二ヵ月後の検査では、ほぼ元通りに接着しており、骨としての機能も回復しているという結果が出た。

 いよいよ、二月の第二週目から、上半身のリハビリから開始することに決まった。

「浩ちゃん、いよいよ明日からリハビリ治療が始まるな。絶対に前みたいに身体を動かせるようになるから、それを目標にリハビリ……」

 つい口をつきそうになる「頑張れよ」の言葉を、すんでのところで哲雄は飲み込んだ。父親から、今現在も頑張っている浩之に、これ以上「頑張れ」という言葉は絶対に使うなと釘を刺されていたのだ。

「リハビリ、楽しんで来いよ」

 リハビリが始める前日に、学校が終わると家にも寄らず、そのまま病院に駆けつけた哲雄が浩之にかけた言葉だった。

「哲君は面白いことを言うね。リハビリを楽しんで来いよ、なんて。でも、その通りだね。先生は、まず上半身が動くようになることが重要だと言ってくれている。手の指が動くようになったら、スプーンや箸が持てるようになるから、そうしたら、ご飯も一人で食べることが出来るようになるし。それに字を書くことも出来るから、哲君やクラスのみんなにも手紙を書くことも出来るからね」

「やりたいことがいっぱいだな」

 希望に満ちた浩之の顔は、明るく輝いて見えた。自分の手で箸を持つこと、鉛筆を握れること、こんな当たり前のことが、今の浩之には希望になっているのだ。事故に遭うつい二ヶ月前まで、極、当たり前に出来たこと、何を意識することもなくやって来た動作が、まるで根本からコンセントを抜いてしまったように、突然停止をしてしまったあと、その当たり前の動作を取り戻すことが、今度は目標に変わってしまうのだ。希望という名の目標に。

「鼻の頭が痒い時も、自分の手で掻くことが出来るようになるし、これはありがたいよ」

「じゃあ、浩ちゃん、今は痒くなったらどうしているんだ?」

「口を色々な形に動かしたりして、なんとか痒みが取れないか試行錯誤を繰り返しているよ」

「じゃあ、まずは鼻の頭を掻けるようになることが、第一目標だな」

「現実的には、鼻の頭の痒みは切実だからね」

 二人は笑った。

「哲君も、あと二ヶ月で中学生だね。もう、入る部活は決めているの?」

 浩之が痛いところをついてきた。哲雄の中では、運動部に入ることだけは避けたいという気持ちがあった。でも、これを言うと、きっと浩之は、自分のことを気にするなと言うに決まっている。実際に、哲雄自身の中で、中学で運動部に入りたいという気持ちが、全く湧き上がって来てはいなかったのだ。もちろん、こうした気持ちになっているのは、自分の中でまだ、浩之の事故のことが割り切れていないことが大きかった。

「迷っているところだよ。邦夫と二人でお互いに同じ部活に入ろうと思っていて、二人で、ああでもない、こうでもないと、いろいろ話をしているよ。まあ、迷っているのも楽しい時間なんだけどね」

「そうなんだ。なんだか楽しそうだね。僕も、リハビリ頑張って、六年生の早い時期から学校に復活が出来るようにしないと。上半身が動くようになると、車椅子で学校に通うことが出来るようになるって、春日先生がそう言ってくれたんだ。そのあと、下半身はじっくりリハビリを続けて行けば良いんだよ」

 浩之は嬉しそうにそう教えてくれた。

「そうなんだ。だったら、案外早く学校に復帰出来るかもしれないな。でも、早く学校に帰りたいからって、やり過ぎたりしたら、今度は別の箇所が故障しちゃうから、先生の言うことを良く聞いて、こっそり陰でトレーニングなんかしたら絶対に駄目だからな。俺、ちゃんと浩ちゃんの監視役になるから」

「でも、哲君の目ならいくらでも誤魔化せそうだけどね」

「いやいや、浩ちゃんそれはちょっと甘い考えだよ。こう見えても俺の目は厳しいからね」

 二人は、お互いの顔を見ながら笑った。

 突然の交通事故のあと、浩之の首から下の神経が麻痺していると聞かされて時の絶望感を思うと、今、こうして明日から始まるリハビリ治療に、明るい未来につながる希望を見出している現実を、同じ時間軸の延長線としては、とうてい考えることが出来ない。

 そんな複雑な思いを噛みしめながら、哲雄は浩之の顔を見ていた。

 浩之のリハビリは壮絶なものになった。まずは、寝た切りの体勢で首を持ち上げるトレーニングから開始された。同時に、手の力を蘇らせるために、指先に軽い電気刺激を与えながら、十本の指を一本ずつマッサージしていくことも並行して行われた。

 硬くなっている筋肉は、喩えは適当ではないかも知れないが、冷凍された肉の塊のような状態だった。筋肉が硬くなっている分、細胞の隅々まで行き届いている神経が遮断されてしまい、脳からの伝達を司る神経の役割を妨げているのだ。

 筋肉が硬かったうちは、神経も脳からの伝達の働きをしないので、どんなに強く刺激を与えても痛みはまったく感じなかったが、リハビリを始めて二週間が経った時、治療の一環で右腕のトレーニングをしている時に、当然、浩之が「痛い!」と大声を上げた。

「痛いよ、先生」

 あまりにも痛かったのだろう。浩之は涙を流しながら、先生に痛みを訴えた。

「浩之君、痛みを感じたんだね。でかしたぞ!」

 リハビリを指導してくれている根上医師は、そう言って浩之のまだ硬直が残る上半身を抱きしめた。

 浩之の上半身に再び神経が通い始めた、待ちに待った瞬間だった。

 それからのリハビリは、痛みとの闘いだった。それまでまったく痛みを感じなかった箇所に、神経が復活した瞬間に痛みが蘇って来た。身体中の至るところを針が刺さっているような痛みだった。

「痛いよう!」

 神経が復活するたびに、その痛みに耐え切れなくて浩之は大声を出して泣いた。毎日のように、リハビリルームには、浩之の泣き声が響き渡った。

 神経が繋がり始めたとはいえ、浩之はまだ自分の力で上半身を起こすことも、ベッドの背もたれがないと、上半身を起こしたまま維持することは出来なかった。上半身を支える背筋や腹筋、それに肩から肩甲骨にかけての筋肉も硬直したままなので、上半身を支え切れるほどの筋力になっていなかったのだ。

 リハビリ治療が終わった後、病室に帰ると、なぜか、いつも父親が病室にいた。仕事が忙しいはずなのに、リハビリが始まって以来、父親は毎日、夕方病室に見舞いに来てくれていた。

 そして、看護師と一緒に浩之の入浴を手伝い、まだ、まったく上半身の機能が戻っていない浩之に夕食を食べさせてくれた。夕食のあと、しばらく二人きりで話をするのが、最近の慣わしになっていた。

「浩之、痛かったな。泣いて、また目を腫らしているじゃないか。辛かったら、明日の治療は休め。そんなに焦ることはないんだ。お父ちゃんが先生に言ってやるから、遠慮なく言えよ」

 父親は決して、頑張れとは言わなかった。それどころか、浩之の頑張りを妨げるようなことばかりを語りかけてきた。

「せっかく、やる気を出しているんだから、そんなやる気をそぐようなことばかり言わないでよ」

 逆に浩之の方から、父親に抗議をするほどだった。

「だって、浩之があまりにも痛い思いをしているようだから」

「そりゃあそうだよ。痛いということは神経が戻ってきていることだからね。本当は、こうして痛みを感じることは嬉しいことなんだよ。ただ、強烈に痛いけどね」

「ほらみろ、すごく痛いんだろ」

「だけど、これは嬉しい痛みなの。僕の身体が元に戻ってきているという証拠だからね。どんなに痛くても、あまりの痛みに泣き叫んでも、僕は心の中で嬉しいと喜んでいるんだよ」

「そうなのか、嬉しい痛みなのか」

「だから、明日も僕はリハビリ治療を休まないよ。明日は、もっと沢山の痛みを味わいたいからね」

「浩之はいつも間に、強い人になったな。強い子ではなくて、強い人になった」

「強い人?」

「ああ、これだけの治療を楽しんで受けることが出来る浩之は、もう立派な大人だ。人として立派に成り立っている」

 父親は、いつも必ず浩之のことを褒めてくれた。

 正直、辛い日も沢山あった。明日は、一日治療を休んで痛みを感じたくないと思う日も度々あった。でも、どんな時も、父親と話をし、最後に褒められると、明日も頑張るぞと勇気とやる気が湧き上がってきた。そして、どんなに辛い治療だって、誰のためでもなく自分のためなのだと自分を納得させることが出来た。それに、少しずつだが、指先の感覚が戻り始めているのを実感していた。

 そして、病室を出る三十分前になると、父親は必ず、浩之の肩から腕にかけて、一生懸命にマッサージをしてくれた。マッサージをする父親の額からぽたぽたと汗がこぼれ落ちている。そんなことも忘れて、必死にマッサージを続ける父親の姿を見るたび、浩之は、「僕の回復を願っているのは、僕一人ではなく、お父ちゃんであり、お母ちゃんであり、哲君におじいちゃんとおばあちゃん。僕の家族全員なのだ」と、強く心に刻むことが出来た。 

 リハビリ治療を始めてから一ヶ月半が経った。季節は三月下旬を迎えていた。兄の哲雄の小学校の卒業式が行われた日、卒業式に出席していた両親と共に、哲雄は学校からそのまま病院に浩之を見舞ってくれた。

 制服の胸には卒業生に贈られる造花が飾られていて、手には丸めた卒業証書が握られていた。病院に到着すると三人は、いつも治療を受けているリハビリ室に直行をし、「浩之君は病室に帰っているよ」と係りの人に教えられて、病室の方に三人が急いで来たことが、ドアの外の騒がしさで、浩之にも分かった。

「浩ちゃん……!」

 ドアを開けるなり、三人はその場に棒立ちになった。

「哲君、卒業おめでとう」

「浩ちゃんが、座っている」

 驚きというよりも、放心したような声でそういうと、哲雄は両親を振り返った。

「ああ、本当だ」

 父親もまた、哲雄と同じように放心した声でそう言った。

 三人の前には、自分のベッドに、背もたれにも頼らず、誰の助けも借りずに、上半身を起こしたまま座っている浩之の姿があったのだ。

「浩之君、今日の午前中に、背もたれがなくても座ることが出来るようになったんですよ」

 リハビリ担当の根本医師が、まるで自分のことのように嬉しそうに説明をしてくれた。

「浩ちゃん、よく頑張ったね」

 母親は、すでに大粒の涙を流していた。

「お兄ちゃんの卒業式に、どうしても間に合わせたいと言って、浩之君、本当に頑張ったんですよ」

 母親の涙を見て、根本先生まで涙声になっていた。

「浩ちゃん、ありがとう。俺にとっては一番嬉しいお祝いだよ。よかった、よかった。本当によかった」

 卒業式の時でさえ、必死で涙を我慢したのに、浩之の姿を見て、気持ちを聞いてしまった今、哲雄はもう涙を我慢することが出来なかった。いや、思いっきり泣いても良いと思った。 

 哲雄の涙には、もう一つの意味があった。

 ちょうど二ヶ月前、浩之と哲雄の間でこんな会話があった。ちょうど、浩之のリハビリの治療が始まる前日だった。

「哲君も、あと二ヶ月で中学生だね。もう、入る部活は決めているの?」

 浩之が痛いところをついてくる。哲雄の中では、運動部に入ることだけは避けたいという気持ちがあった。でも、これを言うと、きっと浩之は、自分のことを気にするなと言うに決まっている。実際に、哲雄自身の中で、中学で運動部に入りたいという気持ちが、全く湧き上がって来てはいなかったのだ。もちろん、こうした気持ちになっているのは、自分の中でまだ、浩之の事故のことが割り切れていないことが大きかった。

「迷っているところだよ。邦夫と二人でお互いに同じ部活に入ろうと思っていて、二人で、ああでもない、こうでもないと、いろいろ話をしているよ。まあ、迷っているのも楽しい時間なんだけどな」

「そうなんだ。なんだか楽しそうだね。僕も、リハビリ頑張って、六年生の早い時期から学校に復活が出来るようにしないと。上半身が動くようになると、車椅子で学校に通うことが出来るようになるって、春日先生がそう言ってくれたんだ。そのあと、下半身はじっくりリハビリを続けて行けば良いんだよ」

 浩之は嬉しそうにそう教えてくれた。

 浩之は頭の良い、そして勘の鋭い人間でもある。あの時の自分の答え方から、事故の影響のことをきっと敏感に感じ取ったのだと思う。だから、自分の心の負担を軽くするために、卒業式に間に合うように、こうしてリハビリ治療を頑張ってくれたのだ。

 弟にこんなに気を遣わせて、兄としては失格だなと自分を責めながらも、こんなにも小さな胸を痛め、自分のことを気遣ってくれる浩之のことが哲雄は愛おしくて仕方なかった。

「それとね、もう一つ驚かせることがあるんだよ」

 浩之は勿体ぶるように言った。

「まだ、お父ちゃんたちを驚かせることがあるのか?」

 父親は真剣な顔をして、目を見開いている。

「いい、よく見ていてよ。根本先生、お願いします」

 浩之がそう言うと、根本医師が白衣のポケットから銀色のスプーンを取り出した。そして、それを浩之の右手に握らせた。

 浩之は、スプーンをしっかり握ると、今度は右腕をゆっくりと動かして、スプーンを自分の口元まで運んだ。

「えっ、これも現実なのか?」

「浩ちゃん……」

 両親が顔を見合わせている。

「ちゃんと見て、お父ちゃん、これが僕の現実の姿だから」

 口元はにこにこしているが、浩之の目からは大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちていた。

 その浩之の姿を、哲雄は直視することが出来なかった。これほどまでに、リハビリ治療の効果が大きいことの驚きもあったが、この効果を引き出すために、浩之がどれだけ努力をしてきたかを思うと、自分の弟だとにわかには信じられないほどの、忍耐力と精神力の強さを持ち、元通りの身体に戻りたいと願う浩之の気持ちの強さと、その思いを確実に現実に近づけて行く神がかりのような力に、ただただ、哲雄は圧倒されていた。

「この調子でリハビリ治療の効果が出てくれば、車椅子での学校復帰もそう遠くはないと考えています。まあ、それを目標に、浩之君も辛い治療を頑張っていますから」

 根本医師もそう言ってくれた。

「これで、食事の時に、お母ちゃんやお父ちゃんに頼らなくても、もうすぐ自分で食べることが出来るようになるからね」

「それはそれで、お父ちゃん、ちょっと寂しい気もするけどな」

 今泣いたカラスがもう笑っている。 

「自分で食べることが出来るようになったら、次に鉛筆を握って字が書けるようにならないと。だって、そうしないと学校には行っても授業を受けられないでしょう。こらからも、まだまだ僕は忙しいんだよ」

 浩之は嬉しそうにそう言った。

「そうだな。お父ちゃんが寂しいなんて言っていたら恥ずかしいな」

 この病室には、明るい未来に向けた、家族それぞれの希望と期待で溢れていた。そこにいる誰もが、やがて来る幸せな未来を信じて疑わなかった。

 浩之の頑張りは凄まじく、自らが目標にしていた、六年生の早い時点で学校に復帰するという目標は、一学期の六月の初めには、車椅子で学校に通えるようにまでなった。

 学校復帰の決定を知らされた時、哲雄は素直に、医学の進歩の凄さと、浩之の有言実行力の強さに驚愕をした。

 浩之は、学校に復帰しても、平日の三日間は、放課後、下半身の機能を回復するために病院でリハビリの治療を受け続けた。上半身と同じように、根本医師を始めとする医師たちの指導と、浩之の頑張りをもってすれば、下半身の機能が回復するのも時間の問題だと、浩之本人だけでなく、家族全員がそう信じて疑わなかった。

 夏休みに入り、浩之は午前中からリハビリ治療に通い始めた。下半身の治療を始めてから、早い段階で浩之の排尿の機能が回復した。それまで尿道から管を突っ込んで、常に出てくる尿を袋に貯めて、定期的に捨てるという対応を余儀なくされていたのだが、六月に入り下半身のリハビリ治療を始めてから三週間で、浩之は尿意を感じる感覚を取り戻したのだった。

「下腹部の感覚が戻ってきています。膀胱が正常に動き始めれば、車椅子用トイレには誰の手を借りなくても、浩之君一人で行けるようになりますよ」

 根本医師の話を病院で聞いて来た父親は、夕飯の時に、その話をみんなにした。

「よかったな、浩ちゃん」

 哲雄は素直に心から嬉しいと思った。少しずつだが、確実に快方に向かっている浩之の症状のことが、今の川辺家を明るく照らす太陽の役目をしていた。そうした雰囲気を、浩之も感じ取っていたのだろう。もう少し頑張れば、排尿の機能を回復出来ると、より一層放課後のリハビリ治療に積極的に取り組んだ。

 その甲斐あって、七月の初め、学校が夏休みに入る前には、浩之は自分でトイレに行き、排尿が出来るまでに回復を果たした。

明日は一学期の終業式だという日の夕飯の時、祖父が冗談半分に浩之に言った。

「浩之、お前、半年近く病院に入院をしていて、みんなより勉強が遅れているんだから、今年は夏休みを返上して、遅れている分を取り戻したらどうだ?」

「おじいちゃん、なに勘違いしているの。骨折が治ってからは、病院内にある学習室で小児科の先生たちに勉強を見てもらっていたから、クラスのみんなよりも、逆に僕の方が進んでいるくらいだよ」

 浩之は自慢げに言った。

「えっ、そうなのかい。今の病院はそんなことまで面倒を見てくれるのかい?」

 祖父は心から驚いていた。

「お義父さん、そうなんですよ。浩之がお世話になっている大分医療センターは、小児科も充実していて、地方からも難病を抱えた子供が沢山入院をして治療を受けているんです。長く入院を続けている子供たちも多くいて、病院内には学習室という、ミニ学習塾みたいな部屋が設けられていて、症状が落ち着いていて学習が可能な子供が自由に出入り出来るようになっているんですよ。指導は、手の空いた小児科の先生や、他の病棟の先生も協力をしてくれていて、結構レベルの高い指導をしてくださるんです。

 浩ちゃんも、それまで苦手だった分数や、確率なんかの計算も、病院できちんと理解することが出来たものね」

 母親が祖父にそう説明をしてくれた。

「へえ、あの病院じゃあ、怪我だけでなく、頭の中身まで治してくれるんだな」

「じいさん、それはさすがに言い過ぎだよ」

 父親が笑いながら祖父を戒めた。

「おじいちゃんの言葉に、僕の純粋な心は傷ついたよ」

 浩之は分かり易く、頬を膨らませた。この仕草にみんなが大声で笑う。川辺家の太陽は、こうして今日も眩しい光を放ってくれていた。

 口には出さなかったが、誰もが心の中で思っていた。いや、期待していた。でも、きっと一番期待をしているのは当事者の浩之だ。首から下の自由を奪われ、六ヶ月間をかけて、やっと上半身の自由を取り戻したのだ。下腹部の機能が回復した今、いよいよ次は脚だ。そう考えるのは当然のことだろう。そして、それは確実なことのように、すぐそこにゴールが見えているようだと、家族全員がそう信じていた。

 哲雄も信じていた。きっと今年中には、もう車椅子は必要なくなるのではないかと。浩之ならそんなことも容易くやり遂げてしまうだろうと、そう確信をしていた。

 夏休みに入り、哲雄も休みとは関係なく、クラブの練習のために、いつもと変わらない時間に家を出なければならなかった。

 その時間が、浩之のリハビリ治療に行く時間とほぼ同じだった。

「哲君も、こんなに早くから練習があるの?」

 玄関を出ようとした哲雄に、車椅子で玄関口にやって来た浩之が聞いた。

「そうなんだよ。新入部員の俺には関係ないけど、夏休み中に県予選があって、これに勝ったら、次は大分市で行われる県大会に出場出来るから、先輩たちだけじゃなく、指導の先生も力が入っていて。それに、俺はまだまだ下手だから」

 哲雄は中学校に入学すると、運動部ではなく吹奏楽部に入った。担当はトロンボーンだった。先輩から引き継いだ吹奏楽部のトロンボーンを、哲雄は金曜日になると家に持ち帰り、土日は部屋で懸命に練習をしていた。哲雄の通う中学校は、伝統的に吹奏楽が盛んで、県大会出場の常連校でもあり、同校の部活の中でも群を抜いて部員数が多かった。

「哲君、吹奏楽部、楽しいの?」

「えっ?」

「トロンボーンを吹いていて、哲君、本当に楽しいのかなと思って」

「楽しいに決まっているじゃないか。何をいきなりそんなこと言い出すんだよ」

 心の動揺が声に出ないように、哲雄はゆっくりとそう言い返した。

「だって、僕はきっと哲君は陸上部に入ると思っていたから。走るのも好きだし、それに凄く速いし」

「それは浩ちゃんの身内贔屓だよ。浩ちゃんが思っているほど俺は走るのが速くないし、それほど好きではないよ。それに、今はトロンボーンを吹くのが楽しくて仕方がないんだ。少しずつ曲も吹けるようになってきたし、ちょうど面白さが分かりかけてきた時なんだ。邦夫はトランペットだけど、あいつも俺と同じことを言っている」

 哲雄は浩之の方ではなく、玄関のドアの方を向いたまま言った。

「そうなんだ。じゃあ、今日の練習も頑張ってね。今度、何か好きな曲を吹いて聞かせてよ」

「ああ、任せとけ。浩ちゃんもリハビリ、しっかりなあ」

「うん、ありがとう。頑張ってきます」

 哲雄は逃げるようにして玄関を飛び出した。

 土日以外の平日、浩之は一日も欠かさずリハビリ治療に通った。最初のうちは母親が車で送っていたが、八月に入ってからは、浩之は一人でバスを使って通うようになり、バスの定期券まで持つようになった。

「バスで通っていると、毎日旅行をしているような気分になるよ」と、浮かれた調子で言っていた。

 けれど、浩之の頑張りに対して、脚の機能の回復は全く応えてはくれなかった。

 上半身の機能が回復し始めた時に感じた「痛み」を、いくら治療を繰り返しても全く感じないのだ。 

 それでも、夏休みの間は、期待を持って精力的に、毎朝、病院に通い続けた。

夏休み最後の日、治療を終えて帰宅すると、いつもは「腹減った」と賑やかに冷蔵庫を開けたり、テーブルの上に置いてある煎餅を齧ったりして、「先に手を洗いなさい」と母親に叱られている浩之が、今日に限って「ただいま」も言わないで、いきなり自分の部屋に閉じこもってしまったのだ。

 夕飯前に帰宅した父親が、母親から様子を聞いて、浩之の部屋に入って行った。

 交通事故に遭い、脊椎骨折の手術を受けてから三日後の検査の結果で、首より下のすべての機能が麻痺していると衝撃的な事実を突き付けられた時、父親なのだから、男なのだからと気持ちでは分かっていても、気丈夫を装うことも出来なくて、目の前が真っ白になってしまった康雄に、春日医師は、「リハビリ治療を続けることで、機能が回復する可能性がある」と言ってくれた。でも、それは、強烈な痛みを伴う辛い治療になるとも言った。そして、康雄に対してこうアドバイスをくれたのだ。

「お父さんだけは、辛い治療を受けた時は、浩之君が「痛い」「辛い」「もう嫌だ」と正直に弱音が吐ける存在でいてやってください。浩之君はまだ十歳の子供です。リハビリ治療の効果を最大限に引き出すのは、もちろん本人の意思と治りたいという情熱がもっとも重要ですが、頑張らなくても良いんだと言ってくれる、そうした息が抜ける存在が近くにいることは、それと同じくらいに重要なのです」」

 決して忘れることのない、この言葉を再び心の中で思い起こしながら、康雄は浩之の部屋のドアをノックもしないで開けた。

「どうした、浩之?」

 浩之は、机の上に顔を伏せたままの姿勢でいた。聞こえているはずなのに、康雄の問いには答えようとはしなかった。

「疲れたか?」

 次に、具体的な質問をした。今度は、声には出さないが、伏せたまま頭を縦に振って答えた。

「そりょ、そうだよ。浩之、お前飛ばし過ぎているぞ。そんなに頑張り過ぎたら、疲れてしまうのも当たり前だよ」

 康雄は、そう言うと、ゆっくりと近づいて浩之の背中を優しくさすった。その途端に浩之の肩が小刻みに震え始めた。それでも、康雄は浩之の背中をさすり続けた。

 肩の震えに続いて、浩之の口から泣き声が漏れてきた。それはすぐに嗚咽へと変わった。昨年十二月に不慮の事故に遭い、脊髄を骨折するという大きな怪我をし、大手術の後、不随になった首から下の機能のことを医師から聞かされた時にも、浩之はこんなに感情をあらわにして泣いたりはしなかった。

 リハビリが怖いくらいに順調に進み、治療開始から四ヶ月で上半身の機能を取り戻して学校にも復帰出来た。こうした順調過ぎる経験を経てきたから、思い通りに進まない脚の回復がもどかしく、それを浩之は自分のせいにしているのだ。もっと、頑張らないと、家族みんなが期待しているのだからと、自分を責めている。

「浩之、急がば回れっていうことわざを聞いたことがあるだろう。今、浩之は、あまりにも急ごうとしているんじゃないかと、お父ちゃん、毎日朝、晩、浩之を見ていてそう思うっていたんだ。浩之は頑張っている、いや頑張り過ぎているって。頑張ることは良いことだよ。でも、頑張り過ぎることは、お父ちゃん、ちょっと感心しないかな。車だってアクセルを踏み続けていたり、自転車だって凄い回転で漕ぎ続けていたりしたら、オーバーヒートをして、故障をしてしまうだろ。

 だから、浩之には故障をして欲しくないと、お父ちゃん、ここのところずっと思っていたんだよ。急がば回れの、回れの意味は、遠回りをしろと言っているのではなくて、オーバーヒートをしないように、焦らずにじっくりやれということなんだよ。

 浩之、そんなに焦らなくても良いんじゃないか。お前は、今も頑張っているんだから」

 浩之は、さらに大きな声を上げて泣いた。康雄は、背中から浩之の身体を強く抱きしめた。

「どんなことがあっても、お父ちゃんがお前のことを守ってやるから」

 こぼれ落ちそうになる涙を、この言葉を心の中で何度もつぶやいて、康雄はこらえ続けた。

 その日以来、浩之は、週三回のリハビリ治療にはきちんと通いながらも、もうふさぎ込んだりするようなことは一切なかった。

 けれど、秋が過ぎ、その歳もあと残り僅かになっても、浩之の脚は、一向に回復の兆しを見せようとはしなかった。

 ここまできたら、康雄の方が不安になってきて、担当の春日医師、リハビリを指導してくれている根本医師の二人に面会を求めた。二人は、快く面会を承諾してくれた。

 クリスマスも終わり、子供たちも冬休みに入った師走の日の夕方、仕事を終えると康雄は病院に直行をした。

 外来の診察を終えて控え室に帰って来る春日医師を待って、午後七時から面会は始まった。康雄は単刀直入に、今一番気になっていることを質問した。

「このまま、リハビリを続けて、浩之の脚は動くようになるのでしょうか?」

 二人の医師の目を真っ直ぐに見ながら、康雄は質問をした。この康雄の視線を二人の医師も決して逸らさなかった。

「お父さんの質問に、私の方から正直にお答えをします。その答えは『判りません』です。お父さんとしては、無責任なことを言うなとご立腹されると思いますが、今の段階で私たち、浩之君の治療に携わっている医療チームが言える答えは、申し訳ないですが、『判らない』ということなのです」

 春日医師は、真っ正直な答えを返してきた。

「判らないということは、先生方はまだ諦めてはいないということですね」

 康雄は、これが一番聞きたかったのです。

「勿論、浩之君の医療チームは、誰一人として治療を諦めてはいません。これもまた、正直な答えです」

「それをお聞きして、まずは、安心をしました。では、全くの素人の私にも理解出来るように、今後の治療の方向性について、ご説明をいただけますでしょうか」

「それは当然のことです。では、私の方からご説明をいたします」

 春日医師が、対面に座った机の上にA4サイズの紙を置くと、簡単に脊髄の絵を描いて、治療の説明をし始めた。

「骨折をしていたのは、脊椎のこの二箇所です。これにより、脳からの筋肉への伝達がストップしていると考えています。上半身の神経は、適切なリハビリを行うことで、上手く神経が繋がり、ほぼ事故に遭う以前と変わらない状態に戻っていると思います。これは、結果論になりますが、上半身への神経は、一時的に圧迫されていたことで、上半身の機能が不随になっていたのだと考えています。それは、リハビリ治療により筋肉に刺激が加わることで、一時的に圧迫されていた箇所がほぐれ、脳の指示を神経が再び筋肉に伝達出来るようになったのです。ですから、脊髄の損傷により、上半身の動きを司る神経は切断などの損傷はしていなかったと考えています。

 同様に、下腹部もそうした想定のもとでリハビリ治療を行い。排尿機能の回復という、上半身の時と同じ成果を得ることが出来ました。

 ここまできたのですから、当然、脚も同じリハビリ治療で、早い時点で効果または回復の兆候が出てくるものだと考えていました。

 けれど、それは甘い考えであったと今は痛感をしています。現時点で、脚の機能が回復しない理由として次の二点を想定しています。まず一点目ですが、脚の機能を司る神経が完全に遮断されている可能性。そして、もう一つが、脚の筋肉の硬直が進み過ぎて、神経の伝達を著しく阻害している。

 私たち医療チームは、後者の方に期待をかけています。これまでは、単純に筋肉を動かす理化学的な治療を中心に行ってきましたが、今後は電気治療や、レーザー治療なども行いたいと考えています。

 お父さんには頼りないように感じるかもしれませが、私たちとしてもなんとか、浩之君の脚が再び動くように、考えられるあらゆる治療を行って行きたいと考えています。どうぞ、ご理解いただけますよう、お願いいたします」

 春日医師の説明を聞いているうちに、康雄は胸がいっぱいになっていた。自分の息子の浩之のために、医療チームまで作ってくれて、なんとか脚が元通りに動くように、あらゆるチャレンジと努力をしてくれている。

 折れそうになる希望と、諦めそうになる明るい未来に、この人たちは、灯りを点し続けてくれている。「大丈夫、浩之の脚は元通りに動くようになる」、この思いに、どんな微量の不純物も混じっていないのだ。

「春日先生、根本先生。お忙しい中、浩之の治療の方向性につき、詳しくご説明をいただきまして、大変感謝をしております。ご説明お聞き出来て、私は、治療の方向性だけでなく、先生方の熱意と、浩之に対する優しさを強く感じることが出来、今は胸がいっぱいになっています。

 歯がゆいことですが、治療に関しては、私たち家族は浩之に何もしてやることも出来ません。ただ、先生方にお願いするしかありません。どうぞ、最後まで諦めないで、浩之の治療をよろしくお願いいたします」

 康雄は立ち上がると、正面の二人に深々と頭を下げた。

「何を仰っているのですかお父さん。浩之君は、自分のためだけでなく、ご家族のためにも辛い治療を頑張っているのですよ。ご家族の皆さんが、どれだけ自分のことを大切に思い、治療が上手く行くように全面的に協力をしてくれているかを、浩之君はきちんと理解していますし、心から感謝もしています。だからこそ、ご家族皆さんに元通りになった姿を見せたいのです。皆さんが喜んでくれる顔を見ることが、今は浩之君の一番のモチベーションになっていると思います。だから何も出来ないなんて言わないでください。こんなに仲の良い、優しさに溢れた家族なんてそうはいませんよ。家族の愛情が最も有効な治療方法ですから」

 根本医師が語りかけるように、そう励ましてくれた、その言葉の一つ一つが、砂に水が染みるように、康雄の胸に染みてきた。

「お父さん、これは他のご家族の方には秘密にしておいて欲しいのですが、夏休みの最終日、リハビリを終えて帰宅した時の浩之君の様子に、いつもと違うところはありませんでしたか?」

 根本医師が、いきなりそう聞いてきた。先生が指摘した日は、浩之が帰宅したあともずっと自分の部屋に閉じこもってしまった日のことだ。いつもと違うどころか、明らかに浩之の様子がおかしかった。あとにも先にも、あんな浩之を見たのは初めてだった。

 リハビリ治療が上手くいかないことへの不安ともどかしさが、浩之をあんなにしてしまった原因だと思っていたが、理由は別にあるということなのだろうか。

「その日のことなら良く覚えています。いつもは、帰宅するとうるさいくらいに、その日のリハビリ治療の様子を祖父母や母親に話して聞かせる浩之が、その日に限って、『ただいま』さえも言わないで、自分の部屋に閉じこもってしまい、夕飯の時になっても部屋から出て来なかったのです」

 康雄は、その時の様子と、浩之と自分とのやり取りを簡単に説明した。

「お父さんのお取りなった行動は、完璧でしたね。お父さんのおかげで、浩之君は今も治療に集中することが出来ているのだと思います。やはり、川辺家の家族愛は凄いですね」

「根本先生、浩之は詳しいことは何も話してはくれませんでしたが、あの、夏休み最後の日、浩之に何かあったのですね」

 康雄は断定的に聞いた。

「お父さんだからお話をさせていただきます。この話も、川辺さんのご家族がお互いを思いやる優しさからきていることです。夏休みの終わりが近づくにつれて、それまで陽気に治療を受けていた浩之君の様子に、今までと異なる、違和のようなものを感じるようになっていました。これは、私だけの思い過ごしかなと思って、周りのスタッフにも聞いてみると、スタッフたち全員が同じ感じを抱いていました。

 違和感といっても、治療を途中で投げ出すとか、集中力に欠けるとかそんなマイナスなことではなく、何かかげりのようなものが感じ取れるというくらいのことです。例えば、一つの治療が終わった後、次の治療のマシーンに移る時に小さなため息をつくとかの、そんな些細なことです。でも、リハビリの治療を始めてからこれまで、浩之君がそんな様子を見せることはなかったので、私だけでなくスタッフたちも気がついたのだと思います。それでも、それ以上深刻になることもなく、治療は真面目に集中して行っていました。

 ところが、夏休み最後の日、リハビリの治療が終わったあと、更衣室に引き上げた浩之君が突然大声で泣き出してしまったのです。着替えに付き添っていた私は、あまりにも突然のことに咄嗟にどうすれば良いのか判らず、その場でうろたえてしまいました。それで、院内携帯で春日先生に更衣室に来ていただき、まだ泣き続けている浩之君の対応について相談をしたのです」

 当然だが、康雄が初めて聞く話しだった。あの日、部屋でも浩之は大粒の涙をこぼしながら泣いた。浩之の肩を強く抱きしめながら、康雄は小刻みに震え続ける浩之の華奢な肩を、壊れてしまうのではないかと思いながら抱き続けたのだった。

 浩之が泣き続ける原因になった、心の痛みはどんなことなのだろうか。根本医師に代わって春日医師が話し始めた。

「私は、浩之君の悲しみが尽きるまで、自分の意思で泣き止むまで待ちたいと思いました。ですから、根本先生にこのまま暫く待っていましょうと言いました。考えてもみてください。浩之君はまだ小学六年生ですよ。あんな大事故のあと、大きな手術に耐え、辛いリハビリ治療に弱音を吐くこともなく、たった二ヶ月間で上半身と下腹部の機能を回復させるくらいの頑張りを見せてきたのです。

 泣いている浩之君の姿を見て、大変不謹慎ですが、私は何故かほっと胸を撫で下ろしていました。こうした姿が本来の子供の姿です。浩之君は、あまりに大人びていて、大人以上に大人であろうと無理をしているのではないかと、日ごろの治療の様子を見るにつけ、いつも心の隅で心配をしていたからです。

 泣くとか、怒るとか、笑うとか、喜怒哀楽を表に出すことは、実は精神を正常に保つ上でとても大切なことなのです。我慢に我慢を重ねてきた浩之君の感情が、この時に一気に爆発したのだと私は思いました。だから、これは良いことだと受け止めたのです」

「そうですか。浩之は我慢に我慢を重ねていたのですね。家の中で陽気に振舞っていたのも、その我慢の一つだったのかもしれませんね」

 康雄はしみじみと言った。胸がしくしくと痛み続けている。

「でも、お父さん、浩之君が泣いた理由は実は違うことにあったんです」

「えっ、違う理由ですか?」

「ええ、そうです。私が更衣室に駆けつけて五分もしないうちに、浩之君は自分の意思で泣き止みました。そして、私まで駆けつけて来ていることを知って、『ごめんなさい』と二人に最初に謝りました。浩之君はそんなお子さんです。私と根本先生は目配せをして、暗黙の了解で泣いた理由を聞かないことにしました。感情を少しでも外に出せたことで、私たちは十分だと考えたからです。けれど、泣いた理由を浩之君自ら話し始めたのです。

 川辺さん、浩之君にお兄さんがいますよね、確か、今年中学に入学した」

「はい、浩之とは年子で哲雄と言います。二人は幼い頃からまるで双子のように仲が良くて、哲雄も浩之が一日も早く元の身体に戻るように毎日祈り続けているようです」

「その哲雄君は、自分を庇ったせいで浩之君が事故に遭ってしまったのだと思い込んでいるのですね。浩之君がそう教えてくれました」

 そんなことまで、浩之は二人の医師に話しをしていたのだ。

「学校からの帰りに事故に遭ったのですが、この時に一緒に帰っていた別の子供たちに聞いた内容も、哲雄ともう一人を庇って、浩之が事故に遭ったのは事実のようです。このことを哲雄は今でもずっと後悔をし続けています。自分を責め続けているのです。ですから、浩之の上半身が動くようになった時は、自分のこと以上に喜んでいました。

 浩之は浩之で、そんな哲雄のことを気にしてしまって、ことある毎に『哲君には関係ないからね』と言い続けています。優しいがゆえに悲しいというか、親としても切ないです。そのことが、今回の浩之が突然泣き出したことと関係があるのですか?」

 康雄は二人の顔を交互に見た。

「ええ、そうなんです」

 春日医師が肯いた。

「それは、どういうことですか。さらに、浩之の心を揺さぶるようなことが起きたということですね」

「実は、浩之君は、六月に退院をした時に初めて、お兄さんが中学で吹奏楽の部活に入ったことを聞かされたようです。『哲君は絶対に陸上に入りたかったはずだ。走るのも速いし、陸上の才能は凄いものがある』と悔しそうに言っていました。『それなのに、身体が自由に動かせない僕に遠慮して、僕に悪いからと思って、陸上部に入ることを諦めたんだ』とも言っていました」

「そうですか。私も哲雄が中学で吹奏楽部に入ると聞いた時は、お前、陸上部に入ると言っていたんじゃないのかと、思いましたので、それを率直に口に出しました。そうしたら、『うちの中学は吹奏楽が盛んで、県内でも有名な強豪校なんだ。だから、どんなものか興味が湧いて、吹奏楽がやってみたいと思ったんだよ』と答えたので、私は納得したのですが、浩之はその答えには納得しなかったというわけですね」

「そのようですね。浩之君は、お兄さんが自分の事故のことに囚われてしまい、自分自身を縛りつけているので、早く自由にしてあげたいと考えていたようです。それで、夏休み中に脚を動かせるようになって、事故の後遺症を全て無くして、お兄さんを解放してあげることが唯一の方法だと、懸命にリハビリ治療に取り組んできたわけです。夏休み中に脚が動くようになれば、お兄さんが二学期から陸上部に入り直すことが出来ると、これを目標にしていたようです」

 弟を思う気持ちと、兄を思う気持ち。お互いの優しさが交差すると、思いもよらない悲しみを生むことがあることを康雄は思い知らされた。

「しかし、現実はそんなに甘くなかった。夏休みが終わろうとしているのに、自分の脚は回復の兆しさえ見せようとはしない。いつになったら、自分はお兄さんのことを解放してあげることが出来るのか。そう考えると、まったく先が見えない不安と、自分の無力さ

が重なって、浩之君は突然泣き出してしまったのだそうです」

 春日医師の話を聞き終えた今も、康雄はずっと肯き続けていた。哲夫と浩之の兄弟が、互いを傷つけたりしないように、互いを悲しませたりしないように。相手のことばかりを考えて、その傷を、悲しみを自らが背負うことで解決をしようとしている。

 なぜ、それに気づいてやることが出来なかったのだろうか。家族として、二人の父親として、自分は息子たちのすれ違う優しさに気づくことが出来なかったのか。康雄は後悔の気持ちでいっぱいになっていた。

「その後のことを、私たちも凄く心配をしていたのですが、次のリハビリの時に、やって来た浩之君は、まるであの時のことが嘘だったかのように、拍子抜けするくらい全く普段のままでした。決して取り繕って無理をしている様子もなかったので、ひとまず安心をしたのですが。そうですか、あの日、家でお父さんとのそんなやり取りがあったのですね。納得をしました。理由が理由でしたので、簡単には立ち直れないと覚悟はしていたんで、あの切り替えの凄さには驚いていました。お父さんの対応が浩之君を立ち直させたのですね。家族の力はやはり偉大ですね。この話しは、すでに解決をした話しなので、浩之君にはくれぐれも内緒にお願いしますね。それよりも、これからも、浩之君の様子を注意深く見てあげてください」

「ありがとうございます。先生方にもお願いがあります。リハビリ治療中の様子に、少しでもいつもと違うところがありましたら、是非私の方にご連絡をいただきたいのです。どんな些細なことでもかまいませんので、よろしくお願いいたします」

「勿論、浩之君のご家族も含めて、私たちは医療チームだと考えていますので、何かあればすぐにご連絡をさせていただきます」

 その日、康雄が二人の医師から聞いた話しは、妻の琴美にさえも内緒にすることにした。

 新しい年を迎え、浩之の小学生活も残すところ三ヶ月足らずになった。いつまで続くか分からないリハビリ治療に、浩之は平日の放課後三回通い続けた。少しでもいつもと違う様子が見えたらすぐに自分に連絡をしてもらう約束になっていたが、あれ以来、春日医師からも、根本医師からも康雄に連絡が来ることはなかった。

 いよいよ、浩之の小学校卒業まであと三日という日になった。肝心の脚の回復は一向に良い兆候を見せてはいなかった。

 その日の夜、夕飯が終わって部屋に引き上げた浩之を追って、康雄は浩之の部屋に行った。平静を装っているが、浩之の心中は穏やかではないだろうと康雄は踏んでいた。正直な浩之の今の気持ちが聞きたかったのだ。

「浩之、あと三日で小学校も卒業だな。今は、どんな気持ちだ」

 康雄はそう切り出した。

「さすがに、寂しいと思う気持ちが強いかな。特に五年生から六年生にかけては色々とあったから」

「そうだよな。あの大事故から、よく六ヶ月で学校に復帰したよ。浩之が懸命に頑張ったからだな。お父ちゃんも感心をしている」

「僕一人の頑張りなんかじゃないよ。お父ちゃんやお母ちゃん、それに哲君やおじいちゃん、おばあちゃんの支えがあったからだし、病院の人たちが僕を治すために一生懸命に努力をしてくれたからだよ。僕は事故に遭って辛い思いもしたけど、僕の怪我を治すために、周りの多くの人たちが一生懸命に頑張ってくれる姿を見ることが出来て、他の人が経験出来ない、沢山の人の優しさや誠意、それに代償を求めない無償の愛を、目の当たりに見ることが出来た。このことが、これからの僕の一生を支えてくれると思う。お父ちゃん、僕はこの年で一生の宝物を手に入れてしまったような気がするんだ」

 あの事故がなかったら、浩之はもっと子供らしい心の持ち方をしていたのだろうか。こんなに大人びた考え方をするような子供に仕向けてしまったのは、自分を含めた大人の責任なのだろうか。

「浩之、お前が家族に感謝なんかする必要はないんだぞ。事故に遭った子供や身内のことを心配し、治るように心を砕いて懸命に世話をするのは、家族としては当然のことなんだよ。だから、浩之はそれを当たり前だと受け止めれば良いんだ。もし、事故に遭ったのが浩之じゃなく、他の誰かだったなら、浩之だって同じ気持ちになったし、同じことをしただろう」

「お父ちゃん、ありがとう。夏休みの最後の日に、お父ちゃんが、僕のことをどんなことがあっても守ってやると言ってくれたこと、僕は本当に嬉しかったよ。あの日、お父ちゃんは僕の心に羽根を付けてくれたんだよ」

 そう言って、浩之は笑顔を浮かべて康雄の顔を見た。

「心に羽根を……、付けた?」

「そう。心が自由に飛べるように羽根を付けてくれたんだ。それまで、僕は早く治らないといけない、少しでもみんなの負担を少なくするために、一日も早く怪我を治さないといけない。そればかり考えていた。心がそのことだけに縛り付けられていたんだ。でも、脚は一向に回復する様子を見せないし、ずっと苦しい思いをしていた。

 あの日、お父ちゃんが僕に、『浩之、そんなに焦らなくても良いんじゃないか。お前は、今も頑張っているんだから』と言ってくれたあとに、『どんなことがあっても、お父ちゃんがお前のことを守ってやるから』と続けて言ってくれた時、僕は気持ちがすうーと、一瞬で軽くなったんだ。そして、次の日から、治療のことだけでなく、色々なことを考えることが出来るようになった。それは、心が自由に飛べるようになったからだよ」

「そうか、心が自由に飛べるようになったからか」

 周りの誰もが不幸だと感じたあの事故を経験して、本人が言うように、浩之は本当に一生の宝物を神様からもらったのかもしれないなと、康雄は思った。

「お父ちゃん、僕、小学校の卒業と同時に、リハビリも卒業しようと思っている」

 突然の衝撃的な浩之の発言を、康雄はすぐには理解することが出来なかった。

「リハビリ治療を止めるということか?」

「そういうこと」

「それこそ、そんなに焦って結論を出さなくても良いんじゃないか。もう一度家族で話し合って結論を出すことにしたらどうだ?」

「勿論、みんなに相談をするつもりでいる。それと、これはお父ちゃんから春日先生と根本先生にお願いをして欲しいと思っていることなんだけど、卒業式のあと、このままリハビリ治療を続けて、僕の脚の機能が戻る可能性がどれくらいあるのか、お父ちゃんとお母ちゃんと僕の三人ではっきり聞かせてもらいたいと思っているんだ。この時に先生たちから、『可能性がない』とか、『低い』とかという答えが返ってきたら、僕は車椅子で一生生活を送るという現実を素直に、受け入れることを考えたいと思っている」

 浩之は、迷いのない口調で、きっぱりと言った。

「解った。お父ちゃんから卒業式のあと、春日先生と根本先生にお時間をもらえるようにお願いする」

「ありがとう、お父ちゃん。いつも、僕の味方でいてくれて……」

 話が決まると、二人は部屋から出て居間に行き、家族に浩之の決意を話した。最初は反対をしていた祖父母も、「現状を素直に受け入れたい」という浩之の強い決意に、最後は納得をした。ただ、家族の誰もの思いの中には、病院の医師から「脚の機能が戻る可能性がある」という答えを期待する気持ちが大きかったのは間違いないことだ。

 浩之が通う小学校の卒業式の日がやってきた。この日、式に夫婦揃って出席をするために、康雄は会社を休んだ。式の中で、浩之は特別皆勤賞をもらった。交通事故から六月に学校に復学した日から、この卒業式の日まで、浩之は無遅刻、無欠席を貫き、学校から特別皆勤賞をもらったのだ。表彰状を手渡す時に校長先生が、「川辺浩之君を、無遅刻、無欠席賞ではなく、なぜ特別皆勤賞という賞にしたのかというと、川辺君は、学校だけでなく、放課後通うリハビリ治療の病院でも、無遅刻、無欠席だったからです。こうした努力はなかなか出来ることではないと、職員一同でこの特別皆勤賞を川辺浩之君に贈ることを決めました。川辺君、本当に良く頑張ったね」と言葉を添えてくれた。

 卒業式が終わり、特別に許可をもらって車で来ていた康雄たちは、そのまま病院に直行をした。

 すでに面会の予定を入れてもらっていたし、面会の目的もすでに医師たちには理解をしてもらっていたので、病院に到着をしてから二十分後には面会が始まった。

「お父さんから、すでに主旨はお聞きしていますので、結論を先に申し上げます」

 春日医師は、少し緊張をした表情でそう切り出した。

「よろしくお願いいたします」

 康雄がそう言って、三人が同時に頭を下げた。

「大変残念なことですが、このまま治療を続けても浩之君の脚の機能が戻る可能性は非常に低いと考えます」

 冷静なはずの春日医師の声が小刻みに震えていた。

「そうですか。浩之の脚の機能が戻る可能性は非常に低いですか。お話し難いことをきちんとお話しいただきまして、ありがとうございます。私たち家族、それに浩之本人も、この結論をきちんと受け止めたいと思います。一昨年の十二月から、一年三ヶ月に渡り、息子の浩之の治療に限りない愛情とお力を注いでいただきまして、浩之の父親としてお礼を申し上げます。ありがとうございました」

 康雄はその場から立ち上げると、二人の医師に深々と頭を下げた。ある程度覚悟をしていたとはいえ、引導を渡されたことに、琴美はハンカチで目頭を押さえていた。

「浩之君を再び自分の足で歩けるようにしてあげることが出来なかったこと、私たち医療チームも残念でなりません。脚が再び動くようにと、一心に治療に取り組んでいた浩之君のひたむきな姿を見るにつけ、『奇跡が起こってくれ』と幾度願ったかしれません。ですから、今日の結論を出すことは正直とても辛いです」

 長い間一心同体のように、リハビリ治療に付き添ってくれた根本医師は、流れる涙を隠そうとはしなかった。

 母親の涙を見ても、根本医師の涙を見ても、浩之は決して涙を流さなかった。自分の中ではすでに覚悟が出来ていたのか、医師の説明の一つ一つに大きく肯いていた。

「春日先生、根本先生。長い間お世話になり、ありがとうございました。先生たちと病院の皆さんのお陰で、僕はこうして学校にも復学することが出来、今日、無事に卒業式を迎えることが出来ました。脚の機能が回復しなかったことは、勿論残念ですが、このことをきちんと受け止めて、こらからの中学、高校と自分のやりたいこと、やれることをどんどん増やして行きたいと思います。病院の皆さんには大変感謝しています。他の皆さんにも僕からの『ありがとう』を、伝えてください」

「分かった、必ず伝えるよ。もう浩之君の姿を見ることが出来ないと分かると、他のスタッフも、治療を受けている他の患者さんたちも寂しがるだろうな」

 しみじみとした声で、根本先生が言った。

 最後まで涙を流すこともなく、浩之は病院をあとにした。

 病院から帰宅すると、すでに中学が春休みに入っている哲夫も家にいたので、先ほどの医師からの結論を祖父母、哲雄に説明をした。

 話しを聞いた途端に、祖父母は目頭を押さえたが、哲雄は俯いたまま何も言葉を発しなかった。

「これで、車椅子とは一生離れられなくなってしまったな。一生の友としてよろしく頼むぞ」

 そんな、家族の様子を見ない振りをして、浩之は車椅子のタイヤを撫でていた。

 その日の夜、一人では入浴出来ない浩之に付き添って、哲雄が一緒に風呂に入った。浩之が浴槽に浸かっている間に、哲雄は素早く身体と髪を洗ってしまおうと一人だけ浴槽から出た。

 最初シャワーの音に掻き消されていたので気がつかなかったが、シャワーを止めた途端に、浴槽の中で、執拗に浩之が顔を洗うお湯の音が聞こえてきた。可笑しいと思って浴槽を見ると、浩之が流れ出る涙を誤魔化すために、何度も何度もお湯で顔を洗っていた。哲雄はそんな浩之から、もう目を離すことが出来なくなってしまい、じっとその様子を見詰め続けていた。

 そんな、哲雄の視線に気がつくと、浩之は歪んだような泣き笑い顔を見せた。

「悲しいわけじゃないんだよ。辛いわけでもないんだ。でもね、でも、どうしても涙が止まらないんだ。なんでなんだろう、困るなあ」

「浩ちゃん……、ごめん」

 哲雄は溢れ出る涙でぼやける浩之に向かって、声を震わせながら言った。

「哲君、僕はもう明日からは、この事故のことでは絶対泣かないと約束をする。だから、哲君も約束して欲しいんだ。もう僕にゴメンは決して言わないって」

 浩之は小指を出した。指きりをしている間中、二人は泣き続けていた。

 この日二人で交わした約束通り、その後、浩之は不自由になった脚のことで弱音を吐くことはなかったし、哲雄も事故のことで浩之に謝ることはしなかった。

 ただ、浩之ももちろんそうだが、哲雄の中からこの交通事故の記憶や、浩之に対する申し訳なさと後悔の気持ちが、少しも消えたわけではなかった。

 浩之は四月に、一年前に哲雄が入学をした同じ公立の中学校に入学をし、部活は生物クラブに入った。将来、人間の身体の仕組みを解き明かして行く研究が出来る仕事に就きたいと考えるようになっていた。

 卒業式の後、両親と一緒に病院に行き、春日医師と根本医師と面談した帰り、この日でリハビリ治療も卒業することになった浩之対して、リハビリを指導してくれていた根本医師がアドバイスをしてくれた。

「浩之君、これから君は一生車椅子と一緒に生きて行くことになる。脚が使えない分、脚の分まで手や腕を酷使することになる。だから、上半身を鍛えることを常に怠らないようにして、これからの浩之君の未来を、自分の力で切り開いて行けるようにしてください」

 このアドバイス通り、浩之は、父親に頼んで鉄アレーを買ってもらい、部屋にいる時は上半身を鍛えるトレーニングを欠かさなかった。

 学校での生活も車椅子を使っていたので、当然体育の授業は見学することになったが、ただ見学するだけでなく、学校の許可を取り付けて、浩之は上半身を鍛える別メニューを体育の授業の時間を利用して行っていた。その甲斐もあり、二年生が終わる頃には、浩之の上半身は筋肉隆々と言って良いほどに発達していた。

 浩之が二年生の二月、哲雄は高校受験に挑んだ。

受験をした第一希望の高校に見事合格を果たし、合格発表の日の夜は、家族だけで簡単な祝いの席を囲んだ。

 赤飯に鯛のお頭つきのお祝いの定番や、子供たちの好きな鶏のから揚げもあった。お腹いっぱいになったあと、母親が「実はケーキも買ってあるんだよ」と、近所の洋菓子店で買ってきたケーキを切り分けている時に、「合格おめでとう」と、このタイミングで、哲雄にこの日初めて浩之がお祝いを言った。

「おお、ありがとう。といってもそんなに偏差値の高い高校ではないけどな」

 浩之からのいきなりの祝辞に、哲雄は照れを隠すようにそう返した。

「哲君、もう我慢しないで、運動部に入りなよ」

「えっ?」

 哲雄は聞き返した。動揺をしているのが自分でも分かった。「見抜かれていた」とも思った。運動が出来なくなった浩之の気持ちを考えて、哲雄は中学校では運動部ではなく、吹奏楽部に所属してトロンボーンを吹いていた。浩之が事故に遭うまでは、中学校に入学をしたら陸上部に入るつもりでいた。もとより走ることは好きで、速かったので、本格的に陸上に取り組んでみたかったのだ。でも、この希望は、浩之が自分のせいで事故に遭って、一生下半身が動かせないと判った時、自分の中で完全に封印をした。

「そんなことされても、僕はちっとも嬉しくはないよ」

「なんのことを言っているのか、俺にはさっぱり解らないけどな」 

 哲雄はとぼけて、話をうやむやにすることにした。

「哲君、本人が考えているよりも、周りで見ている人間の方が判ることもあるんだよ。やりたいことを諦めて、好きでもないことをやっている様子は、どんなに上手く繕ったつもりでも、ほころびが至る所から出てしまうものだよ」

「……」

「僕は哲君に、高校に入学したら、やりたかった陸上に、思い切り打ち込んで欲しいと思っている。前に約束をしたよね、もうあの事故のことで僕に謝ったりしないって。確かに言葉では謝ることはしないけど、そのあとも、哲君は無言のまま、ずっと僕に謝り続けていた。だから、もう一度約束して欲しいんだ。もうあの事故のことで僕に謝るのは止るって。哲君にそうされるたびに、僕は忘れたくても、あの事故のことを思い出してしまうんだ」

「ごめん」

「ほら、また謝った」

「解った。高校に入ったら、今一番何がやりたいのかを、よく考えてクラブを選ぶよ」

 このことがあって、哲雄は高校に入学をすると、陸上部に入った。

 その一年後、浩之は臼杵市で一番の進学校に合格をし、入学をした。高校でも、生物クラブに入部した。

 哲雄は高校の三年間、三年生の時に、一万メートルで大分県大会に出場することが出来たが、その県大会でも入賞すら出来なかった。大きな活躍もないまま高校を終えると、哲雄は大学には進学せず、東京に本社のある大手弱電メーカーの丸松電機の大分工場に、地元採用で就職をした。これで、完全に陸上との縁が切れたと哲雄は思っていたし、特別に未練もなかった。

 しかし、神様は哲雄と陸上を結ぶ糸を完全に切ることはしなかった。まるで、小説のような運命的な出来事が、入社一年目の哲雄の身に起きたのだった。

哲雄が入社したその年の秋に開催された、工場の運動会の競技の中に、1500m走があった。もともと高校の時に陸上部で一万メートルを専門にしていた哲雄は、運動会の出し物という気軽さもあって、1500m走にエントリーをして、呆気なく、しかも二位以下を大きく引き離して優勝をしたのだった。ゴールテープを切ったあと、哲雄自身も、「昔の杵柄がまだ残っていたようだ」と思ったくらいだった。

たかが、地方工場の運動会である。例え1500m走で優勝をしたとしても、それで何かが変わるわけではないだろう。もちろん哲雄本人もそんなことは微塵も考えてもいなかった。

 だが、現実は小説よりも奇なりだった。この運動会の1500mで優勝したことで、哲雄のその後の人生は大きく変わったのだ。この運動会に、本社の陸上部の監督が特別ゲストで招待をされていて、1500mをぶっ千切って走る哲雄の姿が、この監督の目に留まったのだった。

 陸上実業団の名門である、丸松電機の陸上部にスカウトされることなど夢にも考えていなかった哲雄にとって、突然の陸上部の監督からの申し入れは、嬉しいと言うよりも戸惑いの方が何倍も大きかった。高校時代陸上部に所属していたといっても、一万メートルでやっと県大会に出場することは出来たが、その県大会でも入賞すら出来なかった自分が、果たして名門実業団の陸上部でやって行けるのか。哲雄の頭の中はそのことで一杯だった。

入部を躊躇する哲雄を監督が丁寧に説得をして、不安を抱えたまま哲雄は丸松電機の陸上部に入部をし、勤務地も本社のある東京に異動することになった。

 不安いっぱいの船出ではあったが、さすがに永年培ってきた陸上部の監督の、ランナーを見極める目は正しかった。早速翌月には、哲雄は大分工場から陸上部のある東京本社の総務部に異動となった。陸上部の佐藤コーチが哲雄の専任のトレーナーに就いた。新人の無名選手に、実績のあるベテランのコーチが個人的に付くのは全くの異例のことで、その待遇からも監督がどれほど哲雄に期待をしていたかが見て取れる。

 佐藤コーチのもと、哲雄はマラソンの基礎から指導を受けた。監督の「川辺は駅伝など走らせないで、最初からマラソンランナーとして育てる」という方針に従って、佐藤コーチは十九歳の哲雄に、マラソンランナーとしてのトレーニングを基礎から指導して行った。

 トレーニングを始めてまだ四ヶ月しか経っていない翌年三月に、哲雄はこの月に開催された「びわ湖毎日マラソン」に出場をし、生まれて初めて42.195kmの長い距離を走った。

 陸上部の指導者の中でも、四ヶ月足らずのトレーニングで、マラソンを走らせる事への否定的な意見が強かったが、監督が強行に出場を決行した。大会出場の資格であるハーフマラソン1時間8分以内の記録を、哲雄はすでにトレーニングを開始した二か月後のハーフマラソンの大会で難なくクリアしていた。このことも監督がフルマラソン出場を強行した要因になっていた。

 「びわ湖毎日マラソン」の結果は、2時間09分47秒。総合で三位、日本人第一位の好記録を上げた。監督の狙いは的中をしたのである。

 こうした運命的なきっかけにより、大きく開花した哲雄の活躍振りを、浩之は諸手を挙げて喜んだ。

「やっぱり、自分の目は正しかった。哲君の走る才能は本物だったのだ」

 けれど、陸上界は古い体質の団体だった。びわ湖毎日マラソンでの哲雄の記録は、順位こそ総合で三位だが、日本人の中では一位で、文句なく出場した日本選手の中ではトップだったはずだ。それなのに、彗星のように出現をした名もない選手のことを、陸上界の重鎮たちは容赦をしなかった。

 翌日のスポーツ新聞の見出しには、「ビギナーズラックの勝利!」「恐ろしさを知らない素人の走り!」「一発屋の出現で、伝統の大会は大混乱」と、哲雄の活躍をけなすような記事が紙面を賑わせた。

 哲雄の活躍を賞賛する見出しが躍る紙面を楽しみにスポーツ新聞を、わざわざ駅の売店まで出向いて買ってきた浩之は、この記事を見て驚いた。どのスポーツ新聞も、哲雄の日本人一位の成績を、「まぐれ」と決め付け、「一発屋」と呼んでいた。

 浩之は怒りで身体が震えた。出る杭は打たれるではないが、このままでは哲雄が潰されてしまうと浩之は本気で思った。

 浩之は、すぐに哲雄の携帯に連絡をした。哲雄自身もかなり悲しい思いをしているのに決まっていると思ったからだ。

 哲雄はすぐに電話に出た。

「哲君、びわ湖毎日マラソン、日本人一位おめでとう。実家の家族全員、テレビの前で声が枯れるくらい応援をしていたよ。おばあちゃんなんか、怖くてテレビを観ていれないと言って、仏壇の前に座って、ずっとお祈りをしていた。やったね、初マラソンで日本人一位だなんて、哲君の実力は本物だよ」

 浩之は一方的に喋り続けた。

「浩ちゃん、今日のスポーツ紙を見たんだろう。それで、俺が落ち込んでいるんじゃないかと、心配をして連絡をくれたんだよな」

「……」

「どんな時も、浩ちゃんは優しいな。持つべきものは愛する弟だよ。でも、浩ちゃん、スポーツ紙が書いている『一発屋』というのは、本当のことだからね」

 哲雄は笑いながらそう言った。哲雄の喋り方からは、何かを吹っ切ったような潔さがあった。

「落ち込んではいないの?」

「いや、浩ちゃんの想像通り、かなり落ち込んだ。でも、もう立ち直ったよ」

「立ち直ったって、ずい分、早くない?」

「実は、俺も朝一番に、陸上部の寮に配達されたスポーツ紙を読んで、愕然として、かなり落ち込んだんだ。特に『一発屋』という呼び方にはひどくショックを受けた。それで、すぐに指導をしてくれている佐藤コーチに、この不満をぶつけたんだ。そうしたら、コーチに笑いながらこう言われたよ。『まだ、マラソンを一回しか走ってしないんだから、一発屋は仕方ないだろ。これから、どんどん勝って、二発屋、三発屋になるしかないじゃないか。二発屋も、三発屋も、そうなれば、もう川辺は完全な実力者だよ』って。当たり前すぎてなんの反論も出来なかったよ。

 浩ちゃん見ていてくれ、俺は絶対に二発屋、三発屋になってみせるから」

 哲雄はそう裏話を教えてくれた。

 この電話をきっかけに、浩之は哲雄の出場する大会には、どんなに遠方で開催される大会であっても、必ず応援に駆けつけるようになった。

 翌年の二月。地元大分県で行われた「別府大分毎日マラソン」で、哲雄がマラソン初優勝を果たした時にも、当然浩之は応援に駆けつけていた。

 ゴール後の優勝インタビューの時に、アナウンサーから、今回の優勝の勝因はと質問された時、哲雄はこう答えた。

「僕は、特別に才能に恵まれている訳でもなく、ただ、これまで、監督やコーチの指導を受けて走ってきただけです。今日優勝出来たのは、監督やコーチの指導力が素晴らしかったからに他なりません。でも、もし僕にマラソンランナーとしての能力があるとしたら、それは神様が、交通事故で一生歩くことも、走ることも出来なくなった、一つ下の弟の分の走る力を、僕に託してくれたお蔭かもしれません。もしそうなら、僕は自分一人の力ではなく、弟と二人で走っていることになります」

 この発言を聞いた時、浩之の中で何かが閃き、そして、ある決意が大きく動き出したのだった。

「車椅子マラソンに挑戦をしたい。そして、パラリンピックに出場したい」

 そしてこの思いは、やがて現実もこととして動き始めるのだった。

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