4ー2
鏡花先生はまさに風のように神楽坂を下り、外濠の手前を右に折れ、少しも速力を落とさずに逢坂を駆け抜けていく。
神楽坂警察署の正面玄関に着いた時には、情けないことに僕は肩で息をしていた。膝もがくがくだった。しかし先生はいつもの涼しい顔で、洋風建築の立派な柱を見上げていた。
中に入り忙しく歩き回っている巡査を呼び止めて、「泉鏡花だが、藤ノ木警部に用がある」と告げた。文士としての鏡花先生よりはるかに威厳があるのが不思議だった。これも例の
別室に通され、しばらくすると藤ノ木警部がやってきた。
「いやあ、昨夜はどうも恐れ入りました。犯人を捕まえられて、私も面子が立ちましたよ。たしかにあの状況で心中というのはおかしいですな。それにしてもあのお志津という女はしぶとい女ですな。いくら責め立てても吐きません。ずっと泣いておりましてね。その嘘泣きがまたうまいのなんのって」
「藤ノ木警部。倉庫室から鍵は見つかりましたか?」
「いや、捜査員が隅々まで調べたが、どこにもなかった。お志津も口を割ろうとしません。まったくもって、あの女は……」
「お志津は犯人じゃありません」
警部の声を遮って、鏡花先生は静かに言った。
「へ?」
「お志津が稲に渡した湯飲みには、甘酒が入っていました。厨房で女中たちが自分で飲むために作ったのです。お志津もそれを飲んだそうです。そのあと酒好きのおハナは、それに日本酒をけっこうたっぷりと足した。それを知らずにお志津は稲に飲ませました。疲れているようだったから、という優しい気持ちからです。それはそばで客の一人が聞いていました」
「それを泉先生がご自分で聞き出したのですか?」
「ええ、今日は朝からあちこち飛び回って証言を集めました。あとでだれに聞いたかお教えしましょう」
鏡花先生は出された湯飲みに手をだしかけたが、すぐに引っ込めた。たしかにあまりきれいな湯飲み茶碗ではない。
「稲はアルコールを受け付けない体質だったようです。これも女中たちから聞きました。日本酒がたっぷり入った甘酒を飲んで、稲はふらついていたのでしょう。毒が入っていたためではありません」
鏡花先生は続けて、昨晩の日出雄の行動について話した。
日出雄は応接室の隅で稲と話をしたあと、友だちと会うために出かけた。
「私は鍵のことを調べようと思いましてね、鍵屋を探していました。誰かが合い鍵を作ったはずなんです。佐々山嘉門に訊きましたが、建具屋が付けた鍵なんでどこで鍵を作ったか知らないと言います。建具屋を教えてもらって訪ねましたが、かなり前に店を畳んでしまったということでした。何軒か鍵屋をあたりましたが倉庫室の合い鍵を作った店は見つかりません。それで、ふと思い付いて竹中金庫という店に行きました。なぜ最初から気が付かなかったのかと思いましたよ。あんな複雑な鍵を作るなら普通の鍵屋じゃありません。金庫破りもお手上げというすごい鍵を作るところです。ほら、善国寺の向かいにある店ですよ知りませんか」
「さあ、そんな店があったかどうか」
警部は首を捻っている。
「隣に相馬屋があって」
「ああ、そういえばそんな店がありましたな」
「竹中金庫の親父さんはたしかに佐々山日出雄が合い鍵を作りに来た、と言いましたよ。日出雄が取りに来るのはもっと先だったんですが、予定よりも早くできあがったんだそうです。で、見ると日出雄が善国寺の境内で不良仲間とふざけあっていた。日出雄は仲間と寺の裏手にある女郎屋に行くんだろうな、と親父は思ったそうです。早く作ってくれと急かされてもいたので、親父は日出雄に鍵を持って行ったそうです。すると日出雄は友だちをその場に残してどこかに消えたと言ってます。ちなみにその時には顔に傷はなかったと言ってました。夜も更けてから、戸締まりを確認するために外に出ると、慌てたようすで日出雄が善国寺の裏のほうへ駆けて行ったそうです」
「日出雄が合い鍵を……すると日出雄が犯人だと言うのですか?」
鏡花先生はそれには答えずに話し続けた。
「合い鍵を受け取った日出雄は、すぐに家に舞い戻った。合い鍵でなにをするつもりだったのか、これはお民が教えてくれました。四、五日前に日出雄が稲に乱暴を働こうとしたことがあったそうです。稲は『大きな声を出しますよ』と抵抗して難を逃れた。だから今度はだれにもじゃまされないように、倉庫室で襲おうと考えたのでしょうね。稲は皿を仕舞うために倉庫室の鍵を開けていたが、アルコールのために気分が悪くなって鍵を落としてしまい、その上に皿の入った木箱も落としてしまう。合い鍵を手に入れて戻って来た日出雄は稲が倉庫室の前にいるのを見つけ、またとない
鏡花先生は小さく息をついて、わずかな時間目をつぶった。そして顔を上げて続けた。
「慎太郎か日出雄、いやおそらく二人とも稲から短剣を奪おうとしたでしょう。そして一瞬早く日出雄が短剣を手にした。日出雄は慎太郎を刺し倉庫室から逃げた。それをお民が見ていました。お民は日出雄が倉庫室に入り、そのあと慎太郎が入ったのと日出雄が出ていくのを見ていたんです。けれども日出雄を庇うために隠していたんです。殺人犯を庇うのかと叱ると白状しましたよ」
「鍵はどうしたんでしょう。今の話では慎太郎が刺され、日出雄が逃げた。そして内側から鍵がかけられたんですな。稲がかけたのでしょうね。鍵はどこにあって、そしてどこに消えてしまったのです」
「慎太郎と揉み合った際に、日出雄は合い鍵を落としたのでしょう。日出雄が逃げたあと、稲はそれを見つけて内側から鍵をかけたのです」
「しかし、その鍵はどこにあるんです」
警部は少し怒ったような強い口調で言った。
「鍵の場所は一つしかありません」
鏡花先生は警部に顔を近づけて、小声で囁いた。
「そんな」
僕にも聞こえたその言葉は、とても信じがたいものだった。だが考えてみればその場所しかないことがわかる。
「慎太郎の遺体は、まだここの安置所にありますね」
警部は鏡花先生の問いに無言でうなずくと、指示を出すために部屋を出て行った。
鏡花先生はテーブルの上のお茶に手を伸ばして、また引っ込めた。たくさん喋ってさぞ喉が渇いただろう。すずさんの入れてくれたお茶を飲みたいに違いない。
ずいぶん長い時間待たされて、藤ノ木警部が戻ってきた。
「ありましたよ。先生のおっしゃるとおり慎太郎の腹の中にありました」
日出雄に刺されて絶命した慎太郎の腹から、稲は短剣を抜き取り、その傷口に合い鍵を隠したのだ。そして自身の喉を突いた。だから稲の手が不自然に血で汚れていたのだった。
「しかし、なんでそんなことをしたんでしょう。なぜ内側から鍵をかけたり、鍵を隠したりしたんでしょう。理由がわからない」
警部は首を横に振った。
「わかりませんか?」
警部と僕が同時にうなずく。
「稲は最後まで日出雄の母親であろうとしたんですよ。日出雄が稲を襲ったことや慎太郎を刺し殺したことを隠したかった。最後の最後に息子を庇ってやりたかったんです」
鏡花先生の目が少し潤んでいるようだった。僕も稲の慈愛に胸を締めつけられた。
「日出雄というやつはとんでもない
警部が部屋を出て行き、あとには先生と僕が残った。
「さあ、私たちは帰りましょう」
「はい」
すずさんの熱いお茶を、僕もとても飲みたくなった。
家に帰ると先生はすぐに二階の書斎に上がった。僕はすずさんが入れた番茶を運び、後ろから原稿用紙を覗いた。
真っ白な原稿用紙の一行目に、端正な筆文字で『悪獣篇』と書かれていた。
<了>
水鏡花の幻(みずかがみはなのまぼろし) 第一話 悪獣篇(あくじゅうへん) 和久井清水 @qwerty1192
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