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めでたく鏡花先生の弟子となった僕は、今日から毎日、先生のお宅に通うことになった。授業が終わるのを待って神楽坂下のお宅へ、まさに飛ぶが如く駆けて行った。
しかし先生はお留守だった。
「今日は朝からお出かけなんですよ」
すずさんは今日も明るい笑顔で迎えてくれた。
「どちらへお出かけですか?」
「佐々山さんのところで女中さんたちにお話しを聞いて、それから……どこでしたっけ。あちこち行って、お志津さんを助けるんだって言ってましたよ」
それを聞いて僕は身もだえして悔しがった。先生はどうして僕を連れて行ってくれなかったのだろう。学校なんて休んでもかまわないのに。
「さあどうぞ、上がって。お茶を入れますから」
「そんな。お茶でしたら僕が入れます」
僕は先生のお好みのお茶の入れ方を教えてもらった。茶碗が持てないほどの熱湯でお茶を入れるのは、やはり黴菌を殺すためだという。
「私も熱いものが平気になったんですよ。寺木さんもじきに慣れますよ」
そこへマツさんが駆け込んできた。
「おすずちゃん。来たよ。あれが」
ひどく慌てている。
すずさんも顔色を変えて持っていた湯飲みを僕に渡した。
「わっ、ちっちっちっ」
反射的に受け取ったが、そのあまりの熱さにまたしても茶碗を落としてしまった。
「すみません」と謝って顔を上げた時には、すずさんもマツさんも、もうどこにもいなかった。
と、その時、玄関をがらりと開ける音がして、足音高く誰かが入ってきた。
「おーい。鏡花、いるか」
見上げる僕と、その人の目が合った。眼光鋭く立派な髭をたくわえたその人を、僕は知っていた。鏡花先生の師匠、尾崎紅葉だ。『金色夜叉』で一世を風靡し、今なお新聞に連載され、日々、人々にその小説を待ち望まれているという文学界の
「なんだ
太くよく通る声が腹に響いた。
僕は思わず平伏して、「で、弟子でございます」と震える声で言った。
「弟子だと? 鏡花の弟子か」
僕はがくがくと頭を振ってうなずいた。
「鏡花はおらんのか」
「お出かけになりました」
紅葉は、「ふん、そうか」と言うなり、くるりと振り返って帰っていった。
僕はしばらくの間、動けなかった。心臓がばくばくしている。貧血を起こしそうなくらい緊張していたらしい。
「お帰りになりましたね」
すずさんが裏口から戻って来て、にこにこと笑っている。昨日言っていた、ある方というのが紅葉先生だろうと察しがついた。どういう事情があるのか、すずさんは鏡花先生の奥様であることを師匠の紅葉先生に秘密にしている。その事情を訊ねていいものかどうか、迷っていると鏡花先生が帰宅された。
「紅葉先生が、たった今見えましたよ。途中で会いませんでしたか?」
すずさんは鏡花先生に濡れ手ぬぐいを渡しながら言った。鏡花先生はそれで顔と手を丁寧に拭いている。
「いや、会わなかった。ご用件はなんだったのかね」
鏡花先生とすずさんが同時に僕を見る。
「あ、訊きませんでした」
頭を抱えて呻いた。
「僕はなんて役立たずなんだ。申し訳ありません。弟子にしていただいた初日から、こんな間抜けなことをしでかすなんて。あー、僕はもう……」
しばらく畳に突っ伏して自分を責めていたが、いつまでもこうしていては、一層役立たずになることに気が付いて起き上がり、正座した。
「終わったかね」
鏡花先生は僕の顔をのぞき込んだ。
「紅葉先生は用事がなくてもよく来るんだよ。用がある時は、私を呼びつけるんです」
「ああ、そうなんですか」
「では行きますよ。支度をなさい」
「あのう、どこへ?」
「藤ノ木警部のところです。お志津さんを救いに行きます」
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