呂律の回らぬカンタータ
「なあ、おい、聞こえるかい」
あの日、奥座敷に来たのが君でなかったら。ボクはどれだけ惨めで、悲しい存在になっていたことだろう。
「ほらご覧、綺麗だろう」
君が、ボクを面白がってくれなかったら。ボクは世間を少しも知らずに、年を重ねたことだろう。
「僕と来てくれ」
嗚呼。
ボクは、君の手をとらなかった。
今でもありありと思い出せる。あの時の君の瞳を。それは、切なくて、哀しくて、誠実で。それをボクが絶望と諦念に染めた。他でもない、このボクが。
君に寄り添ってあげられなかったこと。
ずっとずっと、棘となって刺さっている。
ボクが化け物でなかったなら。殺せばコロリと逝くような、生き物だったならば。
迷わずボクは、君の手をとり。喜んで君と地獄へ落ちただろう。
毎晩こうして静かになると、君のことばかり思い出す。
枯れることのない涙がまた頬を伝った。
ソファに寝転がる。
あの時、君の手をとったなら。
とったなら、ボクは、どうなったのだろう。
今からでも遅くないだろうか。
「無駄さ」
ああ、無駄だとも。
死ねるわけはないのだ。どれだけ願おうとも。
テイが良くても、化け物。
身の丈は痛いほど分かっている。小さいとかいう、そういうのじゃなく。
でも、どうなるのかは、正直気になるところではある。
死ぬことのないこの身が死を迎えたのなら。
「むむっ、降りてきたぞ」
頭の中で閃きがおこる。インスピレーションというやつだ。
「そうだなぁ」
起きあがって、パソコンを点けようとして。
ぴたりと思いとどまる。
鬼の形相で叱ってくる彼が浮かんだのだ。
絶対、また怒られる。
よくない。非常に、よくない。
身震いを一つ、それからソファに座り直した。
ペン立てから鉛筆を抜き取って、手に持つ。
紙は、どうしようか。その辺の裏紙でいいだろう。何枚かを、ぺらりとテーブルの上に。
鉛筆のお尻で、こめかみを不規則に打つ。
「さぁ、どうしようか」
試しに筆を滑らせてみる。
「……」
君は、化け物を見るような目で、ボクを見ることはしなかった。最期まで。
一人の人間として、対等な関係として、友のように接してくれた。
その感謝は、どれだけ君が偉大だったかは、決して忘れない。
けれどボクは、君の手をとらなかった。
君は恨んでいるだろうか。
仲違いしていたら、できていたら。君はボクを恨めたろうに。なのに、最後まで、君はボクに優しかった。友人のままでいてくれた。
今だって君は慈愛の眼差しで、地獄の底から、ボクを見ていることだろう。
瞼を閉じる。
奥座敷のすみっこで、かたかた震えるばかりだった。
今のボクからしてみれば、確かにあの頃のボクは化け物でしかなかった。
君が、襖を開け放つまで。
「僕とおいで」
ボクは、おっかなびっくりするしかなく、君の手をとるまでに随分かかった。それでも君は辛抱強く、待ってくれた。無理やり掴んだり、引っ張ったりせず、手を延べていてくれた。
だからボクも、指先でそっと君の手のひらに触れた。
鉛筆を置く。
あの温もりを思い出し、指先を握った。
もう一度会えたら。
じわりと涙が滲んだ。
壁かけ時計が落っこちる。慌ててボクはそれを戻した。針は壊れていなかった。午前零時を回っていた。
人の死を悼むこと。
人を愛おしむこと。
全部、君が教えてくれた。
人間とは何か。
生きるとは何か。
それは君との思い出だ。
ボクにとっての死とはつまり、君が拾って直してくれたボク、の死だ。
「それは、嫌だなぁ」
ひとりでに声が漏れた。
なくなってしまうのは誰でも悲しい。ボクだって。
「ねぇ」
頬杖をついた。
ボクは語りかける。
そこに君がいるかのように。
「君が死神だったなら、どんなによかったか」
そうしたら君はきっとまた、あの時みたいに、ボクに手を差し出すのだ。
「三度目の正直さ。ボクは君の手をとろう。約束しよう」
虚空に向かって手を伸ばす。
「それで裏切ったのは二度目だけってことになる。それでおあいこにしようじゃない」
視界に映るのは、いつもと変わらない社長室だ。
「だから、連れていっておくれ」
けれどボクには見える。君がボクに笑いかけながら、こちらにその手のひらを向けているのを。
「……なんてね」
伸ばした手は空を掴む。だらんと、重力に従って。
死にたい、とは思わない。終わらせたいとも。
もっともっと永く生きたら、いつかはそう思う日が来るのかもしれない。
「君といきたいと、どれだけ思ったか」
そこに嘘はない。本当だよ。
だけれど、君がくれたボクを存えさせたいというのも本音だ。
せっかく君が、ボクを。
だからせめてその分は、浮世にいようと思うんだ。
綺麗事だ。
「そうとも」
毎晩毎晩、そんな言い訳ばかりを連ねて。来もしないその時を夢見ている。
君が死んでから、数えきれない夜を明かした。
ボクは眠らないけれど、夜毎、君の夢を見る。
届かない懺悔を延々と吐き出しながら、君と過ごした日々を想う。
とても幸福で、とても悲しい時間。
また鉛筆を握った。
「君の墓を見るボクの気持ちが分かるかい」
悩む必要もないくらいにフレーズが浮かんでは消えていく。
でもどれも、あまりにもボクと君だった。
「自叙的なものは主語が大きくても通用するものでないと響きませんよ」
「分かってるよぉ!」
頭の中で彼の声がこだました。
「客観視でしょ、今ちょうどやってたところですぅ」
唇を尖らせた。
デスクの向こうの彼のチェアを回転させてやる。だんだんと速くしていって、背もたれの遠心力に勝てなくなると、当然倒れる。スカッとした。
床で音を立てる時計をちらと見ると、まだ五分も経っていない。
退屈だ。
零時を過ぎたので、もう警備員もやって来ない。
夜更けのオフィス街は、真っ暗でしんと静まり返る。昼間の賑わい、人の大勢いる息遣いやら衣擦れやら物音やらはさっぱりない。
寂しいのにはもう慣れたが、己以外に何にもないと、気が違いそうになる。
窓を開けた。風が入ってくる。それだけでも、重要なことだった。
「君はただの人間だった」
ただの人間からすれば、ボクは近寄りたくないモノだろう。何か、利己的な、彼のような野心がない限り。ボクを視認するのは、変わり者のすることだ。
「自信ないぞ」
紙きれに書いた言葉たちを吟味して、その上から鉛筆でぐちゃぐちゃになぞる。
君が骨だけになった時、ボクは君の喉仏を持って行きたくて堪らなかった。成仏なんてさせてやらない、地獄で待っててほしかった。
でもそれじゃあ、ボクたちじゃないでしょう。
人間と、そうでないモノ。分かりきってて一緒に過ごした。いずれ君は、ボクより早くいなくなること、承知の上で共にいた。
それをボクのわがままで壊しちゃあ、二人の全部が嘘になる。
代わりに、四十九日、君の隣で眠った。君が抵抗できないのをいいことに。ボクは眠らないけれど、横たわって、土の匂いを嗅いでいた。たまに夢みたいに、髪がさらりとさらわれて、君かと思って見渡しても、風の仕業と知るばかり。
生きているってこういうことなのだと、妙に納得したものだ。死にゆく誰かを偲ぶことこそ、己が生きているという証。
まるで人間みたいで。くすくす笑った。
君は還ってこない。
たられば、は生命に対しての一番の冒涜なのかもしれない。けれど思わずにはいられない。
このもどかしさこそ、人間だ。
「ねぇ。ボクはもしかしたら人間になりたいのかもしれないよ、君」
そんなことを聞いたら、君は目を点にするだろうね。そして笑うんだろう。
また涙が浮かぶ。
君がボクに望んだこと。
周囲がボクに感じたこと。
座敷童が今、思うこと。
自然と手が動いた。
すらすらと、滞りなく書き連なっていく。
ボクが人間だったなら、君の手をとれた。
でも君だって、同じようなこと考えてた。自分が人間じゃなかったら、って。優しい君のことだから、きっと。
ボクを置いていくことを、ずっと悩んで悔やんでいた君のことだもの。
「ひとりにさせてすまない」
君とボク、どちらが言ったのだったっけ。
紙面にぽたぽたと水滴が落ちていく。
まもなく視界がぐにゃりと歪んだ。
「…………会いたいなぁ」
大きな物音が起こる。
カレンダーと賞状の入った額縁、用途の分からない置き物に、高価そうな絵画。
それらが次々と落下していっていた。
「会いたいよ、君」
もしも浮世を去る時が来たら、その時は地獄に堕としてほしい。そうすれば人間に生まれ変われるから。
耐えられなくなって、嗚咽が漏れる。
君が死ぬまでに葛藤した重石を、ボクが受け継いで、背負っているのだろう。
「死にたくなかったよなぁ、君だって」
ずっと一緒にいたいなあ。
君の最期の言葉。
息を吸うみたいにそう言って、吐く前に君は終わってしまった。
握りしめた手が徐々に冷たくなっていく。
何もできない。無力だ。
その内に君はどんどん青ざめていって。
君が死んでから、最初にボクが言った台詞を君は知らないだろう。
「嘘だろ」
信じたくなかった。嘘であってほしかった。本当に死んでしまったのだと、ボクは理解した。でも腑には落ちなかった。今この時だって、納得はできても、落着はしない。
どうにか無理やり詰め込んで、咀嚼して、飲み込んでも、心は空っぽだった。どこも満たされないのだ。
正直に言うと、嫌だったんだ。君が死ぬの。
強がって、君には一度も言えなかったけれど。
だっておかしな話だろう。化け物が人間に、死んでほしくない、だなんて。
デスクの引き出しの中から文房具が飛び出した。棚からはたくさんのバインダーと、ファイルが。
いつものことながら、部屋はめちゃくちゃだ。
「あーあ、怒られる」
濡れそぼった顔で笑う。
朝になると彼が来て、物凄い剣幕で詰め寄ってくるのだ。そうに違いない。
怒られるのはいい気分じゃないけれど、ひとりよりずっといい。
最近になって学んだことだ。
君と一緒になっていたら、一生分からなかったことかもしれない。そもそも君は怒らないし。
書きあがったそれは、涙に濡れて読みづらかった。
これをそのまま提出するのは忍びない。コピー機に読み取ってもらって、印刷してもらおう。その方が読みやすいし、親切な気がする。
名案だ。
袖で顔を拭いて、しおれた紙をコピー機に飛ばす。夜中に電力を使うと彼がうるさいが、作品のためならば許してくれるはずだ。きっと。多分。おそらく。
社長室の扉を開けた直後の彼を想像して、ほくそ笑む。どんな反応をするだろう。いや、まあ、怒るには怒るのだろうが。
彼については、難しい顔をしているところしか見たことがない。ボクよりよっぽど人っぽくないのだ。意外にも中身は人間くさいので、ボクは気に入っている。
コピー機が動き始めた。目論見は成功しそうだ。
「早く見せたいな」
わくわくしながら、床に転がった時計を見る……なんだ、まだ十分も経っていない。落胆のため息をついた。
ソファの上で膝を抱える。
彼はこれを見てなんと言うだろう。
力作でも自信作でもないので、こっぴどく言われても大丈夫だろうとは思う。
「でも、否定されたら泣いちゃうかも」
いつものことだ。
「けど、褒めちぎられたら困るかも」
なぜだろう。
化け物の死生観を歓迎されても、ボクにはピンと来ないのかもしれない。
いっそのこと破り捨てられるくらいで、踏ん切りがつくのかも。
「……破り捨てられたら、辛いだろ」
首を横に振った。
未練がましくて、情けなくて、意地っ張り。もしかすると、ボクはもう既に人間なのかもしれない。
電子音がした。印刷が終わったようだ。
用紙を天井まで浮かせ、窓際で離す。
「どうだい、君」
風が入って来ているというのに、用紙はすとんと真下に落ちた。
「ああそう」
ボクは苦笑して、落ちた用紙だけを、デスクの上に着地させた。他の物は、落としたまま。
「駄作かぁ」
コピー機の電源を切る。
塩が乾いたのか、顔が引き攣っていた。
「泣いちゃうなぁ」
零時半まで、あと十分。
生のエチュード 山城渉 @yamagiwa_taru
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