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小田鞠白奈@odamari sirona

はじまりのクッキー缶

第1話 針と矛盾

 隣席の終夜りずが、尻で椅子を蹴とばすようにして立ち上がった。

「わたしは賛成! だって、人のからだに針を刺せるのよ!」

 私は俯いてやり過ごすことにした。

 現在、三年一組の教室にて催されているディベートのテーマは「安楽死」である。医者とか専門家とかの、精鋭的な脳みそを集結させてもなお結論の出ない、生命倫理における最重要課題。権利ばかり主張して責任は取ろうとしない未熟な十代の子どもらが、はたしてその是非を語るに値するのだろうか──そんな問いを抱えながら夜な夜なまとめた机上の資料に目を落とし、印字の羅列を追うのを試みる。しかし、返って過敏になった感覚は絶えず世界を捉えようともがいて、すくい上げた指の隙間からぼたぼたっとこぼれ落ちていく。まず、安楽死の正当性を力説していた賛成派の山田くんの、応援演説のような大声が止んだ。続けて露骨な舌打ちと、かぼちゃを落としたような音。俯いているために実際のところは知れないが、終夜りずの狂言により意欲を削がれた彼が、椅子に腰を落としたのだろう。これ見よがしにと、乱暴に。また、教室後方に椅子を寄せただけの観覧席では、授業開始時から続いていた芥子と桂里奈の駄弁りが打ち切られる。

 教室は静まり返った。

 しかし、自分がディベートを機能不全に追いやった事実を、終夜りずは気にも留めなかった。

「お前のまね!」

 むしろ玉のように声を弾ませて、椅子の座面に尻を叩きつけるようにして着席したのである。あえて過剰に勢いづいたのか、椅子の脚が床を滑る嫌味な音が続く。

 私はたちまち針のむしろに座った。俯いたまま、このまま自分の双眼が床にくっついてしまえばいいのにと思った。

 終夜りずが演出した一連の音の響きが、先ほど山田くんが見せた憤りの態度と、あまりにも似通っていたからだ。

 この場において私と終夜りずのふたりは、安楽死反対派という立場から、間隔を置いて向かい合う賛成派の面々と建設的な議論を交わすはずだった。

「山田くん、落ち着きなさい。気にしなくていい、そのまま続けてくれていいから。な?」

 クラス担任の鹿戸先生が、山田くんを必死になだめる声が聞こえる。終夜りずに対して野次のひとつも飛ばさないまま黙りこくる、観覧席のクラスメイトの諦めた雰囲気。終夜りずの横暴に、バディとしての責任を放棄して逃げ回る私。

 ディベートの精力的な空気は再起不能なまでに砕かれた。

 三年一組の日常が、そこに戻った。


『ひとの可能性とは、当人にゆるぎない意思さえあれば、無限に広がってゆくものなんです。江國と闘い駆け抜けた三年間から得た、ぼくなりの経験則です。──2023/9/8』

 十数行に渡るテキストを読み切って、少し迷ったあとに、はじめていいねボタンを押した。白色だったハートマークが親指越しに赤く弾けた。引き続き端末に指を滑らして、テキストに添えられた一枚の画像を見返す。

 ここ数年お馴染みになっていたパジャマを脱ぎ捨て、年相応の快活な服装で、少年は笑っていた。両腕に抱えた花束の豊かな花弁が、朗らかな笑みを浮かべた口元を祝福のようにくすぐっている。背後に立つガラス張りの雄大な建築物は、昨日まで彼が入院していた星霜病院だろう。私が普段自転車で走り抜ける通学路でも、ひときわ存在感を放っている施設だ。

 今日より半年ほど前から、SNS上で綴られる東屋江國あずまやえくにの闘病記を追ってきた。

『2020年5月中旬頃、当時11歳の息子・江國(‘‘えくに,,と読みます)が破傷風を発病。父親の立場から、息子の闘病生活を記録していきます。幸福な結末だけを信じて。』

 初見時から全く変更のない以上のプロフィール欄から察する限り、「東屋健」というアカウント名は江國の父親で間違いない。東屋健は、病に倒れた息子の病状を毎日欠かさず投稿していた。

 投稿一覧を古い順表示に変えると、二〇二三年の二月一日の昼どきにされたものが先頭に上がった。*骨の輪郭が目立つ痩せぎすの右腕からは透明のチューブが伸び、点滴スタンドに繋がっていた。定期的に摂取される養分が、人の肉体としての健全性をかろうじて取り戻してくれている。

 ふと、画像を全体表示にしてみる。チューブの先の点滴留置針が手首に刺さっている個所を指先で拡大する。体育館裏には私しかいない。凝視する。皮膚を貫く針。皮膚を貫く……。

 残念なことに、東屋江國は今や、点滴を必要とする貧弱の身ではなくなってしまった。人に針が刺さっている写真を、リアルタイムで追う機会が潰えてしまった。お気に入りの本を読み返すように、彼が生きた苦悶の日々をこうして遡ることでしか、私の欲求は満たされなくなる。

 ──私は賛成。だって、人の身体に針を刺せるのよ。

 数時間前にクラス中を絶句させた終夜りずの言葉が、私に寄り添うように思い出された。

 あの発言の土台をつくったのは私である。くじ引きの結果、私たちは安楽死反対派として徒党を組んだものの、ディベートの準備に奴が協力するわけもなかった。ディベート開始十分前になってようやく、徹頭徹尾私の独断で作られた資料を読ませた。九ページにわたる資料すべてに目を通さないうちからりずは顔を上げ、私にこう問うた。

『わかんない。あんたのし、ってどういうこと?』

『あんらくし、だし……。病気とかがつらくて死にたい人を死なせてあげること。同意の上で殺すの』

『警察に捕まるじゃん』

『……捕まらない。許される』

 どのような状況でも一律に当てはまる返答ではないことは承知の上で、あえて省いた。

『え! それってどうやるの』

 いい加減、煩わしさに身も震える思いに侵されつつあった私は、

『さあ? 注射とか刺すんじゃない? 普通』

 と、至極適当に答えたのだった。

 終夜りずにとってさぞ魅力的な回答に映ったことだろう。

 砂利を駆ける足音が突如背後に迫る。

「星霜久遠!」

 自分に呼びかける大声を聞いたとき、私は口元に指を当てて「しっ!」と即座に声の方を振り向いた。誰が来たのかは分かっていた。

 日頃の横暴さえ知らなければ見惚れるのも致し方なしと言えるほどの美貌が、息を弾ませて私のもとに駆け寄ってくる。

 終夜りずだ。

 彼女は私の正面で足を止めると、膝に手を置いて絶え絶えの息を整え始めた。呼吸が咳のように勢いよく吐き出されては止まらず、言葉を発するタイミングを掴みかねたうめき声だけが漏れている。また、瞳にはべらせた豊かな睫毛から、汗の玉がぽたり、と垂れるのが見下ろせた。

 こいつは掃除時間前の昼どき、給食を一度たいらげて三回おかわりしたあとに、教室を出て行った。日頃の奇行から比べれば無害で些細な行動で、誰もその出先を気にかけなかった。こいつがどこに行ってどうしていようがみんなどうでもいいのだろう。それにしても、水汲みポンプを稼働させるように肩が大きく弾むさまをこうも見せつけられたら、いったいどれほどの遠方から駆けてきたのか不思議になる。

 なにより──

「あんた……なんでそんな泥だらけなの」

 学校指定のものではない自前の運動靴が泥にまみれていたのが、その疑問を一層、後押しした。終夜りずが、体勢はそのまま顔だけを私に向けた。疲弊に侵された身体とは裏腹に、巨峰のような黒目がちの瞳はぎらついた光をうごめかせている。

「死体を見たの!」

 私はスマートフォンを制服のスカートに押し込んで、手編みほうきを握る左手を放した。終夜りずは素直に倒れゆくほうきを傍目にもやらず、そのけたたましい落下音と同時に、私の眼前に座り込む。ふたりの視線が一直線上で交わる。

「何の死体だった?」

 質問で返した私に、終夜りずはがたついた歯列を見せて邪悪に笑いかけた。

 そしてその表情を崩さぬまま、

「クッキー缶くれたら教えてやる」

 と、己の優位性を誇示するように立ち上がったのだった。顔全体に日光の陰が差しているなか、唇の間から覗く舌だけがてらりと濡れていた。

 勿体を付けて提示されたその条件は、突拍子のない無理難題ではなかった。私は「はいはい」と言いながら背後の靴箱を振り返る。最下段の隅のスペースへ雑に押し込んでおいた紙袋を、腕を伸ばして引きずり出す。側面のざらついた手触りとそれなりの重量を片手に感じながら、「ん」と言って終夜りずに突き出した。彼女は粗暴にそれをひったくる。紙袋の口を開いて中身を取り出すと、目もやらずに紙袋を背後に放った。それは、ふいに吹いたそよ風に身を任せ、かさかさと遠くへ滑っていく。私も、側面に印字された『星霜工房』という赤文字から早々に目を逸らした。

 戻した視線の先で、終夜りずがクッキーをむさぼっていた。私からすれば吐きそうなほどに甘ったるいバターと小麦の匂いが、そよ風に混ざって鼻腔をくすぐる。

 紙袋の中身はクッキー缶だった。

 私が一から手作りしたものではない。今朝、母が店の販売用に作った数ある品から適当にくすねて、通学鞄のなかに押し込んでいたのである。そして清掃時間に合わせ、ひっそりとこの場に持ち出してきた。終夜りずに渡すため。

 黄色い正方形の缶からクッキーを摘まみだしては口に放り込む終夜りずの立ち姿を、視線を上にして見据える。彼女は私を見ていなかった。まるで、心身に湧き立つあらゆる欲求を全て食欲に転換したようだった。今はもう、目の前のクッキーをすべて平らげることしか考えられない。平常とは思えぬ食に対する執着心が瞳の膜に張り付き、ぎらぎらと卑しく輝いていた。

 バニラ、ショコラ、たぶんメープルナッツ、チョコチップ、緑だから抹茶……一方の私は、終夜りずの口のなかに次々と消えていくクッキー一枚一枚の味を目測する。フレーバーはそれぞれ違うけれど、形状は共通して小さな円形であることに気が付いた。アイスボックスクッキーのセットかもしれない。生地を丸筒状に成型して、一定時間冷蔵したあとに、任意の幅でカットして焼成するクッキーをそう呼ぶ。冷蔵庫(アイスボックス)を使用する工程が由来になっていると思われる。

 終夜りずが気まぐれにクッキー缶を欲しがる。私はそれに応じて、母の店から商品のクッキー缶を盗んで彼女に捧げる。

 彼女が私の家で飼われていたブス猫を殺して、その死体を学校に持ってきたときから続いている関係だ。終夜りずが己の評価を決定的に捻じ曲げた、中学入学から一か月と経たぬ春の日の事件だった。

 ん、とくぐもった声が追想する間もなく降ってきて、空になったクッキー缶が眼前に突き出される。未だ口いっぱいに咀嚼しているせいで、その優美な顔の輪郭は下膨れのようになっていた。「その辺に捨てといて」と、受け取る代わりに返事をする。その直後に笑い声をあげてしまったのは、りずが背を向けて野球選手のように投球フォームを整えてから、缶を勢いよく投げつけたからだ。缶は花壇を乗り越え、その先の車道を走行中だった車に激突した。

 そのまま跳ね返り、けたたましい音を立てて車道を転がるクッキー缶。降り注ぐ日光がアルミ製のまっすぐな輪郭を捉え、その眩い光線に思わず目をすがめる。森のくまさんモチーフのデザイン缶の健康的な深緑色は、暑い空気によく映えて見えた。

 さて、とりずに視線を転じる。等価交換を終え、期待に胸が高ぶり始める。

 今度はいったい何の死体を見つけたのだろう。

 六日前には、目立った遊具のない廃れた公園にて、お好み焼きのようにぺちゃんこになった鴉の死体を見せてくれた。猫やたぬきの死体は案外見かけるが、野鳥の死に様はなぜか貴重だ。終夜りずは、状態のむごたらしい動物の死体を探すことにかけてはスペシャリストの域にあった。

「隣のクラスにさ、ずっと学校休んでるヤツいるの知ってる?」

 だが彼女はその日、予想外の方向に舵を切った。

 少しの猶予のあとに私は口を開いた。

「……東屋江國のこと?」

 三年二組の不登校児といえば、東屋江國の存在が一番に思い当たる。破傷風を患い、長期入院を余儀なくされていたが、今日を以って完治と退院が確認された、同級生の男の子。

「そっ。そいつがね、山で死んでたの」

 いきなり話題変えてなんなの、という苦情は声にならず、唾液に溶けて消えた。

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