第七話:花と海
早朝、へとへとになりながら鯨の体内から飛び出した二人は、宿泊しているホテルに戻ると、風呂にも入らず床へ倒れ込み、そのまま寝てしまった。
身体が眠る。
わずかな誤差が金縛りのような感覚となり、脳もそれに続いていく。
(感情が、整理出来ない……)
砂が混じる春風が木々の間をすり抜け、色鮮やかな世界を白く染めていく。
壊れかけた宮殿は人間の軍隊に占拠され、散り散りに逃げ惑う王族の中に一人、小さな男児の身体を布にくるみ、抱きしめる女性の姿があった。
両耳から血が流れ、顔は泣き腫らしたように赤い。
女性は「ごめんね……」と呟き、宮殿の奥深く、地下へと進んでいく。
地上では泣き叫ぶ声をかき消すほどの銃声が響き渡り、砂の大地が赤く染まる。
女性は〈
――「私もすぐに行くわ」
棺が閉まる音。
それが合図だったかのように、丸く広がる砂の地底湖から、一頭の鯨が顔を出した。
――「さあ、この子を連れて行くのよ。人間の手が届かない、遥かな地へ」
鯨はゆっくりと頷くと、棺を飲み込み、砂の中へ消えていった。
女性が手向けた、男児への愛情と共に。
「腹減った!」
大きな声に驚き、アルカは目を覚ました。
「もう十五時だ。かなり寝ちまったな」
「ごはん、食べに行こう。お風呂入ってから」
「俺はもう入ったから、さっさと綺麗になってこいアルカ」
「うん」
立ち上がると、砂がパラパラと床に落ちる。
あとで掃除もしないとな、などと思いながら、洗面室を通り、バスルームへ向かう。
服も下着も脱ぎ、シャワーを出す。
ちょうどいい温度に、少し強めの水圧。
お湯に顔をさらした瞬間、涙が流れた。
「悲しい。花のように咲くことも出来ないまま、命が失われるなんて……」
砂が水に浮かび、サラサラと流れていく。
昨夜見た流砂のように渦巻いて、吸い込まれていく。
行き先は違うけれど、どちらもどこか物悲しい。
「早く出なきゃ、ピクロが覗きに来ちゃう」
アルカは涙をお湯で流し、全身を洗うと、バスルームから出て身支度を整えた。
「代わり映えのしない服装だな」
「ファッションとかよくわからないもの」
「一緒に出掛けるような友達、いないもんな」
「うるさいなあ」
その時、外で大きな鐘の音が鳴り始めた。
「……
「本当だ……」
「俺は身体が黒いからこのままでも大丈夫そうだが、アルカは一応布巻いて行った方が良いんじゃないか」
「そうする。黒いスカーフを腕に結んでいくよ」
アルカは鞄から取り出した黒い無地のスカーフを、右腕と箒に巻いた。
ホテルの廊下へ出ると、すでに従業員によって弔意を示す布や飾りが用意され始めている。
「聞いてみようぜ」
ピクロに促され、アルカは近くにいた従業員の女性に話しかけた。
「あの、どなたが亡くなられたのでしょうか」
「ああ……。先代皇帝のお姉様であらせられる、
女性は泣き出してしまった。
それほどに、愛されていた人物だったのだろう。
「教えていただいてありがとうございます」
アルカとピクロは女性にハンカチを渡し、ロビーに降りて行った。
すると、そこで最も会いたくない人々と鉢合わせてしまった。
「あははは。
不謹慎なことを言いながら大声で嗤っているのは、軍服を身にまとった八人のダジボーグ人たちだった。
「大長公主殿は
ロビーの空気が張りつめる。
「あの、失礼ですよ」
自分でも驚くほど大きな声が出ていたアルカ。
「なんだとガキ……。ああ、そうか。お前も異種族なんだな」
「魔人族です」
「……穢れた魂を持つ者か」
ピクロの毛が逆立つ。
今にも飛びかかりそうだったそのしっぽを掴み、引き留めた。
「あなた方が異種族に対し好意的ではない感情を持っていることは周知の事実。それでも、悲しみに暮れる人々に対し、敬意を持って接する知性すらないのですか?」
ダジボーグの男が額に青筋を浮かべ、目を見開いた。
「言わせておけば……。今ここで痛めつけてやってもいいんだぞ」
「せっかくなら外でどうですか? あなたはわたしと戦うことが出来るし、わたしは自身の魔法を
「生意気なガキめ!」
男が手を振り上げた瞬間、階段から降りてきたダジボーグの男性がその手を握り、降ろさせた。
たくさんの階級章がついた軍服。
その立ち居振る舞いには、品と威厳がある。
「やめろ。郷に入っては郷に従えと言ったはずだ」
九人目のその男性は右腕に弔意を示す黒い布を巻いていた。
「お前たちも身につけろ。これ以上、ダジボーグの恥をさらすな」
男たちは深々と頭を下げ、男性から黒い布を受け取ると、自分たちの腕に結び付けた。
「申し訳なかった。
男性は頭を下げ、その場にいた全ての人と目を合わせるように礼を尽くした。
「私たちは立ち去ろう。また、夜に」
男性はそう告げると、フロントに鍵を預け、颯爽と歩いて行った。
男たちは男性を「お、王子!」と呼び、慌てながらその後を追いかけていった。
「ナイトシェイド様。巻き込んでしまい、すみませんでした」
受付の男性がカウンターから出てきて頭を下げた。
「そんな、謝らないでください。わたしが勝手にしたことですので」
アルカは男性の手を取り、顔を上げるよう促した。
「正直に申し上げると、嬉しかったです。怒ってくださって……。大長公主様は本当に愛されている方なので」
「先ほど、他の従業員の方にも聞きました。もしよければ、御焼香したいのですが……」
「ありがとうございます。ここからほど近い寺院にてお線香を上げることが出来ます」
「わかりました。行ってきます」
アルカは会釈すると、ピクロと共にホテルを後にした。
「さっきの奴、王子とか言われてたな」
「そうだね。真面目そうな良い人だった」
「良い人とは違うだろ。常識と知性はあるようだったがな」
「辛口だね」
「ふんっ……。おい、すごいな」
寺院までの道に、たくさんのひとが連なり歩いていた。
「まるで……。いや、なんでもない」
「わたしたちも歩いて行こう」
アルカは箒を
三十分ほどかけて寺院へたどり着いた二人は、焼香を済ませ、境内にあるカフェに入った。
食事をし、悲しみの景色を見つめたあと、そのまま寺院に併設されている博物館へと入館した。
「ねぇ、これ……」
そこにあったのは、
「大長公主の母親は、翡翠国
「え、じゃぁ、翡翠人の皇后陛下がいたってこと?」
「いや、皇后じゃなくて、
貴妃と言えば、皇后に次ぐ高位の
「『心が花となり、その笑顔は春風のように穏やかで美しい貴妃に陛下がつけた呼び名は、
母親から、心のままに花を咲かせる能力を受け継いだ大長公主は、その心根を同じくらい美しい花で国中を彩っていたのだろう。
今はただ、暑さも忘れるほどの深い悲しみが国を覆い、夜の帳のように影を落としている。
「行こうか」
「そうだな」
二人は博物館を後にすると、陽が完全に落ちてしまう前に採掘場へと向かった。
採掘場上空に着いたアルカとピクロは、眼下で行われている争いに、考える暇もなく飛び込んでいった。
「何をしているんですか!」
人間が三十人ほどに、獣化種族も同じくらいの人数が、怒号を上げながら攻撃しあっている。
一瞬の眩い光。
攻撃の手を止めさせようと、刹那の間視力を奪う程度の光を放った。
誰も傷つけないために。
「な、なんだ⁉ ……お前は、昼間の!」
ホテルで会ったダジボーグの男たちが目をこすりながらアルカを睨みつけた。
「なんでこんなことに……」
アルカの問いに、
「あいつらが、俺たちの前で喪章を燃やしやがったんだ!」
見渡すと、ホテルで男たちを諫めていた王子の姿がない。
アルカはダジボーグの男たちに向き合うと、手と目に魔法陣を展開した。
「あなた方が王子と呼んでいた良識ある男性はどこですか」
「お前には関係ないだろうが」
「では、あなたに話すことにします。何故わざわざ異種族間の溝を広げるような行為をするのですか」
男は嘲笑しながら言い放った。
「穢れた魂の奴には何を言ってもわからないだろう。穢れた身体を持つ者たちへの嫌悪は。ひっこんでろよ」
篝火の揺らめきに、銃口が照らされる。
「なあ、魔人族の小僧。お前もあいつらのように、銀の弾丸で死んでくれるのか?」
空気が酷く冷たく、張りつめた。
『銀の弾丸』は、獣化種族へ向けた最大の侮辱。
狼化種族に関する迷信から生まれた差別用語だ。
アルカの中で、何かが光った。
それに導かれるように、手を銃のように構え、魔法を放った。
鈍い銀色の輝き。
それは男の頬を掠め、一筋の血を流した。
「な、なんだ……」
アルカは手を降ろしながら、自分のものとは思えないほど低い声で言った。
「銀の弾丸なんて、心臓や眉間に当たれば、種族関係なく死ぬでしょう?」
ダジボーグの男たちは「覚えてろよ、穢れた魂をもつガキめ」と言い残すと、その場から退いて行った。
息をのむ音。
アルカはそっと振り返ると、「みなさん、大丈夫ですか……」とたずねた。
すると、弾けるようアルカ目指して集まってきた獣化種族たちは、口々に賞賛の言葉を紡いだ。
「君、すごいね! あいつらを追っ払っちゃうなんて、本当にすごいよ!」
「無駄に怪我しなくて済んだよ。ありがとう」
「強いんだね、君」
アルカは困ったように微笑みながら、「争いが収まってよかったです」と呟いた。
何名かと固い握手を交わした後、「じゃぁ、また!」と笑顔で手を振り合いながら、それぞれ採掘地へと散っていった。
「ダジボーグの奴ら、何がしたかったんだろうな」
ピクロは顔をしかめながら天を仰いだ。
「わからない。誰かを故意に傷つけたいと思う感情なんて、一生知りたくないよ」
「それもそうだが、自衛のためにはいかれた奴らの思考回路も察知できるようになっておかないと」
「ピクロは時々達観したことを言うよね」
「長生きだからな」
お前をお前自身の運命から護るためだ、などとは、口が裂けても言えない。
ピクロは星々の瞬きを眺めながら、そっと溜息をついた。
(失ったものを数えても、一瞬思い出が輝くだけで、全て砂のように手のひらから零れ落ちていく。むなしい祈りを続けるくらいなら、目の前にある宝物を護り、より好い未来を願った方がよっぽどいい)
本来の姿が猫の身体に重なる。
誰に見えるわけでもないけれど、親友と過ごした過去が月明かりのように煌めいて、目に染みる。
「ピクロ? 大丈夫?」
「あ、おお、うん。何でもない」
砂漠が青く光る。
底の無い、冷たい海のように。
人形たちの魔法 ――将来の夢は魔王にならないことです―― 智郷めぐる @yoakenobannin
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