終章

 ハマベは畑を耕す手を止めて、しばしの休息を取った。

 体が軋むように痛み、思わず声が漏れる。やれやれと、土手に腰を降ろした。

 自分は体だけには自信があったが(それだけと言えたが)、年月の流れには、さすがに逆らうことはできないようだ。酷使し続けた体はそろそろ限界を迎えようとしている。でもそれでよかった。自分は長く生き過ぎた。多くのことを見聞きしすぎた。もう充分に役目は果たせたであろう。なぜなら、もうあのお方もいないのだから…。ずっと背中を追ったあのお方も…。

 あのお方が薨去(こうきょ)されたと、はじめ耳にした時は全身の力が抜け落ち、その場に倒れ込んだ。いてもたってもいられず難波に走っては高台の宮を望んだ。同じように宮を望んで手を合わせているものたちがたくさんいた。そして皆口々に言った。あのお方ほど自らを顧みず国のこと、そして民のことを見たお方はいなかったと。ハマベもそのとおりだと皆と共にうなずいた。

 河内もかつてでは考えらなかった程に、秋になれば稲穂で埋め尽くされるようになっていた。すべてあのお方のおかげである。六年にもおよぶ調(みつぎ)の停止から、難波で始まった大工事。自分もぜひこの体を使えればと人夫として難波に出向いてきた時に見た光景は、今でも昨日のように思い出すことができた。あれほどとてつもない壮大な様子は、未だかつて目にしたことがなかった。人がまるで虫のように群がり山を切り開き、川を作り、土や石を運んでいるのだ。

 何度か、行幸してきたあのお方のお姿を目にしたことがあった。

 幼い頃の面影が残っていて、見れば懐かしさと共に誇らしい気持ちになった。従者から説明を受けるあの人の背中を、作業の手を止めては眺めた。あの大きく頼もしい背中。いつもただ見上げるしかなかった背中。変わらない姿になぜか涙が出るほど嬉しくなって体に力が湧いたのを覚えている。

 それからは人手を必要としていると耳にすれば、山背、河内と出向いては人夫として従事した。片足羽から感玖の工事が始まっては、この百舌鳥野に移り住んだ。自分が生きているうちに工事が終わると思わなかったからである。この身が朽ちるまで捧げるつもりであった。あのお方が思い描いた河内の姿を実現するためには、何があろうとも捧げようと、そう誓ったのであった。

 …なのにまさか、あのお方の方が先に逝ってしまわれるとは…。

 長い殯が終わり、あのお方の亡骸がこの百舌鳥野の墳丘に改葬されてきた。難波から船に乗せられ届けられた棺が墳丘の頂上まで運ばれた。

 数日間に渡って頂上や濠の淵では儀礼が行われ、終わると入口が埴輪で封印された。

 儀礼を眺めていた邑のものたちは、蜘蛛の子を散らすよう墳丘から離れ帰っていったが、ハマベだけがずっと墳丘を眺めていた。海原を望む巨大な墳丘は、あのお方に相応しかった。いや、あのお方そのものであった。

 まるで、あのお方が土手の上に寝そべり、


「ハマベも一緒に寝そべてみたらええやんか。気持ちいいぞ」


 と言って、いつの日かのように笑っているかのように見えたのだ。

 バカみたいだが、それでようやく深い悲しみが和らいだ気がした。

 それまで夕暮れを見ると、言い知れぬ不安に襲われ、過ぎ去った昔のことを思い出しては涙も流したが、以来、そんな風に思うことはなくなった。

 それからは毎日のように墳丘に出向いては、朝日を望み、夕陽を望むようになった。



 そんなある日の夕暮れのことであった。

 いつものようにハマベは墳丘にやってきて、あのお方を慰めるために柏手を打ち墳丘を見上げ、濠の淵沿いに歩き海岸線の方へ足を運んだ。

 すると、なにかがおかしいことに気が付いた。墳丘はいつもと変わらなかった。違ったのは空の色である。

 今までに見たことがない異様な色に空が染まり、海原の方からはなにかが腐ったかのような匂いも漂ってきた。鳥が一斉に飛び立ち、群れになってどこかに飛んで行くのも見た。その時は、特別に異常なこととは思わなかった。そんなこともあるのだろうかと首をかしげたに留まった。しかし邑に帰ると、犬や猫が叫ぶように鳴いており、さすがに只事ではないことが起きようとしているのではないかと不吉な予感がした。ただどうにかするというわけではなかった。邑のものたちも首をかしげるだけで、いつもと同じように過ごしているに過ぎなかった。

 陽が完全に沈み落ち、夜になってからハマベの胸騒ぎは強くなった。ひとり倉の屋根の上っては闇夜を見つめ続けた。夜のうちになにかがあると思ったのである。片足羽で経験したあの大和川の氾濫の記憶が蘇った。しかし、雨は一滴も降ることはなかった。むしろ、虫の鳴き声すらしない静かな夜であった。次第に東の空が深い青色に染まりかけるのを見た。もうすぐ朝を迎える。ようやくハマベはようやく緊張を解き、倉の屋根から地面に下りた。その時であった。

 足元がガクンと揺れた。

 そして、ドン!と大きな音と共に、体が地面から跳ね上がった。

 地面に体を叩きつけられ、支えようと伸ばした腕からは振動が体に伝わり、立ち上がるどころか這うことすらできなくなった。

 カミの怒りだ。地揺れが起きた。

 未だかつて経験のしたことがない地揺れだった。凄まじい轟音と共に大地が大きく揺れている。なんとか起き上がろうとするも、体が引っ張られるようにして倒れ、そして頭を強く打った。その時だった。ハマベは思い出したのであった。

 自分はこのような地揺れを経験するのは初めてではない。片足羽で暮らしたよりももっと以前、生まれ故郷の大地が揺れ、山が崩れ、赤い炎を見た。そして、最後に見たのは海原が土手のように盛り上がり迫ってくる光景…。

 ようやく揺れが収まると、邑のものたちが皆驚いた顔をして住居から出てきた。いくつかの住居は崩れ、倉も傾いていた。男たちは群がり、崩れた住居から人を引きずり出しては助けていた。「無事でよかった。わはは」の邑のものたちは笑う。

 しかし、ハマベだけは顔を青ざめさせ立ちすくんでいた。

 ここにいてはいけない、今すぐここから逃げないと、みんな流され飲み込まれしまう!

 そう心のうちでは叫んでいたが、体が震え思うように動かなかった。

 そんなハマベに邑のものたちは誰も気もとめず、今度は崩れた倉を直そうと言い合っていた。


「逃げろ!」


 声が聞こえて、邑のものたちが振り返った。

 誰しも不思議そうな顔をして、ハマベの方を向いている。


「逃げろ!」


 ハマベはもう一度叫んだ。

 邑のものたちが目を見開いて驚いた。

 しかし、一番驚いていたのはハマベ自身であった。声が出た…。


「おまえ…、しゃべれたのか?」


 邑のものたちがざわざわと騒ぎ出し、ハマベの前に集まってきた。

 そして、ハマベの顔を覗き込んでは、なぜか呑気に笑って言った。


「なんで逃げるんや?もう地揺れは収まったぞ」


 ハマベは顔をぶるぶると振り、もう一度叫ぶように言った。


「違う。海が襲ってくるんや!」


「海が襲う?」


「そうや、波が、大きな波が壁にようになってやってくるんや。きっとすぐに来る」


 はじめは笑っていた邑のものたちであったが、ハマベの深刻な言い様に、次第に不安な表情を浮かべはじめた。


「逃げろというても、どこに逃げるというんや?」


「……」


 その邑のものの言葉に、ようやくハマベも自分が無茶なことを言っていたことに気がついた。

 たしかに、どこに逃げればよいというのだ。

 ハマベは辺りを見渡した。

 高いところに逃げなくてはいけない。それはわかっていた。

 しかし、この百舌鳥野はもともと沼地であったような平野で近くに高い山はない…。


「ハマベ、逃げたらええんや!」


 突然、あのお方の声が聞こえた。

 そして、あの大きな背中が思い浮かんだ。


「逃げたらええんや」


 あのお方が振り返り、にかっと笑ってみせた。


「はっ!」


 ハマベは息を飲んだ。そしてある方向を見る。

 邑のものたちも、そのハマベの視線の先へを顔を向けた。


「あそこや!あそこに逃げるんや!」


 ハマベが指さして叫んだ。

 すると、邑のものたちがどよめいた。


「あれは、難波のスメラミコトさまが祀られた墳丘やないか…」


「逃げるて…。あそこに登るんか?」


「そうや。あのお方が呼んでるんや」


 邑のものたちは明らかに動揺していた。誰もその場から動こうとしなかった。

 すると、邑の長のお爺がハマベの前に出てきた。


「わしもかつて耳にしたことがある。海原が壁のようになり襲ってくることがあると。おぬし、それを見たのか?」


 おじいの鋭い目がこちらを見ていた。

 ハマベは黙ってうなずいた。


「…わかった。おぬしを信じよう」


 おじいが声をかけると、邑の男が何人か前に出てきた。


「おまえたち、出来る限りまわりの邑を走り、今の話を伝えてこい」


 男たちはとまどいながらも、「はい」と返事をし、駈けて行った。


「では、わしらも向かおう」


 おじいの一言で、邑のものたちは墳丘へ向かった。

 なぜか皆ゆっくりと歩いた。子供らだけは嬉しそうに走って行った。ハマベは「急ごう!」と言ったが、おじいが「無理いうな」と一喝した。邑には少ないが年老いたものたちや、怪我をして体が不自由なものがいた。放っていくわけにはいかなかった。仕方なくハマベは足並みをそろえ先導した。

 ようやく墳丘の淵に辿りついた。墳丘は濠で囲まれていたが、一か所だけ歩いて渡れる畦道があった。ハマベが先導し渡った。邑のものたちが列になって続く。墳丘側の淵に辿り着くと、並べてある埴輪をどけて坂をよじ登った。

 ひたすらよじ登った。振り返ると、戸惑いながらも登ってくる邑のものたちの姿がはるか下まで続いていた。墳丘を築いている時に、何度か登ったことがあったが、改めてその高さに驚いた。こんな大きな山を作ってしまう人の力は凄いものである。と同時に人のちっぽけさや非力さも痛感した。この大地や大海原を前にしては、われわれなんて逃げまとうしかないのだ。

 頂上に着いた。朝陽が登り、海原が照らされるのを見た。

 思わず、その令しさに邑のものたちと共に歓喜の声をあげる。

 その時であった。一人が遠くを指さし、「なんやあれは!?」と叫んだ。


「ひっ」


「きゃあ」


 声にならぬ悲鳴が次々にあがった。

 海原がせり上がり、壁のようにしてこちらに近付いてきているのが見えたのだ。


「はよ、急げ!」


 まだ墳丘を登っているものたちに向かって皆で叫んだ。

 しかし、ついに海岸線にしぶきがあがり、墳丘の濠へ海原が流れ込んでくるのが見えた。間に合わず流された人の姿もあった。

 バキバキバキを恐ろしい音があたりに響き渡る。海原が陸にせり上がり木々をなぎ倒していっている音であった。

 すでに集落の方は、海原に飲み込まれようとしていた。


「……」


「……」


 誰しも息を飲んでその光景を眺めることしかできなかった。

 時折うめき声のようなものをあげては、恐ろしさのあまり泣きだすものもいた。

 墳丘の周りは、今や海原と化していた。濁流となった波が陸の方へ水が流れていく。まるでその様子が、墳丘が海原を行く船のようにハマベには見えた。

 ハマベは墳丘の地面にひざまつき、手を合わせた。その姿を見て、邑のものたちも同じようにひざまついて手を合わせた。

 きっと、皆考えていることは同じであった。

 あのお方が助けてくれたのだと…。

 どれだけ手を合わせていたのかわからない。

 やがて、海原から迫った波が陸のもの根こそぎ飲み込みながら引いていった。


「邑がなくなってしもうた」


「せっかく耕した田畑やったのに」


 邑人たちは、歯を食いしばり、悔しそうな顔をして口々に言った。

 ハマベはそんな邑のものを見渡して、


「また耕し、築けばよいだけや」


 と言った。

 邑のものたちは怒ることなく、諦めたように肩を落とし、しかし次の瞬間には互いに顔を見合わせ、なぜか顔をほころばせて苦笑した。

 陽が完全に登り切る頃には、波は完全に引いていた。

 邑人たちは墳丘を下った。ハマベも続いた。

 墳丘は下の方が一部崩れ、濠も埋まっている個所があった。ぬかるみを歩き、濠の外側に出る。

 ハマベは振り返り、最後に墳丘を見上げた。

 いつもと変わらぬ姿がそこにあった。

 きっと、いつまでも変わらないに違いない。

 いつまでも、人はこの墳丘を見上げては思い出すことであろう。

 そう。あのお方のことを。

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