第3章 10話「隼別の反乱」

「なに!隼別(ハヤブサワケ)が雌鳥媛(メトリヒメ)と共に逃げて挙兵しただと!?」


 スメラミコトは武内宿禰の報告に、思わず立ち上がり叫んだ。

 武内宿禰はスメラミコトに落ち着くようにと、なだめるしぐさをして報告を続けた。


「おまえが隼別について調べてほしいというので、まず身辺に聞き込みをさせたのだ。すると謀反の疑いがあると密告があってな。真偽を問うためにこちらから使者を送ったのだが、いきなり矢を向け放った」


「…なにか誤解が起きたのではないのか?」


 ふんと武内宿禰は鼻で笑い、


「どんな誤解が起きればこちらに向かって矢を放つというのだ。やましいことがあったからに決まっている」


「あの隼別がなぜ……」


「おまえには民の噂のようなものは耳に入らぬだろうから唐突に思うやもしれないが、以前から隼別の怪しげな噂はひそかにささやかれていた。隼別がある時、このように周りのものに豪語していたという。隼は天に上り、飛び翔り、いつきが上の鷦鷯(みそさざい)取らさぬと」


「隼と鷦鷯…。共に鳥の名だな」


「誰の事を指すのかは言うまでもない。隼の方が鷦鷯より速いということ。つまり自らが先手を取り天下を取るべきであると言っていたというのだ」


「………」


 スメラミコトは思った。やはりあの隼別が献上した雄鹿は、われが日々聞いていた悲しく鳴く鹿であったのであろうかということであった。仮にそうだとしても隼別に悪気はなかったのであろうで許そうと思っていた。しかし、そうではないとしたら…。少なくとも、あの時われが感じた、言い知れぬ不吉なものは何かを予感させるものであったということか…。


「なにを考え込んでおる」


 武内宿禰が厳しい目つきでこちらを見ていた。


「いや、先日隼別が献上した雄鹿のことでな。夕暮れ時の鹿の鳴き声を聞くのが、日々のわれの行いであった。あれ以来、鳴き声を聞くこともなくなった。もしや、あの隼別が献上した雄鹿があの鹿であったとすれば…」


「とすれば…?」


「なにか不吉な予兆であったのかと思ったのだ…」


「ふん。あるいは、そのままなのかもしれぬな」


「そのままとは…?」


「そのままの意だ。隼別がおぬしに見せつけるために狩って献上したのであろう」


「まさか…。なぜ隼別がわれが鹿の鳴き声を毎日夕暮れに聞くのを楽しみにしていたことを知っておるのだ!」


「ははははっ」


 武内宿禰は顔をあげて笑った。


「おぬしが日々高津宮から難波を眺め、悲しげな鹿の鳴き声を聞いて心を癒しておることを、宮内をはじめ、難波の邑でも知らぬものはおらぬぞ」


「なにっ!?」


 スメラミコトは驚くも、武内宿禰は当たり前だと言わんばかりに何食わぬ顔をしていた。


「これでおぬしにもわかったであろう。隼別が謀反を起こそうとしていることを」


「………」


「今は一刻を争う。隼別は雌鳥媛と共に追手から逃れ、曽爾(そに)に潜伏しているようだ。おれは吉備品遅部(きびのほむちべ)の雄鯽 (おふな)と、播磨佐伯(はりまのさえき)の阿俄能胡(はりまのあがのこ)の討手の兵を送った。包囲はすぐに出来るあろう。ならば討ち取るのは…」


「ま、待て!二人とも殺すのか?」


「…それは向こうの出方次第であろうが、止むを得ぬであろうな」


「捕えて、われの元まで連れてくるのだ!」


 スメラミコトは武内宿禰に迫ったが、武内宿禰は表情も変えず、


「もしこのまま伊勢まで逃げられ東国の勢力に匿われでもすれば迂闊にこちらも手を出せなくなり最悪は戦になるぞ。おぬしの望みは聞いたが、おれに任せてもらいたい。おれも今夜には曽爾へ向かって発つ故…」


 と頭を下げた。

 臣下とはいえ、武内宿禰にそこまでされるとスメラミコトも強くは言えない。


「…必ず、生きて二人をわれの元へよこすのだ」


「あぁ、そのとおりにしよう」


 武内宿禰はうしろを向き、背後の舎人になにか耳打ちした。すると、舎人は音も立てず退室して行った。武内宿禰は正面を向き、改まってスメラミコトの方を見ると、視線を合わせて言った。


「言っておくが、これはおまえが悪いのではない。国を率いていくとはこういうことなのだ。歪みは必ず起きる。その歪みをどう抑えるのかが口の長たる所以なのだ。そして、些細なきっかけであっても、初動を誤ればそれが戦に発展するのだ。なれば民を苦しめることになるのだぞ」


「…それはわれも十分に承知している」


「ならば話は早い」


「ただ…」


「ただ、どうした?」


「…二人を捕えるために発つのは、やはり一晩だけ待ってくれぬか」


 武内宿禰は意味深に首をひねっては、少し顔をほころばせて、「わかった。待とう」と答えた。




 その晩、スメラミコトは事のあらましを八田媛に話して聞かせた。

 八田媛は嗚咽を漏らし泣き崩れ、雌鳥媛の命だけは助けてほしいと懇願した。


「ずっと寂しい思いをしていたのでしょう。わたしのせいでもあります。妹とは意見を対立することは多々ありましたが、スメラミコトさまに反旗を翻すようなことをしでかすほどの志があるわけでもございません。きっと、今自らがなにをしようとしているのか、どのような立場に置かれているのかもまったく理解していないことでしょう。哀れではありますが、それでもわたしは妹を守りたい。血をわけたのだから」


「われも同じ気持ちだ。われもこれ以上兄弟を失いたくないのだ」


「どうか、わたしがしっかりとあの子を叱りつけますので」


「われが向かおう」


 八田媛は、はっと息を止め見上げた。


「スメラミコトさまが直接…?」


「あぁ。われが曽爾へ向かい指揮するしかほかない。それに、われが来たとなれば隼別を説得やできるかもしれぬ」


「…大丈夫なのでありますか?スメラミコトさまの身がなによりも大切…」


「われは大丈夫だ」


「どうか、お気を付けください…」


「あぁ」


「それと…」


 八田媛は、ためらいがちになにか続けて言おうとした。

 スメラミコトが、「どうした?」とうながす。

 それでも八田媛は躊躇するように、視線を泳がせ、最後は歯を食いしばり言った。


「雌鳥に身に、もしものことがあっても、媛としての扱いをしてあげてほしいのであります」


「媛としての扱い?」


「あの子はいつも兄、 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の形見である首飾りを見に付けています。異国から伝わったというとても珍しいものです。それに目のくらむものもいるやもしれません。それだけは盗まれぬように、ずっと雌鳥と一緒にしていてあげてほしいのです」


「わかった」


 スメラミコトが答えると、八田媛は安堵した表情を見せた。

 風が強く吹く夜だった。隙間から漏れてくる風が悲鳴のように鳴った。

 スメラミコトは夜が明けるまで八田媛のそばに寄り添って過ごした。





 翌朝、スメラミコトは武内宿禰を呼びつけ、自らが曽爾へ向かうことを条件に隼別の討伐を許可した。

 武内宿禰は動揺し、強い口調でスメラミコトは向かうべきではないと拒否した。


「なにが起こるのかわからないのだぞ。命の危険すらある。おまえが死ねば隼別の目的が果たされる。おれたちは断固としてそれを阻止しなければならぬのが役目なのだ。理解してくれ」


「そんなことわれも承知の上だ。われは前線には出ない。事の顛末をこの目で見届けたいのだ」


 スメラミコトは断固として譲らず、最後は武内宿禰の方が折れた。


「わかった。久米部の兵も付け、万全の警固の上で向かうしかない。本当によいのだな?」


 武内宿禰は、まるで脅すような目で睨み、確認した。

 スメラミコトはうなずいて返事をした。

 高津宮がにわかに騒がしくなり、急遽スメラミコトのために組まれた兵軍が整列し、陽が暮れると、武内宿禰の号令と共に曽爾へと向けて発った。

 行軍は闇夜の中でも一目につかぬよう人里を避け、山道を進んだ。陽が上ると山中で野営をし、夕暮れになるとまた行軍した。

 次第に宇陀の山脈が闇夜に浮かびあがってくるのが見えた。宇陀から曽爾へ抜ける路は、かつて倭姫(ヤマトヒメ)がアマテラスの八咫鏡を伊勢へ運んだ路である。ただし険しい山中で、東国へ抜けるなら本来は別の路を取る。身を隠すにはたしかに適しているかもしれないが危険な路でもあった。隼別がこの路を取ったということは、武内宿禰が息巻くように、東国に当てがあってのことなのか、または、いちかばちかの捨て身のつもりなのか。少なくとも相当な覚悟があってのことなのは間違いないであろう。決死の逃亡を図っているということは濡れ衣なのやもしれない…とスメラミコトは想像した。スメラミコトは、まるで行軍するわれらに牙を向くようにも見える宇陀の深い山脈の影を見上げては、思わず引き帰したくなる思いを消しては、奮い立たせた。

 宇陀に入って野営をした。篝火(かがりび)が焚けぬ暗闇の中、身をひそめるようにしてじっと体を休ませた。しかし、疲労を蓄えた体が急激な睡魔を誘い、横になり気が付けば夜が明けていた。

 まだ自らの姿さえがようやく見えるほどの明るさであった。スメラミコトは日の出を拝もうと岩場から顔を出した。

 深い山峡に霧がかかり、まるで別の世界にきたかのようであった。思わず、令しさと共に畏怖するものを感じ、スメラミコトは息を飲んだ。

 吐く息はすでに白かった。宇陀に入るあたりから急激に肌寒さを感じたが、まだ冬には早いはずである。相当山上に登ってきたということであろう。切るような冷たい風が頬を一瞬かすめた。羽織るものが欲しかったが、荷は最小にとどめたので着の身着のまましない。スメラミコトは体を手でさすり、温めようとした。そして、久米部の兵が差し出した干し肉をかじった。

 辺りがかなり見渡せるほど明るくなると、さわさわと寝ていたものが起き始め、身支度するとすぐに発った。ここからさらに深い曽爾の方へ足を踏み入れるのである。またひたすらに歩いた。陽が完全に登り切る頃には、空に突き出るような奇怪な岩山が並ぶ景観が目に入ってきて、それが曽爾へ着いた目印であった。

 先発していた吉備品遅部の雄鯽とスメラミコトたちの兵軍は合流した。

 雄鯽は、スメラミコトの姿を見ると腰を抜かすほど驚いたが、助けを求めるように見た武内宿禰は半ば無視して、動じず雄鯽に報告をさせた。


「このあたりには大小の岩場が多く、身を隠すのに適しています。わが隊と阿俄能胡の隊が隼別を包囲したのは間違いありませんが、討ち取るのは容易ではありません。足場が悪いため夜襲をかけるのも危険です」


「隼別が身を隠しているところまでどこまで近づける?」


 スメラミコトが訊ねた。

 雄鯽は戸惑うようなそぶりを見せながら、


「この先の岩場にわたしの隊が身を隠していますが、そこまでが限界でありましょう。それ以上進めば…」


「われをそこに案内してくれ」


 スメラミコトが言うと、雄鯽は武内宿禰と目を合わせた。


「スメラミコトさまを案内しろ」


 武内宿禰が言った。

 雄鯽は「はっ」と頭をさげ、茂みを進んだ。兵軍はひとまずその場に待機させ、スメラミコトらは最小の人数で進んだ。やがて雄鯽が振り向き、「この先であります」と案内した。

 狭い岩場を登ると、数人の男たちがいて、皆いちようにスメラミコトの姿を見ては驚いたが、声をあげることはなく、「相手方に変化はあったか?」と問うた雄鯽に、「いえ、ほとんど動きはありません」と静かに報告した。

 雄鯽が振り向き、スメラミコトらに説明した。


「あの向こうの大きな岩場の先に隼別ら率いる兵軍が潜伏しているのですが、あの辺りには集落があったようで、隼別らが集落を襲ったようです」


「むっ!」


 スメラミコトが唸ると、雄鯽は話を止めたが、すぐ続けた。


「この数日は動きがありませんが、阿俄能胡の隊の情報によれば、隼別が傷を負い臥せっている可能性もあるとのことです」


「なんだと!?」


 スメラミコトが思わず大きな声をあげたので、すかさず雄鯽は咄嗟に、しっと指を口に当てた。スメラミコトは声をひそめて言った。


「雌鳥媛は無事なのか?」


「おそらくは…。隼別も今のところは大丈夫なのでありましょう。ならばこのような状況にはならず兵が投降してくるはずです」


「こちらの意志を伝える方法はあるのか?」


「と、申しますと?」


 雄鯽が首をかしげる。スメラミコトは少し苛立って、


「隼別らにわれが来たことを伝える方法があるのかと訊いておるのだ」


 と語尾を強めた。

 雄鯽は首を振りながら答えた。


「ありません。唯一あるとすれば、ここから大声を出して伝えるしかありませんが、こちらの居場所も伝えてしまうことになります」


「隼別の兵はどれくらいの数なのだ?」


「おそらく数十もないでありましょう。こちらの犠牲を省みなければ、いっきに奇襲をかければ落せるはずではあります…」


「もう少し間合いをつめて、声がしっかり届くところまで行けないであろうか」


 スメラミコトがそう言うと、雄鯽は「なにをおっしゃいますか!」と驚き、


「これ以上近づけばどこからともなく矢が飛んできます。実は傷を負ったものもおり、仇をとろうと兵の志気は高いのです。どうか、ここはわたくしたちにお任せを」


 と頭をさげた。


「それではわれがここに来た意味がない。われが呼びかければ隼別らも耳をかたむけるはずだ。われが隼別が投降するように説得しよう。だからわれを出来うる限り近いところまで連れて行ってほしいのだ」


 すると、ついにしびれを切らした武内宿禰が声は小さいが、叫ぶように言った。


「スメラミコトよ。それは危険であると言っておるのがわからぬのか」


 スメラミコトは振り返って見た。武内宿禰は今まで見たことのない怒りを含んだ目をしていた。それでもスメラミコトの意志は固かった。


「われがここまで来たのは危険は承知の上でだ。それに、もしわれが説得を試み隼別が投降すれば、おぬしたちも助かるであろう。自らの兵を失うこともない」


「……」


「われがここにきたのは他でもない。隼別と雌鳥媛を説得し、生きて帰すためだ」


「隼別は反旗を翻しこちらに矢を放ったのだぞ。それはスメラミコトに矢を放つことと同意」


 武内宿禰はそう息巻いたが、それがスメラミコトにとっては、どうしても解せないところであったのだ。直感としか言い様がない。あの隼別が?という違和感のような場違いのような感覚が、どうしても抜けないでいたのだ。だから、どうしてとは説明できないが、われが出向けばなにか動きが起こるのではないか。そんな根拠のない自信があった。


「………」


 武内宿禰は押し黙っていた。

 きっとわれがこのように言い出せば、もはや引かぬことをわかっているからであろう。幼い頃からの長い付き合いだ。皆まで言わなくともその思惑は理解することができるのだ。つまり裏を返せばわれも武内宿禰の思惑を理解できるということであった。武内宿禰は自らの役目をただ果たそうとしているだけなのだ。それは間違ったことではない。冷徹さは常に必要なことではある。しかし、今は違った。ここでわれが引くことは、これまでの自身も否定することであった。だからこそ理解してほしかったのだ。どうしても、われがここで引けぬ理由を。たとえ命をかけようとも。

 しばしの沈黙のあと、武内宿禰は押し殺した声で言った。


「わかった。スメラミコトを行かそう」


「ほう」


 スメラミコトは思いが通じたことに安堵し、胸をなでおろした。

 どよめいたのは雄鯽たち兵であった。助けを求めるような目を武内宿禰に注いだ。

 武内宿禰はそれを見透かすように、


「今すぐではない。一旦ここから引こう。策を練らねばならぬ…」


 と雄鯽らを見た。

 雄鯽は、「しかし…」と反論しかけたが、すぐに「承知しました」と言い返した。


「スメラミコトよ。一旦さきほど到着したところまで戻るぞ」


 武内宿禰は有無言わせぬ雰囲気でそう言った。さすがにスメラミコトもそれには従うしかなかった。




 その日は、そのまま陽が暮れたので動きはなかった。

 武内宿禰は、翌朝陽が上ればわれを隼別に近いところへ連れていくと約束した。スメラミコトは、もはや輪郭しか互いがわからぬ暗闇の中で、うなずいて答えた。

 長い夜であった。夜が退屈だった幼い頃のことを思い出した。それでも夜中に宮内から出ることはさすがのスメラミコトでもなかった。帳から顔だし、外を覗くのが精一杯であった。夜は人の時ではない。決して外に出るではないとじいやに散々言い聞かされていた。でも、われは言うことを聞いていたという感覚はなかった。夜の闇が得体の知れぬものであることは、理屈ではなく理解していた。月が夜空を照らす分、大地は闇が降り注いで覆われているようで、風はないのに草木の擦れる音が聞こえてくるのだ。あの時の自分が、今のわれを見たなら、きっと恐れおののいたであろう。大人になるということは罪を重ねるということなのだ…。

 次第にまぶたが重くなり、スメラミコトはまどろんだ。時の感覚がなくなり、闇と自らの体の境さえわからなくなった。

 その時であった。突如体が激しく揺さぶられ、叫び声がきこえた。


「夜襲だ!」


 はじめ、それが現実かどうかさえわからなかった。しかし、周りが慌ただしくなり、自らの周りに人の気配がした時、ようやく頭が冴えて、事態が飲み込めた。

 スメラミコトは咄嗟に体を動かし、その場から離れようとした。しかし、肩に激しい痛みを感じ、声にならぬ声をあげたあと全身にも痛みが走った。なにが起こったのかわからず、その場に倒れ込んだ。


「スメラミコトさま!」


 われを呼ぶ声が聞こえ、頭上に足音、体を掴む手があった。激痛が走る。声も出ず、うめき声だけが出た。


「逃げろ!スメラミコトさまだけを担いで逃げろ!」


 そう声が聞こえた。その声は久米部の兵のものだった。それだけはわかった。

 次の瞬間、また激しい痛みが全身に走り、あまりにもの苦痛にスメラミコトの意識が飛んだ。




 気付いた時には、どこにいるのかわからなかった。

 いつもように宮の寝室で眠り、いつものように目覚めたと。一瞬そんな風にも思ったが、あまりにも状況はかけ離れていた。むせるような土の匂いと、草木が目に入り、空が見えた。体を動かそうとすると、激痛が走り、身をよじった。

 すかさず、近づくものがあり、覗く顔があった。

 独特の顔の刺青。久米部の兵の顔であった。


「スメラミコトさまがお目覚めになった」


 久米部の兵が誰かを呼ぶように叫んだ。


「われは一体…。ここはどこだ?」


 声は、なんとか絞り出すようにして出すことができたが、久米部の兵は答えず、ただわれの顔を覗き込んでいた。

 すると、いくつか顔が見えた。武内宿禰の顔もあった。


「わ、われは一体…」


「体を動かすな。おまえは傷を負ったのだ」


「なぜ…」


 と言いながら、昨夜のことを思い出した。夜襲だ!という叫び声が聞こえて…、それから…。


「ここはどこだ?」


「宇陀だ。近くに墨坂の社がある」


 墨坂の社。大和への東からの峠の入口だ。

 ということはかなりの距離、われはここまで運ばれてきたということか…。


「隼別はどうなった?追手はあるのか?」


「……」


 武内宿禰はすぐに答えたなかった。嫌な予感がした。

 その予感は的中した。


「隼別は討たれた」


「……なんと。雌鳥媛は…?雌鳥媛はどうなった!?」


「全滅だ」


「なにっ!」


 思わず大きな声をあげると、全身に激痛が走り、スメラミコトは顔をゆがめ身をよじらせた。


「体を動かすのではない。おまえは矢をうけたのだ」


「矢を…」


「あぁ。スメラミコトを傷つけたのだ。隼別が討たれたのは当然の報い。謀反を企み、その目的を果たしかけたのだ。しかし、おれたちがそれを阻止した。夜襲は相手にとっても危険を伴うことだ。阿俄能胡の隊が挟み撃ちをし、いっきに隼別ら討った」


「隼別の最後の姿は?」


「最後は茂みの中で雌鳥媛と二人でいるところを討たれた」


「遺骸は…?」


「すでに葬られた。もはやどこの谷底かもわからぬ」


「……雌鳥媛の身に着けていた首飾りはどこだ?」


「首飾り?そんなのは知らぬが、そのまま葬られたので遺骸と共に、今は土の中であろう…」


「……」


「おれたちには、おまえを無事に難波に帰す義務がある。辛い行程が続くだろうが、堪えてくれ」


「われのことは構わぬ…われの…」


 浮かんだのは八田媛の顔であった。

 雌鳥媛も討たれたとなれば、八田媛がどれほど悲しむであろうか。

 われは約束を果たせなかった。無力さを怨んだ。体に力が入らず、その怒りや悲しみを体現することも叶わなかった。

 ただ空を見上げるだけであった。

 いつもと変わらぬ空を、ただ見上げるしかなかった。





 次に目覚めた時は、女孺や舎人の見慣れた顔が覗きこんでいた。

 われは高津宮へ帰ったのか?

 八田媛の覗く顔があった。やはり、われは高津宮に帰っていたのだ。


「すまぬ…」


 スメラミコトは思わず謝った。そう言うしかなかった。すると悲しげな八田媛の顔がさらに歪み、涙をポロポロと目元からあふれさせた。そして声を震わせ言った。


「よいのであります。よいのであります。スメラミコトさまが無事に帰っただけで」


 われは咽ぶ八田媛の顔を撫でてやろうと、手を上げようとした。

 すると肩からにかけて激痛が走った。スメラミコトは呻き、顔を歪ませた。すかさず女孺が「大丈夫でありますか?」と身を寄せた。スメラミコトは苦悶の表情のまま、顔をうなずかせるだけで「大丈夫だ」と答えるのが精一杯であった。

 手に感触があった。

 目をあけると八田媛がわれの手を握っていた。優しく甲を撫ででくれた。

 懐かしく、どこか遠い記憶を呼び戻すかのような感覚であった。

不思議と体の痛みが引いて、呼吸が落ち着き、穏やかな気持ちになるような気がした。

それでも心の内では、何度も謝り続けていた。八田媛に、宮内のものたちに。そして民たちに。不甲斐ないわれであることを。




 高熱にうなされる日々が続いた。

 どれほど続いたのかもわかない。夢か現実かわからぬ間を何度も行き来し、今自分がどこにいるのかもわかなかった。

 われのことを呼ぶ声や、誰かが言い争う声が聞こえては、また聞こえなくなった。


「見誤ったのはなぜだ…」


「…は、矢の名手であります。しかし、あの暗闇の中では…」


 突然、われの前に鹿が現れた。大きな雄鹿であった。

 われは捕まえようと追いかけた。鹿は跳ねるように走り、森の中に消えた。

 森の中は暗闇であった。なるほど、これでは矢も狙えない。

 だとすれば、誰があの雄鹿を討ってわれの目前に差し出したというのだ。

 …それはおかしい。雄鹿は、今しがたわれの目の前で森の中へ駈けていったのだこれからあの雄鹿は、われが狩るのだ。

 われは矢と弓を手に構え、暗闇の向こうへ狙いを定めた。

 耳をすますと、徐々に木々や草が揺れる音が大きくなり、近づくのがわかった。

 なにかがわれの周りを這っていた。とてつもない大きさだ。まるで森全体が蠢くかのような。それは大蛇であった。

 われはなぜか大きな声で笑っていた。人はあまりにも恐怖におののくと笑うと耳にしたことがあったが、真であった。今、われはそれを身にもって実感していた。

 そして気付いた。狩られて差し出されるのは雄鹿ではなく、われであるということを。

 観念してわれは目を閉じた。

 同時に、視界の先に天井が見えた。

 …長い夢を見ていたのだということに気付くまでにしばらくかかった。

 間違いなくここは高津宮で、見慣れた天井はわれの寝室であった。

 誰かがとなりに寝そべっている感触がある。八田媛であろうか、それも看病に疲れた女孺が疲れて寝そべっているのであろうか。もはや誰でもよかった。人肌を感じるのは心地よいものであった。

 寝息が耳元から聞こえてきた。つられて同じようにわれも息をした。

 そしていつしか、また眠りの中にいざなわれていた。




 目覚めると、揺れる帳の影を見て、朝であるということがわかった。

 体を起こそうとしたが、やはり全身に痛みが走り、うめき声をあげては体を横にした。

 すると、すっと近づいてくる影があった。

 顔を少し動かし、視線をその影に向けた。


「……!?」


 …そんなはずはない。

 われは声にならぬ声をあげた

 なぜなら、いるはずのないものの姿が、今われの目に前にあったからである。

 磐之媛であった。

 にわかには信じられぬ光景であった。

 まさかこれも夢であるのかと思った。しかし、それでも嬉しかった。

 なぜなら、ずっとわれの最も求めていたのがこの光景であったからだ。

 いつも見るのは恐ろしい夢だ。こんな夢ならいつまでも見ていたい。


「すぐに良くなります」


 磐之媛はなにげもないようにそう言った。


「わらわが戻ったのでありますから」


 あぁそのとおりだ。スメラミコトも強く同意した。

 年月を感じさせぬ、最後に目にしたそのままの磐之媛の姿がそこにあった。

 昨夜、われに寄り添って寝ていてくれたのも磐之媛なのであろう。皆まで言わなくとも、われの身を案じてくれているのが伝わってきた。

 われはもう大丈夫だ。

 本心からそう思った。

 安堵したらまたまぶたが重くなってきた。

 とても心地のよい気持ちで、われを呼ぶ声が聞こえたが無視をした。

 どうか、このままゆっくりと眠らせてほしい。

 これほど穏やかな気持ちに慣れたのは、久しぶりのことであった。

 そう、幼き頃、明日の心配などもせず、ただ眠り呆けていたあの頃のように。

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