第3章 9話「兎餓野の鹿」

 磐之媛が帰らぬまま、十年の年月が流れた。

 今や難波の景色は大きく変わり、かつて高津宮から見下ろせばあった広大な河内湖は面影もなく広大な平地となっていた。このまま土地が乾き切れば田畑として耕すことができるであろう。いずれ稲穂がなびく農地をこの上町台地から望めるはずであった。

 片足羽への大道と感玖(こむく)の大溝の工事もほぼ終えられたことが報告された。スメラミコトは百舌鳥野(もずの)まで行幸し、弓月君(ユヅキノキミ)らや倭国の技術者、そして人夫たちを労い称えた。

 弓月君らと共に海岸線まで移動をすると、巨大な墳丘が目前に迫った。父上を改葬した片足羽の墳丘も相当な大きさであったが、それをはるかにしのいでいるかのように見えた。弓月君は、いかに感玖の大溝が大規模な工事であったのか物語っていると熱弁し、大陸を旅してきた弓月君らでも見たことがない規模の人工物だと自負した。しかし、スメラミコトからすればこれほど畏怖するものはなかった。民を豊かにするためにとはいえ、改めて恐ろしいことをしてしまったのだと思い知らされる。われらはカミに戦を挑み、大地を削り、川の流れを変え、山をも築いた。カミの怒りは必ず起こるであろう。カミにひれ伏し、カミの怒りを鎮めなければならない。それはわれの役目だ。この墳丘に葬られることになるのはわれであろう。われは永久にこの地で留まりカミの怒りを沈ませ続けなければならぬのだ。

 感玖から高津宮に帰ったスメラミコトは、夕暮れに照らされる東の空を眺めた。

 筒城岡(つつきのおか)から帰ったあの日から、夕暮れになるとそうするのが儀礼ごとのように日々の行いになっていた。まだ軽く考えていたあの頃が懐かしい。時が経てば必ず磐之媛は戻ってくるに違いないと信じていたあの頃…。

 いや、今も信じていないわけではない。今でもいつ磐之媛が帰ってもよいようにと宮内のものには指示をし、日々食膳も用意し、寝床も準備させていた。

 何度かスメラミコトは、再び筒城岡に出向こうともした。しかし、それは叶うことはなかった。武内宿禰が諭すには、もし再度出向き磐之媛が戻らなければ、本心で戻らないことを意味し、反逆罪として討たなければならなくなると説いたのである。スメラミコトは一蹴したが、武内宿禰および臣下ものの顔は真剣そのものであった。武内宿禰はさらに言った。もしそんなことになれば葛城氏も黙ってはおらぬであろうと、そうならば河内と大和は戦に陥り、倭国はかつての動乱の世に戻るに違いないと。

 倭国が動乱に陥れば、大陸の侵略をも許してしまうやもしれない。未だに独自に大陸へ使者を送り、伺いを立てている地方の国があるとも噂されていた。隙あらば大和を奪おうとしている勢力がないとも言いきれないのだ。先代が築いた大和、そして父上が開いた難波から河内、われには守る義務があった。だからはわれは待ち、ひたすら待っているしかなかったのだ。

 肌寒い風が吹く中、夕陽に照らされる東の山脈を見た。すぐに辺りは闇に包まれるであろう。日に日に陽が沈むのが早くなっていた。またあの身も心も凍てる季節が訪れるのだ。磐之媛もこの空を、ひとり寂しく眺めているのであろうか。心の内に言葉で言い表せぬ感情が湧いては、胸をちくちくと突いた。それに応えるように、時折悲しげな鹿の泣き声がどこからともなく聞こえてきた。


「悲しそうな鳴き声…」


 となりにいた八田媛が言った。


「われはあの声を聞いていると、なぜか心が落ち着くのだ」


 スメラミコトがそう言うと、

「えっ」と小さく驚いた八田媛は、スメラミコトの顔を見上げた。


「鹿さえも悲しい声で鳴くかと思うと、われは一人ではないのだなと安心するのだ」


 八田媛はなにも言わすにうつむいた。

 また鹿の泣き声が聞こえた。


「…どのあたりに鹿はいるのでしょう?」


 八田媛は顔をあげ、辺りを見渡すようなそぶりをした。


「ここから近いぞ。兎餓野(とがの)の方であろう」


 兎餓野は新しい地名で、かつては河内湖の底であった場所だ。この時期には鹿が東の山の方から、難波の方へ降りてくることがあり、よく平野でも見かけることができた。そして夕暮れ時には悲しげに鳴くのだ。この季節になると必ずのことであった。いつも同じ鹿なのであろうか…。


「わたくしは…」


 八田媛はためらうように言葉を切ってから言った。


「スメラミコトさまのもとは、なにがあっても離れません」


 そっと身を寄せてきた。


「あぁ、わかっておる」


 スメラミコトは八田媛を抱き寄せ、安心させるように肩を撫でた。

 もう鹿の泣き声はしなかった。山の方へ帰ったのであろうか。

 また戻ってきてわれに声を聞かせてくれよ。スメラミコトはそう心の内でつぶやき、身震いする八田媛を連れて宮殿に入った。




 その翌日のことであった。

 異母弟の隼別(ハヤブサワケ)が宮を訪ねてはきては、献上したいものがあると大きな包みをスメラミコトの前に差し出したのであった。獣の匂いがした。嫌な予感がした。


「それはなにである?」


 スメラミコトが尋ねると、隼別は包みを開けた。そこには大きな雄鹿が横たわっていた。


「どこで取れた鹿だ?」


「兎餓野で取れたものです」


 隼別は誇らしげにそう答えた。

 しかし、スメラミコトは顔面蒼白となっていた。

 まさか、あの悲しく鳴いて鹿ではないであろうなと全身総毛立つ感覚を覚えていたが、確認しようがない。焦点を失った鹿の目がこちらを見ていた。


「それで、スメラミコトさま…」


 隼別は先ほどまでとはうってかわって、深刻な顔して改まった。


「ほう。何事である?」


 スメラミコトは極めて平然を装い、先を促した。


「わたくしも妃を迎えたいと思いまして」


「ほう。それはめでたいことでないか」


「えぇ」


「ならば、おぬしはなぜそれほど深刻な顔をしているのだ?」


「その兄上…、妃にしたいと思う娘は、雌鳥(めとり)媛と申すのであります」


「雌鳥媛…」


 唐突に出た名で、スメラミコトはすぐには誰のことかわからなかった。しかし、すぐに思い至る。八田媛のとなりにいた女子の顔を思い出した。


「雌鳥媛とは、われの妃の八田媛の妹君ではないか」


「そうであります」


 隼別は恐縮するように頭を床につけ答えた。


「なぜ故にそのよう馴れ初めに?」


「はい。わたくしが近江に向かった際の帰りのことでした。道に座り込んでいる娘に出くわしまして、聞くと山菜を取りに来たものの従者のものが怪我をし帰れなくなったと申しました。そして、わたくしが助けて家まで届けてやると、申し出て連れて帰ってやったのです。娘の言うとおりに向かいますと、それが桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)でありまして…」


「ほう…」


「わたくしは一目で、雌鳥媛を妃にしたく思い名を尋ねました」


「えらく決断が早いな。おぬし、本当は娘を付けていたのではないのか?」


「いえっ、決してそんなことは。その時のわたくしの従者に訪ねてもたってもかまいませぬ。わたくしが娘をはじめて目にしたとき、まるで夢で見た娘に会ったような気がしたのでございます」


 夢…。スメラミコトは隼別を信じる方に傾いた。


「しかし、われの妃である八田媛の妹君であるなら、決断する前にひとことわれに知らせてくれてもよかったのではないのか」


「それを知るまでにわたくしは決断していたのであります。正直、道端で娘を助けようとしたのも、一目で令しい娘と思ったからで、そうでなければただ通り過ぎていたでありましょう」


 スメラミコトも、そのような沸き立つ理屈ではない思いは、理解することはできた。自らも髪長媛とのことを狂おしいほどに思いをつのらせ、桑津に向かった時のことは覚えている。われは、父上の寛大な御心のおかげで命拾いをしたのであった。ならば、隼別と雌鳥媛のことも許すべきなのか。しかし、スメラミコトは先ほどから感じている嫌な予感をぬぐうことができなかった。だから慎重に答えた。


「われが今ここで、すぐに答えることはできぬ。しばらく待て。必ず遣いものをやる故に」


 隼別はそのような返答を予期していなかったのか、一瞬目を見開き驚いたあと、少し悲しげな顔をして、躊躇しながら引き下がろうとした。


「待て。その雄鹿も引き下げてくれ。どうするかはおぬしに任せる」


 スメラミコトは目線を雄鹿に向けぬように顔をそむけ、そう指示した。

 隼別はどうしてよいのか分からぬように戸惑う様子を見せたが、すぐ諦め自身の舎人に指示をし、雄鹿を来た時と同じように包み直し、スメラミコトの前から引き下げさせた。


「必ず遣いをやる。待て」


 スメラミコトは再度そう言った。

 隼別は「承知しました」と力強く答え、退室した。

 その日も、また八田媛と共に夕暮れに染まる東の空を眺めた。

 八田媛に隼別と雌鳥媛のことを話した。


「真のことを話しているのか調べてほしい」


 と八田媛は言った。

 そのつもりだ、とスメラミコトは答えた。

 次第に山脈の向こうから闇が湧きあがるように広がり、やがて空は静まり返った。ついにその日、鹿の泣き声が聞こえることはなかった。

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