第3章 8話「筒城岡」

 スメラミコトは、山背国の筒城岡(つつきおか)に向かった。

 傍目には、あくまでも蚕(かいこ)を見にいくという体である。従者は最低限で、口持臣(クチモチノオミ)と舎人だけが付いた。

 磐之媛は船で淀川をさかのぼり、どこかで川船に乗り換え巨椋池を南下し山背に向かったと思われるが、スメラミコトは難波の平地を突っ切り、山越えをして山背に入った。河内湖の排水や淀川の堤防が築かれていなかったかつてならば、無理な最短の路であった。

 山裾に進むと集落が点在しているのが目に入ってきた。このあたりが筒城岡という。その名のとおり筒木(竹)が多く生えていた。まだ未開の侘しいところという印象だった。こんな場所に磐之媛が…と思わずにはいられない。きっと、磐之媛も寂しくなったのであろう。だからわれを呼んだのだ。きっと本心では帰りたいと思っているに違いない。われの姿を見ればきっと折れるに違いない。スメラミコトはそう思い至った。

 奴理能美(ヌリノミ)の屋敷は、集落の中でもひときわ立派な建物だったので、すぐにわかった。垣で囲まれた中にはいくつかの建物も見える。

 門に着くと出迎えがあった。出で立ちで異国のものとすぐにわかった。年老いた男が前に出てくる。


「奴理能美でございます。わざわざスメラミコトさまがこんなところまで」


 そう挨拶し、うしろに立っていた者たちも深々と礼をした。


「われがここまで来たのは言うまでもない。おぬしが持つという珍しい蚕というものを見に参ったのだ」


「えぇ。存じ上げてございます」


「さっそく見せてもらえるか?」


「……?」


 スメラミコトが意気揚々とそう言うと、一同は不思議そうに顔を見合わせた。


「む?」


 スメラミコトは振り返り、口持臣を見た。奴理能美は意図を理解しているのかと思ったのだが、そうではないのか。口持臣は、そんなはずでは…と首を振った。


「われは、まことにその蚕というものを見たいのだ」


 再度、スメラミコトがそう言うと、奴理能美らはようやくその意図を理解できたましたと言わんばかりに首を振り、「では、ご案内しましょう」と先導した。

 奴理能美は歩きながら言った。


「スメラミコトさまが本当に蚕を見たいと申すとは思っておらなかったのです。あくまでそういう体であるのだと…」


「そうではあるが…。われは本当に珍しいものは目にしたいのだ」


 スメラミコトは徹底させるつもりであった。相手はあの磐之媛だ。適当なことでは簡単に見透かされてしまう。とはいえ、たしかにその蚕という珍しいものを見てみたいというのは事実であった。


「そうでありましたか。失礼いたしました」


 奴理能美は頭を下げ、敷地の中を進んだ。進むと、青々と茂る山側の方にいくつか倉が並ぶのが目に入った。


「この中にその蚕という虫がいるのか?」


 スメラミコトが訊ねると、奴理能美は立ち止まり、


「えぇ。そうでございます」


 と倉を指さした。


「百済ものは、虫を食うのか?」


「いえ…。食べはしません」


 奴理能美は驚いた顔で否定した。


「蚕の糸を取るのです」


「虫の糸…。蜘蛛の糸のようなものか?」


「似ていますが、少し違います。蚕が不思議なのは、初めは草の上を這う虫でありますが、繭(まゆ)に姿を変え、最後は羽虫になるという、三様に変わる不思議な虫なのです」


「ほう…」


「実際に見て見ればおわかりになるでありましょう」


 奴理能美が倉に案内した。

 中に入ると、むっと蒸せる草と匂いと異様な匂いが鼻にきた。中は薄暗く、しばらく目が慣れるまでよく見えなかった。ようやく倉の中の様子がわかってきて、「むむむ」とスメラミコトは唸った。

 倉の中には草が敷かれており、その上に、初めはなにか分からなかったが、白い芋虫が無数に蠢いていたのであった。


「この草は桑(くわ)です。蚕の餌になります。これが幼虫の姿であります」


 奴理能美は白い幼虫を手のひらに乗せて見せた。スメラミコトは興味津々に覗き込んだ。


「この幼虫が成虫になるために繭になります。これがそうであります」


 次は、白く丸みのある形をした不思議なものを手渡された。軽く柔らかい。


「この中に、その虫が入っておるのか?」


「えぇ。この繭から孵化すると蚕は羽が生えた虫となります。飛ぶことは出来ませんが。ただし、われわれはその姿をほどんど見ることはないでありましょう。孵化する前にこの繭を湯で湯がき、糸を取るためです」


「中の虫はどうなる?」


「死にます」


「……」


「とても丈夫で細く綺麗な糸が採れます。それで生地を編むのです。倭国では珍しいものでしょうが、大陸ではすでにこれで広く養蚕が行われ多くの生地に使われております。いずれはスメラミコトさまにも献上できるでありましょう。まずは倭国でその下地をつくらなくてはと、わたくしはこの地に…」


「おぬしがこの蚕を大陸から持ち込んだのだな?」


「えぇ。そうであります。襲津彦さまの計らいでこちらの土地をいただけることになり。これから本格的に養蚕(ようさん)を行おうとしているのでございます」


 襲津彦が山背に土地を与えた、まったくわれの知るところではなかった。おそらく、父上の御世、われがまだ御子であった時のことなのであろう。しかし、葛城氏にとっては周知の事実であった。だから磐之媛はこの地を頼ってきたということなのであろう…。しかし、考え方によってはここしか頼るところはなかったとも言える…。


「われはここで待つ」


 スメラミコトは突然にそう言った。


「……?」


 奴理能美は首をかしげ困惑している。


「われはここで蚕を眺めて待つ。磐之媛をここに連れてきてくれ」


 口持臣が近づき、「スメラミコトさま、まだ着いたばかりであります。少しお休みになられては?」と耳打ちした。

 しかし、スメラミコトは首を振り、


「いや、われは蚕を見に来ただけなのだ。長居する理由がない。余計なことをすれば訝しまれるであろう。それに改まるより、この方が磐之媛にとっても都合がよいはずだ」


 口持臣は意を汲み、「承知しました」とすぐに倉を出て行った。

 奴理能美も理解したようで、「では、わたくしも出るといたします」と言い、倉から出て行った。

 倉の中にはスメラミコトと、蠢く蚕だけになった。

 どうやって磐之媛を迎えるか、スメラミコトは思案した。

 まるで偶然ここで再会したかのように振る舞おうかとも思ったが、わざとらしいような気がした。磐之媛はそういうのを嫌う。ここは素直に、おぬしに会いたかったと言おう。とはいえ、蚕を見たかったのも事実だ。信じてもらえるように、蚕の幼虫を一匹手に取り、手の平に乗せてみた。うねうねと動き、気持ち悪い。幼いころは虫などいくら手にしても平気であったのに、今となると妙に生き物として身近に感じて薄気味悪く思った。

 しばしそうして蚕を眺めて待ったが、次第に飽きてきた。

 その時であった。倉の扉がトントンと叩かれた。

 スメラミコトは扉の方を向いて、息を整えた。ついに来たか。

 思っていたよりは早いなと思いつつ、扉に向かい、深呼吸してから扉をあけた。


「……!?」


「……!?」


 扉の向こうには口持臣が立っていた。口持臣はスメラミコトの手の平の蚕の幼虫を見ては、ぎょっと驚き身を引いた。


「なんだ、おぬしか」


 スメラミコトは残念そうに言った。


「すみませぬ」


 口持臣は頭を下げたが、すぐに上げさせて訊ねた。


「それで、磐之媛はどうした?」


「ここには来れぬと申しておられるようです」


「そうか…。われに来いというのだな?」


「…いえ。スメラミコトさまにはお会いしたくないと…」


「われがここまで来たというのにか」


「わたくしの思惑違いでありました…」


「われは会うぞ。ここまで来たのだからな。磐之媛はどこにおる」


 スメラミコトは半ばやけになりそう言った。

 口持臣は躊躇しながらも振り返り、「あちらの外れの建物にございます」と指をさした。


「われをそこまで案内せい」


「…承知しました」


 スメラミコトは口持臣に続いて歩いた。ふと、向こうにこちらの様子を伺っている奴理能美の姿があった。スメラミコトは気付かぬふりをして歩いた。

 外れの建物の前に着いた。


「ここなのだな?」


 スメラミコトが問うと、口持臣がうなずいた。

 スメラミコトは、扉の前まで行き、そして軽く扉を叩いてみた。

 反応はなかった。


「わが正妃よ、そこにおるのか?」


 それでも反応はなかった。

 口持臣の方を見る。口持臣は、目で、そちらで間違いありませんと返事をした。

 再度、扉を叩き、「磐之媛よ。われだ。ここに珍しい蚕という虫がいると聞いてやってきたのだ。われと一緒に見ないか?」

 返事はなかったが、スメラミコトは辛抱強く待った。

 すると、しばらくの静寂のあと、扉の向こうから声がした。磐之媛の声だった。


「あなたが本当にその蚕を一緒に見たいのはわらわではないのでしょう?」


 寂しげな声だった。スメラミコトは、やはり自らの見立ては間違っていなかったのだと確信した。心を奮い立たせて言う。


「そうではないぞ」


 しかし、磐之媛はため息を吐き、


「…えらく返事に遅れてのこと。一体どんな娘の顔が浮かんだのかしら。わらわにはわかる。どうぞ難波に帰り、その若い娘の体を思う存分抱いておるがいいのです」


「磐之媛よ、それは誤解だ。われは八田媛を若い娘だから、惚れて娶ったのではない」


「…そうかしら。わらわのいないうちに隠れるようにその…なんたらという娘を娶ったくせに」


「…隠してはおらぬ」


「あら、ではなぜわらわのいないうちに」


「たまたま都合がよかったのだ」


「……」


「磐之媛よ、聞くのだ。われにとっては正妃はおぬししかおらぬのだ。心の中に常にいるのはおぬしだけだ。この腕に常に抱いていたいのはおぬしだけ。おぬしのことが懐かしい。今にすぐにでも、おぬしのその大根のような白い体に添いたいのだ」


「大根!」


 磐之媛が声を荒げた。

 しまった、余計なことを口にしてしまった。


「いや…、おぬしのその美しい白い体が懐かしいと申したのだ。おぬしがいなければ、われはやっていけぬのだ」


「…では、あの娘を宮から出しますか?」


「……」


「なぜ黙るのです?わらわに誓うのでしょう?ならば、あの娘を宮から出しなさい」


「…それは出きぬのだ」


「ならば、わらわもここから出ることは叶いません」


 その後、何度か同じような問答が続いた。

 スメラミコトは、ついには目の前にある扉を蹴破って、中に入り磐之媛を無理やりにでも連れて帰るべきなのか一瞬頭がよぎった。しかし、そんな力づくのことをしても磐之媛をより頑なにしてしまうだけかもしれなかった。そもそも、力で負けてしまうやもしれぬ。あの襲津彦が手塩にかけて育てた娘だ。代わりにわれが投げ飛ばされでもしたら…。

 なんて歯痒い。この一枚の扉を隔てて、磐之媛はそこにいるというのに。手が届かない。

 距離は近くとも、二人を隔てる壁はとてつもなく分厚かった。

 それでもスメラミコトは、じっと扉の前で待ち続けた。

 次第に陽が暮れてきて、見かねた口持臣が、


「スメラミコトさま。このあたりは夜になるととても冷えます。ここは一度、引き下がるしか…」


 と声をかけてきた。

 スメラミコトは、わかったという風にうなずいたあと、


「われはおぬしを待ち続ける。おぬしを思い続ける。それは嘘偽りのない思いであるからな」


 と扉に向かって再度大きな声で言った。

 しかし返事はなく。空しく辺りに響いただけであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る