第3章 7話「磐之媛の嫉妬」

「ダメであります」


 磐之媛はにべもなく一言で断言した。

 しかし、スメラミコトも今回ばかりは、そう易々と引き下がるわけにはいかなかった。

 これは亡くなった稚郎子の遺志であると。スメラミコトしての務めであると熱弁した。


「話がおかしいわ。あなたが稚郎子のもとに駆け付けた時は、すでに自害していたあとだと以前聞きました。なのに、なぜ稚郎子の遺言が聞けるのです」


「いや、それは…」


 鋭いところを突かれた。それは自らも不思議としか言い様がない経験であった。素直に言うしかない。


「稚郎子が起き上がり、われに語りかける夢を見たのだ。それなら驚かないのだが、八田媛も同じ夢を見ていたのだ…」


「まぁなんていやらしい!」


 磐之媛は顔を背けた。

 そのまま言葉は途切れ、スメラミコトもなにも言わなかった。

 それを磐之媛は、どうやら諦めたと受け取ったようであった。

 しかし、スメラミコトは諦めたつもりではなかった。

 そもそも磐之媛も、表向きには拒否しながらも本心からはそう思っていない、そうスメラミコトは捉えていた。磐之媛は葛城から呼んだ舎人や女孺に囲まれている。葛城の娘としての面子もあるのだ。

 スメラミコトも今になってわかることがあった。父上は稚郎子を菟道に、大長守を那羅山に、そしてわれを難波に。それが父上が描いた大和を強固とする構想であったのだ。われに葛城の娘を妃として迎えさせたのも、裏では父上に意向が働いていたと今となっては察することができた。つまり、磐之媛はその当事者であり、事情を最も理解しているはずなのだ。玖賀や髪長媛はわれの意志で妃として迎え入れようとしたので事情が違うが、この度の八田媛に関してはわれの一存だけではない。

 スメラミコトの中には、ある考えが浮かんでいた。

 実は、近々磐之媛は熊野へ向かうことになっていたのだが、それは葛城氏の慣例で神事に用いる柏の葉。御綱葉(みつなかしわ)を取りに行くためである。しばらく、御子の瑞歯別(みつはわけ)と雄朝津間稚子(おあさつまわくご)を産んだことで磐之媛が直々に向かうことはなかったのだが、ようやく今年になって行くことが決まったのであった。

 その間しかないとスメラミコトは考えた。

 やり方はよいとは思えないが、磐之媛も宮に入ってしまったものを追い出すこともできぬであろう。それに、あくまでわれが“勝手に入れた”ということであるなら、磐之媛の面子も保たれる。これがもっとも穏便に済ませられる方法だと確信した。




 後日、予定通りに磐之媛は熊野に向かって難波津から船で発った。

 それから数日おいて、菟道より八田媛を高津宮に迎えることとなった。

 本来であれば、妃を迎えるのであるから盛大にしてやりたかったが、どこか罪人を移送するかのごとくなってしまったのはしのびなかった。


「このような扱いですまぬ」


 スメラミコトがあやまると、八田媛はゆっくりと首を振り、


「いいえ。嬉しく思います」


 とうつむいた。


「海を見たことがあるか?」


 八田媛は顔をあげ、恥ずかしそうにスメラミコトを見ると、「いいえ」と答えた。


「ではこちらへ来るがよい」


 スメラミコトは八田媛を連れて高津宮の裏手の方に出た。

 眼下に一面の海原が広がった。

 八田媛は、「これほど広い池を見たのは初めてでございます…」と珍しく高い声で言ってスメラミコトの衣をつかんだ。

 喜ぶ八田媛の姿を見て、スメラミコトも嬉しくなった。


「八田媛よ、これは池ではないぞ。この海原はどこまでの続いておるのだ。この大八洲を越え、大陸をも越え、はるか先まで果てしなくな」


「果てしなく…。スメラミコトさまは、毎日このような景色を見て過ごされたから、大きな心をお持ちなのですね」


 八田媛はそう言うと、「はっ」と息を飲み、顔と耳を赤く染め、恥ずかしそうにうつむいた。


「えらそうなことを申してしまいました…」


「ははは」


 とスメラミコトは笑い、


「なにも遠慮するな。今日からこの景色はおぬしのものでもあるのだ。毎日飽きるまで眺めればよい」


 そう言って八田媛の体を抱き寄せた。


「はい」


 八田媛は嬉しそうに体を震わせた。





 磐之媛が熊野から帰る船が難波津に近付いていると知らせがあり、スメラミコトは難波津まで出向いた。舎人や女孺も総出であった。


 ふなつき場に着くと、すでに何隻か先導していた船が到着していた。


「妃の船はもう着くのか?」


 スメラミコトが船乗りに訊ねた。

 船乗りは深々と頭をさげたあと、海原の方を指さし、


「あの船がそうです」


 と答えた。

 目を凝らすと、たしかに南の方からこちらに近付く船が何隻か見えた。一番大きい船が磐之媛が乗る船だ。


「妃の船が着いたら、皆で柏手を打とう」


 スメラミコトがそう言うと、船着き場にいたものたちが控えめながらも「わっ」と笑った。

 徐々に船団が難波津に近付いてきた。船着き場に緊張感が漂い始める。

 スメラミコトは焦らされる思いでそれを眺めた。こうなると、早く磐之媛の姿を望みたくなるものであった。

 思えば、自らがスメラミコトになって磐之媛を高津宮に迎えてから、顔を合わせぬ日はなかった。今となればわれと磐之媛は一心同体のようなもの。苦楽を共にしてきたのだ。調を止めたあの六年という歳月も、磐之媛と供であったから乗り越えたといえる。

 きっと磐之媛がこの船着き場に到着し、われが出迎え、「熊野の旅はどうであった?」と問うものならば、「別に大したことなかったわ」と強気に言うに違いない。「こんな大勢で船着き場で迎えて、みっともないわ」とも言うかもしれない。しかし、その本心は苦労を労ってほしいのだ誰よりも。われにはわかる。

 八田媛のことを知れば、「どうしてわらわのいないうちに!勝手なことは許さないわ」と怒るであろう。怒れば懲りるまで怒らせればよい。思う存分に。その時に決して反論してはならない。じっと耐えて待つのだ。そして、ようやく落ち着きを取り戻した時に、あとは淡々と、われが説明をするしかない。偽りなく。われが八田媛に恋焦がれて娶ったのはないと。おぬしを娶ったと同じようにスメラミコトの務めとして娶ったのであると…。…それは言わなくてよいかもしれないが、きっと磐之媛は理解をしてくれると、スメラミコトは信じていた。

 しかし、次第に船着き場がざわめきはじめた。

 船乗りたちが困惑し、口々になにかを言い合っている。一人がわれの前にやってきて伝えた。


「船が難波津に入らず、通り過ぎて行きます…」


「はっ?」


 たしかに近づいていたと思われていた船団が、難波津をかすめるように淀川の方に舵をきっていた。


「どういうことだ?あの船に妃が乗っていたのではないのか?われらが見間違えたのか?」


 船乗りは答えず、ただ青ざめさせた顔を振った。

 周りに視線をやるも、誰しもただ首をかしげるだけであった。


「妃の乗る船で間違いないのだな?」


 スメラミコトが大きな声で言うと、何人かが海に飛び込んで追いかけようとした。スメラミコトはそれは止めさせた。今さら追いつけるはずがない。


「なにか問題が起こったのやもしれぬ。船で追うのだ」


 スメラミコトが指示すると、船乗りが慌ただしく動き出した。

 振り返れば、出迎えのためにやってきた舎人と女孺たちが立ちすくみ、不安げな顔でこちらを見ていた。


「なにか手違いがあったようだ。船が沈んだわけではないから心配する必要はない。妃は無事なようだ」


 そう言うしかなかった。舎人と女孺は少し安心しかたのようにうなずいた。

 磐之媛が乗っているはずの船は、今や難波津を遠く離れ、淀川に入る土手に姿を消そうとしていた。


「ここにいてもどうしようもない。ひとまず宮に帰り、報告を待つことにしよう」


 スメラミコトが歩き出すと舎人と女孺も続いた。その列は高津宮まで続いた。その様子を船乗りたちが茫然と眺めていたのが印象的であった。

 高津宮に着くと、宮に残っていたものたちが整列して待ち構え、うやうやしく頭をさげた。しかし、磐之媛の姿がないことに徐々に気付くと、互いに見合ってざわめいた。


「磐之媛は今日は帰らぬ」


 スメラミコトはそれだけ言って殿上に上がった。

 殿下はさらにざわめいたが、スメラミコトはそのまま宮殿の中に入った。

 寝室に向かうと、八田媛が出迎えた。

 八田媛はスメラミコトの姿に気付くと、驚き身構えた。そして、目をきょろきょろとさせ辺りを伺った。磐之媛の姿を探しているのであろう。スメラミコトは八田媛に近付き、「磐之媛はおらぬ」と言った。八田媛は首をかしげた。


「なにか手違いがあって、船が難波津に着かなかったのだ…」


 スメラミコトが重苦しく言うと、八田媛はまるで怯えるように目をきょろきょろとさせ、次第に目を潤ませて言った。


「わたくしのせいでありますか…?」


「いや、おぬしのせいではない」


 スメラミコトはすぐに否定した。ただ本心からそう思っていたかといわれば、スメラミコトも自信がなかった。正直、まだなにもわからないというのが真のことであった。難波津にまだ着いてもいない磐之媛は八田媛のことを知る得ているはずがない。だとすれば、他に理由があるということになるが、それにも心当たりがなかった。

 再度、スメラミコトは八田媛に向かって「決して、おぬしのせいではない」と言った。八田媛は不安げな表情を残しつつも、少し安堵したように微笑んだ、ように見えた。




 翌朝、武内宿禰が高津宮に訪れ伝えた。


「磐之媛が難波津で船を下りなかった理由がわかったぞ」


「どのような理由だ?磐之媛は無事なのか?」


 スメラミコトは武内宿禰につかみかからんばかりの勢いで訊いた。

 武内宿禰は、まぁ落ち着けと手をかざしては、実際スメラミコトを落ち着かせてから言った。


「丁度、磐之媛が乗る船が難波津に近付いた頃、難波津を出航した船と磐之媛の乗る船が手前で偶然出くわしたそうだ。その船の者が磐之媛が乗る船と知らず話してしまったという…」


「…八田媛のことをか?」


「あぁ」


「どのような内容だ?」


 武内宿禰は言いにくそうに顔をしかめた。


「われは気にせぬ。包み隠さず申せ」


 武内宿禰は仕方ないと、大きく息を吐き吸うと話した。


「スメラミコトが若い令しい娘を宮に入れたのだと、それも正妃の嫉妬が怖いからいないうちにこっそりと入れたと。河内の民の間では今その話で持ちきりになっており、中にはスメラミコトはその娘が赤子の時から目を付けていたと言うものもいるらしいと。スメラミコトは民のために力を尽くしてくれたお方であるから民は許している。しかし、あの嫉妬深い正妃が知ればどうなることか。今の民の心配はそれだった、と」


「………」


「…そんな話をしてしまったそうだ」


 武内宿禰は気まずそうに頭をさげた。

 スメラミコトは唸り、しばらく黙り込んだ。


「………」


「………」


「…それでどうなった?」


 スメラミコトが口をひらく。

 武内宿禰は、諦めたような顔をして続けた。


「船乗りたちが顔を青ざめる中、磐之媛が船室から姿を現したそうだ。話をした男は海に飛び込み逃げ出そうとしたが、磐之媛がすんでのところで捕まえ、今の話わらわにもう一度お聞かせしてもらえなくてと責め立てたという」


 スメラミコトはごくりつばを飲み込んだ。その場の光景が目の前に見えるかのようであった。


「話しを聞き終えた磐之媛は何も言わず、船室に戻ると周りのものが呆気にとられている中、熊野で採取してきた御綱葉をすべて海に投げ捨ててしまったそうだ。そして困惑する一同を前にして、難波津には絶対に着けるなと言い放ったという」


「…それで磐之媛はどこへ?」


「山背国の筒城岡の奴理能美(ぬりのみ)のもとを頼っていったそうだ」


「奴理能美とは…?」


「おまえの父の時代に、百済からやってきたものだ。元は葛城にいたが、今は山背におり、蚕というものを育てておる」


「それは、男か?」


「…あぁそうだ」


「われには他に妃を持つなと言っておいて、自らは男の元へ行くなど、これはあてつけか?」


 スメラミコトは語尾を強めたが、武内宿禰は首を振り、


「奴理能美はかなりの高齢だ。単に葛城に暮らしていた頃の伝手を頼ったのであろう。さすがの磐之媛も今さら葛城に帰ることもできぬだろうしな」


「ではすぐに、その奴理能美の元へ向かおう」


 スメラミコトは立ち上がった。


「おまえが直接向かうというのか?」


 武内宿禰は驚き、スメラミコトを見上げた。


「当たり前であろう。磐之媛にわれの口から八田媛のことを伝えなかったのが問題だ。これは誤解だ。誤解を解くには、われが直接向かうほかない」


「おれにはまったくの誤解にも思えぬがな…」


 スメラミコトは武内宿禰に目線を向けるも、聞こえぬふりをして続けた。


「われの口から伝わらなかったことが誤解だ。磐之媛が宮に帰れば、八田媛のことを隠し通せるわけがない」


「ほう。隠してたという認識はあるのだな」


「そうではない。伝えるにしても順序というものがあるのだ。われが説明をすれば磐之媛はきっと理解をしてくれる」


「………」


 武内宿禰は黙り込む。


「なんだその目は?」


 スメラミコトは武内宿禰の前に座り込んだ。

 武内宿禰は、たじろぐことなく言った。


「ならば、はじめから磐之媛を説得し、八田媛を正式に高津宮に迎えておけばこんなことにはならなかったのだ。葛城の後ろ盾を無くすのは痛いぞ。あるいは難波を攻められるやしれぬ」


「襲津彦が攻めてくると申すのか…?さすがにそれは起こりえぬであろう」


「襲津彦の話ではない。何が起こるやわからぬのだ。不安定なものは常に取り除いておくのもおれの役目。…しかし、襲津彦が攻めてくる可能性もあるな。娘を裏切ったとなれば…」


「裏切ってはおらぬ。われは正妃には磐之媛しかありえぬを思っている。ただ行き違いがあっただけなのだ。やはり、これ以上状況を悪くしないためにも、われが向かうしかない」


「スメラミコトが動くとなれば山背国にも伺いを立てなければならぬ。それこそ大事になるぞ。相手が百済の帰化のものとなるとさらに話がややこしくなる」


「では、どうすればとよいと申すのだ?」


「遣いを送るしかないな。信頼のできる」


「信頼できる遣い…」


 スメラミコトが真っ先に頭に思い浮かんだのは、あの高句麗からの楯を射抜いた口持臣こと盾人宿禰のことであった。新羅への問責使として派遣された経験もあり、交渉事に長けているということもあったが、なによりも口持臣の妹の国依(クニヨリ)が磐之媛に女孺として仕えていることであった。国依は今も磐之媛と共に奴理能美の元にいるはずである。

 スメラミコトは口持臣をすぐに呼びつけると、その日のうちに山背国に向けて発たせた。




 しばらく経って、口持臣は帰った。

 スメラミコトの期待をよそに、口持臣は一人で帰った。

 射ぬことを出来ぬという楯を射抜いた男であるだけに、きっと磐之媛の岩のように固い心も射抜けるのではないのかと期待していたが、その期待は外れた。スメラミコトの落胆は大きかった。


「磐之媛さまは、筒木岡の奴理能美のもとにある珍しい蚕という虫というもの見るために向かったのであります」


 口持臣はおかしな報告した。磐之媛が奴理能美のもとに向かったというのは、今や高津宮にいるものなら知らぬものはいないことであった。

 スメラミコトは首をかしげ、うしろに控えていた武内宿禰を見た。武内宿禰も少し首をかしげただけであった。

 口持臣は困惑するスメラミコトに気にするこもなく、さらに言った。


「とても、とても、珍しいのです。蚕というものは」


 口持臣は、ゆっくりと言葉をひとつひとつ強調させて言った。

 不自然な話し方にスメラミコトは訝しむも、まだ真意に気付けなかった。口持臣は自らの不手際を誤魔化すために、わけのわからぬ弁明しているのかと思った。しかし、次の言葉で口持臣の言わんとする真意をつかめた。


「スメラミコトさまも、その蚕を見に行かれては…」


 つまり、磐之媛はあくまでその蚕を見に行っただけに過ぎないだと、口持臣はそう言いたいのだ。だから、われもその蚕を見に行くという口実にすれば、筒城に行けるということである。裏を返せば、口持臣を以ってしても磐之媛を説得することはできなかったということでもあった。あるいはそう言ってわれを寄こせと磐之媛が言ったのか。


「それはわれも興味あるな」


 スメラミコトは意味ありげに腕を組み、そう答えた

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