第3章 6話「八田媛」
スメラミコトは片足羽(かたしわ)まで行幸し、大道と大溝の工事の進捗を見た。
目を引いたのは、大溝を掘るために出た残土を盛り固めて出来ている墳丘であった。まだ土台部分が出来上がったほどであったが、それだけでいかに大きなものかがわかる。纏向にある墳丘をはるかにしのぐ大きさになるのは間違いなかった。多くの人夫が群がるように土を運び、盛られた場所から崩れないように石を敷いていた。
スメラミコトは思った。この墳丘に父の亡骸を改葬させたいと。
われに託した難波と河内のこれから発展する姿を見守り、そして鎮めるカミとなってもらうのだ。
弓月君は、工事が順調であることを伝えつつ、今後の計画を話した。
「当初、スメラミコトさまは大和川と石川の水を分散させるための大溝であると申されておられましたが…」
スメラミコトはうなずく。
「周辺の邑のものたちからは、船を使う運河としても利用できるようにできないかと申し入れが多数ありました。そのため当初より水深と川幅を考慮し直し、勾配を並べるため大和川から南に迂回させ石川を横断し、感玖(こむく)に抜ける大溝の路を考えたのであります」
弓月君が地面に川の流れを絵図にして書いてみせた。
しかし、スメラミコトは首を振り、
「われには判断できぬ。おぬしたちに一任しておるゆえ、おぬしらが正しいと思うならそれを行ってくれ」
弓月君は「では仰せのとおりに」と頭を下げた。
スメラミコトは、高津宮に帰るすがら山背へ向かうことを思いついた。
土地の灌漑治水工事は難波にはじまり、各国にも飛び火していたが、山背もそうであった。和邇氏が主導となり栗隈県(くるくまのあがた・京都府城陽市西北~久世郡久御山町)でも河内に劣らぬ大工事が行われると聞いていたのだ。
その視察のためと、もう一つ、稚郎子(ワキノイラツコ)の墓に参りたいとも頭にあった。
高津宮で一晩を過ごし、翌朝、淀川を遡り山背の方へ向かった。
現地に到着すると、和邇一族のものから工事の説明をうけた。
川幅を広げ、堤を築く工事であった。かなりの規模ではあったが、今河内で行われているものと比べればそれほどでもなかった。これなら大和や河内から人夫を出向かせる必要もないであろう。むしろ、こちらの工事が済めば河内の方に寄こしてくれないかと頼んだ。和邇一族らは承諾し、河内の工事を視察したいと申した。スメラミコトはそれを許した。
山背で一夜を過ごし、菟道へ足を延ばした。
ふとかつてのことを思い出し、胸を痛める。菟道川を見ては手を合わせずにはいられなかった。本当なら大長守の墓も参りたかったが、それは難しいであろう。
川を越えた山裾に稚郎子の墓はあった。
一人で参りたいと言い、スメラミコトは舎人らを下で待たせ坂を登った。
振り返ると、菟道川から山背の方が一望できた。難波の雄大さとは違う、穏やかで落ち着ける光景であった。少し息を切らし坂を登る。われも歳を取ったのだなと苦笑した。坂を登り切り、高台の麓に着くと人影があって驚いた。
娘であった。しかも、かなり令しい娘である。
スメラミコトは一瞬夢を見たのか、または黄泉の国へ足を踏み入れたのかとさえ思った。しかし、娘は間違いなく目の前に立っていた。目線が合って、ようやくそのかすかに残る面影で思い出した。
「もしや、おぬしは稚郎子の…八田媛であるか?」
そう問うと、娘は「はっ」と驚き、急に頬を赤く染め、うつむいた。
記憶にある八田媛の反応と違った。人違いか…と思った矢先、「そうでございます」と声が聞こえた。
「やはりそうであるか。…見違えたな、すぐにはわからなかったぞ」
スメラミコトがじっと八田媛の顔を見つめると、うつむいていた顔をあげた八田媛と再び目が合った。八田媛は驚いた顔をし、目線を外し、またうつむいた。
スメラミコトは首をかしげながら近づき、八田媛の顔を覗き込むと、八田媛はさらに下を向き、顔を真っ赤にさせて体をもじもじとさせた。
はては、こんな照れたようなしぐさをする娘であったであろうかと改めて回想する。あの稚郎子が亡くなった時は、むしろこの娘には感情がないのかと思うほど、冷静な娘だと思っていたのだが…。しかし、見た目も見違えるほど変わったのだ、しぐさが変わっていても不思議なことではないのであろう…。
「われのことわかるか?」
スメラミコトが問うと、八田媛はまたちらりとこちらを見ては、
「はい。わかりますでございます。兄上の兄上…、大鷦鷯さまでございますね」
「うむ。しかしその名は今はもう呼ばぬ。われはスメラミコトになったゆえ」
「すみませんでございます」
八田媛は慌てて頭をさげた。
「まぁ、気にするな。おぬしとは久しぶりであるからな。以前会った時は、われはまだスメラミコトではなかったからな」
「……」
「今日は、われは山背まで行幸してな、その足を延ばし稚郎子の墓を参ったのだ。おぬしもそうであったのだな?」
八田媛はうなずいた。
「うむ。…しかし、年月が経つのは早い。もうあれからどれほど…」
「八年でございます」
「よく覚えておるな…。もうそれほど経ったか」
なるほど、それならば変わってしまったものがあっても仕方がない。もちろん、変わらぬというものもあると思うが。
「スメラミコトさま!」
唐突にうしろから声が聞こえ、スメラミコトは振り返った。
心配そうな顔をした舎人の姿がそこにはあった。
「大丈夫でござましたか。戻ってこられるのが遅いのでどうしたのかと…」
「すまぬ。久しぶりのものと会ったのでな。話をしておったのだ」
スメラミコトは八田媛の姿が舎人に見えるように体をひねって見せたが、なぜか八田媛は隠れるようにスメラミコトの背に身をよせた。
「もう陽が暮れるな…。わかったすぐに下りる」
スメラミコトがそう言うと、舎人は来た道を戻っていった。
「下に待たせておるものがおるからな。われは行かなくてはならぬ」
スメラミコトは振り返り、八田媛を見て言った。
「……」
しかし、八田媛はうつむき返事をしなかった。
「おぬしも帰るのであろう?宮まで送ろう」
「……」
返事はなかったが、まさかこのままここにいるはずがないであろう。
スメラミコトは背を向け歩き出した。
すると、うしろから衣がひっぱられた。
振り返ると八田媛がスメラミコトの衣を手でつかんでいた。
「どうした?」
「……」
「なにかわれに言いたいことがあるのか?」
スメラミコトが訊ねると、八田媛は何度か目を合わすも、すぐ反らし頬を染めた。
そして、小さな声で言った。
「わたくしは待っておりました。スメラミコトさまのことを。今日ここに来ることはわかっておりました」
「…そうなのか!?」
スメラミコトは驚いた声をあげた。稚郎子の墓を参るのは山背への行幸のついでのつもりであったので、舎人には伝えていたが、内外に報せたことではなかった。なので菟道にいるものが知り得るはずがない。
でも、八田媛はここにいた。
また不思議な夢でも見たのであろうか…。
「わたくしは、スメラミコトさまにお会いしなくてはなりませんでした。なぜなら、それは兄の遺言…。わたくしを妃にしていただくため」
八田媛は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……」
スメラミコトも忘れていたわけではなかった。
しかし、今日この場所で八田媛に再会するとは想像していなかったことであるし、改めて桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)に訪れなくてはならぬ要件であるということは認識していた。そう、時が満ちれば…。
スメラミコトの中では、八田媛はまだあの稚郎子が亡くなった時の幼い女子の姿であった。しかし、今目の前にする八田媛は間違いなく立派な娘となっていた。
あれからのわれは、難波の堀江、茨田の堤にかかりきりになり、年月の流れを感じぬほどであった。すべてを捧げた。だからこそ成し遂げられたといえるであろう。
そして今、われは立ち止まり、過ぎ去った年月を振り返る必要があったのである。過ぎ去った年月は取り戻すことはできぬが、すくい上げることはできる。なぜ、われが今になって稚郎子の墓を参ろうとしたのか。理解した。われは思い付きのつもりであったが、やはりこれもなにかに導かれた運命であったのだ。
「おぬしのことを忘れていたわけでなかった。いつか約束を果たそうとは思っていたのだ」
八田媛が潤んだ瞳でスメラミコトを上目づかいに見た。
「寂しい思いをさせていたのだな…」
八田媛は小さくうなずく。そして身をよせてきた。スメラミコトは自然と八田媛の体を抱き寄せた。華奢な体であった。
スメラミコトは「必ず迎えを寄こす」と八田媛に約束をした。
稚郎子の墓から八田媛と共に坂を下り、舎人や従者の前でもそう宣言した。それが決意であった。
八田媛の瞳に、もう寂しさのような色はなかった。その救われたような顔を見ては、スメラミコトも救われたような気がして、満ち足りた思いがした。
スメラミコトは意気揚々と菟道を後にし、高津宮に帰った。
丘の上に高津宮を見たとき、とても懐かしいものを見たような気がしたのは、きっとわれの心が、あの時から菟道に置いたままであったからなのであろう。われは長い旅から帰ったのだ。
久米部の兵が出迎え、女孺が駆け付けた。
めずらしく磐之媛も殿上に姿を現していた。
その時、なぜか胸騒ぎを覚えたが、すぐに打ち消した。
さすがに八田媛のことは、磐之媛も理解をしてくれるであろうとスメラミコトは考えていたのである。
しかし、その考えが甘かったことは、すぐに思い知らされることになるのであった。
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