第3章 5話 「氷室」
大道と大溝の大工事に向け着々と準備が進む中、ある蒸せる暑い日のことであった。
異母弟の隼別(ハヤブサワケ)が献上するものがあると謁見(えっけん)を求めてきた。
「それでありますね兄上、先日舎人のものたちと闘鶏(つげ)に猟に行った時にございます。猟そのものは不猟に終わったのでございますが、邑に奇妙な土蜘蛛の廬(いおり)がありまして、誰が賊でもかくまっておるのかと邑のものを問い質したのであります。闘鶏はとても山深い中で未開な場所。われは前から怪しい場所であると踏んでおりました。実はですね兄上…」
「隼別よ。焦らさず事の本元を話せ」
スメラミコトは苛立ちそう言った。ただでさえ蒸し暑く、宮殿の中は居心地が悪いのに、先ほどから隼別は献上するものがあると言いつつ、闘鶏に行くくだりまで散々自らの近状を話した上に、今だ話の終わりが見えないのだ。
「はっ、すみませぬ」
隼別は頭を下げると、うしろに控えていた舎人に指示をした。舎人が籠を前にさしだし、隼別が籠を開ける。そしてスメラミコトの前に差し出した。
「なんだそれは?」
スメラミコトは中を覗かずに訊いた。獣の死骸かと思ったのだ。こんな蒸し暑い時にそんなものを目にしたくない。
「どうか、兄上その目でお確かめください」
「だから、中身はなにかと申しておるのだ」
スメラミコトは顔を背けた。
「別に恐ろしいものではございません。これは氷です」
「…氷?」
「えぇ。氷でございます」
「あの、冬場に凍てつきできる氷のことか?」
「はい。そうであります」
隼別が籠を差し出すと、ようやくスメラミコトは籠の中を覗いた。
中には、たしかに草につつまれた透きとおる塊があった。
「手を触れてみてください」
スメラミコトは手を伸ばし、その塊に指を触れた。
「冷たい!」
「そうでありましょう!」
隼別が嬉しそうに手を叩いた。
「まことに氷であるのだな。しかし、これほど暑い日にどのように氷などを」
「それを闘鶏で見つけ邑のものに問いただしたのであります。あの地域では、冬場に山中に穴を掘り、茅を敷いた中に氷を置き貯蔵する氷室というのがあると申すのであります。氷の上を草で覆っておくと夏まで氷は解けず、春先に氷を取り出のだそうです」
「ほう」
たしかに籠の中の氷も草で包まれていた。
「闘鶏の国造は多氏族の稲置大山主(イナギオオヤマヌシ)で、スメラミコトに献上したいと申し出ると、はじめはしぶっておりました。しかし、わたしがなんとしてもスメラミコトに献上したいと申しますと、運ぶことを許しました。持ち出した時はもっと大きな氷であったのですが、ここにくるまでに溶けてしまいこの大きさに…」
たしかに籠の大きさに比べると、小さな氷であった。
「この時期に氷を目にできるのは珍しいな。冬場は寒く氷なんていらぬと思うが、今ならずっと触れていたいものだ。しかし、何に使う?」
「食材の貯蔵に仕えるでありましょう。夏場でも腐るのを遅めることができます。また邑のものたちは山のカミのために献上したあと、酒に浸して飲むのだそうであります」
「ほう」
たしかにこれほど珍しいもの、まずカミに献上せねばならぬであろう。スメラミコトは儀礼を行うための宮内の社へ持って行くように女孺に指示した。
「隼別よ。よくやった」
「兄上、いえスメラミコトに喜んでいただければ、わたしも本望でございます」
隼別は嬉しそうに頭をさげると、引き下がった。
*
良い知らせもあれば、悪い知らせもあった。
「玖賀(クガ)が亡くなったと申すのか!?な、なぜそんなことに」
スメラミコトは珍しく取り乱し、武内宿禰に迫り叫んだ。
玖賀は長年女孺として仕えてくれた娘で、スメラミコトに即位した際に妃として迎えようとしたが、正妃の磐之媛が許さなかったのだ。地元の丹波国桑田に使いを出してくれと武内宿禰に頼んで、その後便りがないの何事もなく過ごしているかと思っていたが、まさかの玖賀が亡くなったという知らせだった。
「病であろう。おれもまだ詳しくは聞いていないが、遣いに出していた速待(ハヤマチ)が伝えてきたのだ」
「速待とは誰だ?」
「舎人のものだ。おまえが玖賀に便宜を図ってやってほしいと言ったとき、おれは夫をあてがってほしいと捉えた」
「それはそのとおりだ…」
「その舎人の速待が玖賀に思いをよせていると耳にしたので、遣いとして送ったのだ」
スメラミコトはうなずき、先を促す。
「しかし、結局は夫婦(めおと)にはならぬかったようだ。しばらく近くに住んでいたようだが、ある日訪ねると玖賀は亡き者になっていたという」
「その速待をここに呼び、詳しく話を聞こう」
「よいのか?」
「あぁ、呼んでくれ」
するとすぐに、その速待は武内宿禰に連れられスメラミコトの部屋に入ってきた。
凛々しい顔つきをした青年であったが、目元を腫らし見るからに意気消沈としていた。そして座るなり、「わたしが付いていながら申し訳ありませんでした」とひれ伏した。
「顔を上げよ。おぬしを咎めようというのではない。玖賀のことが知りたいのだ。おぬしは玖賀のことを好いておったのか?」
速待は顔をあげ、「はい。宮に務めるようになり幾度か顔を合わすうちに、令しい娘と思っておりました」と力なく言った。
「どうして夫婦にならぬかった?われに遠慮したのか?」
「いえ、わたしは玖賀を娶る覚悟でありました。しかし…」
「しかし…?」
「玖賀からは、わたしは夫は持たず寡婦のまま一生を終えたいと思っている。あなたのお気持ちは嬉しいが、あなたの妻にはなることはできませんと、門前払いを受けました」
「……」
「それでもわたしは諦めきれず、何度か玖賀の元へ向かいました。しかし、玖賀は頑なでした。そしてついに言ったのであります。わたしはスメラミコトの妃になるもの。あなたとは夫婦にはなれぬと」
「………」
「それでわたしは諦めました。スメラミコトさまの妃になるお方であるなら、わたしには守る義務がある。それで近くに住み見守るつもりでありました。しかし、しばらくして邑のものたちが騒ぎ始めて、訊けばいくら玖賀を呼んでも表に出てこないと。それでわたしは失礼を承知で部屋に入りました。すると、床で冷たくなり眠っている玖賀がいたのであります。何者かに襲われたということではありませんでした」
「そうであったか…」
「わたしが近くにいながら不甲斐ない…」
速待はひれ伏し泣いた。
「泣くな。おぬしに罪はない…。玖賀は病であったのだ」
「……」
「よくぞ伝えてくれた。もう下がってよい」
速待は深々と頭をさげ、そして退出していった。
スメラミコトは武内宿禰と二人だけになると、
「やはり、玖賀はわれのもとに置いておくべきであった。われのせいだ」
と額を手で押さえ、床にうなだれた。
「おまえのせいではないであろう。玖賀は病であった。おまえも今そう言って速待をなだめたではないか」
「それでも、宮に置いておくべきであった。病だとすれば、余計に一人で寂しかったであろう」
「ならば、正妃の磐之媛を押えてでも、おまえの意向を押し通すべきであったと?」
「あぁ、そうすべきであった」
しかし、あのときどうやって磐之媛を説得すべきだったのかと思案したが、案は浮かばず、途方に暮れるしかなかった。
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