岬めぐり

夏香

岬めぐり

 ガタンと道路の凹凸おうとつにタイヤを取られ、バスが左右に大きく揺れた。

 横川よこかわめぐみは、ハッとして目を覚ました。長い時間バスに揺られていたので、ついウトウトしてしまい、知らないうちに眠っていたようだった。気が付くとバスはすでに半島をぐるりと回る海岸道路を走っていた。

 めぐみが窓の外に顔を向けると、彼女の眼には、眠気も覚めるほどの真っ青な太平洋が飛び込んできたのだ。窓のわずかな隙間から流れ込んでくる風には、都会の風とは違う潮の香りが漂っているのが分かった。

 

 とうとう来ちゃった……

 

 めぐみの心は、清々すがすがしい真っ青な海とは対照的に憂鬱ゆううつな気分だった。

 なぜ、こんなところまで来てしまったんだろう。「彼」とは絶対に逢わないという約束だった。メールだけの付き合い。お互いの私生活には踏み込まない約束だった。

 しかし、めぐみはその約束を破り、「彼」に内緒でここまで来てしまったのだった。「彼」が働いているというこの港町へ。

 バスのアナウンスが次の停留所を告げた。S県の半島の先端にある小さな漁港だった。めぐみは慌てて停車ボタンを押し、運転手に合図した。

 バス停で降りたのは、めぐみ一人だった。思ったより小さな漁港なので少し拍子抜けしてしまった。東京の築地つきじ豊洲とよすの市場を見たことはあったが、あれほど活気はなく、S県の清水港などとは違い「のどかな漁村」という感じだった。めぐみは、港の堤防に沿って歩いた。ゆったりとした潮風が顔に当たり、気持ちがよかった。

 めぐみが漁港を見ると、ちょうど海から一艘の漁船が大漁旗を上げながら帰ってきたところだった。その光景を黙って見ながら、めぐみは「彼」との二年間を振り返った。

 

 「彼」との始まりはパソコンでの、ママ友や趣味友が集まる小さなSNSのサークルだった。そのSNS内で、偶然「彼」と知り合い、何度か世間話的な活字のやり取りをしているうちに気心が通じ合い、気が付くと「彼」とだけメールのやり取りをする仲になっていた。お互いの近況を、当たり障りがない範囲で触れ合った。

 そして、時々話すお互いの近況で、「彼」がS県の小さな漁港で働いているということ、「彼」が三十五歳のめぐみよりも三歳年下であること、そして独身であること。それがめぐみの知り得たことだった。

 めぐみには、公務員の夫と小学三年になる女の子がいた。絵に描いたような平凡な家庭だった。真面目な夫と可愛い子供。何の不安、不満のない毎日だった。

 しかし、そんな平凡な毎日を生きていけるのは、不定期に送信されてくる「彼」とのやり取りがあったからかもしれないと思っている。

 

 めぐみは、帰って来た漁船に恐々と近づいてみた。船の船倉からは、大きな網に吊るされたサバのような魚が大量に水揚げされていた。船でウインチの操作をしているのは白髪頭の初老の漁師だった。もちろん「彼」がこの漁師ではないと思った。どう見ても三十代ではない。老人すぎる。

「危ないですよ、奥さん」

 突然、後ろから声を掛けられた。振り返ると、小さなフォークリフトが、水揚げされた水槽を運ぼうとしている。

 めぐみは、慌ててその場をどいた。フォークリフトの運転手は、二十歳くらいの若い男だった。この男も「彼」ではないと思った。若すぎる。

 めぐみは、遠くで網の手入れをしている中年の女たちを見つけたので、彼女たちに聞いてみた。

「ここに三十歳くらいの漁師の方はおりますでしょうか?」

 一人の中年の女が、ここには年寄りしかいないと言った。

 やっぱり「彼」の言っていた情報はウソだったのかもしれない。めぐみは、少しばかり気落ちした。でも、当たり前だと思った。たかがSNS。本当の情報を話すわけがない。

 めぐみが、帰ろうとした時だった、別の中年女が思いついたように言った。

「そういえば、健吾けんご君は三十歳じゃなかったかね」

 話によると、最近、父親の跡を継いで船に乗った健吾けんごという漁師がいると言うことだった。

「ほら、今、自転車に乗ってこっちにやって来るヨ」

 女が言いながら指をさした。めぐみが振り向くと遠くの道を一台の自転車がこっちに向かって走ってくるのが見える。

 遠くだから顔ははっきりわからなかった。女たちの話では、漁師にしておくのはもったいないほどのイケメンだと言って笑っていた。

 自転車はどんどん近づいてくる。

 めぐみは迷った。ここにいて自転車の漁師が「彼」かどうか確かめるべきか。

 自転車は近づいてくる。

 めぐみは、とっさにその場を離れ、バス停のある方へ走り出した。

 理由はわからなかった。なぜ走り出したのか、自分でもわからない。

 ちょうどバスが停留所に泊まった。めぐみはバスのステップに足を乗せ、迷った。このまま帰ってしまっていいのか。「彼」に逢わなくていいの?。めぐみは自分自身を問い詰めた。

 バスの運転手が、乗るのか乗らないのか聞いてきた。

 めぐみは、「乗ります」。

 バスは走り出した。

 めぐみは、座席に座り、大きく溜息をついた。

 めぐみはホッとした。「彼」に逢わなくてよかったと、めぐみはそう思った。夢は夢のままがいい。家庭という現実のなかで、「夢」が一つくらいあってもいいと思った。めぐみの胸の中は来た時とは違い、不思議と晴れ渡っていたのだ。

 バスの窓からは、あいかわらず清々しい真っ青な海が広がっていた。

 

   THE END

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岬めぐり 夏香 @toto7376

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