大切な存在。

「それで、あんたは返事もできずにのこのこと戻ってきたわけ?」


 誰もいない教室で、彼女は待っていた。

 俺が戻るとすぐに色々と説明させられた。


「全く、情けないわね。そんなんだから今まで彼女の一人もいないのよ」


「仕方ないだろ。それに、あの子は俺にはもったいない」


 意味もなく強がってみる。


「そんなの関係ないわ。あの子があんたに惚れてるんだから、あんたはそれに素直に答えればいいのよ」


「それは……そうだけど」


 彼女はいつも正しい。俺が間違えそうになると教えてくれる。

 だけど、今回は何が正しくて何が間違いなのかが俺にはわからない。

 だから俺は前に進めない。


 普通ならあの子を受け入れるのが正解なんだろうけど、だからと言って彼女をそんなあっさりと切り捨てることは俺にはできない。

 今までずっと支えてくれた彼女。

 それをあっさり切り捨てるなんて薄情な選択、俺にはできない。


「ほんと全く、仕方ないわね」


 少しあきれたように笑う彼女。

 それから、俺の体に両手をまわして優しく抱きしめる。


「私はもう十分幸せなの。これ以上はないわ。でもね、だからこそ、あんたにもこれ以上は何もあげられないの。これが私の限界」


「十分だよ。俺だってちゃんと幸せだ」


「ううん、それは嘘。だって時々、すごく寂しそうな顔するんだもん。わかるよ」


 彼女には何でもお見通しだ。

 俺のことは何でも知っている。

 だから嘘だってすぐにばれる。


「あんたはもう大丈夫よ。ちゃんと前を向いて、顔を上げて、あの子を見てあげて。もうあんたにあたしは必要ないから」


 そんなことない。俺にはまだお前が必要だ。


「大丈夫よ。あたしが保証してあげる」


 お前にはまだいっぱい返したいことがあるんだ。


「私はもう十分もらったよ。だから満足なの」


 それでも……。


「私はもう十分、幸せだったよ。次はあんたの番。だからもうお別れしないと。ちょうどいいじゃない」


 彼女が優しく微笑む。


「俺だって幸せだった。俺はお前がいたから……」


「でも、このままじゃダメなことはもうわかってるでしょ? 私じゃあんたの心を全部埋めてあげることはきないの。それはあんたがよくわかってるはずでしょ?」


「だけど……」


「あの子のこと嫌い?」


「違うよ。そういうわけじゃない」


「だよね。あのときまんざらでもなさそうだったし」


 そういってニヤニヤとこちらを見つめる。


「俺はお前をどうしたらいいんだよ……。今さら手放すなんてできないだろ……」


「うん、まぁ、あんたならそういうと思ってた。馬鹿みたいに優しくてお人好し。それがあんたのいいところなんだけどね」


「そんなことない。それは俺がただ臆病なだけだから」


 人に嫌われたくない。一人になりたくない。

 そんな感情が今の俺を形作っているに過ぎない。

 他人に向ける優しさなんて、初めから持ち合わせていない。


「そんなのはどうだっていいじゃない。他人から見てそう映るんだから。そしてそれが評価されるってことは、紛れもなくあんたのいいところなのよ。あの子はちゃんとあんたのことを見てくれるよ」


「それはお前も一緒だろ」


 俺はとことんダメな奴だ。ここまで彼女に言わせて、それでも答えを決められずにいる。

 痺れを切らしたのか、彼女が急に声を上げる。


「あーもうめんどくさいわね。だったら、あたしから言ってあげる。よく聞きなさい」


 彼女が俺の前に立って、俺の目を見て、こう言う。


「あたしはもう十分幸せになったから、あたしにあんたは必要ないわ。どこへでも他の女のとこに行っちゃいなさい」


 放たれたセリフには似つかわしくない、とても優しい表情をしていた。


「なんだよそれ」


 俺も自然に笑顔がこぼれる。


「ひっでぇな。こんなフラれ方あるのかよ」


「いつまでもうじうじしてるあんたにはこのくらいがちょうどいいんじゃない?」


「あーはいはい、そうですね。とても心に響きました」


「うんうん、よろしい」


 ふざけながら、冗談ぽく笑う。


「で、どう? まだなんかある?」


「いいや。ありがとう。おかげさまで前が見れそうだよ」


「そう、よかった」


「あのさ、一つ聞いていいか?」


 まだ引っかかるものをとるために、俺は彼女に問いかける。


「なに?」


「お前は俺といて、幸せだったか?」


 それは何度も彼女の口から答えを聞いている質問。

 だけど、ちゃんともう一度聞いておきたかった。


 悔いは残したくない。

 彼女は清々しい笑顔を向けて答える。


「うん。――すごく幸せだった」


 彼女の表情にはなんの迷いも後悔もない。

 とてもいい笑顔をしていた。


「あっ」


 窓の外をちらりと見た彼女が、何か見つけたように声を上げる。


「あれ、あの子じゃない? まだいたんだ」


「あ、ほんとだ」


 ここは二階で、窓からは校門が見える位置にある。

 その下を、玄関から出たあの子が歩いている。


「んー、せっかくだし行って来たら?」


「え、いま?」


 急にそんなことを言い出す彼女。


「そう、今。ほら、善は急げっていうし」


「ちょっと急すぎない?」


「大丈夫よ。今のあんた見たら、あの子もわかってくれるって」


「いや、まだ心の準備が。それにお前のことだって……」


 そう、ここであの子のとこに行くということは、彼女とはここでお別れということ。

 それもなんか名残惜しい。それに、ちょっと寂しい。


「やっぱ、もう少し後でもいいんじゃないか。明日とかでも全然遅くは……」


「何言ってんのよ! そんなんだからあんたはいつまでたっても成長しないし、あたしだって苦労するんだから」


 はい、すいません。


「ほら、いつまでも引きずらない。わかったらさっさと行く」


「はいはい、わかったよ」


 しぶしぶと返事をする。


「おっと、そうだ。最後にいっておきたいことがあった」


 俺はわざとらしくそういう。


「な、なによ?」


 彼女は訝し気に俺を見る。

 俺はそんなことはお構いなく言ってやった。


「俺は今でもお前のことが好きだ。そしてこれからも、それは変わらないから」


 途端に彼女の顔が赤く染まる。

 が、すぐに取り繕って強がって見せる。


「ふ、ふんっ。バカじゃないの。いいから早く行っちゃいなさい」


 本当に、こういうとこは可愛い。

 名残惜しさを何とか捨てて、俺はようやく決意する。


「ありがとう。俺、行ってくるよ」


 彼女は自分が作り出した妄想に過ぎない。だけど、俺の中で彼女の存在は確かにあった。

 何よりかけがえのない存在だった。それは今も変わらない。

 せっかく彼女に後押しまでしてもらったんだ。バシッと決めないとな。


「うん。がんばれ。行ってらっしゃい」


 彼女が優しい笑みで見送る。それ以上は何も言わず、ただひたすらに笑顔を向ける。

 もちろん、俺はその笑顔に隠れた表情に気づいていた。だが彼女は何も言わずに見送ってくれている。俺も何も言わずに前に進んでいこう。


 きっと彼女もそう望んでくれている。

 彼女に背を向けて、一言。


「ああ、今までありがとう。行ってきます――」


 他には何も言わなかった。

 言えなかった。

 正直、彼女が俺の見えないところでどんな表情をしていたのか気にはなった。

 だけど振り返ることはできなかった。

 もし振り返って彼女の顔を見てしまったら、また先へ進めなくなりそうだったから。


 だから俺は行く。

 少し苦しいかもしれないけど、また新しい一歩を踏み出すために、彼女とはここでお別れだ。


 ありがとう。そして、さようなら。


 夕日で染まる教室で、彼女に別れを告げた。

 一度も振り返ることなく、この場所を後にした。

 そこには、もう誰もいない。

 並べられた机と椅子たちが、窓から差し込む夕日に照らされているだけ。


 だけどそこに彼女は確かにいた。

 俺だけにしか見えない、大切な人。

 たとえそれが幻であっても、俺は彼女のことを絶対に忘れないだろう。


「ばいばい、今まで楽しかったよ。ちゃんと幸せになってよね。――さよなら――」


 そういって、彼女が頬を伝わせて一筋のしずくを落としたことを、俺は知らない。

 それから俺はもうずっと、彼女には会っていない。


                                 (おわり)

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モウソウカノジョ。 晴時々やませ @yamaseharetokidoki

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