瞼の裏の森

@ninomaehajime

瞼の裏の森


 目を瞑ると奇妙なものが見えた。

 夢の類ではなく、瞼の裏側に何かが映るのである。輪郭をなぞる限り、それは奥深い森の情景で、一切の光も差さない。朦朧もうろうと佇む木立のあいだに濃い暗闇を内包し、その奥で何かがうごめいている。

 人でも獣でもない。子供が地面に描いた落書きを連想させた。冗談じみた手足を動かし、細長く湾曲した体躯の白い影が横切る。あるいは木の幹を縫って、灯篭の炎を思わせる青白い光が連なり、虚空を泳いでいく。樹枝を薙ぎながら、ナナフシに似た何かが頭上を跨いでいくこともあった。

 幻覚の類ではなく、それらはごく当たり前にいた。瞼を閉じるたびにその存在を肌身を感じるのだから、私にとっては疑いの余地がなかった。

 物心つく頃から、瞼の裏側の森に慣れ親しんできた。そちらにいる私は透明で、何物にも干渉されなかった。眼球を転がすことはできても、本当の肉体はこちら側にあるためか、何かに手を触れることも叶わなかった。

 ただ見ているだけだ。不思議と畏れはなく、飽きることもなかった。ずっと目を閉じていられた。

 そういった性分のため、村の者には眠り女とあだ名をつけられ、十の半ばを過ぎても嫁の貰い手がなかった。両親は不肖の娘を嘆いた。

「どうしてお前はそうなのか」

 そうとは言われても、二つの世界の狭間にいる私には些事さじにしか思えなかった。瞼を閉じれば、俗世のしがらみとは縁遠い何かが出迎えてくれた。不定形の闇でできた肉塊が地滑りに似た音を立てて這いずっていく。木の枝の上で、顔が眼球に置き換わった梟が「ほう、ほう」と鳴いた。

 私にとってはどちらも現実で、嫌味や小言を言われないだけ此方の方が居心地が良かった。やがて両親も諦め、何も言わなくなった。

 人気のない丘の上で瞼を閉じていると、いつもとは違ったことが起きた。祭囃子が聞こえる。近隣の村で祭りをしているのかと思えば、目を開けば何も聞こえてこない。涼やかな風が草を揺らしているだけだ。

 瞼の裏の森でだけ響いてくる。はやし立てる太鼓や笛の音に向かって、見えない足で向かった。祭囃子が大きくなってくる。やがて灯りに照らされ、何かの行列が見えた。

 白い布で顔を隠した車夫が華美な牛車を牽いていた。大きな車輪そのものが燃えていて、周囲を照らしている。金色の屋形の前後で、異形が列を成していた。多くは黒い影で、小人の形をしているものもあれば、着物の輪郭が空を泳いでいた。楽器は見当たらず、巨大な心の臓の形をした何かが太鼓の音を響かせ、体に無数の空洞があるものは笛の音を高らかに吹き鳴らした。

 これまで目にしてきた奇々怪々な光景の中でも、さらに特別だと感じた。あの百鬼夜行はどこへ向かうのだろう。あの美しい牛車には誰が乗っているのか。

 私が見つめていると、牛車の物見窓が押し開かれた。白雪のような手が覗き、その奥から視線を感じた。何かとても恐ろしいものが、此方を見ている。

「見てはいけません」

 不意に背後から話しかけられた。幼い少女の声だった。死人を連想させる、冷たい手が私の目を覆う。視界が暗闇に閉ざされた。

 そして嘆息が聞こえた。

「間に合わなかった」

 祭囃子の音が消えた。その静寂をたたえた闇に私は怯えた。瞼の裏に見える光景に恐怖したのはこれが初めてだった。やがて聞き覚えのある声がした。

「おい、おい。あんた無事か」

 村人の声だった。これは現世から聞こえてくるものだ。どうやら丘の上で私は倒れていたらしく、男の人の手に抱き起こされた。

 目を開けようとして、瞼が微動だにしないことに気づく。私は盲いていた。

 両親は悲嘆に暮れた。もはや嫁の貰い手などなく、この役立たずの娘をどう扱えばいいのか。彼らの嘆きは、私の胸には一切響かなかった。

 あの冷たい手に目を塞がれてからは、瞼の裏に森を見ることはなくなった。一時は寂しかったけれど、別の楽しみができた。

 両の瞳の中で、何かが胎動していた。透明な魚卵の中で回る赤子のごとく、二つの生命が宿っている。時々、瞼の裏の暗闇にその輪郭が垣間見えた。

 日を追うごとに成長している。やがてこの子たちは私の瞳を突き破って、産声を上げるだろう。

 その日が楽しみでならない。

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