愛の残穢

 横山創一は、ほうと息を吐いた。白い息が揺らめきながら天へと昇ってゆくのを見て、創一は、なんて汚いんだ、と思った。濁った視界に映るのは、黒い闇へと消えていく薄汚れた白。

 さわさわと触れ合う木の葉の音も、どこかで生物が蠢いているのであろうカサカサという音も、全てが煩わしく感じられ、創一は持ってきたワイヤレスイヤホンを装着する。カナル型の密閉感に、一瞬で世界の音が減衰した。


 耳元で鳴るのは、穢れのない美しい音色。たまらなく恐ろしいその音が、薄汚れた白を漂白してくれるのではないかと期待したが、白の汚れはより増すばかり。


「なんだよ」


 独り言ちるも、返ってきた言葉は、音色に乗った「大丈夫だよ」だけ。過ちは正せるから、夜は明けるから、大丈夫だよ。そんな慰めにもならない言葉が、脳にガンガンと響いて、頭痛がする。

 しかし、心地良い頭痛だった。


 そんな折、誰かの影が見えた。

 影が、かつて死んだ想い人の残滓に見えた。


「また来たのかよ」


 ため息混じりに言うと、影はニッコリと笑った。顔がないにも関わらず、”彼女”が笑ったと創一は思った。


「ええ、いつでもいつまでも来るわ」


 聞き馴染みのある、だが、何年も聞いてはいないはずの声が耳元に響く。距離を取っているのに、耳元で囁かれたかのようだ。


「もう来るなって、何度も言ってんだろ」

「どうして?」

「あなたが来るから、俺はいつまでも穢れたままなんだ」

「それはおかしいわ」

「なんでだよ」


 創一が唇を尖らせると、彼女は声をあげて笑った。


「胸に残る悔恨も、かつて弛んだ過去も、全てあなたが選んだ結果なのにね」


 言われて、創一は胸をおさえた。クラクラとして、足元がふらつく。そのふらつきのままに、すぐ後ろにあった円形のベンチに倒れ込んでしまった。屋根が目に入り、彼女が屋根に移動する。


「あなたが死んだせいだ」

「君が選んだおかげだよ」

「どうして俺に取り憑くんだ」

「愛しているから」

「答えになってないな」

「なってるじゃない」


 こんな言い合いをするのも、はじめてのことではなかった。もう、何度経験したかわからない。

 創一は、またため息を吐いた。穢れた白い息が、天井に届く前に見えなくなった。頭をぐしゃぐしゃと掻いて、胸を突き刺す痛みを誤魔化しながら、彼女の残滓を睨む。


「俺が! 傍観を選んだからか! 俺が……お前を助けなかったからか」

「憎しみはないの。これは愛憎じゃなくて、純粋な愛なのだから」

「俺を愛さないでくれよ!」


 愛される資格など、自分は持ち合わせていないと創一の心が叫ぶ。かつて、彼女が学校で虐めに遭っていたとき、創一はそれを見るのが辛いと思いながら、もうやめてくれと思いながら、その言葉を口に出せず、傍観を選んだ。

 そして、彼女は首を括った。

 ただひとつの輪っかが、彼女の命を奪ったのだと誰かは言った。

 だが、創一は違うと思った。


「俺がお前を殺したんだ」

「違うわ」

「誰も俺を愛さないでくれよ……そばにいないでくれよ」

「嘘、あなたは寂しがり屋なくせに。嫌われたくなくて傍観を選んだくせに。そのおかげで、私はあなたのそばにずっといられるのに」


 ふっ、と自嘲する。


 これからも、憑かれ続けるのだろうか、と天井に張り付くかのようにして存在する愛の残穢を睨みつけ続けた。


 そして、創一は立ち上がり、ポケットに手を入れ、歩き始めた。


「帰って寝よ」

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発狂寸前!癒やされライティング【短編集】 鴻上ヒロ @asamesikaijumedamayaki

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