エピローグ

 決闘裁判がいつ生まれたのかは定かでない。決闘裁判が初めて法律として文書化されたのはブルグンド王国のグンドバド王の法典だった。しかし、それ以前にも決闘裁判の前身らしきものを確認することが出来る。

 古代ローマの歴史家タキトゥスの「ゲルマニア」には、ゲルマン人のある風習についての記述がある。ゲルマン人は敵の捕虜と自分達の戦士を一騎打ちさせ、その勝敗を持ってして戦争の行く末を占っていた、というものだ。

 このようにゲルマン人には決闘を通じて神の意思を知る、という風習が備わっていた。これは決闘裁判の原理に通じるものであり、ここからそのはしりが誕生したというのは想像に難くない。

 一方、最後に決闘裁判が行われたのは一体いつ頃なのか。これに関してははっきりと分かっている。一八一七年のイギリスにてアブラハム・ソートンソンがメアリー・アッシュフォードという少女を強姦の上溺死させたとして起訴された。翌年に行われた裁判にてメアリーの兄ウィリアムが決闘を請求して法廷の床に手袋を投げつけるという事件が起こった。

 この事件において着目すべきは一九世紀においてもなお、イングランドひいてはイギリスにおいて形式的にではあるが法的に決闘裁判が存続したということであろう。

 しかし、あくまでこれは特殊な事例であり、決闘裁判は一五〇〇年代つまるところ中世の終わりには衰退していた。

 当然のことながら代理決闘士の存在も、決闘裁判の衰退と共に消えていった。だが、従来の主な雇い主であった王侯貴族は、比較的早い年代から決闘裁判を殆ど行っていなかったため、決闘士達は決闘裁判の消滅以前には姿を消していたと考えられている。


 代理決闘士は中世の矛盾の中から生まれ、近世の夜明けを前にその姿を消した。彼らが何を思って決闘の場に立ったのか、その詳細を伝えるものは、残念なことに殆ど確認されていないのが現状である。

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ある四日 / 中野 弘貴 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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