九月二十九日または聖ミカエル祭
「決闘中、声を出してはいけないよ」
今朝、お父様はちょっと神妙な面持ちでアンナに言った。ジネットはと言えば、ドレスの裾を弄るばかりでちっとも聞いていない。
「どうしてなの、お父様」
「決闘は父なる神が
「分かりました」
アンナは言いながらジネットを小突いた。ジネットはバネ人形の様に素早く頭を上げ下げした。
「よし、私の言いつけは守れそうだな。ジネットを頼んだぞ、アンナ」
「任せてください」
お父様は満足げに頷いて、アンナとジネットの頭を撫でた。
辺境伯との決闘裁判が決まったその日のうちに、セルジュ大公様はお父様を含む幾人かの騎士を近衛に任命した。大公様は決闘の様子をその場で見なければならないそうで、その際の警護をするらしい。
お父様はかなり緊張していた様で、口では「光栄なことだ」としか言わなかったけれど、今朝お役目に出発するまでそわそわしていた。
アンナは最初、大して興味がなかった。セルジュ大公様の地位を叔父のアルドリアン辺境伯が奪おうとしている、と言うことは知っていたけれど、正直誰がなろうと大公様は大公様だ。少なくとも、一騎士の長女にとっては関係ない。
でも、その決闘に出場する代理決闘士が二人ともとんでもなく強いらしい、そんな噂がアンナの興味に火を付けた。自他共に認める男勝りなアンナにとって、大陸一の決闘士が決まる決闘がこのヴェルダンで行われるのは、千載一遇の好機だった。
そういう訳で、アンナは妹のジネットと一緒に、決闘場の観覧席に座っている。まだ大公様が到着していないようで、観客席はまだ騒がしい。
ジネットがいる理由は、お姉様が行くなら私も行きたいと、散々駄々をこねたからだ。お母様は八つのジネットに決闘は少々刺激が強すぎると渋ったが、お父様は良いじゃないか行かせてやりなさい、と即答した。
前々から思っていたけれど、皆ジネットに甘すぎる、とアンナは腹の底で愚痴った。四歳下の妹は確かに可愛いけれど、少しおねだりをするだけで、簡単に許されてしまうのは、如何なものかと思うのだ。それとも、自分も昔はこうだったのかしら。
決闘場は思ったよりも大きかった。片側二十ヤードの正方形で、中は砂利と砂が真っ平らに敷き詰められ、二重の横木で周囲を囲われている。アンナたちの向かい側に高座が作られていて、偉そうな人たちが何人か座っている。アンナたちが座る観客席はその周囲に段々に積まれた足場の上に作られていた。
「お姉様、大公様が来てる」
「いらっしゃってます、ね」
「いらっしゃてるます」
ジネットの言う通り、騎士に取り囲まれた豪華な一団が決闘場に近づいている。その中に立派な馬に乗った小さな人影が見えた。セルジュ大公だ。噂の美貌は、ここからではちょっと分からない。
一団は決闘場の手前に設営されている大きな二つのテントの一方に入っていった。アンナは頑張って決闘士らしき人物を探したが、誰が誰だか分からない。恐らくもう一方のテントに辺境伯が待機しているのだろう。
「お父様、いたね」
「え、本当?」
「うん、大公様の隣で馬に乗ってたよ」
「すごい。ジネット、よく分かったわね」
ジネットが嬉しそうに笑う。こうしている分には天使様なんだけどな、とアンナは思った。
高座の偉そうな人が何か話し出した。観覧席の反対側なので何も聞こえないが、話し声がぽつりぽつりと消えていく。どうやら静粛に、とでも言っているようだ。
「ジネット、もう静かにしなくてはいけませんよ」
「なんで、お姉様」
「お父様がおっしゃってたことを覚えてないの? 決闘が始まったら、音を立ててはいけませんよ」
ジネットは決闘場を指さして言った。
「まだ始まってないよ」
「もうすぐ始まるから、今の内から静かにしておきましょうね」
「はあい」
テントから一斉に色々な人が出てきた。まずは王国直属の騎士達だ。決闘場の四隅の配置につく。
続いて大公様と辺境伯がそれぞれのテントから姿を見せた。お互いの近衛騎士に囲まれながら、高座の対極に落ち着く。アンナはようやくお父様を見つけられたが、鎧を全身着込んでいるせいで、表情一つも分からない。
最後に決闘士が現れた。全身を甲冑で固め、右手には剣、左手には盾を装備している。
両者が決闘場に足を踏み入れて、アンナはようやく気が付いた。体格差がありすぎる。大公様の代理決闘士は精々五フィート強といったところだが、辺境伯の方はどう見たって六フィート半は下らない。
アンナは拍子抜けしてしまった。大陸一同士の決闘が見られると思ってきたのに、これでは見るまでもなく巨大な決闘士の勝ちだ。少なくとも小柄な決闘士が大陸一の肩書きに相応しい様には、アンナには見えなかった。
両者は決闘場の対角へと移動した。小柄な方は足踏みを繰り返し、如何にも準備中で御座い、といった様子だが、大きい方は
高座の上の偉そうな人が一枚の紙を掲げて声を上げた。裁判長なのだろうか、一際豪華な衣服と
「ただいま正午をもってして、この令状に記された裁判を執り行う。両者覚悟は良いか」
決闘士は二人とも盾を付けた左手を挙げた。問題はなしだ。
「では、始めえ!」
裁判長の絶叫と供に、決闘士は動き出した。
じりじりと中央に進んで行く小柄な決闘士に対し、巨体の決闘士はごく自然に歩いて行く。
お互いの距離が後二三歩となったところで、巨体が虚を突いて動いた。砂利が抉れるほどの勢いで踏み込むと、一気に間合いを詰めながら
が、まるでこの一撃を予見していたように、小柄な決闘士は体を沈ませ、これを避ける。追撃も盾を器用に使って、衝撃を受け流しながら安全圏に脱する。
打って変わって軽快に、小柄は動き出した。相手の間合いぎりぎりで、右へ左へと翻弄する足取りで動き続ける。
巨体はそれをじっと待ち構える。下手に反応するのは悪手と踏んだのか、盾を体に引きつけて様子を
突然小柄な決闘士が剣の腹で地面を払った。狙い澄ました砂利が巨体の大きな顔を打つ。一瞬砂利に気を取られた巨体の決闘士の隙を逃さず、素早く突きを放った。
辛うじて巨体が盾で突きを弾く。お返しと言わんばかりの強烈な兜割を小柄な決闘士は右へ転がって避け、再び距離を取った。
手応えを感じたのか、小柄はもう一度左右に体を動かす。と思いきや、地を這う様に左へ跳んだ。巨体の決闘士がそれに呼応して盾を向けたところで、右へ跳ぶ。
鋭く巨体の懐に潜り込んだかと思われたが、巨体の決闘士はその体格に似合わない身軽さで背後へ跳び、都合良く距離を取った。
目標を失い、瞬間動きを止めた相手目がけて、巨体は盾を振りかざし、力任せに打ちのめした。
痛烈な一撃に小柄な決闘士は吹き飛ばされる。転がりながらも立ち上がった小柄は、盾を地面に投げ捨てた。見ると盾は衝撃に耐えかね、真っ二つに割れている。
盾を失った小柄な決闘士は途端に防戦一方になった。相手の間合いの内側に入り込もうとするも、剛力で振り回される剣に対処出来ていない。
一歩、また一歩と決闘場の端へと小柄は追い詰められる。もう殆ど後はない。巨体は盾を体に密着させた、そのまま距離を縮めていく。
思い切りよく小柄の決闘士が飛び出した。最早これまでと腹を括り、右手の剣を勢いよく振りかぶる。巨体の決闘士は変わらず攻撃を受けきって、反撃で仕留める構えだ。
しかし、小柄な決闘士はそのまま斬り付けるのではなく、振りかぶった勢いを右手首を返して殺し、目にも留まらぬ速さで左手に持ち替えた。相手の左手側には盾がない。
体重を前に移した小柄な決闘士は、巨体の決闘士の胴付近にある鎧の境目に、剣を深々と突き立てた。
巨体の決闘士は動きを止めた。地面に両膝を付く。
小柄な決闘士は剣を引き抜く。間を置かず肩越しに振り上げ、巨体の決闘士の首に叩きつけた。
剣は丸太みたいな首に食い込んで、止まった。巨体から力が抜け、どうとその場に倒れた。
「神はヴェルダン大公セルジュに正義をご覧になった」
押し込めた静寂が観衆の耳を鋭敏にする。
「よってこの裁判、ヴェルダン大公セルジュの主張を正当と認証する」
一呼吸置いて、誰かが拍手を始めた。皆の視線が音の出所を探る。
大公様だ。腰を上げて、悠々と手を叩いている。
拍手が観衆に伝染していった。拍手は喝采に変わった。人々は沈黙の枷から抜け出した囚人となって、口々に目の前で繰り広げられていた最高にわくわくする物事について話し合った。
「お姉様、静かに出来たよ。偉い?」
「偉いわ。ジネット、怖くはなかった?」
「別に」
ジネットはそう言って、決闘場を指さした。小さな指の先には小柄な決闘士の姿がある。
「あの人は?」
「え」
「あの人は怖くないの? 悲しくないの?」
考えたこともなかった。そもそも私たちとああいう人々が同じ考え方なのかも分からない。
大して何も考えていないのだろうな、とアンナは想像する。何せあれを生業にしているのだ、見ず知らずの男一人を殺したぐらいで、一々気に病んでいられないはずだ。
「あの人は大丈夫。ほら、あんな大きな人に勝てるぐらい強いのですもの」
「そっか」
「お嬢様方、お話のところ失礼致します」
振り返ると、お父様付きの小姓が立っている。
「ご主人様がお呼びです」
「お父様が?」
「ええ、お早く、とのことです」
「分かりました、ありがとう」
席から腰を上げる。観覧席の階段に向かって歩き出した。
アンナはふと振り返った。特に意味はない。強いて言えば、死んだ決闘士がどうなったか気になった、ぐらいだ。
死んだ決闘士はそのままそこにいた。巨体はだらしなく大地に寝そべり、血が徐々に鎧から流れ出て、決闘場の砂を汚く染め上げていた。
更に視線を上げると、あの小柄な決闘士もそこにいた。意外だった。もう用も何もないだろうに、何故か四角い決闘場の中心に突っ立っている。
よく見てみると、どうやら自分が殺した決闘士の死体を見ているようだった。鉄兜を着けたままなので、表情はおろか視線の行方さえも判然としないが、恐らくそうだ。
突然突っ立っていた決闘士が歩き出した。相手の死体がある方へ。決闘時に傷んだのか、その足は震え、歩く姿は心なしかぎこちない。
一歩、また一歩と進んで行く。途中、盾と剣が決闘士の腕から滑り落ちる。
静かだ。とても静かだった。砂と砂利を踏みしめるその音だけが決闘場を支配していた。
決闘士は死体の目の前で立ち止まり、片膝をついた。鉄甲をはめた両手を、ゆっくりと鉄兜を被っている死体の頭へと伸ばす。
そこで、動きを止めた。その姿勢のまま微動だにしない。
アンナは身を乗り出した。ここでは見えづらい。
アンナの目に、相手の鉄兜に手を掛けている決闘士の姿が映った。その瞬間、誰かがアンナの名を呼んだ。
「姉様。アンナ姉様。お父様がお呼びですよ」
ジネットだ。頬を膨らましてお冠の様子だ。
「今行くわ」
アンナは身を翻して、足早に観覧席から立ち去る。
足音が消え、決闘場には再び静寂が訪れた。
小柄な決闘士は鉄兜に手を添えている。その両の手は足同様、小刻みに震えている。
決闘士は手に力を込めた。死体の鉄兜が少しだけ浮く。
決闘士の呼気が荒くなる。
決闘士は動かない。何かを、何かの衝動を抑える様に、じっと待ち続けている。
やがて決闘士はそっと両手を引いた。鉄兜は相変わらず、律儀に死体の頭を保護している。
小柄な決闘士は立ち上がった。ごく自然に歩き出す。足はもう震えていない。
まるで、何もなかったかの様に。
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