後編
「……疲れた」
「ですね。でも、急ぐ旅でもないです。ゆっくりしましょう」
私たちは、貝殻の落ちてない綺麗な場所を見つけて、その砂の上で抱き合ったまま寝転がっていた。
氷雨さんの肌は、光を浴びて産毛までハッキリ見える。
その素肌を見てると、まるでライチみたいだな……とのんきな事を考えて、そっと唇で触れた。
「ちょっと、くすぐったい」
「すいません。でも、手のひらよりも唇の方がホッとします。氷雨さんがもっと感じられるから」
「……それ、分かるかも」
「不思議ですよね。唇って」
私は何度か氷雨さんの肌を唇で感じてから、ボンヤリと空を見上げた。
子供の頃、大きな入道雲を見るたびにあの向こうには別の世界があるのかも、と思えて時間を忘れて眺めていたのを思いだした。
こんな事考えるなんて。
今までそんなの思い出したこと無かったのに。
「あーあ」
「どうしたの?」
「今日で私、沢山の事に気付きました。世界がこんなに綺麗だったこと。こんなに静かだったこと。氷雨さんがこんなに綺麗だったこと」
「サラッと褒めるね。照れる」
「もっと早く知りたかったです」
私がつぶやくようにそういうと、氷雨さんは優しく微笑みながら私の唇にキスした。
「夏休みの最後の日ってそういうこと思っちゃいますよね。ああ……もっと夏休みを大事に過ごしてればよかったな……って。でも、それって終わりがあるから、感じるんですよね」
氷雨さんは寝転がったまま私の顔をじっと見ていた。
それから私たちは服も着ずに近くの図書館に入った。
産まれたままの姿の女性二人が図書館の中を歩く。
なんか、あまりにシュールで現実の物と思えなかった。
まあ、地球最後の日って言うのがすでに非現実なんだけど。
でも、その不思議でヘンテコな感じは悪く……いや、とてもくすぐったいような気持ち良さだった。
何より氷雨さんの産まれたままの姿は、海辺のシャワーみたいな光の中だけでなく、図書館の陰影のある光の中でも美しかったから。
堪らなく抱き締めたい。
私たちが初めて会ったのも図書館だったな……
そんな事を考えながら、第二資料室の前にあるソファに腰掛けて、一緒に本を読んだ。
そうしていると、窓の外から差す光がそれまでと違い、うっすらと赤く染まって来ているのを感じる。
その光を見ながらついつい氷雨さんに、甘えるように寄りかかる。
彼女は自然な感じで私を抱き寄せてくれた。
仄かな汗の香りが欲望を掻き立て、不安な心を紛らわせてくれた。
視線を彼女の持つ、滑らかな胸からお腹の曲線に這わせる。
現実とそれのもたらす恐怖から逃げるように、彼女の胸にキスをしながら顔を埋めて、飛び込んでくる香りを一杯吸い込む。
「ねえ」
氷雨さんがポツリと言った。
「せっかくだから、お互いとっておきの秘密を告白しない?」
「秘密……」
「そう。お互いの隠している一番の秘密」
秘密か……
確かに私たちの夏休みももう終わりが見えてきた。
隠し事をアッチの世界に持って行くことに意味なんてあるんだろうか。
「はい。いいですね」
「じゃあ、私からでいい?」
「氷雨さんからですか?」
「うん。言い出しっぺだしね」
私は氷雨さんの顔を見たけど、変わらず穏やかな笑みだった。
「私の告白は……」
そう言うと、氷雨さんは私の目を見る。
「雨音ちゃんの秘密をとっくに知っている」
私は氷雨さんの顔を思わず見直した。
昼間の輝く美しさから、今は窓からの赤い光に照らされて妖しさを感じる。
氷雨さんは私の頬を両手で挟むように包んだ。
「はい。次は雨音ちゃんの番」
「私は……」
言いかけて、ふと窓の外を見た。
この赤い光は夕やけの光なのかな。
それとも……
「言っていいんだよ。私は雨音ちゃんを……愛してる」
ああ……この言葉。
「愛してる」って、どれだけ使い古された言葉なんだろ。
でも、とっても甘美だ。
「私の秘密は……」
私も……あなたを愛している。
「氷雨ちゃんのお父さんを殺した」
※
赤い光はさっきよりも強くなっている。
何か変な……気分。
そして、あの日……2年半前の夜の光景が蘇る。
氷雨ちゃんのアパートの部屋を見つけた、彼女の父親。
手に持っている細長い物。
それを見た時その姿に向かって、震える右足で思いっきりアクセルを踏み込む自分の右足。
内臓を揺さぶる振動と蜘蛛の巣みたいになったフロントガラス。
そして……海に投げ込む時の人形のような堅さと冷たさ。
それらが私の中に、飲み過ぎたときのアルコールのように不快な異物になって、溜まる。
呆然とする私の顔が突然柔らかい温もりに包まれるのを感じた。
氷雨さんの胸に包まれていたのだ。
「有り難う……あの人からずっと暴力を受けていた事も知ってたんだよね。ずっと逃げてたのに、あの日……アイツは私のアパートを見つけて。……助けてくれたんだよね」
「ごめんなさい」
「謝らないで。それ以来苦しかったよね。あれだけ運転好きな人だったのに……だから、今日はドライブに行きたかった。前、良く一緒に行ったから」
私は何も言わずにシクシクと少女のように泣いた。
氷雨さんも泣いていた。
お互いの肌の
そう。世界には私たちだけ。
最後のその時まで。
※
「今日は本当に楽しかった」
「はい。私も。一生の思い出になりました」
「じゃあ、お茶にしようか」
「はい」
私たちは図書館を出ると、さっきの砂浜に戻って焼けるような暑さの中で車に積んでいたテーブルと椅子を置いて、車から運び出した取っておきのティーセットを並べた。
私たちだけの世界。
その世界の中心で行われるささやかなお茶会。
私は紅茶の中に砂糖をたっぷりと入れて、次に透明な液体を流し込む。
それをまるで儀式のようにゆっくりとかき混ぜた。
「はい。どうぞ。準備できました」
「流石女医さん。相変わらず惚れ惚れする手つきね」
「医者は関係なくないです? 氷雨さんこそ、流石パティシエ。クッキー凄く美味しそうです」
「口直しが必要でしょ?」
「あ、確かに。大丈夫とは思いますけど、そうしてもらえると有り難いです。念のため」
「じゃあ」
「はい」
私たちは紅茶をのんで、クッキーを食べる。
氷雨さんが居るお陰なのか、恐怖で舌が麻痺するかと思いきや予想に反してちゃんと味は分かった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様です」
「ああ……本当に暑いわね」
私は、返事の代わりに氷雨さんに近づいて、唇にキスをした。
その柔らかさや甘さ、温もりの全てを味わい尽くすように。
そして、名残惜しいな……と思いながら、唇を話して言った。
「またギュッとしてください」
「……私もそうしたかった」
私たちは砂浜に寝転がって、強く抱き合った。
愛する人の温もりって何でこんなに心地いいんだろう。
泣きたくなるくらい。
…ああ、もっと早く知りたかった。
【完】
世界の真ん中でお茶を 京野 薫 @kkyono
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