世界の真ん中でお茶を

京野 薫

前編

 やっと取れた……運転免許証。


 クレジットカードとほぼ同じくらいの大きさの小さなプラスチックのそれは、日本国民の74パーセントが持っている、ごくごくありふれたもの。

 でも、私にとってそれは高級な調度品のように所有欲を満たすオーラを放っていた。

 なので、まるで贋作がんさくの判定をしようとする鑑定士のようにアチコチから眺めては、飽きもせずに観察してしまう。

 ああ……やっと再び我が手に戻ってきた。

 8月にしても暑すぎる空気の中で、ハンカチで汗を拭きながらそんなことを考えた。


 これで氷雨ひさめさんをドライブに誘える。

 ずっと念願だった海を二人っきりで見に行ける。

 今までずっと彼女に運転してもらってばかりで、私は隣でしゃべるのみ。

 ずっと悪いなって思ってたから、やっと……


 他に受けに来てる生徒さんもおらず、試験も無人の道路を走るだけの形式的なものであっても。

 自動車学校の職員さんも教官と兼務してて、私の危なっかしい運転にも笑顔で「楽しんできてね。運転って楽しいものだから」と、お茶とお菓子を振る舞ってくれながらの教習であっても。

 どうであれ、自分の力で取ったものには達成感があるんだ。


 私は早速、氷雨さんに連絡しようと携帯を出して、ハッと思い出した。

 そうか。

 携帯、もう使えないんだ。


 ホッとため息をついて教習所の外に出ると、軽快なクラクションの音が聞こえたので音の方を見ると、可愛らしい白と水色のツートンカラーの軽自動車が停まっていて、窓から氷雨さんが顔を出している。


雨音あまねちゃん。オッケーだった?」


 氷雨さんのお日様の様な笑顔に、免許を取れた嬉しさを増幅させた私は、思わず敬礼のようなポーズを取って、彼女の元に駆け寄った。


「バッチリ! 一発です」

「流石だね~、と言いたいけど教習所も人いなかったでしょ? ……え? いたの? あ、まあアッサリくれるよね。しかし、この期に及んで律儀に免許なんて取らなくてもいいのに。って言うか、元々は運転してたのにね」

「スピード違反で一発免停の私にそれは言わないで下さい。やっと運転したいと思えるようになったんですから。どうしても一緒にドライブしたくて」

「2年前だっけ? 安全運転の雨音さんがね〜ビックリだよ。よし! じゃあ、雨音ちゃんの運転復帰祝いと言うことで早速代わってもらおうかな」


 そう言うと氷雨さんは私と代わって助手席に座ってくれた。


「さて、じゃあ私たちの思い出のドライブに行こうか」

「はい。ずっと楽しみにしてたから、鳥肌立ってます」

「大げさすぎ」

「いいじゃないですか。だって……最後のドライブなんですから」


 そう。

 これが私たちにとって最後の日。

 ううん。

 正しくは地球に住む人たちみんなにとっての最後の日。


 だって、今日は地球最後の日なんだから。


 ※


 今から2年前。

 臨時ニュースで突然流れたその内容は当時世界中に衝撃と未曾有の混乱をもたらした。

 2年後に地球が滅亡する。

 それは今の地球の文明では避けることの出来ないものです、と。


 何が原因かは当時の衝撃が大き過ぎてイマイチ覚えていない。

 それからはまさにパニックを絵に描いたような日々だった。

 街は恐怖に囚われた人で溢れ、聞いたことの無い怪しい宗教集団の教えが広まって、日本が分断して殺し合いでも始まるのでは? と思うくらいだった。


 でも、ある日。

 人々は拍子抜けするくらいにあっけなく諦めた。

 世界中の人々が時間差で。

「避けられないなら足掻あがいても無駄。それよりも最後の日々を静かに過ごそう」

 と言う風に考えるようになったのだ。

 人が死を受け入れる5段階。

 それが全人類単位で行われたようだ。

 かくいう私もその恩恵を受けたので、割に受け入れられた方かも。


 その後、私はそれまで友達だった氷雨さんのアパートに住むようになり、一緒に不安や恐怖と戦って、時には大げんかもして、そして……お互いの愛情を確認した。

 そして、今は最後の日にずっとやりたかったことの一つ目。

 私の運転で一緒にドライブ。を実行している。


 ※


「静かだね」

「はい。それに空も広いし空気も綺麗」


 窓の外は普通の住宅街だけど、みんな家で過ごしているのか死に絶えたように静かだ。

 そして、排気ガスや工場の煙のないせいなのか、街の空気も澄んでいて景色の色も鮮やかに見える。


「人が活動してないと。世界ってこんなに綺麗で静かになるんだね」

「なんだか、申し訳ない感じですね」

「いいんじゃない? 明日には謝る相手もみんな消えちゃってるよ」


 そう言ってクスクス笑う氷雨さんを私はじっと見つめた。

 彼女の笑い声って、何で心がくすぐったくなるんだろう。

 くすぐったくなると、いつも衝動的にしたくなるな……と思いながら、注意が逸れたのを見て素早く唇にキス。


「わ! ビックリ……」

「ふふっ、わたしだってこのくらい出来るんです」

「意外と積極的だね。っていうか、思いっきり車線はみ出してたじゃない。普段だったら大事故だよ」

「そうですね。でも今、世界は私たちだけのものです」


 広い道路に広い空。

 それは他に人が居ないだけで、どこまでも広く長く、まるで終点が無い空のように感じられる。


 ※


 それから道路を何度も蛇行しながら、お互いにキスし合いながら車は目指す海辺に着いた。そこも同じく人の気配の無い死に絶えた世界だった。

 でも、不思議と今まで見たどんな海よりもキラキラしていた。


 そんな美しい景色に酔ったみたいに、踊るような足取りで浜辺を歩いた。

 近くの図書館に日の光が反射し、海面の光の反射と合わせてまるで光の海に居るみたい。


 海鳥の鳴き声と潮騒の音。

 私たちが歩く度に足下でパキパキと心地よく鳴る、貝殻を踏み潰す音。


「静寂こそが最高の音楽で、自然の景色こそが最高の映像。パパの言ってたことを思いだした」

「お父さんに見せたかったですね。この景色」

「2年も前にどっか行っちゃった人の事なんてどうでもいいよ。邪魔なんてしてほしくないもん。あなたさえ居てくれればいい」


 そう言って氷雨さんは、突然服を脱ぎだした。

 え? ええっ?

 呆然としている私の前であっという間に産まれたままの姿になった彼女は、私に駆け寄るとブラウスのボタンを外し始めた。


「もう誰も来ないんでしょ? だったらこんなのいらなくない?」


 あ、確かに……

 文字通りの非日常な空間に酔っていたんだろうな。

 私もクスクス笑いながら、ブラウスや下着を全部脱いで、氷雨さんと同じ姿になった。


 あ……これ……いいかも。


 恥ずかしさは全然無かった。

 むしろ、とことん楽しんでやれ! と言う気持ち。

 まるで、某テーマパークに行った時みたいな、解放された気持ちだった。

 何より、海辺の光の海の中に浮かぶ氷雨ちゃんの肌は、冗談みたいに綺麗だった。

 部屋の中で見ていた時より、ずっと綺麗。

 私の脳の奥に無理矢理割り込んで塗りつぶすみたいな、暴力的な美だった。


 目を閉じて彼女の姿を反芻はんすうしていると、ふと胸の辺りに熱い吐息が掛かるのを感じた。

 彼女は私よりも一回り小さいため、お互い向き合って立っていると彼女の顔は私の胸の辺りに来るのだ。


「……雨音ちゃん……綺麗」


 お互い思うところは同じなんだ。

 お互い決して女優さんみたいに、スタイル抜群! じゃないんだけどね。

 私はそのまま氷雨さんをギュッと抱きしめた。


「誰もいないですもんね」


 お互い酷く熱いのは、夏の暑さだけじゃないよね?

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