一輪の花

犀川 よう

一輪の花

 目の前に一輪の花があるとする。それが最も美しいと感じる時は一体どこにあるのだろうか。弱々しい蕾の頃なのか、花弁が開き始める頃なのか、あるいは満開に咲いた頃なのか。わたしは小さい頃から、そんな希望と輝きに満ち溢れた時間に魅力を感じることができなかった。仮に蕾を見たとする。多くの人は蕾というものはやがて開くと知っているから、その先の開花を思い浮かべてそれを愛でるだろう。決して青々しい蕾そのものを見ているわけではない。自分も同じように咲きゆく向こう側に夢を見ているに過ぎないのだと理解してしまった時、わたしは未来への興味を失ってしまった。代わりに、わたしにとって最も美しいと感じる時は、一枚の花弁が落ちる頃だと気づいた。盛りを過ぎて失われ初める瞬間。そこには過去からの繋がりも枯れ果てる未来にも属さない一瞬があって、わたしを酷く安心させてくれる。時勢の変化に捕らわれることなく、その瞬間だけを愛することができると知ったとき、わたしはそこだけを見ることができれば、どんなに幸せだろうと思った。


 目の前に一人の女性がいるとする。それが最も美しいと感じる時は一体どこにあるのだろうか。わたしの定義に従えば、それは十軒程度の隣に住む佐恵子さんに訪れていた瞬間だった。偶然でしかなかったが、わたしが大学一年の夏、彼女が初めての出産を終えて自宅に帰ってきた瞬間に遭遇したとき、わたしはそれまで揺れ動かなかった感情の器から得体の知れないものが溢れ出るのを感じた。病院の送迎車から自分よりも大切な命を愛おしそうに抱えてフラフラとしながら降りてくる、彼女のやつれきった顔を見たとき、わたしの心臓がうるさく暴れ始めた。当時十八歳のわたしは、子供と大人を仕切る境界の出口に近い場所で留まっていて、まだ自分自身の性的指向もよく理解していなかった。恋愛らしい恋愛もせずに女子高を卒業して大学に入り、大学に着ていく似合いもしない流行りの私服のローテーションに悩みながら、あれだけ嫌だった制服の便利さに苦笑するような中途半端な存在だった。そんな何者にもなれていないわたしが見つけた最高の瞬間を佐恵子さんに見出したとき、わたしの身体は反射的に彼女の方へと向っていた。佐恵子さんに近づいて行くわたしを不思議そうに見ている旦那さんを無視して、わたしは佐恵子さんに近寄る。そして、わたしは彼女にひとつのお願いをした。――自分にもその赤ちゃんをお世話させて欲しい、と。


 ――将来は育児関係の仕事に就きたいと思っています。もしご迷惑でなければ、勉学のために少しでもお世話させてはくれませんか――。唐突な出会いから三日位経った土曜日の昼前だった。旦那さんは産休も取れずに遠い地に出張に出ていて、佐恵子さんの家には彼女と女の子の赤ちゃんだけしかいなかった。互いの両親は遠くにいて高齢もあり、助けになる存在ではなかった。わたしは佐恵子さんからそんな話を聞いて、心の中で悦びを噛み締めていた。わたしは育児関係の仕事に就きたいなんて、どうしようもない嘘をついてでも佐恵子さんに取り入りたかった。誰も知らないような大学の文学部にいる、わたしの唯一の武器である論理的な言葉遣いに、彼女が求めそうな感情を乗せてお願いしてみると、しぶしぶながら、佐恵子さんは首を縦に振った。授乳と赤ちゃんの泣き声で睡眠不足の彼女の目は虚ろであった。


 佐恵子さんは直接母乳で育てる方針のようで、フラフラとしながらも赤ちゃんの求めに応じて、授乳クッションを膝の上に置いて授乳用の服から右の乳房を取り出した。わたしはそれをずっと眺めるのが好きだった。彼女は恥ずかしいのか、乳首を見られないようにこっそりと服から取り出す仕草が、十歳近く年上にもかかわらず、幼く見えて愛おしかった。わたしは赤ちゃんを見るフリをしながら彼女に近づき、彼女の顔をそっと見上げる。疲れて何を考えているのかわからない顔をしていた。わたしは佐恵子さんに少しでも近づきたくて、彼女にあれこれと聞いてみる。乳房は痛くないのか、どんな気持ちなのか、最中はどんなことを考えているのか。本当はそれらの内容に興味などなかった。わたしは一秒でも長く佐恵子さんの顔を自分に向けたいだけだった。佐恵子さんは気が遠くなりそうな顔をしながら、わたしの勉強のためにと優しく丁寧に答えてくれた。わたしはそれに大げさに頷きながら、授乳クッションのずれを直すためと称して、彼女の太ももの内側を触った。手入れのできていない素足のザラつきが、自分以上に大切な人にすべてを捧げている証に思えてきて、胸がチリっと痛みを覚え、その対象がわたしでないことに少しだけ理不尽さを覚えた。

 

 何日か過ぎると佐恵子さんに元気と余裕が出てきた。彼女はわたしの大学生活を聞くの好きで、わたしはありもしない彼女が喜びそうな生活模様を披露した。高校を出て就職した佐恵子さんの心残りは大学に行けなかったことらしく、わたしの創り出すキャンパスライフを自分の物であるかのように想像するのが楽しいようだった。わたしは更に佐恵子さんの関心を買うためにと、赤ちゃんが泣き声が途絶える僅かの隙間に彼女にご飯を食べさせたり、買い物に行くようになった。彼女は申し訳なさそうにしながらも、わたしが家にいることに抵抗を感じなくなってきていた。沐浴の時間、彼女がベビーバスで赤ちゃんを丁寧に洗うときも、わたしは彼女の傍に寄り、手伝うことができるようになった。わたしは赤ちゃんに引っ張られてヨレヨレに伸びた服の中で見える乳房が揺れるのをそっと眺めながら、赤ちゃんの顔に湯がかからないように軽く手をあてた。彼女がそっと湯で流しているときに半開きになる口に自分の指で触れたくなる気持ちを堪えながら、できるだけ、さりげなく彼女に密着した。彼女の匂いは赤ちゃんの匂いで、母乳の匂いはミルクとあまり変わらないだと知った。そのことを告げてみると、次の日に彼女がわたしに見えぬように背を向けて自分の血液の化身を絞り出したものをグラスで飲ませてくれた。ミルクのような鉄のような、酸味のある味だった。わたしは「勉強になりました」と言いながら彼女の胸をじっと見た。彼女も何か感じたらしく、黙って上の服を脱いで見せてくれた。わたしは佐恵子さん悟られぬよう、大げさに手を震わしながら左乳に触れて、強く握った。滲み出たものをそのまま口にしたかったが、さすがに赤ちゃんに大事があってはいけないと思って、留まることにした。家族しか佐恵子さんの乳房に触ることができないのに、わたしはそれを成し遂げたことに酷く興奮した。佐恵子さんは「もういいかしら」と恥ずかしそうに言った。わたしは慌てて謝り、脱いだ服を拾って差し出しながら佐恵子さんを見ると、彼女の頬が僅かに赤ちゃんのようなそれに見えた。


 一か月もすると、佐恵子さんはわたしにすっかり気を許し、家の合鍵を渡してくれるようになっていた。チャイムを押しても返事がなかったので、手が離せないか寝ているのだろうと思い、合鍵で入らせてもらった。リビングには誰もおらず、取り敢えずとりこんだ洗濯物が山になっているだけだった。隣の和室の襖を開けると、可愛らしい布団に寝ている赤ちゃんと、力尽きて畳の上で仰向けに寝ている佐恵子さんがいた。わたしはこの一か月で、赤ちゃんの世話する大変さを思い知らされていた。最初の頃は隙あらば佐恵子さんに触れようとしていたが、いつの間にか真剣に二人の世話をしてしまっていた。わたしは自分がおかしいことは百も承知で、育児に夢中になる自分を否定して、佐恵子さんを手に入れたい気持ちを鼓舞しなければならなかった。欲しいのは赤ちゃんとの時間ではなく、佐恵子さんとのそれなのだ。わたしはそっと彼女達に忍び寄り、まずは赤ちゃんにタオルケットをかけ直した。それから、佐恵子さん方に寄り、彼女を見下ろした。彼女は無防備に口を半開きにして寝ていた。家のあちらこちらに抜け落ちてしまっているボサボサな髪が彼女の顔を半分覆っていた。わたしはそれを気づかれないように、できるだけそっと払った。そして化粧もせず、眉も整えず、肌も荒れ放題の佐恵子さんを見た。この日が佐恵子さんの顔に最も近づいた日だった。わたしはキスをするつもりで佐恵子さんの唇にあと数ミリまで寄る。けれど、彼女が赤ちゃんの頬にキスをしているシーンをふと思い出してしまい、顔を上げてしまった。こんなチャンスは二度とないかもしれないのに、赤ちゃんに何かあってはいけないという、わたしに残された最後の理性が働いて中断してしまったのだ。


 代わりに自分がとった行動は、彼女の半ズボンとショーツを下すことだった。ここになら、わたしは存分に触れることができる。こんな大変な思いをしているのに、仕事で帰らない旦那さんが悪いのだ。わたしは罪の意識を彼に投げつけて、それらを脱がした。彼女の下腹部には帝王切開の跡があった。わたしは剃ってから手入れをしてない陰毛をできるだけ見ないようにして、その傷跡に触れようとするが、それも諦めるしかなった。傷はまだ癒えてはおらず、創傷被覆材が貼られていたからだ。結局、わたしが佐恵子さんに触れてい良い箇所をどこにも見出すことができず、わたしは胸がとても苦しくなった。

「――もう、いいの?」

 わたしはその声に背筋が凍った。どんな顔をして彼女を見れば良いのかわからず、身体も思考も固まってしまった。今、わたしは何をしてるのか、論理立てて説明できる気がしなかった。

「……はい」

 わたしは観念して顔を上げると、佐恵子さんは微笑んでいた。

「帝王切開、だったの。酷い高血圧でね、元々、腎臓もあまり良くなくてね」

「……そう、なんですね」

 わたしは震えながら言った。

「何で、見たいって言わなかったの?」

 佐恵子さんは起き上がり、ショーツを履く気配も見せずにわたしに尋ねた。

「ごめんなさい。そんなつもりではなかったんです」

「そう、なのね」

 佐恵子さんは黙ってわたしを抱きしめてくれた。いつからかはわからないが、佐恵子さんはわたしの邪な気持ちを知っていたのかもしれない。それでも彼女は黙ってわたしを抱きしめて頭を撫でてくれた。佐恵子さんからミルクと中々洗えない頭皮の脂の匂いがした。

「やっぱり痛いですか?」

 わたしは自分でもよくわからない質問をした。佐恵子さんは「そうね、痛いわね。だけど、この子のためだから大したことはないわ」と言った。わたしは「そうなんですね」とだけ言ってから、泣いてしまった。それは罪悪感からなのか、失恋の痛みなのか、あの赤ちゃんがミルクを欲しがるような新たに生まれた欲求への叫びなのか、わからなかった。わからなかったけれど、一枚の花弁が落ちる頃の花には触れることが叶わないのだけは、わたしは身を以って知った。

「わたしも、佐恵子さんみたいに、子供を産むのかな」

「もしかしたら、そうかもしれないわね。そうならないかもしれないし、わからないわね」

 赤ちゃんから小さい声がした。もうすぐ起きるサインのようなものだった。わたしは涙を拭いて、彼女に問うてみた。

「目の前に一輪の花があるとします。佐恵子さんは、それが最も美しいと感じる時は一体どこにあると思いますか?」

 佐恵子さんはしばらく考えると、赤ちゃんを見ながら答えた。

「きっと、すべてなのではないかしら。土から芽を出す前から、枯れて何もなくなるまで。多分、花なんて、その中のわずかな期間のことでしかないのよ」

 わたしも赤ちゃんを見て、この穏やかな寝顔の未来にはどんな花が咲いて――散るのだろうかと想像してから、佐恵子さんを方を向き、また涙を流す。佐恵子さんは授乳するときの赤ちゃんの恰好へとわたしを導き、赤ちゃんが泣き始めるまで優しくあやしてくれた。わたしは目を閉じて、頭の中でわたしの花弁が広がっていくのをイメージしながら、佐恵子さんに「あなたが好きでした」と涙声で呟いた。

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