唯物論に吹かれて

諏訪野 滋

唯物論に吹かれて

二月四日

 義理の兄がのう梗塞こうそくを発症してから明日で二週間。入院した初日は左片麻痺が回復したとの連絡に喜んでいたのに、次の日には麻痺が再発。そこからは坂道を転げ落ちるように悪化の一途をたどった。

 義理の兄は五十台の後半でまだ働き盛りの年齢であったし、長く農業を続けていて身体も頑強といって差し支えなかった。喫煙を続けているのは少し気になってはいたが、持病も軽度の高血圧のみで、まさか脳梗塞を発症するとは、医師である僕も含めだれも予想していなかった。

 そう、最初に連絡をもらってからしばらくの間、僕は確かに高をくくっていたのだった。後遺症が残ると大変だ、自宅で生活できるようになるだろうか、義理の兄の家に対してどのような援助が出来るだろうか、などと、せいぜいそれぐらいが最悪であろうとの想定で、脳梗塞が命を奪い得る疾患だということは頭の中からすっかり抜け落ちていたのだ。だがもちろんそんなことはなく、調べてみれば死亡率についてのデータもきちんとある重篤な疾患であるということは明らかだった。脳梗塞の現場から距離のある整形外科医というフィルターで、いわゆる「リハビリをしている元気な脳梗塞患者」しか見たことがなかった僕は、義理の姉から日ごと送られてくる暗いニュースになすすべもなく立ち尽くすしかなかった。

 頭痛、嘔吐、呼吸困難。脳浮腫ふしゅによる頭蓋内圧亢進に対し五日前に緊急で減圧開頭術が行われたが、術後自発呼吸は消失し、術前にあった意識は全く戻らず。結局今日まで、義理の兄は人工呼吸器につながれたまま、義理の姉とその家族の呼びかけに答えてくれないままだ。

 脳神経外科の病院で看護師としての勤務経験がある妻は、脳梗塞に対してある程度の知識を持っており、義理の兄の悲惨な現状は病院の初期対応が遅れたせいだといきどおっている。畑違いの自分にはわからない、ただ妻の怒りに同意も反論もできず、時おりの涙を流すことしかできない。

 福岡から宮崎に行ったところで、感染症対策をとっているその病院では、肉親ではない自分は面会も許されない。地震怖いね、などと義理の兄と話していた先月の正月が嘘みたいだ。


二月五日

 主治医から、義理の姉とその家族全員に病状説明があったとのこと。義理の兄はこの一週間が生死の境目、意識の回復は絶望的。自発呼吸も戻らず、実質的な脳死宣告。奇跡が起こらない可能性が大なのが、これまで多くの患者を看取ってきた自分にははっきりとわかる。この職業を呪う。

 自分の両親をつい数年前に相次いで失った妻は、「独りになってしまう」と泣いた。妻の手を握っても、独りじゃないとはとても言えない。いままで彼女をおろそかにしてきた自分への罰。

 僕は自らの父母や兄妹とは、もう二十年以上も絶縁状態のままだ。その自分の血族をないがしろにしておいて、義理の兄のことを思うと止めどもなく涙が流れることも、自分勝手で自己嫌悪。お前は身内の死に泣く資格があるのか。いや、まだ心停止もしていないのに死と決めつけていることも、医療関係者特有の冷たい目線だ。僕はきっと、今までそのような二枚舌で人々に臨んできたのだろう。

 自分は本当に悲しんでいる? 空腹も感じるし、変わらずネットだって見ている。明日もいつも通りに仕事だ、手術予定は先まで詰まっていて動かしようがない。いや、仕事を投げ出したところで有益なことは何もない、と言い訳にして僕は様々なことを先送りにしているだけだ。自分は本当に薄情な人間だ、いまさらではあるが。

 それでも義理の兄を失おうとして初めて、僕は妻の顔をよく見るようになった。できることは、もはや限られている。一緒に祈る。自分の根幹をなしてきた西洋医学にあらがって、矛盾した気持ちのままで奇跡を信じる。

「物体があるから、まだいいよね」

 妻は努めて明るく振舞おうとしている、申し訳なく思う。


二月六日

 通勤のために走りながら、頭の中では堂々巡り。

 神経のシナプスが焼き切れて伝達物資の放出が停止して、それが死?

 よくあるSFの設定、脳ではなく臓器に記憶が宿っていて、レシピエントがドナーと自己を共有するという奴。だとしたら意識というのは、全身の細胞や遺伝子一つ一つの集合体なのか。今の状態の義理の兄に対して、一体どういう気持ちで接すればいいのか。

 義理の兄はどこにいる? 認めるって、何をどう認める?

 あきらめが少しずつ僕らを包み込んでいる。

 不謹慎大丈夫いつ停まる 不謹慎大丈夫いつ停まる

 妻は主治医のこれまでの対応をずっと責めている、やがて彼女は自分を責め始めるだろう。

 叫び出したい衝動。いくらペースを上げても、肺が焼き切れる前に脚が力尽きてしまうのが悔しい。

  今日の手術も予定通り終わった。プライベートは仕事に何の影響も与えない、自分の指を動かすのに心は必要ない。患者の家族は手を合わせて、手術の成功に頭を下げてくれる。でもこれは僕のただの日課、そんなに感謝してくれなくてもいいのに。結果がすべて、そうだろう? 少なくとも僕の妻はそう言っている。うまくいった出来事など、大抵は忘れ去られるに決まっている。ささくれた心。

 夜、甥っ子から妻にメールが来た。瞳孔が散大してきているとのこと。脳の圧迫が進行している兆候。少しずつ暗い知らせが増していく。


二月七日

 九時に外来を始めたところで妻からの連絡。義理の姉に朝方主治医から説明があり、改めて脳死宣告をされたという。妻の姪っ子から帰ってこれないかと懇願こんがんされた妻は、いてもたってもいられず、すぐに車で宮崎に帰るとのこと。

 こちらのことは気にしなくていいからすぐに発て、と返答。電話を切ると、込み上げてくる吐き気をこらえながらなんとか仕事をこなす。

 宮崎に到着した妻から夜に再度メール、今夜は待合室で待機するとのこと。切迫した状況。昇圧薬、最大量で持続点滴。脈拍と脈圧の変動大。これ以上打つ手がないことがはっきりとわかる。

 恐れていた夜の連絡はこなかった。妻の身が案じられる。

 

二月八日

 夜に妻からメール、昨夜に続き今日も一日中ずっと病院に詰めていた様子。時折の不整脈、血圧不安定。兄がいなくなるのは嫌だ、の文面と、ディフォルメされた鳥の泣き顔のスタンプ。日常から引き戻された僕は、独りの部屋で涙が止まらない。

 高速バスは二月十日しか予約が取れなかった、間に合わないかもとの恐れが頭をよぎる。義理の兄の死よりも、打ちひしがれた妻の憔悴しょうすいしきった文面がつらいのは、すでに先を見通した諦観ていかんのなせるわざなのだろう。

 奇跡はどこにある。あまりの理不尽に、部屋の暗がりに向けて悪態を投げる。

 彼女には大切な人が大勢いる、僕からいくらでも奪えばいいのに。自分は親兄妹など何とも思ってはいない、それはうちの家族の自業自得なのだから構いはしない。

 義理の兄こそが、僕の父であり兄だった。僕が福岡の自分の実家ではなく、宮崎の妻の実家に入りびたりになっていたことを、義理の兄夫婦は当然不審に思ったに違いない。しかし結局今日まで、彼らは僕にその理由をあえてただすこともなく、ただ黙って受け入れてくれた。

 一度妻に「僕が死んだら、君の実家の墓に一緒に入れてくれないか」と頼んだことがある。彼女はとんでもないという顔をして、呆れたように僕を見つめていた。僕は本気だったが、妻にとっての家族とは、自分の肉親と子供たちだけだった。喧嘩をするたびにいつも「子供たちが自立するまで、あと十年我慢すれば実家に戻れる」と漏らしていたのも、僕が結局彼女にとって他人であることを越えられなかったからだ。しかしそれは妻の認識と優先度の問題であるとともに僕の不甲斐なさの結果でもあって、彼女の言葉に怒りを感じたとしても、その半分は確かに僕のせいであるのだ。

 それでも今なら言える。彼女がどう思おうと、僕は彼女と、彼女の肉親と、本当の家族になりたかった。妻が独りになろうとしている時にこんなことを考える自分の厚顔ぶりには、さげすみを通り越して憎しみすら覚えるけれど。

 妻は、義理の兄の病状について僕が無関心だとなじった。そんなわけはない、僕だって今まさに家族を失おうとしている。二人の悲しみは等しい、それだけはわかって欲しい。

 いますぐ妻に会いたい。

 携帯に表示されたままの鳥のスタンプをみて、僕は再び泣いた。


二月九日

 時折着信する妻のメールの文面に、それまでになかった落ち着きが含まれているのが悲しい。食事は済んだか、バスの到着時間はいつか、姪っ子に駅まで迎えに行かせるから、そういったこまごました事についての連絡。疲労が悲しみを忘れさせてくれるならその方がいいのかと思いもしたが、そのような生活が長く続くはずもない。義理の兄の容態は不安定なりに小康状態を保っている。嵐の前の静けさ。誰もが息をひそめて何かを待っている。


二月十日

 子供たちに二日間の留守番を頼み、午前十時発の高速バスで宮崎に向かう。落ち込んでいる日というのは、いつも快晴だ。バスの窓越しに見える街並みは、南国の強い日差しで光と影にはっきりと分けられている。白と黒。現世うつしよ常世とこよ。いつなのか、間に合うのか、とその瞬間しか頭にない自分はバス酔いなのか何なのか気分が悪くなり、額に手を当てて目を閉じる。

 姪夫婦に迎えに来てもらい、義理の兄が入院している病院に到着。集中治療室の個室で治療を受けているとのことで、防護ガウンとマスクの装着を指示される。看護師に案内されて部屋に入ると、気管内挿管されたまま呼吸器につながれている義理の兄の姿。開頭術後で髪は全てられており、側頭部の術創は治癒しているものの赤条の瘢痕はんこんはまだ生々しい。意外とせていないな、と思ったのもつかの間、それは極度の低たんぱく血症による浮腫ふしゅだと気付く。妻と義理の姉はベッドの左右に分かれて丸椅子に腰掛け、筋肉が落ちて静脈の浮き出た義理の兄の手足をゆっくりとマッサージしていた。

 遠いのにごめんね、という義理の姉に黙礼を返した僕は、バイタルサインが表示されているモニターを確認してから、自分も椅子に座った。規則正しい人工呼吸器の音を聞きながら、両手を組んでうなだれる。看護師である妻は、点滴の一日量が足りないから血圧が不安定なのではないか、とそればかりを繰り返している。何かに対して常に疑問を抱いておかないと、気持ちを保てないのだろう。補液しすぎると心不全になるから、という僕の言葉に、わかってるそんな事、と怒りを見せる。

 本来身内の付き添いは午後九時までしか認められていないのだが、特別に午後十時まで許可されているとのことで、その時間まで三人で言葉少なに過ごす。今夜も病院の待合室に泊まるという二人に飲食物を買ってきて渡すと、僕と甥っ子は彼の車で三十キロほど離れた義理の兄の自宅に戻った。身内に医者がいるのに役立たずでご免、と車中で謝った僕に、ハンドルを握る甥はついに何も言わなかった。

 

二月十一日

 義理の兄の容体は、僕が付いていた二日間で何の変化も見せなかった。やがて福岡に戻る時間になり、頼む、と妻に言うと、小さくうなずく彼女からはため息だけが返ってきた。帰りの車の中で、明日の仕事のこと、子供たちのことについて考える。あてのない希望、疲労の限界。夜中の二時半にしか帰りつかないから明日の準備をして寝ておくように、と息子にメールを送ると、娘と二人でカップラーメンを食べたとのこと。兄妹そのままずっと仲良くいて欲しい、などと自分のことを棚に上げながら、僕は途中のサービスエリアでシートを倒し三十分ほど眠った。


二月十二日

 早朝に妻からメール、こちらは変わりはないから仕事頑張って。言われるまでもない、今の僕にはそれしかできることはないのだから。今日の手術は二例とも助手、寝不足の僕にとっては有難い。隙間時間で仮眠。事情をあらかじめ説明していたため、上司は定時で帰ることが出来るように配慮してくれた。

 午後八時。スーパーで買った総菜を子供たちと一緒に机の上に広げていると、妻からの動画。ファイルを開いた僕は硬直した。画面の中では、確かに義理の兄の手足が小さく動いていた。ほんの数秒ではあったが、それは見間違えようもないものだった。添えられていた文面にはただ一言。

 「きせきがおきた」

 携帯を片手に涙を流し続ける僕を、子供たちはおろおろと見ていた。僕の泣き顔を見たのは恐らく初めてだったろう。どうしたと? と問う娘に、いいことがあった、とだけ答える。

 本当に回復の兆候なのか? 昏睡状態となってからすでに十日以上も経過しているのに? 食事を終えた僕は、喜びでくしゃくしゃになった妻の顔をまぶたの裏に想像しながら、ソファーの上でしばらく放心していた。


二月十三日

 暗い寝室の中、携帯の着信音で目を覚ました。午前四時二分。送り主は義理の姉、全体への共有メール。

「三時四十四分 天国へ行っちゃった」

 みんなでうれし泣きをしたばかりのその夜、義理の兄は旅立ってしまった。

 それからのことは、よく覚えていない。ただ震えながら、せき込んでばかりいたような気がする。

 午前五時三十二分、妻からメール。十五日と十六日に通夜と葬儀があるので仕事を休めないか、との事務的な連絡。いままで義理の姉と打ち合わせをしていたのだろう。予定はすべてキャンセルするから出席は問題ないと返信。

 仕事を終え自宅に帰ると、少しためらった後に、愚かなことだと思いつつパソコンで検索。脳死、動く、手足……やがて、ラザロ徴候というワードが引っ掛かる。「脳死の末期状態において低酸素症が進行し、脊髄せきずい反射によって筋肉が収縮することにより手足が動く現象であり、脳死状態からの回復を示すものではない」とそこには説明されていた。くたばれ、脳神経科学。あれは確かに、義理の兄が自分の妻と妹に別れを告げるために最後に力を振り絞ったものなのだから。僕はそれ以上ディスプレイを見る気にはなれず、電源を落とすと浴室に移動して苦いつばを吐いた。



 七月の初盆を終え、夏の猛暑が日常を焼いていく。妻は努めて多く笑うようになり、かと思えば動きを止めて不意の涙を流したりした。僕の方はと言えば、妻の顔を見ながら会話をすることが増えたし、兄に会いたいと事あるごとにこぼす妻に対しても、以前のようにいらついて怒鳴ったりすることはなくなった。義理の兄がいなくなったからといって僕たちが家族になれるわけでは無論ないし、妻の寂しさにつけ込むような真似をしても何の解決にならないこともわかっている。それでも、質量のある二つの物体が近くにいれば、何らかの引力が働きはしないか。そんなつまらないことを思いながら、今日も僕は付かず離れず彼女の周りをまわり続けている。


 青白い月を見上げながら、妻が言う。

「兄の代りに、私が目に焼き付けておくから」

 彼女の隣で、僕は僕だけの為に月を見ている。

 物体があるから、まだいいよね。

 かつて君が僕に言ったとおりだ。心がどこにあるかなんて、誰にもわからない。

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