花菖蒲苑にて君は雫を落とす

入江 涼子

第1話

   わたくしは今日も花菖蒲苑にて星空を見上げていた。


  夫である翡翠様は今日も愛人の元にいる。どうせ、一月に一度くらいしか来ないのだ。自分の屋敷の近くにいたって誰も文句は言わない。わたくしは星空を眺めながらぽたりと涙を流した。次から次へと溢れる。


(……碧瑠へきる様はお元気かしら。翡翠様と結婚してから会えていないわ)


  わたくしと碧瑠様は元は幼馴染みで婚約者だった。同い年で仲も良かった。なのに女好きの翡翠様がわたくしに言い寄ってきたのだ。そのせいで子を身ごもりわたくしは懐妊してしまう。結局、女の子が生まれてわたくしは翡翠様の妻になった。だが、娘である鈴音が生まれてからはわたくしに見向きもしなくなって。翡翠様のいけずと言いたい。あの男と結婚したばっかりにと歯噛みもする。


「……ひっく。碧瑠様あ」


  わたくしは悲しくなって余計に泣きじゃくった。けど抱きしめて慰めてくれる人はいない。仕方ないと思いながら自分を抱きしめる。ちょっと肌寒いけど我慢した。


「……女。そこで何をしている」


  不意に低い男性の声で涙は止まった。我が家だというのに何で誰何すいかされないといけないんだ。そう思いつつも声が聞こえた方に顔を向ける。さあと空が晴れて満月が顔を出す。周囲が明るくなって見えたのは淡い琥珀色の瞳だ。キラキラと輝いて見えた。それに大いに驚く。


「………碧瑠様?」


「……俺の名を知っているとはな。そなたは」


  もう碧瑠様と婚約破棄してから七年は経っている。わたくしも今年で二十四になっていた。彼が忘れてしまっても仕方ない。


「ふむ。よく見れば、見知った顔だな。もしや。綾女あやめか?」


「……何で。碧瑠様は他の姫君と結婚なさったはず……」


「……知っていたのか。だがその縁談は断った。俺は綾女が忘れられなくてな」


  わたくしは「断った」という言葉を聞いて目を少し見開いた。けど今の状態は良くない。わたくしは仮にも夫もいて子もいる立場だ。そんな女と不貞をやらかしたとなったら。碧瑠様にとってはこれ以上ない醜聞になる。それは確実だ。急いで立ち上がると屋敷に急いでいた。碧瑠様が何でここにいるのかはわからない。が、早く入らないといけないのは確かだった。碧瑠様には悪いと思うが。


「綾女?」


「お帰りください。もうわたくしには背の君がいます。ここにいらしては碧瑠様のためになりません」


「だが。そなたを放っておけない」


  わたくしはさらに碧瑠様から離れようとした。だが彼の方が少し早かった。気がついたら腕を掴まれている。強い力に怯んでしまう。流石に男性には敵わない。


「……綾女。あんな男とは別れて俺と一緒になろう。俺だったらそなたを放ったらかしになどしない」


「離してください。わたくしには娘もいます。あの子の事を考えたら余計にあなたと一緒になるわけにはいかないのです!」


「そうか。どうしても俺とは再婚できないか」


  わたくしが言っても余計に機嫌を悪くしただけらしい。どうしたものかと考え込む。けど事態は待ってはくれなかった。碧瑠様は不意にわたくしの腕を引っ張ると背中と膝裏に手を差し込んだ。ぐいっと視界が上がる。横抱きにされたのだと気づくのに少し時間が掛かった。碧瑠様はそのまま、屋敷の方へと歩いていく。

  そのまま、階を上がると草鞋を脱いだようだ。碧瑠様は簀子縁を歩くとある部屋の前で立ち止まる。足で器用に開けた。


「……綾女。許せ。俺は何としてでもお前を妻にしたい」


「碧瑠様。お待ちください。娘の事はどうなさるつもりですか?」


「娘御も一緒に引き取るよ。綾女の子だったら俺はそれでいい。綺麗なんだろうな」


  全く話が通じない。碧瑠様は部屋の中に入った。万事休すと思う。わたくしが不貞を犯したとなったら翡翠様は激怒するだろうな。ああ、諦めていたのに。何故、誰も放っといてはくれないのか。碧瑠様はそっとわたくしの身体を畳の上に降ろした。彼は本気のようだ。けど鈴音はどうなる?


「綾女」


  低い掠れた声で呼びかけられた。でも嬉しくない。今の状態で言い寄られても迷惑なだけだ。どうしてわたくしが独身であった時に「結婚しよう」と言ってくれなかったのか。それだけが心の中をぐるぐると駆け回る。わたくしは抵抗もできずに碧瑠様と一夜を過ごしたのだった。


  翌日、わたくしは碧瑠様によって無理に屋敷を連れ出された。娘の鈴音も一緒だ。碧瑠様は馬で来ていた。単衣でわたくしの身体をくるむと横抱きで馬に乗せる。まるで荷物になった気分だ。いくら、わたくしが元は身分が中流だからってこの扱いはあんまりである。それでも仕方なく碧瑠様の屋敷に着いた時に逃げ出せないかと機会を伺う。翡翠様にしてもここまではしなかった。これから自分はどうなるのか。不安と恐怖の中にいながらもわたくしは碧瑠様の淡い琥珀色の瞳を見上げたのだった。


  その後、碧瑠様のお屋敷に着いた。鈴音と一緒の部屋に通されたのは幸いだった。案の定、鈴音はいきなりよそのお屋敷に連れてこられたから泣いている。


「……ひっく。お母様」


「……鈴音。お母様はここよ」


「お父様はどこ?」


「ごめんなさいね。お父様はここにはいないの」


「……お父様。お母様を置いてまた卯木姫の所に行ったのね」


  わたくしは無言で鈴音を抱きしめた。子供特有の高い体温が伝わる。可哀想にと思った。いくら何でも碧瑠様は強引すぎる。今年で七歳になる鈴音だが。碧瑠様に懐くか心配だ。ちなみに卯木姫というのは愛人の女人の名だった。わたくしは仕方なく鈴音の頭を撫でてやる。


「……鈴音。ちょっと聞いてほしいの。いいかしら?」


「うん。なあに?」


「もしかするとあなたとお母様をここに連れてきた殿方は。元のお屋敷には帰してくれないかもしれないわ。ということはしばらくここでご厄介になるという事を鈴音には覚えていてほしいの」


「え。お母様のお屋敷に帰れないの。あの方をお母様は知っている?」


「あの方はお母様の許嫁の方だったのよ。けどちょっと色々あって。結局、一緒にはなれなかったの」


「……そうなんだ。じゃあ、お母様が昔から知っている方だったのね」


  わたくしは頷いた。鈴音は涙が止まりちょっと考え込む素振りを見せる。どうしたのかと思っていたら部屋を出ようとした。慌てて後を追いかけた。


「鈴音。どこへ行くの?!」


「……あの殿方の所へ行くの。お母様の代わりに文句を言ってくるわ」


「鈴音。文句はやめて。あなたが危なくなるわ!」


  必死でそう言うと鈴音は歩みを止めた。だがその顔は不満そうだ。


「お母様は嫌でないの?」


「……嫌に決まっているわ。けど仕方ないの」


「私も嫌。だって。あんな無理強いする方なんて好きになれないわ」


  わたくしはどうしたものかと頭を抱える。鈴音は頑として言う事を聞いてくれない。不意に衣擦れの音がする。誰だろうと思ったら簀子縁から声がかけられた。


「……お方様。姫様。殿がお呼びです」


「……わかりました。もうしばらくしたら行くとお伝えして」


「かしこまりまして」


  声をかけてきたのは女房だった。わたくしは立ち上がると咳払いをする。そうしたら几帳の影で控えていた他の女房達が出てきた。一斉にやってきて衣装を替えたり髪などを整える為にテキパキと動く。半刻もしない内にお化粧もされた。髪は櫛が通り衣装もお出かけ用の小袿姿になったが。衵扇も用意される。まあ、仕方ないと思いながらも同じように身支度を整えた鈴音と共に碧瑠様の元に向かう。先導の女房も一緒にだった。わたくしは静々と歩きながら翡翠様や両親が気付いて探しに来てくれるのを胸中で願うのだった。


「……ああ。よく来てくれた。やはりその小袿は綾女によく似合っているな」


「……お呼びによりまかり越しました。何用でございましょうか?」


「おいおい。俺とお前の仲だろう。そんな他人行儀にしなくても」


「碧瑠様。勘違いしないでください。わたくしとあなたは今は赤の他人です。そもそもわたくしはまだ了承していませぬ」


「……やっぱり俺を夫とは認めぬか。綾女。もうお前は俺のものだ。そちらの姫も俺の娘だしな」


  いくら言っても聞き入れてはくれないようだ。誰のせいで鈴音もわたくしも困っていると思っているのか。


「……碧瑠様でしたか。私はあなたを父とは認めません。お母様を大いに困らせておいてよく言えたもんだわ」


「ほう。この俺に物申すとはな。なかなかに気が強い姫だ」


「翡翠のお父様はダメダメだけど。それでも私の事はちゃんと面倒を見てくれていたわ。あなたみたいに無体な事はしていないし」


  鈴音がはっきり言うと碧瑠様の纏う空気が一変した。鋭く怜悧なものになる。表情も冷たい。わたくしは立ち上がると鈴音の前に出た。背中に庇いながら言う。


「碧瑠様。わたくしはどうなろうとも構いませぬ。けど娘には手出しをしないでくださいませ」


「……綾女。お前が言うんだったら姫には手出しをしないでおこう。命拾いしたな。鈴音姫」


  わたくしは鈴音に向き直る。鈴音は顔を青ざめさせつつも碧瑠様を睨みつけていた。こんなに気が強い子だったろうか。そう思いながらも鈴音を抱きしめた。背中を撫でてやる。


「ふん。やはり俺よりも子の方が大事か。綾女。明日には屋敷に戻れ。気が変わった」


「そうですか。わたくしは翡翠様の妻である前にこの子の母です。何があろうとも娘から離れるつもりはありませぬ」


「わかった。お前と無理にでも婚姻しようとしていた俺が馬鹿だった。悪かったよ」


  わたくしは苦笑する。その後、丁寧に手をついて頭を下げた。お別れのつもりで。碧瑠様は何も言ってこなかった。こうして無事に翌日には自分の屋敷に戻れたのだった。



「……綾女。良かった。無事だったか」


  そう胸を撫で下ろしながら言うのは夫の翡翠様だ。ちょっと間抜けだけどおっとりとした性格の人だった。

  愛人である卯木姫は後で聞いたらもう既に新しく通う殿方がいるらしい。翡翠様はもうふられていたが。それを認めるのが嫌で自分の屋敷に籠っていたらしいのだ。けど今回の騒動でやっと目が覚めたそうで。娘までもうけたわたくしの元に戻る気になったらしい。


「……ええ。ご心配をおかけしました」


「鈴音も無事で安心したよ。今まで色々と迷惑をかけたな。すまない」


  そう言って謝る翡翠様にわたくしは苦笑した。黒い髪に茶色の瞳の彼だが。顔立ちは切れ長の瞳にすっとした鼻筋と涼しげな雰囲気の美男ではある。性格は見かけとは違うけど。


「謝らないでくださいませ。不貞をしでかしたわたくしにも責任があります」


「……それは。君を責めるつもりはないよ。無理に迫ってきた碧瑠殿が悪いのだから」


  翡翠様はそう言うとわたくしの頬を撫でた。久しぶりの手の温もりにちょっと驚く。


「綾女。今度からは私が君を守る。どうかな。私の屋敷に来る気はないか?」


「……わたくしが翡翠様のお屋敷に?」


「ああ。あちらだったら警護も万全だ。鈴音も一緒にいれば。綾女も安心だろう」


「そうですね。わかりました。行かせていただきます」


「……良かった。そういえば、碧瑠殿は謹慎中らしいよ。この話をお聞きになった主上が大層お怒りになってね。叱責をいただいて。今は別邸にいるそうだ」


  わたくしは翡翠様の意外な言葉に驚いた。まさか、碧瑠様が謹慎をしていたとは。翡翠様は苦笑する。


「気になるかもしれないが。碧瑠殿の事は放っといてもいいと思うよ」


「そうですね」


  わたくしが笑うと翡翠様は頬から手を離す。そうっと抱きしめられた。それに応えたのだった。


  あれから、一月後にはわたくしは鈴音と共に翡翠様のお屋敷に移った。碧瑠様といた二日間とは違い、穏やかな日々が続いている。お屋敷に移ってから半年くらいは経つが。翡翠様は毎日、わたくしの部屋を訪れるようになっていた。そのおかげか二人目の子を身ごもっていた。もう四月目に入っている。


「……綾女。今度のややは男の子かもしれないね」


「だといいのですけれど」


「鈴音も男の子だったら良いと言っていたよ」


「ふふ。楽しみですね」


「私も早く会いたいよ」


  お庭では鈴音が翡翠様の弟君の子であるせつ姫と一緒に雀の子を捕まえていた。賑やかで楽しそうだ。翡翠様と二人で見守るのだった。


  あれからおおよそ、半年が経った。わたくしは夜中に産気づき、明け方に元気な男の子を生んだ。翡翠様と鈴音は大いに喜んでくれた。刹姫も喜んでいたらしい。後にこの男の子は秋若と名付けられた。

  秋若は元気にやんちゃに成長する。大いに困らせてくれたが。それでも可愛い我が子には違いない。今日も翡翠様と鈴音、わたくしと秋若の四人で賑やかに暮らすのだった--。


  -完-

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