ピアノの王子様

1 ピアノの王子様

 ここは横浜港を見下ろす丘にそびえる私立一並ひとなみ高校体育館。


〔下〕「まっつーん!」

 二学期の始業式を終えて教室に戻る松田松尾まつだまつおの耳に、すっかり聞きなれた声が飛び込んで来た。


 声の主は一年七組のクラスメートでサッカー部員の下野広小路しもつけひろこうじ


 サッカー部の活動自粛期間かつどうじしゅくきかんに『落研ファイブっ』の助っ人として大活躍をした彼は、二学期からはサッカー部に復帰する。


〔下〕「あーちゃん(弟)がな、プロコフィエフだっけ。あれを気に入っとるんよ」

〔松〕「プロコフィエフの三番(※1)を。へえ意外」


 国内最難関のピアノコンクール―通称・生き地獄―で弾いた曲を口ずさむ下野しもつけを見ながら、松尾がふふふと笑う。


〔下〕「小三心しょうさんごころをくすぐる曲らしいんよ。一人で百回は再生しとる」

〔松〕「あーちゃんの大好きな蝉丸せみまる並みに気に入ってくれたかな」

 笑いながら二人が一年七組に戻ると、ほとんど話したことのないクラスメートが松尾にサイン色紙を差し出して来た。




〔生〕「松田君、サインもらっていい? うちの姉ちゃんがサインもらって来いってうるさくて。ピアノの王子様って呼ばれてるんだってね」


〔下〕「いや、まっつんはピアノの野獣やじゅう

〔松〕「ちょっ、野獣はヒドイ! 王子様でも野獣でもないし。サインはちょっとごめんなさい。まだ勉強中だから」


 サイン色紙とサインペンを差し出された松尾がクラスメイトの頼みを断っていると、担任で管弦楽部かんげんがくぶ顧問こもんでもある坂崎がやって来た。


〔坂〕「松田君、改めておめでとう。まさに圧勝、恐ろしいぐらいだったよ。去年のマイアミのコンクールも度肝どぎもを抜かれたけれど、それを超えてくるとは」


〔松〕「先生こそ、管弦楽部かんげんがくぶ三連覇さんれんぱおめでとうございます」

〔坂〕「あれは皆のおかげだよ。ああそうそう、管弦楽部の定演ソリストを受けてくれてありがとう」

 坂崎は、タクトの代わりに指を動かした。




〔下〕「まっつん、あの曲を管弦楽部かんげんがくぶとやるん」

 HRを終えた坂崎が教室を出ていくと、下野しもつけは松尾に振り向いた。


〔松〕「あれじゃなくて、下野しもつけ君が平和十三ピンフジュウソウ学園で聴いた曲をやるよ」


〔下〕「格ゲーのラスボス戦ぽいやつ(※2)か。じゃ、部活行くわ」

 ついにサッカー部が活動再開となった下野しもつけに手を振ると、松尾も落研の新部室へと向かった。



※※※



〔餌〕「松田くーん。春日かすが先生にお礼言っといて。エアコンが無かったら蒸し焼きになる所だったよお」


 松尾の叔母おばである春日千景かすがちかげ寄付きふで、エアコン付きのプレハブ部室を手に入れた落研。


 その新顔役総務かおやくそうむ(部長格)であるえさこと伴太郎はんたろうは、パンダのうちわ片手にココナッツウォーターをあおっている。




〔松〕「そう言えばえささんって本当に千景ちかげおばさんのクリニックでVIO脱毛を」

 松尾の何気ない質問に、えさは小さな体を乗り出した。

 

〔餌〕「聞いてよひどいんだよ。春日先生にVIO脱毛をしてもらう約束だったのに、男の人に丸投げ。春日先生に『見て』もらえないんじゃ意味がないんだよおお」


 熟女マニアの餌は、『見て』もらいたい一心でVIO脱毛を申し込んだ事を後悔している様子だ。


〔松〕「男性のVIO脱毛は男性が担当するって。パンフにも書いてありますよね」

 ひどいよおおおと騒ぐ餌を前に松尾がTシャツ一枚になると、悪夢のせいかやつれ果てた仏像が音もなく部室に足を踏み入れた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。


※1 プロコフィエフ作曲 ピアノ協奏曲第三番Op.26


本作の前日たんである『落研ファイブっ―何で俺らがサッカーを』内のコンクールにて松尾が弾いているシーン→https://kakuyomu.jp/works/16817330659394138107/episodes/16817330661180517540


※2 リスト作曲 死の舞踏S.126

松尾が弾いている映像が流れるシーン→https://kakuyomu.jp/works/16817330659394138107/episodes/16817330660713713468

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