第十三話 恩誼と恩寵 後

 朝から麁相そそうをやった。この事実だけでも十六歳のメンタルはそこそこ寸襤褸ずたぼろな訳だが、今朝はその襤褸を更にり細裂くような勢いでしんどいこと続きだった。電車に乗れば隣のおっさんのたばこ臭さで眩暈めまいがするし、冷房寒すぎだろとなるたけ日向を歩いていたら、今度は排ガスの煤烟けむりむしあつさで気持ちが悪くなってくるし…もうんだりったりだ。――鴉は八釜やかましいし街はゴミ臭いし、だから都会の夏はいやだ。カレンダーと今日の運勢を見逸れたから何とも言えないけれど、おそらく今日は仏滅だ。それか星占いで射手座が最下位だったのだ。かく今はそんな牽強附会こじつけをやりたくて為方しかたがない。入力されたマイナスの事象に不可抗力的マイナスを掛けてプラスに転じ、それをべき乗してダイナマイトで爆破して木端微塵にしてやらないことには、生理初日の私の腹の虫が乿おさまらない。

 ――あー保健室行きたい…でも休んだら追試かぁ…そもそもテストの為に学校まで汗水垂らして歩いてきたってのに、三時間寝て帰るだけとなると…徒爾むだだよなぁ…


「おはようございまーす…」


「おぉ姫嶋、なんだ今日はずいぶん弱々しいじゃないか。もっと腹に力入れんと、気合も入らんぞ」


「すいません…今日は体調が…」


「おぉ、そうだったのか。それは悪かった。お大事にな」


 ともするとこんな体育教師の同情さえかたじけなおもえるほど、私は完全に參っていた。


「姫嶋さんおはよー」


「――あぁ片瀬さん、おはよう」


「今日三十二度だってー。ありえないよねー、まだ五月なのに」


「だよねぇ。あたしも学校来る途中で、なんか暑くて疲れちゃった」


「わかるー、都会ってただでさえうるさくて疲れるのに、夏とか地獄だよね。信号見るのも疲れるっていうか」


「片瀬さんでもそう思うんだ」


「思う思う。私田舎生まれだから、基本人混みとか嫌いだよ」


 嗚呼、同志よ。


「そういえば。――片瀬さんて、ご出身はどちらで?」


「私は福島だよ。郡山こおりやまってところ」


「ほんと!? あたし小学生の頃、家族でよく福島行ってたよ、郡山もだけど、猪苗代いなわしろとか磐梯熱海ばんだいあたみとか、あと東山ひがしやま温泉も行ったことあるし」


 私が得意気になってそう言うと、片瀬さんは空愧そらはずかしそうな表情をした後でしとやかに破顔した。


「やば…/// 姫嶋さんが私の故郷に来てくれてたって、運命みたい…めっちゃ嬉しい…好きになりそう…///」


 そして私が下駄箱にくつしまおうとかがんだ瞬間、彼女は私の下膊を摑み、そのかおをぐぐっと私の鼻先までちか付けてきた。ほのかな汗の香に混じって、蜂蜜のような甘いかおりがした。


「姫嶋さん、チューしよ?」


「ままま待って待って片瀬さんっ!/// …あたしまだ、そんな///」


「ふふっ。うそだよ。でも、姫嶋さんはなんか好き」


「――片瀬さんて、目綺麗だね」


「へ? そ、そんなことないよ…///」


「そう? なんか黒目が綺麗だから、コンタクトしてるのかと思った」


「姫嶋さん。それ以上口説いたら、私本気でキスするよ?」


「ぇ、いや別に口説いてる訳じゃなくて、純粋に綺麗だと思っただけだよ」


「…もぉ。舞彩ちゃんにもそうやって意地悪してるんでしょ」


「…あたし、やっぱ意地悪かな…」


「――ちがうよ、悪い意味じゃなくて。恋愛なんだから、もう少し飴とムチを使い分けないとダメだよ。――私遠目に見てていつも思うけど、今の姫嶋さんは舞彩ちゃん以外の人に飴を配り歩いて、一番近くにいる舞彩ちゃんにはムチばっかりって感じがするんだけど…それってお節介かな」


 そう言いつのられて、私は悉皆分疏すっかりいいわけならべ立てる気力をうしなってしまった。何故なら片瀬さんの指摘があまりにも正鵠せいこくを射ていたからである。

 ただ私はそれが御節介などとは毫釐これっぽっちも思わなかった。むしろここまでねんごろな忠告をくれる朋友ともだちがいることに得も言われぬ歓びを感じたし、何よりけ引きと押し引きの違いがわからないばかりに、私が舞茸との関係を等閑なおざりにしているのは事実な訳だから、彼女のその指摘は、最早価千金あたいせんきんの警句と言っても過言ではなかった。


「いえ、片瀬さんの仰有るとおりです。…あたし距離感がつかめないのもあって、舞茸には冷たいんだと思います」


「ぜんぜん冷たくないよ。――姫嶋さんは普通にしてるだけで十分優しいから、その感じで舞彩ちゃんにも優しくしてあげてね」


「――片瀬さん、なんかありがとう。あたし思い込み激しいから、片瀬さんみたいに言ってくれる人がいるとほんと心強いよ」


「私も。福島好きの姫嶋さんと友達になれて超嬉しいよ」


「――また家族で行こうかな。お菓子も美味しいし、水も空気も綺麗だし」


「――そういえば、姫嶋さんって家どの辺?」


「あたしの家は、ちょうど東京と千葉の境目辺りだよ」


「そうなんだ。――今度遊びに行ってもいい?」


「ぁぇ、えっとぉ…あたし…あんまりお招きするの得意じゃなくて…」


「ふふ。姫嶋さんまた真面目になってる。――分かってるよ。舞彩ちゃんしかお招きしないつもりだよね」


 うーん…その辺りはまだ私の口からは何とも言えませんが…


「行こ、姫嶋さん。――手繫ぎくらいは平気でしょ?」


「い、いや、いいんですけど…舞茸に見られたら…」


「そっか。じゃぁ廊下までにするね」


 といった感じで、私は思い切って片瀬さんと手を繋いでみたのだが…私が冷え性だからだろう。片瀬さんの手がすこぶる溫かくて、気持ち良くて。思わず「手首握ってもらえますか」とお願いしてしまった。


「姫嶋さんて肌白いね。すべすべしてて超綺麗」


「――あたし、こう見えて小さい頃はアレルギーで肌カサカサだったんだ。あとぜん息も酷くて」


「そうだったんだ。――今は大丈夫なの?」


「うん。なんか習い事で水泳とかサッカーとかやってたら、知らぬ間に治ってたみたい」


「意外とアクティブだったんだね。姫嶋さん」


「そうだね…そこで運動控えてたら、こんなにデカくならずに済んだのかも…」


「気にしすぎだよ。――私なんか百五十二しかないけど、それでも自分が健康だったらそれで幸せだよ? ――だから身長とか体重とか、そんなの気にしないほうがいいよ。姫嶋さんはどんな姫嶋さんでも素敵なんだから」


 いやぁ険難険難あぶないあぶない…意中の人が有りながら、あやうく私の心も、貴女の清冽せいれつな御言葉によってざっぱんざっぱん蕩揺とうようされるところでしたよ。


「――あたし、片瀬さんがモテる理由、何となく分かった気がするよ」


「私そこまでモテないよ?」


「そんなはず無いよ、だってまず人柄が素敵だもん。大人の女性って感じで落ち着いてるし、話し上手で聞き上手だし。――あたしも、そんな頼もしい片瀬さんになら、悩み事でも言い辛いことでも、もう何でも話せる気がするよ」


「…あと一回でも褒めたら、視聴覚室連れてくからね…///」


 私はそこまで言われてようやく心の中に堆積した分疏いいわけを排出した。その結果なんとかお目溢し頂けたのだが、一つ條件じょうけんがあると云われがえんじたところ、いきなり手の甲にキスされてしまった。

 しかし世界的にれば、この行為は大抵"懇ろな挨拶"として処理されるだろうから、これしきのことで処女がどうこう吐かすようでは、私もまだまだである。ここで再考し、新たなる様式を受容しないことには厨二の頃の、すなわちアナクロニズムに脳味噌をむしばまれた佯狂ようきょうままという訳である。


「ありがとう…片瀬さん」


「ふふ。――ありがと。許してくれて」


 ――断じて、断じて妄念からうのではないが…私は手の甲にくちびるが触れたその瞬間「平熱が高い人って、ちょっと羨ましいな」と思った。


「姫ちゃんおはよー」


「姫嶋さんおはよう」


「おはよー、ございます」


「ねぇ姫ちゃん、数学大丈夫そう?」


「まぁあれだけやったからねー。最低でも八割以上は取らないと」


「姫ちゃんなら出来るよ。頑張ってね」


「うん、ありがと舞茸」


「姫嶋さんてやっぱり文武両道だったんだ。すごいね」


「まさかまさか。あたしの八割なんて、今回限りで見納めですよ」


「頭いい人って、みーんな謙虚だよねぇ。私が数学で八割取ったら、我慢できずに『ねぇみてみてー』って自慢しちゃうよ」


 はぁー、横手さんかわいー。こりゃ座って苦笑いしてるだけで全教科百二十点だわ。


「…で、舞茸先生は高みの見物ですか」


「ううん。――人の努力を点数にするのって、やっぱり無意味だなーと思って」


 確かになぁ。でもここでそれを言っちゃあ身も蓋も無いでしょうよ…つうかインテリの貴方が言うと微妙に当て擦りっぽく聞こえますから御気を付けあそばせ?


「――どうせ舞茸は百点だろ。いいよなぁ天才は」


「百点は無理だよ。私いつも九十五点とか九十八点ばっかりだから」


 うわー。厭味ぃー。


「舞彩ちゃんも頭良いんだ…はぁ…馬鹿なの私だけだ…」


「杏花ちゃんも一緒に勉強しようよ。私姫ちゃんと放課後勉強してるから」


「いやいや、でも横手さん部活でお忙しいから」


「――そうだね。じゃあお昼休みとか」


「んー。それも…なんか束縛してるみたいで申し訳なくないか?」


「ううん、二人ともありがとう。じゃあ来週のお昼休みから勉強教えて?」


「まかせて杏花ちゃん。私何でも教えるよ」


「うん」


「――ところで、横手さんはどの教科が苦手なんですか?」


「国語が苦手だけど…でも全部かなぁ…英語が少し出来るくらいで、あとはみんな五十点とか六十点だよ」


「英語は何点くらいなの?」


「中学の頃は、私も舞彩ちゃんみたいに毎回九十点だったよ。でも英検に受かったあとは漫画とアニメ三昧だったから、なんとも…」


 なーんだ。蓋を開けてみれば、結局横手さんも完璧じゃないか。と、私はそれを聞いて安堵した。なんなら安堵に加えて一抹の嫉妬さえ覺えた。――當然とうぜんであろう。この世間が渇望しているのは、この社會しゃかいが血眼になってさがもとめているのは、社交的で人当たりが良く、その上英語まで話せてしまう"Extraordinary"な杏花様その人なのだから。

 ――現国の出来る擦れっ枯らしより、数学の出来る頭でっかちより、うちは一等英語の出来る、素直で容姿端麗な女性が欲しいんだよ。…横手杏花さんと言ったかな。あんなような、ずば拔けた才媛さいえんが来てくれると、うちも採用し甲斐があるんだがねぇ…

 それがこの社會の本音だろうと、私は小説から得た智識ちしきを総動員しながら思った。

 ついでに私はこうも思った。この時分に現国しか得意科目がないことほど哀れなことも無いと。何故ならあんなもので満点を取って「あぁ、やはり私にはこのみちしか無い」など北叟笑ほくそえんでいるようなやつの将来は呶々どどするまでもなく真闇まっくらだからだ。そんな奴は十中八九私と同じ陰キャで、厭世主義者で、苛めっ子の好餌こうじで、縱令よしんば名門大学に入れたとて、その先の事など莫迦莫迦しくて考える気にもなれない、所謂いわゆる浮雲の類であると相場が決まっているから、おそらく二十歳になっても三十路になっても厭世家の儘だろう。

 ――ややもすると、舞茸が性根をあらため結婚し、横手さんが素敵な御母様になられてもなお、私は敬虔けいけんな厭世主義者のまま、自分一人が何とか喰っていけるくらいの微祿びろくの為に、日々莨臭いおっさん達の前で米搗こめつ飛蝗ばったを演じ続けることになるであろう。その癖はらの中では「いつか作家になって、此奴こいつらを見返してやる。いつかお前等のきたならしい禿頭に、私の高潔こうけつつばきを吐き掛けてやる」抔という、動物園の駱馬ラマさながらのうらみ節を垂れながら世間を睥睨へいげいし続ける、自分の部屋のベッドの上だけがルサンチマンとエロティシズムに溢れた聖域であると思い込んでいるような、現代社會のオブローモフ無用者に成り果てることだろう。そうなったらもうおわりだ。そんな奴は屹度きっとショパンを聴こうがカラヴァッジョを観ようが、文庫本の中の潰れかかった舊字体きゅうじたいを見つけたときのような目をしてと笑うだけに違いない。そしてそんな奴は、近い将来確実にウェルテル*¹を気取り出すに違いない。いや、ウェルテルならまだマシかもしれない。このままでは、私はピンカートンに中指を立ててしまった、ピンカートン並にデカい西洋氣觸かぶれの蝶々夫人*²になってしまう。

 ――つまりこうした詮無せんない妄想をやる為のツールにしかなり得ないから、国語など出来ないほうが良いのである。それは決して短所などではなく、横手さんの肉体と精神が此上このうえなく健全であることの証左なのだから。


「…横手さん、それそのままでいいと思います」


「ぇちょっと姫ちゃん!? 教えてあげるんじゃないの?」


 いいんだ舞茸。横手さんは今のままでいいし、今のままがいい。――だって史記の中でせきも言っていたじゃないか。書は以て名姓めいせいを記すに足るのみと。つまり大人物だろうがそうじゃなかろうが、ペンを剣になぞらえて一端のガリ勉を気取るより、この三年間でしか味わえない友情とかこいとか青春とか、そっちの"兵法"に重点を置いたほうがはるかに有益なのは、昔も今もかわらないのだ。――その主体が人間であり続ける以上、勉学は誇り高き徽章きしょうにはなり得ても「よく頑張ったね」とか「えらいえらい」とか言って頭を撫でてくれる恋人に化けたりはしない。

 だから私は、そういう観念的なものは自然に任せるのが一番いいと思っているのだ。空腹を感じたら食べればいいし、満腹だと感じたら無理に食べる必要はない。そうやって上手くメリハリをつけたほうが、ご飯も勉学もより味わい深く感じられて一石二鳥なのである。――無論これは決して"勉強しないで下さい"という趣旨の発言ではない。ただ横手さんには横手さんなりのタイムテーブルが在って、その中で友達と話したり私とおひるをご一緒して下さったり、ほぼ休憩らしい休憩を挾まずして日々部活に精進しておられるのだから、その貴重な時間を、帰宅部の私なぞが好き勝手にうばって良い筈がないのだ。

 それに…まあ本音を言うと、私は横手さんとのお喋りを最優先にしたいから、そんな貴重な時間を現国ごときに邪魔されたくないのである。


「…いや、あたしが横手さんに教えるのって、やっぱ失礼な気がするんだよ」


「お願い! 姫嶋さん教えて、全然失礼じゃないから」


 うん。為方ない。横手さんたっての御希望とあらば、教えるしかない。


「…じゃあ、お菓子でも食べながらゆっくりやる感じで」


「ありがとー姫嶋さん。あんまり気使わなくていいからね?」


 はぁ~愉しみー。まだ一教科もおわってないのに、来週のお昼休みが待ち遠しくて仕方ない。もう気使いまくろ。


「――姫ちゃんは、杏花ちゃんと一緒にいちゃいちゃしたいだけだよね」


「そのくらい別に良くないか? 勉強するだけなんだし」


 私はもっともらしい大義名分を舞茸に振りかざして鞄からペットボトルを取り出した。そこで朝痛み止めをみ忘れたことに気付き、チャイムが鳴ってから倉皇あわてて嚥んだ。

 そして一限が始まると、程無くして地獄の第二章が幕を開けた。

 「なーんか腰がだるいなぁ…」と背筋を伸ばしていたら「どうも。御無沙汰しております」といった調子で腹痛様がお見えになられたからである。それも試験開始から五分と経たずに、目先の英文がぐにゃりとゆがむレベルの劇痛が襲来したので、私はすぐさまうつぶせになり、太字の"Questions"の文字の輪郭を凝矚ぎょうしょくしながら、そのまましずかに深呼吸を続けて何とかり過した。ともするとインクの匂いに昂奮こうふんした犬みたいにならぬよう、深く慎重に息をした。それでも傍から見れば、矢張やはり不自然だったのだろう。


「どうした姫嶋、具合でも悪いのか?」


 途中試験監督の竹内先生がこちらへちか付いてきてそう訊いてくれた。――しかし平生ふだんから声を張っている所為せいか。横手さんがビクッとしてしまうくらい、そのときの声もまあまあデカかった。


「ぃ…いえ…」


「しかし…その様子じゃ試験もままならんだろ」


「だいじょぶです…もう少しで収まるので…」


「…そうか。いつでも退室していいからな。あんまり無理するなよ」


 いや正直有り難いですよ? とっても有り難いですし、完璧な對應たいおうだと思いますよ? でもその声量で来られたら、見惩みせしめとまでは言いませんけど、もう行けませんて。――だってそうでしょう? 今のり取りを聞いたこの教室の男子生徒の大半は、もうすでに「あ、あいつトイレだ」と、肚のうちで着々と私を嘲笑う手筈をととのえているんですから。…保健室に行きたいだけの無辜むこの女子をけがれた眼差しでめ回しながら、仲間うちで「"あれ"じゃなくて"あっち"だろ?」と狐鼠狐鼠こそこそ蔭口をたたく。その瞬間ときを、彼等は今か今かと鶴首かくしゅしているんですから。ですから行けませんて…


「はぃ…ありがとう…ございます…」


 椅子を手前に引く気力すら無かったので、私は俯せから少しおもてを上げた状態のまま、兎角とかく先生に対して失礼の無いよう、あたう限り慇懃いんぎんに礼を言った。

 それから三分をけみしても腹痛様は依然絶好調なので、私はむ無くすべてを抛棄ほうきして現実逃避を始めた。――はげしい痛みの中で私の目交にあらわれたのは、兵燹へいせんに呑み込まれていく、ウィーンともローマともつかない、小綺麗な欧羅巴ヨーロッパの街だった。杳杳ようようたる闇夜の中、廣場ひろば囲繞いじょうする建物はことごとこぼたれ、くすぶ瓦礫がれきの山と燃え盛るほのおとが、ゴシック様式特有の重々しいいかめしさを侵すようにして不規則に参差しんししている。だが正面に建つ教会だけは唯一戦火を免れたとみえて、そこに整然とならおびただしい数のまどは、まるで天井から堕ちた豪奢ごうちょなシャンデリアのように煌々こうこうとしている。

 吹き下ろす颶風ぐふうが、彌増いやます火勢に拍車をかける。その渾沌の中を、人々は火の粉の如く散り散りになって遁走とんそうする。

 生気をうしなった街。そこでは間もなく骸骨達の夜会が始まろうとしている。無論話し声はしない。サン=サーンス*³の死の舞踏*⁴みたく、戛戛かつかつと骨の打附ぶつかり合う音が其処彼処そこかしこから響いてくるのみである。

 廣場の中央にはれた噴水があり、彼等はそれを取り巻くようにして、優雅にワルツをおどりはじめる。灯りの消えた教会かられ聞こえて来る、不気味な皇帝円舞曲カイザーワルツ*⁵の調べに乗せて…

 …トントン。

 誰かが私の肩をたたいた。「私と踊りませんか?」ということだろうか。私は彼だか彼女だか判らない陽気なその骸骨と、立て続けに五曲踴った。美しき青きドナウ*⁶、南国のばら*⁷、加速度円舞曲*⁸、うわごと*⁹ときて最後に"人生を楽しめ*¹⁰"か。骸骨のくせに中々皮肉屋だな。

 私は腹中でそんな風に微笑を泛べつつ、頽唐たいとうの限りをくした廣場の端で汗みどろになりながら全力で踴った。あと何曲あるんだとあきれていると、小休止を挟んでこうもりの序曲*¹¹が流れた。どうやらそれが御開きの符牒らしく、骸骨の皆様はそれを合図にぽつぽつと墓地のあるふもとのほうへ帰って行く。

 相手の御辞儀を受けて、私はふと自分のからだた。私は踴りに興じている間、自分でも気づかぬうちに悉皆骨になっていたのだ。腕を伸すと、もうひじの辺りまで躯が透けて、中学校の理科準備室にあった骨格標本のようになっていた。私は動顛どうてんして、あわてて噴水のところまで来るとその縁へ腰掛け、兩手でおもむろに自らの頭蓋骨を抱えた。

 丁度そのとき、教会の鐘が鳴った。すると私は魔法が切れたかのように、まるでいとの切れた傀儡くぐつのようにばらばらになった。上半身は噴水の中へ、下肢は甃の上へ、カラカラという乾いた音を立てて空しくころがった。縁に残ったのは、私の骨盤だけである。

 いびつな蝶のような形をしたそれは、やがてぱちぱちと甲高い音をたてながら寛悠ゆっくりかれていく。燄の熱さも気にせず、あたかも骨休めで此処に残ったのだ。というような、或る種の諦念にも似た感情を滲ませながら。覺悟を決めたように…ゆっくりと…

 そして私の骨盤は、業火のいずみの奥深くへとしずむ。終わりなき、永久とこしえなる苦痛の湶へと。――その茫漠ぼうばくたる痛みの中で、しろき蝶は独り呻吟しんぎんしていた。手斧ちょうなをくれたように真ん中からぱっくりと割れて、片翅かたはねだけになりながら、たしかにこう歎いていた。現世が火宅かたくなら、お前の腹も火宅である、と。

 …あぁその通りだ。お前の言う通りだ。私は机に突っ伏した骸骨だよ。膩汗あぶらあせの一滴まで搾り取られて、焼場から出てきたうちのお祖父ちゃんお祖母ちゃんみたくカリカリになった、デカい御骨おこつだよ…

 私は骨盤の脇をぐっとおやゆびの腹で圧しながら、昨日読んだ単語帳に出て来た『The medicine had no effect on me.』という例文を思い出した。そして「はよeffectしてくれ…はよeffectしてくれ…」と天にいのり続けた。(まあその十数分後にはけろっとした顔で問題用紙を眺め、続くコミュ英Ⅰ、数学Ⅰともにつつが無く解答できたわけだが。しっかし今日のは、ゴリラに臓物を握り潰されたみたいな、まじで洒落にならない痛さだった…)


 十二時十分。最後のチャイムが鳴り「解答やめ」の声が教室に響く。

 ――あぁ、これでようやく家に帰れる…

 解答用紙を横手さんへ渡した流れで、私は今一度机に突っ伏した。…贅沢は言いません。お菓子も要りません。ただブランケットを被って、家のソファーの上でしずかに斃死へいし出来れば、今日はそれで十分です…と、私は横手さんの黔々くろぐろとした雲鬢うんぴんを眺めつつそう思った。


「はぁ。ねむ…」


「姫ちゃん、やっぱり保健室行こ? なんか顔色悪いよ」


「いや…大丈夫。家で寝るから」


「姫嶋さん、無理せずちょっと寝てきたら? 竹内先生にも言われてたし、私も姫嶋さんが心配だよ」


「横手さん…でも…だいじょうぶです」


 私が幾許いくばくかのこびを含んだ姑息な目付きをしてそう返答したところ、横手さんはその感情を見透かしたようにすぐさま私の隣へとらっしゃった。


「その割には随分気息奄々きそくえんえんとしてるじゃない。どうしたの?」


 ともするとそんな大人びた問い掛けから二人の時間が始まりそうなほど、横手さんの表情は朝に較べて何処かしっとりとしていて、御膚おはだも脣も艶々つやつやとしている。おそらく先週話していたリップグロスというやつだろう。――飴細工あめざいくのように繊細で、摘みたての苔桃こけもものように瑞々みずみずしいその口元。…ただでさえおうつくしいのに、御化粧までうまいとなると、もう何人なんぴとたりとも杏花様の美貌には敵わない。おまけに今日は石鹼サボンの香り。あんまり複雜な香りだと、少し頭が痛くなってしまう私だけれど。横手さんの芳香かおりはいつもお上品で、そのたたずまいの如くいつも玲瓏れいろうかつ爽やかだ。


「…ねぇ姫嶋さん」


「は、はい///」


「…もしかして、今日初日?」


 その芳香をこっそりくんくんしていたら、横手さんにそうたずねられた。昨日同様、私の耳許へささやくような、南風に戦いだカーテンが、するりと窗枠まどわくを撫でつけるときのような、暖かく柔らかな聲で。

 しかし初日と訊かれたからとて「そうなんです」と返辞するのも如何なものかと思い、私は小さく首肯うなづくに留めた。


「――待ってて」


 すると横手さんは、私と舞茸の肩をぽんとたたいて教室をあとにした。

 「杏花様いずくにか往く。――この場合は"いずくんぞ"ではなく"いずくにか"ですから、安、悪、焉、何の四パターンですね」と、離れていく横手さんを前に危うく私の中の漢文講座が開講しかけたので、私はその間舞茸とじゃれあって気を紛らわせた。


「…いや普通にもちもちでしょ。ぷりぷりはエビの身か、赤ちゃんのお尻でしょ」


「でもうちのお母さんはぷりぷり派だよ。あ、杏花ちゃんおかえり」


「ただいまー。はい姫嶋さん。お腹冷やさないようにね」


 御戾りになられるなり、横手さんは私に小さいペットボトルを渡してくれた。温かいほうじ茶だった。私の為に態々わざわざ自販機まで買いに行ってくれたのかと思うと、可成かなり涙腺が危なかった。

 そしてそろそろ帰りのホームルームが始まろうかというとき、ついに私の涙腺は決壊した。所謂随喜いわゆるずいきの泪というやつだった。

 異變いへんを察した舞茸がかおを覗き込もうとしてくるのに対して、私は目がつかれたと言って、紛帨ハンカチで目頭をおさえるようにしていた。たしかに感情の起伏が烈しくなる時期ではあるが、縱令たとえ期間中でなくても普通に号泣していたと思う。


「ありがとうございます横手さん。お心遣い痛み入ります」


「姫嶋さんかしこまりすぎ。――私も初日だから、一緒に頑張ろ」


「ぇ…横手さんも、なんですか」


「うん、私も重いから、始まると痛み止めが手放せないんだよねー」


「すいません…横手さんも辛いのに、甘えたりして」


「甘えたっていいじゃん。親友同士なんだから、辛いときこそ助け合おうよ」


 …横手さんだって、本当は痛くて辛くて、なんで今日なんだよって、正直うんざりしてるはず。なのに自分の苦勞など噯気おくびにも出さず、いつもとかわらぬそのあかるい笑顔と持前のアガペーで、私の心をやしてくれる。――だから辛気臭い顔してないで、私も頑張らなきゃって、そう思える。

 すなわち横手さんは、私の係恋あこがれであると同時に、今や私の冀望きぼうとなりつつあるのだ。――陰徳陽報とは、情けとはなにか。その敎えの本質を、横手さんは自ら躬行きゅうこうし、無知蒙昧むちもうまいな私へ諄々じゅんじゅんしめして下さる。

 ――もっと優しくなりなさい。もっと寛大になりなさい。私のお婿さんになりたくば、心にゆとりを持ちなさい、と。

 つまるところ、杏花様は私の心の師であり、私の濃藍色のうらんしょくの人生に夜明けをげる、謂わば皎々こうこうたるひかりを放つ美しき晨明しんめいなのである。


「横手さんも、辛いときは言ってください。あたし何でも持ってるので」


「――うん、ありがと。姫嶋さん」


 私は須臾しゅゆにして薫染くんせんされた。その嫣然えんぜんとした、杏花様の美美びびしい目元口元に。――この表情をおがむ為なら何度業火に燬かれてもいいと。心からそう思えた。

 しかし隣でこの会話を聞いていた舞茸の表情は、またしても獲物を横取りされた白頭鷲ハクトウワシのように不服気ふふくげであった。舞茸はおこったり苛ついたりすると、何かが奥歯に挾まったみたいな表情をするので分かりやすい。

 まあその時は「くなよー」と腕を突付いて誤魔化し、睡気を口実にさっさと逃げ帰ってきたわけだが…案の定も案の定。私がご飯を食べ終えソファーの上で大人しく横になっていると、スマホがブーブー鳴り出した。


『姫ちゃん…なんで私に甘えてくれなかったの?』


『私より横手さんのほうが、美人で気が利くから?』


『それとも私が…気の利かないゲロ女だからかな…』


 それに加えて怒濤どとうの泣きスタンプ五連発。…束縛魔だ。だからって嫌いになったりしないけれど、貴方は紛う方なき束縛魔だ。


『甘えたじゃん。今日は舞茸のほっぺ揉んだし』


『ほっぺだけじゃなくて、もっと甘えてほしかったの』


 そう言われましてもねぇ…


『もっと甘えるって、どんなよ』


『一緒に保健室のベッドで寝るとか』


『襲う気だろ』


『襲わないよ。キスはするけど』


『するのかよ』


『ねぇ姫ちゃん、いま電話してもいい?』


『今寝ようと思ってたんだけど…』


 そこでテンポ良く続いていた会話のラリーがぴたりと止まった。「あ、そうだった」と思ったのか、将又はたまた「寝かせませんけど?」的な意味で沈黙しているのかは分からない。ただ下手に返すとまた好きか嫌いかの二択に持ち込まれそうな予感がしたので、私は謝ったもん勝ちだとばかりに"ごめんね"のスタンプを送った。


『私、どうしても姫ちゃんの声が聞きたいの』


『んーーーー』


『んーーーー?』


『夜まで待ってくれない?』


『言っとくけど別に嫌いとか、そういうわけじゃないからな? まだ夕飯も食べてないしお風呂にも入ってないし、明日の用意もしてないから少し待って欲しいって、それだけだからな?』


『ほんと?』


『うん。だから夜ならいいよ』


『ありがとう』


『うん、じゃあおやすみー』


『待って。でもやっぱり今話したいかも』


 そうなりますよねぇー。無慈悲な上臈あなた様のことですから、そう来るんじゃないかと思ってましたよ。


『ねえ舞茸、生理のときはもう少し優しくしてよ。あたしたち親友でしょ』


 宜しい、しからば直球勝負だと、私は心のこえをそのまま文字に起こして送信した。鈍いとはいえ流石にそこまで言えば、少しは重い人の気持ちも理解わかってくれるんじゃないかと、私は恐らく心の何処かで舞茸の斟酌しんしゃくに期待していたのだ。

 しかし勢い任せにこんな文章を送りつけてしまった自分の短慮たんりょが途端に厭になって、私は既読が付いたと同時に自ら送信を取り消してしまった。何故ならその文章には、単なる甘えとは違う、何処か意地きたない女の媚態コケトリーのようなものが混入していたからである。


『ごめん…私わがままだよね』


『おやすみ…姫ちゃん』


 ここで再度「おやすみ」と返し、何食わぬ顔でいびきをかいて睡れるような野放図のぼうずに、私はなりたい。私は私で舞茸は舞茸。うちは家でよそは他所と判然きっぱり言えるような、そんな硬派な女に、いつかなりたい…


『待って舞茸』


『じゃあ五分待ってくれる? 自分の部屋行くから』


『姫ちゃん好き』


『好きって言えば何でも許されると思ってるだろ』


『うん』


『うんじゃなくて、否定しなさいよ』


『だって、姫ちゃん嘘嫌いでしょ?』


『この場合は嘘じゃなくて建前な』


『むずかしくて分かんない』


『うん、それが嘘な』


 そんな遣り取りを重ねつつ、私は重い腰を上げて自室へと戻った。

 椅子に座り、勉強机の上にブランケットを敷いて、そこへもにょもにょと顔をうずめる。机上では、英和辞典にかる縫いぐるみ達が、寂しがり屋の私をしずかに見戍みまもってくれている。

 私は左端にいる羊のメーテルリンクさんの頭を指で撫でながら「今日は日向がいい?」と訊いてみた。「もちろん」というひとみをしていたので、今日は白猫のハイネさんも犬のクローデルさんも、全員ベッドの上へ御招きした。――レースのカーテンでやわらいだ西日が均等に当っていて、皆なかなか気持ち良さそうだ。

 なんてえつに入っていたら、きっかり五分後に舞茸から電話が掛かってきた。


「姫ちゃんごめんね…私、なんか淋しくなったの」


「…ふーん。舞茸もそんなことあるんだ」


「淋しいよ…学校から出たら、もう姫ちゃんに会えないなんて…」


「いやいやほぼ毎日会ってるし。しかも体育祭終わったら一緒にケーキ食べに行こうって、先週約束したばっかじゃん」


「でも…私、その日が待ち遠しくて、息が詰まりそうなの…」


「…はぁ。乙女だなぁ舞茸は」


「姫ちゃんも乙女だよ」


「――あたしは…舞茸と違って、何となく周りの目を見て背伸びしてるだけだよ」


「姫ちゃんが背伸びしたら、二メートルくらい?」


「…もう切っていいですか…」


「あっ、ごめん姫ちゃん! 私わざと言ったわけじゃなくてその…ごめんね…」


「――ぷ、なーんて、冗談だよ。掛かったな舞茸」


「…もぉ。姫ちゃんひどい」


「あぁ酷いとも。なんたってあたしは、稀代きだいの性悪女だからな」


「…姫ちゃんは性悪なんかじゃないよ。――本当は誰よりも綺麗で優しい、心の優しい綺麗な女の子だよ」


 くっ、くそぉ…どうして地声なんだ…どうしてそこだけ猫撫で声じゃないんだっ! お世辞に決まってるのに…なのにお前の質樸しつぼくとした聲を通してそんなことを言われたら、まるで発情期のうさぎみたいに、この胸がキュンキュンしてしまうじゃないか…


「…///」


「…もしもし?」


「ん? ぃ、いや、なんか重複してたような気がして…///」


「そうかな? で、でも、私は姫ちゃんのことそう思ってるから///」


「――ねえ舞茸。じゃあ気が利かないとか、あとゲロ女って言うのも今日で止めて。――あたしは、舞茸のそういう少しおっちょこちょいなところが可愛いと思ってるから」


「姫ちゃん…」


「――だって、めちゃくちゃ頭良いのに乗る電車間違えてあたふたしちゃうとか、もう反則でしょ。――あの日は冷たくしちゃったけどさ、今考えると舞茸のそういうとこって、なんか舞茸らしくてホッとするんだよ」


「…」


「だから、あの日のことは今日で終わりね。――約束してくれる?」


「――うん///」


「…よし、じゃあまたあし…じゃなくて、夜も話す?」


「ううん。夜はゆっくり休んで。――自分勝手でごめんね。姫ちゃん」


「いえいえ、あたしは舞茸の親友ですから」


「私も、姫ちゃんと一生親友だよ♪」


「ふふーん。いいのかなぁー、一生親友で」


 その時の舞茸ときたら、あたかも一本釣りされたかつおが甲板の上をバタバタと跳ね回る時のような凄まじい勢いで周章あわてていて、それを聞かされた私は、思わず右手で腹を押さえ乍らスマホ片手に哄笑こうしょうしてしまった。


「はぁー、舞茸必死すぎだろ。誰かと話してこんな笑ったの、ほんと久しぶりだわ」


「ねぇ、姫ちゃん」


「ん?」


「――愛してるからね」


 しかしこうした"伎倆ぎりょう"を見せつけられると、私の軽佻浮薄けいちょうふはくともとれるその笑顔は瞬時に鳴りを潛める。――私はただ、横手さんとお付き合いしたいだけ。その為には、舞茸を上手いことなだすかして懇切叮嚀に理由をべ、其のむね何としても御諒承いただかなければならない。…なのに自分から匂わせるような発言をして、舞茸の気持ちを煽ってみたりして。私は何がしたいんだろうか。――豈夫よもやおよがせるだけ泅がせておいて、来週の勉強会の劈頭どあたまで「いやぁ〜舞茸ごめんねー、結構待たせちゃったけど、あたしやっぱり横手さんとお付き合いすることにしたから。よろしくー」とでもほざくのだろうか。無理だ絶対に言えない。親友をそんな遣口やりくち瞞着まんちゃくしようものなら、私はそれこそ片瀬さんの言っていた、むちばっかりのやらずぶったくりになってしまう。そればかりか、自分のうそもとで一度あかっ恥をかいたというのに、また譃をいて舞茸に頭を下げることになってしまうではないか。――いや私が優柔不断の譃衝きということでけりがつくならお安い御用なのだが「ほんと性格悪いし捻くれてるし、一緒にいてもつまらないクソ女ですから、本当に止めといたほうがいいですよ? ねぇ聞いてます?」と私が差し向かいで警告しても、九分九厘の確率で「うん、それがどうしたの?」と返してきそうなほど、生憎こちらのお嬢様は一途の一本槍だ。そんなお嬢様のおもい虚仮こけにしようものなら、もう何が如何どうなるか分ったもんじゃない。癇癪かんしゃくを起すか、将亦はたまた実力行使に蹈み切るか。或いは失恋のショックから、私のウェルテルがこいつにうつってしまったりするんだろうか。


「…姫ちゃん? もしもし?」


「…ん? なんか言った?」


「もぉ、惚けないで。…愛してるからね///」


 嗚呼まったく以て驅け引きというやつはわずらわしい。こういうところが七面倒臭いから、戀愛はいつまで経ってもスポーツになり得ないんだ。私は思いの外ドキドキしながら、肚の裡でそう愚痴った。それから「惚けないで」という言葉を聞いて、ふと中学時代に巻き添えをくらった痴情の縺れなんかを思い出した。

 …その当時、野球部のAは学級委員のBと付き合っていながら、実のところバスケ部きっての美女であるCに夢中だった。そこでAはバスケ部の男友達と彼是あれこれ議論したり、果ては影の薄い私を美人だ綺麗だとおだてることでBの悋気りんきを搔き立てたりして、気心の知れた彼女を巧妙うまいこと籠絡ろうらくし、奈何どうにかこうにかCとの関係を深めようと連日手練手管をつくしていたわけであるが…そんなときに限ってBとCが付き合ってる的な噂がバスケ部の中から広まって…それをったAは、自分が目糞鼻糞であることも忘れてすっかりBに激昂し、友達のDやEなんかと結託してBをかこみ、裏切り者だの何だのと、教室の端で幕無しにののしたおして難詰なんきつしたのであった。それも彼女が涕きわめくまで。――私は居ても立っても居られず、先生が来るまでBをかばった。Bがいる前で「惚けんなよ。自分だってCに浮気してたくせに」と、Aに吐き棄ててやった。…私の記憶が正しければ、その翌週からBがひと月迩く不登校になり、私はAとその取り巻き共から苛められることになるのだが…これ以上話すと日陰者ジュードみたいになりそうなのでここ迄にしておく。

 ともあれこんな血で血をあらうような任侠映画顏負けの半丁博奕はんちょうばくちが、怕らくは倖福こうふくのヴェールの向う側に隱された、ホモ・サピエンスが愛して已まない驅け引きの本質そのものなのだ。

 ――まあそうは言っても舞茸は真面目だし、絶対浮気なんかするタイプの人間じゃないし、こと私はヴェルディ*¹²やプッチーニ*¹³の狂信者などではないから万万一裏切られたとて「気にしてませんわー」と暢気にゆるすだろうが、利害の裏には必ず恩讐おんしゅうが在るわけだから、屹度きっとそうして手に入れた倖福の翳にも何かしらの犠牲なり呪詛じゅそなりが付き纏うであろう。…ともすると矢張やはり戀の驅け引きは、私が兎角やりがちな、人前では泅げない泅げないとうそぶきながらも、いざ沖まで流されてみるとバタフライをやりながら戾ってくるような、そういう裕りある御游びとは似て非なるものなのである。


「…あたしは、"あくまで親友として"舞茸を愛してるわ」


「――はい、姫ちゃんもう一回言って」


「やだよ」


「なんでー、録音したいのにー」


「やめなさい。まじで犯罪臭がするからやめなさい」


「姫ちゃんおねがい…」


「……なに、もう言っていいの?」


「うん」


「だから、"親友として"舞茸を愛してるから…これでいい?」


「…えへへ。――おやすみ。姫ちゃん」


「うん…じ、じゃあ、また明日ね」


「はーい」


 通話をえると、私はベッドの端に腰掛けた。

 ――明日片瀬さんに食べられるかもしれないし、舞茸にもう一度告られるかもしれない。若しくは痺れを切らした舞茸に「姫ちゃん、ちょっと来て」と手を引かれ、私が席を立ったところで「私、もう我慢できない」なんて事態に発展して、この脣を…横手さんに捧げる筈だったファーストキスを、横手さんの真ん前で簒われるかもしれない…

 そうなったら…どの本で防禦ガードしてやろうか。『病は気から』は薄すぎて心許無いし、五十さつ迩くある詩集の一つにキスされるのも何だか複雑な気分だ。『恋愛論』の上巻はベタ過ぎるし、『白鯨』と『マンスフィールド・パーク』は厚過ぎる。となると…『休戦』か『遊戯の終わり』辺りが妥当か。

 その後、私はこんな調子で机の横の本棚を十分迩く物色し、窮余の一策ならぬ窮余の一册を鞄に入れた。丁度隣にあったので、たまに読み返したくなるビアスの『悪魔の辞典』も一緒に入れた。


「ふはぁーー」


 勉強は後だ。取り敢えず寝よう。私は大欠伸を一つしてベッドに仆れ込んだ。大事件の当日なのだからもう少し慎重になっても良い筈なのだが、私ときたら性懲りも無く大の字になって寝落ちした。

 午後五時半。私は夕陽の眩しさに起された。御行儀良く寝た記憶は一切ないが…目醒めると、私の躯はお母さんの香りがするねり色の上掛けにすっぽりと覆われていた。

 

「――ママ。――ありがとう」


 しずかに黄昏れる三匹の脊中へ向け、私は布団を抱きしめながらそっとそう呟いた。

 勉強机の上には、きちんとおりたたまれたブランケットといちご柄のパジャマが置かれていた。





*¹マスネ:歌劇『ウェルテル(Werther)』。

*²プッチーニ:歌劇『蝶々夫人(Madama Butterfly)』。

*³カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns):フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者。著名な作品に『死の舞踏』『動物の謝肉祭(Le carnaval des animaux)』『交響曲第三番"オルガン付き"(avec orgue)』などがある。

*⁴サン=サーンス:『死の舞踏(Danse macabre)』 Op.40 R.171。

*⁵ヨハン・シュトラウス二世:『皇帝円舞曲(Kaiser-Walzer)』 Op.437。

*⁶『美しき青きドナウ(An der schönen, blauen Donau)』 Op.314。

*⁷『南国のばら(Rosen aus dem Süden)』 Op.388。

*⁸『加速度円舞曲(Accelerationen)』 Op.234。

*⁹『うわごと(Delirien)』 Op.212。

*¹⁰『人生を楽しめ(Freuet Euch des Lebens)』 Op.340。

*¹¹歌劇『こうもり(Die Fledermaus)』 序曲(Overture)。

*¹²ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi)イタリアの作曲家。オペラ王と称され『椿姫(La traviata)』『アイーダ(La traviata)』『リゴレット(Rigoletto)』『オテロ(Otello)』『ファルスタッフ(Falstaff)』など、イタリア歌劇史の転換期を彩る名作歌劇を数多く生み出した。

*¹³ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini)イタリアの作曲家。ヴェルディのオペラに触発されオペラ作曲家を志し『マノン・レスコー(Manon Lescaut)』『ラ・ボエーム(La Bohème)』『蝶々夫人』『トスカ(Tosca)』『トゥーランドット(Turandot)』など、心情描写に富んだ名作歌劇を数多く世に送り出した。

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玻璃のように舞う 喜多川慧華@碧床 @keika549945

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