第十二話 恩誼と恩寵 中
翌朝、私は胸糞悪い
――というわけで、そんな
***
「紗愛、天気も良いし、今日はみんなで旅行に行こうか」
先ずこの梦は、リビングでテレビを観ていたお父さんが、私にそう持ち掛けるところから始まる。「なんでお母さんじゃなくて私なんだろう」と、私はお父さんの発言に少々
しかしどうにも
つまり土曜とも日曜ともつかない午下りにそんなことを言い出すほど、うちのお父さんはアドリブの利く人でも、
「――お母さんはどう?」
んん? お母さん? 今日は芙美子さんじゃないの?
この問いかけで、私の違和感は
ところがブルトン的シュルレアリスムを敬愛して
「紗愛、ちゃんと酔い止め飲んだ?」
「うん。飲んだよ」
「大丈夫だよ紗愛。お父さんなるべくゆっくり運転するから」
そう言ってかけてくれたのが、モーツァルト*³のピアノ三重奏曲*⁴。中でもピレシュ*⁵の第一番は、私が生後間もない頃から聴いていたという或る意味最も付き合いの長いナンバーである。(勿論私は当時のことなど全く憶えていないが…)
この話を聞いたときは、私も「さすがお母さんの娘だな」と
信号が変わり、車が動き出す。その間私はスマホゲームに熱中する奏の隣で、お母さんと舞茸のことについて熱っぽく話している。
私は不意に「ねえパパ、今日は何処に行くの?」と訊きたい慾求に駆られた。でも奏が私の肩へ頭を乗せてきたので、こんな気持ちは瞬く間に消失した。
「ねーちゃん。このまま寝てもいい?」
「いいよ。おやすみ、奏」
「おやすみ…」
しかしこの沈黙を
「――ねぇあなた、そろそろ休憩しましょうよ」
「そうだね。じゃあ次のサービスエリアで休憩にしようか」
それが、お父さんとお母さんとの間で交された、最後の会話らしい会話だった。何故ならお父さんは、お母さんとの約束を忘れたかのようにサービスエリアを通り過ぎ、
当初は「お父さんも疲れてるのかなー」くらいの感覚で気楽に構えていた私だったが、一時間半もそんな真似をされると流石に
「ねぇパパ、トイレに行きたいから、次で休憩にして」
私のそんな言葉も、今のお父さんには届かない。お母さんも心配そうな顔をして「あなた、ねえあなた、もういい加減休憩しましょうよ」と、ヘッドレストの脇へ顔を
――なんで無視するの? パパはそんなことして愉しいの? ママを不安にさせて、家族を不安にさせて、それで愉しいの?
私はそんなお父さんの身勝手すぎる振る舞いを見て無性に腹が立った。私の前では絶対に喧嘩しない。それが姫嶋家の
そう胸の内では思っている筈なのだが、私も私で何故か一向にキレる気配がない。西日が差そうが
「ねえお父さん!! もういい加減にしてよっ!! もうこれ以上、私のママを苛めないでっ!!」
それでも私は
高速を下りると、今度は市街地を拔けて海沿いの道を延々
「紗愛、着いたよ」
そんな殘酷すぎる
窗の外には、白色灯に照らされた
「どうしたの紗愛? お友達が待ってるわよ」
しかし梦の世界の私は、お母さんの言葉につられて車から降りてしまった。その言葉を裏付けるように、真後ろに一台の観光バスが停まっていたからだ。私は理由も分からず波止場へと
「あ! あれデカ女じゃね!?」
「ほんとだぁー、なんでこんなとこにいんのー? 妖怪みたーい」
「お前が帰る場所は海じゃなくて山だぞー! おい聞いてんのかデカ女ぁ!」
ところが、下りてきたのは中学時代に散々私を
なんでお前らが居んだよ! 因数分解も出来ない、関係代名詞も現在完了形も分からないセックス狂いの猿共が! お前らみたいなのは禁止薬物でも
愉快なことに、私はこれを大声で言った。力の限り
まあそんなことは
「メンヘラじゃねぇよデカ女! お前が病気なんだよ! ふざけんなっ!」
先ず摑みかかってきたのはメス猿だった。こいつが
私は頭にきて、女が
「殺してやろうか?」
猿がそう言って
「死んで詫びろっ! 地獄で詫びろっ!」
私は仰向けに
私は
刃先が
――パパ、ママ、奏…ごめん…こんなつもりじゃなかったけど…本当にごめん… 馬鹿な娘で、駄目なねーちゃんで本当にごめんね…
――さようなら…
***
グサッといった衝撃で、私は目醒めた。団子みたいになった掛け布団を
だがしかし、この身に纏わりつく液体が、
私は過呼吸になりそうなくらい
――はぁ。生きてた。
そう
その確認によって
…うわ…ウソだろ…まじで漏れてたのかよ…
ベッドから起き上がると、
…とはいえ姿見に写った私のパジャマは、梦の中の私に
『パパ。朝からごめんね。私生理でお布団汚しちゃったから、ママに伝えてください。 奏には、今日のハグはお休みって伝えておいてください。 お願いします。』
『今芙美子さんに伝えました。 奏大は引き留めておきます。 体調が優れないときは、無理せずゆっくり休んでください。』
有難う御座います…お父様…有難う御座います…
「紗愛、入っても平気?」
「うん…」
それから一分と経たずにお母さんが来てくれた。取り敢えず扇風機をつけて窗を開けておいたが、効果があったのかどうかは
「ママ…ごめんなさい」
私は弱々しい聲で謝った。勿論余計な仕事を増やしてしまったという罪悪感もあったが、そこへ
「ねえ聞いて
「え、それ大丈夫だったの?」
「全然。『またやったのぉ? もぉー気を付けなさいよぉー』って親にめっちゃ怒られた」
「そんな…怒らなくてもよくない?」
「でしょ? そーいう自分も、ときどきナプキン捨て忘れて私が捨ててあげてるのに、ほんとひどいよね」
つまりトイレでそんな愚痴を
しかし中二以来の
「大丈夫よ紗愛。それより汗びっしょりじゃない。今バスタオル持ってくるから、お風呂でささっと流しちゃいなさい」
「――ママ、一緒に行ってくれる?」
「いいわよ。でもタオルで隠さないと、奏ちゃんに見られちゃうでしょ? だから待ってて」
お母さんが一階へ降りていく
その後、私はお母さんの陰に隠れるようにして浴室へと向かった。「これで落ちるかしら」とランジェリー用の洗剤を出してくれたが、下着は
ゴシゴシしたくなる気持ちを抑え、一先ずお湯をかけてみる。中心部分は落ちても、
やっぱ無理かぁ…染み確定かぁ…
私は胸奥でそう呟きながら、ランジェリー用洗剤を染みに沿ってかけた。あと一息と見せかけて、その
ところが股を洗っていたら、指の間にまあまあグロテスクな
しかし沈む瀬あれば浮かぶ瀬ありの言葉通り、泡立って浮いてきたパジャマを軽く揉み洗いして濯いでみたところ、何と染みが落ちた。それも股布の補強部分まで完璧に。
これには正直ホッとした。また綺麗なこの子が着られると思うと、私は勉強机の上にいる縫いぐるみ達を洗ってあげたときのような穏やかな気持ちになって、気持ちはブルーな筈なのに、自然と口角が上がってしまった。(でもこれに
お風呂から出ると、タオルの上に制服と下着と、その下へ
私は下着にそれをセットすると、股でぎゅっと挟んで
「おはよーねーちゃん」
「ぁ、奏、おはよう」
制服を着て髪を乾かして、そろそろダイニングへ向かおうかというとき、私は奏にハグされてしまった。四股を
「――ごめんね奏。ねーちゃん朝風呂したくなっちゃって」
「――ねーちゃん」
「ん?」
「今日は花の香りだね」
「は、はな?」
「うん。バラの花束の香り」
そ、奏。貴方は何てロマンティックな男子なの。大手拓次の詩の旋律が
その言葉に悉皆胸を打たれて、私は思わず彼の頰に口付けた。
血に染まった布団を
だから感謝しなければならない。自分を
「――でも、なんで朝風呂したくなったの?」
「あー、それはー…テストだから、かな」
「――滝行?」
「…滝行?」
朝風呂からテスト、テストから滝行という、その不可思議な言葉の
朝食を終え、お父さんが足早に洗面台へ嚮かう。私もその
「紗愛、気をつけてね」
「ママありがとう、行ってきまーす!」
そんな具合にキス魔を演じていたら、出発時刻を二分オーバーしてしまった。疾赱ったらずれるかもしれないが…まぁしょうがないか。
私は早歩きで駅を目指した。ホームに着いてポケットからスマホを取り出すと、横手さんと舞茸から、おはようのスタンプが届いていた。
*¹フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn):オーストリア大公国(現:オーストリア)出身の音楽家、作曲家。
*²ハイドン:『交響曲第二十二番』 ”哲学者” 変ホ長調 Hob I:22。
*³ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart):神聖ローマ帝国領下のザルツブルク(現:オーストリアザルツブルク)出身の音楽家、作曲家。ハイドン、ベートーヴェンと並び、ウィーンの古典派を代表する音楽家の一人でもある。
*⁴モーツァルト:『ピアノ三重奏曲』 第一番 変ロ長調 K.254。
*⁵マリア・ジョアン・ピレシュ(Maria João Alexandre Barbosa Pires):ポルトガル出身の女性ピアニスト。
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