第十二話 恩誼と恩寵 中

 翌朝、私は胸糞悪いゆめで目をました。まだ四時半だった。そのときは寝惚けていたので「あー、忘れよ」という感じで二度寝してしまったが、皮肉にも梦の内容自体は、アラームで目醒めた後も完璧におぼえていた。

 ――というわけで、そんなろくでもない梦をでっち上げてしまった自分をいましめる意味でも、今回は胸糞悪い悪梦ナイトメア梗概あらましから、むだばなしの続きを始めていくことにする。


                ***


「紗愛、天気も良いし、今日はみんなで旅行に行こうか」


 先ずこの梦は、リビングでテレビを観ていたお父さんが、私にそう持ち掛けるところから始まる。「なんでお母さんじゃなくて私なんだろう」と、私はお父さんの発言に少々くびを傾げつつ「うん。いいと思うよ」と返事して、テレビの左上に出ている時刻を確認してからまどの外を一瞥いちべつした。午後二時十八分。たしかに天気は申し分ない。

 しかしどうにもに落ちない点が二つある。一つがこの出発直前とは思えないお父さんの鷹揚おうようとした態度。それともう一つが、これまたお父さんらしさの欠片もない短兵急たんぺいきゅうなその発言である。――大体家族で旅行へ行くとなったら、お父さんは平生いつも出発予定日の二週間前くらいからずうっと名所をしらべたり、ハイドン*¹の哲学者*²を控え目に流しながらパソコンをひろげ、一人タイムテーブルを作ってみたりなんかしてそわそわしている。それがうちのお父さんの、る意味最もお父さんらしいキュートな一面なのである。

 つまり土曜とも日曜ともつかない午下りにそんなことを言い出すほど、うちのお父さんはアドリブの利く人でも、将又はたまた計画性の無い人でもない筈なのだ。


「――お母さんはどう?」


 んん? お母さん? 今日は芙美子さんじゃないの?

 この問いかけで、私の違和感は確乎かっこたる疑念にかわった。そしてお母さんが「行きましょ行きましょ。お母さん学校に連絡しておくから、紗愛と奏ちゃんは、明日から学校お休みしていいわよ」と笑顔で言った瞬間、ああ、これは梦だ。これは私がこしらえた、自分のうちひしめく理想と慾望によって捏造ねつぞうされた、贋物にせものの姫嶋家なんだと確信した。

 ところがブルトン的シュルレアリスムを敬愛してまない私は「いやいや、お母さんがそんなこと言うわけ…」と内心梦である事を半笑いでさとりつつ「ママ大好き」と言ってお母さんにハグをした。(まあ多少おかしな所があったとて所詮しょせん梦だし、それより梦の中でも皆仲良しなんだと思うと、別段重箱の隅を突こうという気にもならなかったわけです。)

 しばらくして、お父さんがカーポートから車を出す。すると私達は、何故か荷物の一つも持たずにさっさと車へ乗り込み、何故かそのまま出発進行! リュックは? ポーチは? 私の縫いぐるみは? と矢継早やつぎばやに訊きたくなるが、その辺りの粗さは御愛嬌である。


「紗愛、ちゃんと酔い止め飲んだ?」


「うん。飲んだよ」


「大丈夫だよ紗愛。お父さんなるべくゆっくり運転するから」


 そう言ってかけてくれたのが、モーツァルト*³のピアノ三重奏曲*⁴。中でもピレシュ*⁵の第一番は、私が生後間もない頃から聴いていたという或る意味最も付き合いの長いナンバーである。(勿論私は当時のことなど全く憶えていないが…)

 この話を聞いたときは、私も「さすがお母さんの娘だな」といたく感服したわけであるが、なんでもこれを流すと、ベビーの私はおどろいたように目をみひらき、人差し指から小指までをがっつりくわえながらたちまちのうちに愚図るのをめたそうだ。――だから私は、今でもその頃のげんかつぐような心算つもりで、電車以外の乗り物に乗るときは乗り物酔い對策たいさくとして必ずこの曲を聴いている。すると五回中三回くらいは酔わずに済むので、下手な薬なんかむくらいなら、モーツァルトのほうが余程効くんじゃないかと、どこぞの先住民族の酋長しゅうちょうのような気持ちで頑なに信じている。

 信号が変わり、車が動き出す。その間私はスマホゲームに熱中する奏の隣で、お母さんと舞茸のことについて熱っぽく話している。懸河けんがの弁とでも形容すべきその話し振りから推察するに、どうやら荷物に頓着とんじゃくしていられるほど、こちらの世界の私はひまではないようだ。そのうえ「舞彩ちゃんて本当に優しくて素敵な子よね」とか「紗愛が優しいからお友達も優しいのかしらね」とか、そんなお母さんの溢美いつびを食らって、私は酷くへらへらしている。(まったく…にやけてるヒマがあったら横手さんの名前くらい出せお前は。)

 やがて車は国道をけ、首都高へと入る。路面に引かれた縞々しましまの感じも、緑色の表示板の感じも、果ては隧道トンネルを入った辺りから渋滞が始まる感じまでもが、私のゆがんだ観察眼の賜物たまものとでも言う感じで見事に再現されている。――そう言えば行先を訊きそびれた気がするが、この旅の目的地は一体何処なんだろうか。

 私は不意に「ねえパパ、今日は何処に行くの?」と訊きたい慾求に駆られた。でも奏が私の肩へ頭を乗せてきたので、こんな気持ちは瞬く間に消失した。


「ねーちゃん。このまま寝てもいい?」


「いいよ。おやすみ、奏」


「おやすみ…」


 しかしこの沈黙をさかいに、私の甘き梦は、他ならぬ私自身の佞悪ねいあくな深層意識によって崩壊の一途を辿たどることとなる。


「――ねぇあなた、そろそろ休憩しましょうよ」


「そうだね。じゃあ次のサービスエリアで休憩にしようか」


 それが、お父さんとお母さんとの間で交された、最後の会話らしい会話だった。何故ならお父さんは、お母さんとの約束を忘れたかのようにサービスエリアを通り過ぎ、爾後じご一切休憩を挟もうとしないのである。

 当初は「お父さんも疲れてるのかなー」くらいの感覚で気楽に構えていた私だったが、一時間半もそんな真似をされると流石にこわくてきそうになった。


「ねぇパパ、トイレに行きたいから、次で休憩にして」


 私のそんな言葉も、今のお父さんには届かない。お母さんも心配そうな顔をして「あなた、ねえあなた、もういい加減休憩しましょうよ」と、ヘッドレストの脇へ顔をちか付け慫慂しょうようする。しかしながら、お父さんは返事はおろか、愛するお母さんに対して相槌あいづちの一つも打とうとしない。

 ――なんで無視するの? パパはそんなことして愉しいの? ママを不安にさせて、家族を不安にさせて、それで愉しいの? 

 私はそんなお父さんの身勝手すぎる振る舞いを見て無性に腹が立った。私の前では絶対に喧嘩しない。それが姫嶋家の家訓其一かくんそのいちだったわけであるが、奈何いかんせん私は、こういう悪戯いたずらが死ぬ程きらいな性質たち癇癪かんしゃく持ちなのである。――だから奏が起きたら、私本気で忿おこるから。それまでに謝ってくれなかったら、私全力で忿るからね。

 そう胸の内では思っている筈なのだが、私も私で何故か一向にキレる気配がない。西日が差そうがとばりが下りようが、私はつかれ果てたお母さんの隣で默然もくねんとしていた。恐らく口焰くちびを切ろうにも、それを踟蹰ちちゅうせざるを得ないほど車内の空気が重苦しくて、こえが出せないのだろう。


「ねえお父さん!! もういい加減にしてよっ!! もうこれ以上、私のママを苛めないでっ!!」


 それでも私はさけんだ。手を伸ばして、お父さんの上膊うでを摑んで力一杯搖すり、赫怒かくどした。奏が「ねーちゃん大丈夫だよ」と言って手を握ってくれたものの、私は物凄い疲労感と動悸に襲われたため、彼にありがとうすら言えなかった。

 高速を下りると、今度は市街地を拔けて海沿いの道を延々はしり続けた。なんの情緒もない、電気の点いた家が二、三分おきにぽつぽつと現れるような、ただの真暗な二車線の田舎道である。此処ここが何処で、今が何時なのかすらも分からない。おまけにお母さんも奏も、到頭とうとう説得を諦めて二人してねむってしまった。

 だいだい色の灯りがぱらぱらと差し込む薄暗い車内で、私は独り逆睹げきとした。お父さんの目的は何なのかと。そして一分と経たずにこう思った。――私は沒郤ぼっきゃくされた末、てられるのだと。――海辺の駐車場に車を停めて「紗愛、さようなら。もう降りていいよ」と言われ、お父さんに棄てられるのだと。


「紗愛、着いたよ」


 そんな殘酷すぎる揣摩しまに打ちひしがれなみだうかべていると、お父さんは車を停め、私にそう言った。

 ようやく十六年来のしがらみから解放される。私はお父さんのあかるい聲の中に、そうした悖徳的はいとくてきな期待じみたものが隠顕いんけんしているような気がしてならなかった。

 窗の外には、白色灯に照らされた赭錆色あかさびいろ繫留柱ボラードが二つ見えた。そこは埠頭ふとうであった。私は棄てられたくない一心でお母さんに獅噛しがみついた。パパ来ないで、来ないでと心の中でしきりに繰り返した。


「どうしたの紗愛? お友達が待ってるわよ」


 しかし梦の世界の私は、お母さんの言葉につられて車から降りてしまった。その言葉を裏付けるように、真後ろに一台の観光バスが停まっていたからだ。私は理由も分からず波止場へと疾赱はしった。わずかな月明りをもとめて、息をはずませながら駿馬しゅんめの如く疾赱った。――舞茸が下りてくるような気がして、ドキドキしていたのだ。


「あ! あれデカ女じゃね!?」


「ほんとだぁー、なんでこんなとこにいんのー? 妖怪みたーい」


「お前が帰る場所は海じゃなくて山だぞー! おい聞いてんのかデカ女ぁ!」


 ところが、下りてきたのは中学時代に散々私を調戯からかい、いじめ、そしてくるしめた、二組と三組の芥共ごみどもだった。

 なんでお前らが居んだよ! 因数分解も出来ない、関係代名詞も現在完了形も分からないセックス狂いの猿共が! お前らみたいなのは禁止薬物でもくらって死ぬまでセックスしてろよ! ちんこが取れて、きんたまが二つれるまで莫迦ばかみたいに射精して、頭の中まで精液に塗れてろクソ猿が! お前もだぞメス猿! 女同士だからって調子に乗んなよこの阿婆擦あばずれ! あたしはお前みたいな女が一等いけ好かないんだよ! 自撮りばっかしてる香水臭ぇ厚化粧のメンヘラのくせに、制服なんか着てんじゃねぇ! 精々せいぜいその薄べったい乳とゆるい股が見えねぇように、その辺の雑草でも巻いとけこのクソ女!


 愉快なことに、私はこれを大声で言った。力の限りまくし立て、慢罵まんばした。それも一呼吸のうちに言い切ったのだから、"妖怪みたい"という譬喩たとえあながち間違いであるとは言い切れない。

 まあそんなことは扠措さておき、私の罵詈讒謗ばりざんぼうを聞きつけた猿共は言うまでもなくカンカンである。しかも一等莫迦なオス猿は、香水臭い女を引き連れづかづかとこちらへむかって歩いてくる。「殺すぞ」とか何とか喚いているが、だったらやってみろという話である。


「メンヘラじゃねぇよデカ女! お前が病気なんだよ! ふざけんなっ!」


 先ず摑みかかってきたのはメス猿だった。こいつが襟刳えりぐりに手を掛け強引に引っ張ったせいで、私の大切なワンピースが破れた。ボタンが取れて、胸元がはだけた。故意にそこばかり摑んで裂け目を拡げてくるので、そのうち私は億劫おっくうになって、腹まで破れたワンピからうでを拔き、ブラをぎ棄て上裸になった。月明げつめいに蒼白い乳房をさらし、今まさに一疋の獲物をほふらんとするその姿は、譬えるなら…超絶劣化版アルテミスといったところだろうか。

 私は頭にきて、女がひるんだ隙をついて思い切り頰をち、突き飛ばし、髪の毛を摑んで手前に引き寄せた後、これでも喰らえと蟀谷こめかみの辺りを一発なぐった。もつれるようにしてたおれた女のかおて、私は微笑わらった。その暴挙を見て同じく頭に血が上ったのか、猿はすかさず私の腹に拳を減り込ませてきた。痛いというより、ただ息苦しかった。


「殺してやろうか?」


 猿がそう言ってわらった瞬間、私は魔術師の如くポケットからナイフを取り出し、間髪入れずこいつの鳩尾みぞおちいた。やや外した感じもしたが、猿は忽ちその場に座り込み、やめろと言い出した。


「死んで詫びろっ! 地獄で詫びろっ!」


 私は仰向けにたおれた猿の上へ馬乗りになって、その腹を滅多めった刺しにした。フォークであぶら粘土を突いているかのような、何とも歯応えのない感触だった。女が狂人のように叫喚きょうかんながら私の動きを封じてくるので、血のしたたる切先を向けて端まで追い遣ったのち、海へ突き落としてやった。――いいぞいいぞ、藻搔け藻搔け。お前は殺すに値しない、仄暗ほのぐらい水面をただようプランクトンのふんだ。

 私はかばねの横まで戾ってきて、今一度夜空を見上げた。風はなまぐさく、雲が邪魔で月が見えない。まあいい。死ぬ前に見た月など、薄気味悪くていぬも喰わないだろう。私も死んで、月へ帰る筈だったうさぎも死んで、じき狗も死ぬ。狡兎こうと死して走狗烹そうくにらるだ。人は皆、こいつと同じように呆気なく僵れ、そして死んでいくのだ。畢竟つまり私がこの場で自尽じじんしたとて、それはこの世に何億何兆あるうちの、たった一つの細胞が今この瞬間をもってアポトーシスを迎えたという、ただそれだけのことなのである。

 刃先がのど元に触れた。チクッとして、思わず引っ込める。痛いというより熱い。搏動に合せて流れ出た血が、胸の谿間たにまつたってへそまで落ちていくのが分かる。さぞ苦痛だろう。聞くに堪えない、きたならしいうめき声を上げることだろう。でもこのまま押し込めば、頸動脈を断てば、確実に死ねる。

 ――パパ、ママ、奏…ごめん…こんなつもりじゃなかったけど…本当にごめん… 馬鹿な娘で、駄目なねーちゃんで本当にごめんね…

 ――さようなら…


                ***


 グサッといった衝撃で、私は目醒めた。団子みたいになった掛け布団をケツで潰して、出来損ないのブリッジのような恰好をして寝ていた。扇風機が止まって暑かったからか、パジャマは盗汗ねあせでびっしょり濡れていた。寒気がして捥を閉じると、それが膩汗でべたついたわきにひたっと張り付いて大変気持ちが悪い。

 だがしかし、この身に纏わりつく液体が、すべて汗であるという保証などどこにもない。…ともすると、起き上がってみたら、背中の下は血の池地獄、なんてことだって、あったりするかもしれない…

 私は過呼吸になりそうなくらい悉皆すっかり震駭しんがいして、身を起す前に周章あわてて自らの頸元を確認した。――それが明晰梦めいせきむであることすら忘れて、このたなごころが、無疵むきずはだに触れる、その瞬間まで、一心不乱に…

 ――はぁ。生きてた。

 そう大息たいそくするまでに十秒かかった。お父さんへ怒鳴らずに済んで、露出狂にならずに済んで、猿殺しにならずに済んで本当に良かったと思った。

 その確認によって兩手りょうてが汗塗れになったので、私は枕に被せておいた猫柄のタオルで掌を軽く拭った。しかしいつもの癖で下着をずらし、つい自分の腰骨の出っ張りを愛撫してしまうのであまり意味がない。…それに今日は、心しかがずれてるような気が…


…うわ…ウソだろ…まじで漏れてたのかよ…


 ベッドから起き上がると、とき色の私の上掛けが赤褐色せっかっしょくに染まっていた。ふかふかで可愛い布団だったのに、ショック… まあシーツまでみてなかったのが不幸中の幸いか。

 …とはいえ姿見に写った私のパジャマは、梦の中の私にしりを刺されたのではないかと思いたくなるほどブラッディーな様相をていしている。…お母さんは朝食の準備中だろうし…奏はもう起きてるだろうし…あと五分くらいで「ねーちゃんおはよー」って、部屋に入って来ちゃうだろうし…どうしよう…


『パパ。朝からごめんね。私生理でお布団汚しちゃったから、ママに伝えてください。 奏には、今日のハグはお休みって伝えておいてください。 お願いします。』


『今芙美子さんに伝えました。 奏大は引き留めておきます。 体調が優れないときは、無理せずゆっくり休んでください。』


 有難う御座います…お父様…有難う御座います…


「紗愛、入っても平気?」


「うん…」


 それから一分と経たずにお母さんが来てくれた。取り敢えず扇風機をつけて窗を開けておいたが、効果があったのかどうかは今一いまいち分からない。


「ママ…ごめんなさい」


 私は弱々しい聲で謝った。勿論余計な仕事を増やしてしまったという罪悪感もあったが、そこへ之繞しんにょうを掛けてクラスメイトの山下さんの話を思い出したものだから、私はもう駱駝らくだこぶの間から落ちて、砂漠のただなかに取りのこされた一輪の薔薇そうびのように、お母さんの前で萎靡いびするしかなかったのだ。


「ねえ聞いてあや、私昨日生理来ちゃって、朝起きたら布団が殺人現場になってたの」


「え、それ大丈夫だったの?」


「全然。『またやったのぉ? もぉー気を付けなさいよぉー』って親にめっちゃ怒られた」


「そんな…怒らなくてもよくない?」


「でしょ? そーいう自分も、ときどきナプキン捨て忘れて私が捨ててあげてるのに、ほんとひどいよね」


 つまりトイレでそんな愚痴をこぼしていた山下さんのように、私もてっきりおとがめを受けるものだとばかり思っていたのである。

 しかし中二以来の惨状さんじょう目睹もくとしてもなお、うちのお母さんはその時と渝らずやさしかった。


「大丈夫よ紗愛。それより汗びっしょりじゃない。今バスタオル持ってくるから、お風呂でささっと流しちゃいなさい」


「――ママ、一緒に行ってくれる?」


「いいわよ。でもタオルで隠さないと、奏ちゃんに見られちゃうでしょ? だから待ってて」


 お母さんが一階へ降りていく跫音あしおとを聞きながら、私は姿見の前でっと下着を下ろして臀部をた。血に染まったそれは、宛然さながら狒狒ヒヒの臀のようであった。間拔けで、みっともなくて、血腥くて。一週間もおくれてたくせに、テストの初日に合わせてくるとか何の厭がらせだよと思い苛々いらいらした。

 その後、私はお母さんの陰に隠れるようにして浴室へと向かった。「これで落ちるかしら」とランジェリー用の洗剤を出してくれたが、下着はくろの地味なやつだし、最悪落ちなかったとしても買い替えればいいから諦めがつく。でもこのパジャマはお気に入りだから、落ちてくれないとまじで困る。膚触りのいい可愛いいちご柄なのに、けがれたいちごジャムのあとが付いたままとかまじで凹む。ですから落ちてください。お母さんがくれた誕プレなんです。まだ半年しか着てないんです。もう新品では買えない、期間限定のやつなんですっ!

 ゴシゴシしたくなる気持ちを抑え、一先ずお湯をかけてみる。中心部分は落ちても、矢張やはり一度乾いてしまった部分は中々落ちない。

 やっぱ無理かぁ…染み確定かぁ…

 私は胸奥でそう呟きながら、ランジェリー用洗剤を染みに沿ってかけた。あと一息と見せかけて、そのじつ薄くひろがっただけな気がしたので、乾坤一擲けんこんいってき洗濯おけに入れて熱めの湯を張った。それを待つ間に、私は手早く身体を流した。

 ところが股を洗っていたら、指の間にまあまあグロテスクな血塊けっかいがへばり付いてきて。それをるやいなや、私の頭は思考停止の更に上をいく、完全なる諦めモードへと突入した。シンプルに"もうやだ"と思ったのだ。――昨日覺えた英単語も、舞茸から教わった方程式も、血肉になったというより皆生理の血となって、私の股の間から流れ出てしまったような気がする。――最悪。お腹も重いし腰もだるいし、家族に迷惑は掛けるしで、今日は少し遅刻したい気分だ。

 しかし沈む瀬あれば浮かぶ瀬ありの言葉通り、泡立って浮いてきたパジャマを軽く揉み洗いして濯いでみたところ、何と染みが落ちた。それも股布の補強部分まで完璧に。

 これには正直ホッとした。また綺麗なこの子が着られると思うと、私は勉強机の上にいる縫いぐるみ達を洗ってあげたときのような穏やかな気持ちになって、気持ちはブルーな筈なのに、自然と口角が上がってしまった。(でもこれにりて、もう生理のときには絶対着ない。これからは、おわったあとの御褒美として着ることにする。)

 お風呂から出ると、タオルの上に制服と下着と、その下へかくすようにしてナプキンが置かれていた。――おひるに替えるその時まで、一センチたりともずらしてなるものか。

 私は下着にそれをセットすると、股でぎゅっと挟んでしっかりと形状を合わせた。後ろ漏れが恐いので、後方は特に入念に。――つうか昔の人って、これが無い中で試行錯誤してたんだからほんと凄いよなぁ…


「おはよーねーちゃん」


「ぁ、奏、おはよう」


 制服を着て髪を乾かして、そろそろダイニングへ向かおうかというとき、私は奏にハグされてしまった。四股をむときのような体勢でフィッティングの最終確認をしている最中だったので、聲がした瞬間ちょっぴりドキッとした。


「――ごめんね奏。ねーちゃん朝風呂したくなっちゃって」


「――ねーちゃん」


「ん?」


「今日は花の香りだね」


「は、はな?」


「うん。バラの花束の香り」


 そ、奏。貴方は何てロマンティックな男子なの。大手拓次の詩の旋律がよみがえるくらい、あなたの表現は優美で感傷的で素敵よ…奏。

 その言葉に悉皆胸を打たれて、私は思わず彼の頰に口付けた。こと花束という言葉が心に沁みた。――今日の私の気分なんて、屹度きっとママにも、そしてパパにも奏にも、誰にも理解してもらえない。こんなことで悄気しょげてしまう、へたれの私の気持ちなんて、つよい男の人には分からない。

 血に染まった布団をたとき、私は半ば発作的にそんなひがみ根性を炸裂させてしまったわけだが、私なんて私なんてと繰言くりごとばかり並べていた自分が、今となっては掌に付いた血塊くらいしょうもないもののように思われた。――男も女も關係ない。侃いとかよわいとかじゃない。私は一輪揷しの薔薇ではなく、家族という花束の中にいる、その棘棘とげとげしい身を、奏やママやパパに支えられ、やっとのことで咲いている、一際ちいさな薔薇なのだ。――だからこそ、私は私を支えてくれる、家族という存在を愛している。こんな私を理解し、受容し、娘として愛してくれる、素晴らしい家族だから。

 だから感謝しなければならない。自分をめるより先に、お父さんに、お母さんに、奏に、もっと真正面から、素直な気持ちで感謝できる女にならなければ…


「――でも、なんで朝風呂したくなったの?」


「あー、それはー…テストだから、かな」


「――滝行?」


「…滝行?」


 朝風呂からテスト、テストから滝行という、その不可思議な言葉のつらなりに、私は奏と貌を瞻合わせ、噴き出した。「"滝行"って、ねーちゃん修行してるみたいじゃん」と、奏と二人でけらけら笑った。

 朝食を終え、お父さんが足早に洗面台へ嚮かう。私もそのあとに続く。私はそこで耻ずかしがるお父さんを捕まえ「パパありがとう」と言って、その右頬にキスのあめを降らせた。「芙美子さんにしてあげてよ」と、今日のお父さんは照れに照れていた。可愛い。そのホイップクリームの角のようなツンが、とても可愛い。


「紗愛、気をつけてね」


「ママありがとう、行ってきまーす!」


 そんな具合にキス魔を演じていたら、出発時刻を二分オーバーしてしまった。疾赱ったらずれるかもしれないが…まぁしょうがないか。

 私は早歩きで駅を目指した。ホームに着いてポケットからスマホを取り出すと、横手さんと舞茸から、おはようのスタンプが届いていた。





*¹フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn):オーストリア大公国(現:オーストリア)出身の音楽家、作曲家。

*²ハイドン:『交響曲第二十二番』 ”哲学者” 変ホ長調 Hob I:22。

*³ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart):神聖ローマ帝国領下のザルツブルク(現:オーストリアザルツブルク)出身の音楽家、作曲家。ハイドン、ベートーヴェンと並び、ウィーンの古典派を代表する音楽家の一人でもある。

*⁴モーツァルト:『ピアノ三重奏曲』 第一番 変ロ長調 K.254。

*⁵マリア・ジョアン・ピレシュ(Maria João Alexandre Barbosa Pires):ポルトガル出身の女性ピアニスト。

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