第十一話 恩誼と恩寵 前

 あれから木金曜と土日を挟み、更なる遅疑ちぎと入念な実地調査を重ねた末、私はついに決心した。

 今週の金曜。すなわち中間考査がおわった翌日の昼。舞茸がお手洗いに行くと言って席を外したすきに、横手さんをぱぱっと四階の踊り場へお呼び立てして、その二分乃至ないしは一分間で本気の告白をしてやろうと。

 ――この知情意ちじょういもつれ切った、さもしい変態女の醇乎じゅんこたる赤心せきしんを。長躯ちょうくすぼませながら、かお訥々とつとつと愛の言葉を吐き出すこの処女の醜態しゅうたいを、是非とも一度笑顔の素敵な杏花様にご笑覧頂き、いっそ巖膚いわはだちつける波濤はとうの散らす飛沫しぶきのように、いさぎよく散ってやろうではないかと。そんな一方的な諧謔かいぎゃくと破滅願望のはざま胡座あぐらをかくようにして、私はようよう最近ぷよついてきたこの腹をくくったのである。(ちなみに視聴覚室は私の予想通り"女の花圃はなぞの"だったらしく、就中なかんずく月末は百合ップル達でそこそこにぎわう(※片瀬さん情報)とのことだったので、今回は必然的に除外しました。…つうかあの人は、まじで一体何者なんだ…)


「姫ちゃん、一緒にお弁当食べよ?」


「いや、お昼は横手さんと…」


「じゃあ三人で」


「…いいけど。片瀬さんは?」


「今日は三組の人と食べるんだって」


「ふーん。――じゃあ横手さん隣に来るから、舞茸は向かい側ね」


「うん、私も姫ちゃんの隣で食べるね」


 とはいえ、この強慾ごうよく看守の監視の目をくぐり脱出をこころみるというのは、最早もはやアルカトラズ島からの脱出以上に困難であるといえよう。


「――姫嶋さんお待たせー、あれ、今日は一ノ瀬さんが仲間入りしてる」


「横手さん。すいません」


「なんで? 三人で食べたほうが美味しいじゃん。ねぇ舞彩ちゃん」


 ま、舞彩ちゃん? なっ、横手さんが、舞彩ちゃん!?


「うん。姫ちゃんの隣で食べると美味しいよ」


 畜生…先を越されたか…

 無論当惑するよりも早く、私は満面の笑みをうかべる舞茸に嫉妬した。そして独占慾のつよい悪女らしく「私の横手さんまでそう簡単に劫奪ごうだつ出来ると思ったら大間違いだからな」と思った。更に続けて「私が欧米人だったら、以後全てアスタリスクで記述されること必至の"ファ"と"シ"をさけびつつ、お前を全力で引き剥がしにかかってるところだからな」とも。

 だが生憎あいにく今は横手さんとの、たのしい愉しいランチタイムの真最中。この小ぢんまりとした穏やかな雰囲気の中にあっては、いくら悪女の私といえども「舞茸、やっぱ自分の席で食べてもらえる?」などとはまかり間違っても言えないのである。そもそもそんな仕返しめいたことを一言でも口にしようものなら、いくら寛容な横手さんといえども立処たちどころ厭悪感えんおかんもよおされ、この性悪女を前に倏忽しゅっこつ顰蹙ひんしゅくせられることけ合いなのである。

 つまり杏花様よりたまわった御恩をあだで返すような、人格者を幻滅させるようなそうした贅言ぜいげんは何が何でも慎まなければならない。――金曜の昼まで、あと九十六時間の辛抱だ。それまでは如何なる嫉妬も悋気りんきも、すべて自分の所為せいにしてこらえなければ…

 するとこのもどかしさが大地までとどいたのか、私が鞄からお弁当箱とお菓子を出して机に置くと、これまた妙なタイミングで地震がきた。幸いスマホの大合唱が始まるほどの大きな揺れではなかったが、その機に乗じて舞茸が横手さんの左腕にくっついたので、私も負けじと横手さんの右腕へくっつくことにした。


「そういえば土曜の朝も地震あったよね。今日はどこだったんだろう」


「――茨城県南部、震度三だって」


「三なんだ。でも結構揺れたね」


「ねえ横手さん、私も、今から杏花ちゃんて呼んでいい?」


「うん、全然いいよ」


 しかし私がお弁当の包みをかんとした瞬間、やぶから棒にそんなことを口走りやがったものだから、これはもうとてもじゃないが辛抱ならんと、私は武陵桃源ぶりょうとうげんに入り込んだ闖入者ちんにゅうしゃを発見した守衛の如く、横手さんに引っ付いた舞茸をやんわりと剥がしにかかった。


「おい舞茸、ちょっとくっつき過ぎだって」


「えへへ」


「えへへじゃないだろ。横手さんもご飯食べるんだから、早く離れなさい」


 控え目な命令口調で私がそう言うと、案の定今度は私にくっついてきた。腕だろうが背中だろうが、何度「もういいから」と注意しても、兎に角溶きたてのにかわでも被ったようにベタベタベタベタ彼方此方あちこち引っ付くので、私は愈々いよいよ注意しあぐねてこの"膠着こうちゃく舞茸"を放置した。


「――姫嶋さん、舞彩ちゃんにすっかり愛されてるね」


 もぉ。横手さんまで何を仰ってるんですか…愛されてるだなんて、そんなの寸鉄殺人すんてつさつじんにも程があります…


「でも姫ちゃん、いつも『考えさせて』ばっかりで、全然うなずいてくれないよね」


「…あたしにだって、段取りくらいあるんですっ」


「――ねえ姫嶋さん。姫嶋さんて、じつは結構寂しがりやさんでしょ?」


「そ、そうでもありませんよ///」


「そうかなぁ。私そういう姫嶋さんが可愛くて好きなんだけど」


 横手さんのご炯眼けいがんにもおどろいたが、それと同時に私は"勝った"と思った。早合点はやがてんなのは承知している。しかしこんなにもうつくしい女性から『可愛くて好き』と言われたら、私という現存在げんそんざいそのものが、杏花様という名の運命の女神に嘉納かのうされたような気がしてもう何が無しに肩の力がけてしまう。ベッドの上で深呼吸した直後のように、身も心も一気に弛緩しかんして、伸ばしていた背筋はまがり、少し凹ませていた下腹もぽっこりと出てきてしまう。思うに、思春期の肉体とはそういうものなのだ。


「…///」


「よかったね姫ちゃん。横手さんに褒めてもらえて」


「ぁ…ありがとうございます…///」


 かぼそい声で舞茸に礼を言ってしまうくらい、私の心は枕から飛び出た羽毛のようにふわふわと舞い上がっていた。「確かに恋はしんどいが、しんどいからこそ実ったときの感動も一入ひとしおなのだろう」と、これまた根性論的な、時代錯誤の青臭いさかしらをやったりなんかした。――ともあれ私は、横手さんから温かいお言葉を頂戴したことによって、この世に生をけた、その理由の記された書面の最初の一ページ目を披閲ひえつしているかのような途轍とてつもない昂揚感こうようかんに包まれたのであった。


「姫ちゃん、耳真っ赤だよ」


「…仕方ないだろっ、嬉しいんだよっ///」


「――照れた顔も可愛いよ。姫嶋さん」


 ちょっと待ってください横手さん。今日は一体全体どういう風の吹き回しなんでございますか。私だって人間なんですから、不意にそんな絨緞爆撃じゅうたんばくげきを仕掛けられたら欣喜雀躍きんきじゃくやくどころか、翻筋斗もんどり打って絶命しますって…


「…ょ、横手さんも、きらきらしてて…すてきです///」


「…/// あはは…二人で褒め合うと、なんか恥ずかしいね…」


 …ほのかに紅を帯びたマシュマロみたいな頬。一瞥いちべつするにも気合の要る、そのぱっちりとした妍しい双眸ひとみ。初夏の訪れをげる青嵐せいらんのような、柔らかくて心地くて、それでいて温雅おんがな、いとおかしき杏花様の御物耻おものはぢ…――あぁ好きです。私はもう、含羞はにかむ貴女のとりこです。

 しかもどこのシャンプーだかフレグランスだか、将亦はたまたパルファムなのかは知らないが、今日の横手さんは焼き立てのバームクーヘンの上へレモンピールを散らしたみたいな、甘くて爽やかな芳香かおりがする。――ほんと舞茸といい横手さんといい、同じ性別の人類が、同じ環境のもと同じ制服を着ている筈なのに、なのにこの霄壤しょうじょうたる差は何なんですか…

 そう思うと、私は横手さんを抱きしめたくてうずうずした。――私も奏みたいに、横手さんの鎖骨のくぼみに鼻をうずめて、彼女の芳香を思い切り堪能たんのうしたい。そんな本能的、あるいは最も動物的な冀求ききゅうとでも呼称すべきものがこの身体全体に遍満へんまんした瞬間、私のたなごころとみに湿り気を帯びた。そして下品な話、私の下腹部でも同様の現象が起きたように感じられた。

 つまり私の肉体は、ハチャトゥリアン*¹の仮面舞踏会*²とヴァイオリン協奏曲*³を初めて聴いたあのときのように、横手さんの官能的な芳香によってはげしく昂奮こうふんしていたという訳である。

 …とはいえ、私は舞茸のようにいきなり抱きつくなんてことは絶対にしない。私は変態の中でも比較的保守寄りの人間だから、意中の人なんかに関してはそれこそ奏と同じくらい大切にしたいと思っている。だからハグもキスも、節度を持って一日二回、それも挨拶代わりの軽いハグとキスが出来れば、今日もかわらず愛してるよ、というその気持ちが汲み取れさえすれば、私はそれで十分満足なのだ。(何だこの無理くり取りつくろおうとして最終的に性癖が露呈ろていしたみたいな綺麗事は…)


「…横手さん、あたし…ちょっと前髪直してきます…///」


「姫嶋さん、よかったら私の鏡使う?」


「…ぃ、ぃぇ…お手洗いに行きたくて…」


「ぁ、ご、ごめんね」


 私が耳こすりをすると、横手さんは私を気遣うような声色でそう言ってくれた。その吐息の当たる感じがむずがゆくてずかしくて、私は一瞬あたふたしたのち「行ってきます!」と言い残してそそくさと教室を飛び出してしまった。

 しかし手ぶらで個室の前までやって来て、そこでようやくポーチを忘れたことに気付くのだから、私も大概粗忽者そこつものである。


『舞茸ごめん! ポーチ忘れちゃったから、廊下まで持ってきてくれる? 黄色い花柄のやつなんだけど、鞄に入ってるから』


『うん。今行くね』


『ありがとう』


 三十秒弱の思案を経て、私は舞茸を頼った。情けないとは思うが、照れ笑いを泛べながら横手さんのいる教室へ戻るには、まだ少し早かったのだ。


「はい、姫ちゃん」


「あぁ、ありがと」


「でも、なんで自分で取りに来ないの?」


「え、いや、なんとなく」


「――横手さんの前だから?」


 いやぁーあなたも今日は随分と冱えておいでですねぇ舞茸さん。


「ち、違うって。…鞄から出すのが、ちょっと恥ずかしかったのっ///」


「――ねえ姫ちゃん。ほんとは、私のこと嫌い?」


「なんでだよ。――お前が親友でいてくれるから、あたしも前向きになれたんだよ。――だから、その…舞茸が傍にいてくれないと、あたしも困るっつうか、寂しいっつうか…///」


 嫌いかと問われたのだから、嫌いじゃないと端的にこたえたほうがスマートなのはあきらかであった。しかし昂奮の只中にいた私は、愚かしくも舞茸に向かってそんな思わせ振りを言ってしまったのである。


「――姫ちゃん。私、待ってるからね」


 背中側から抱きつき、シンプルに一言そう囁く。私は舞茸のこんなやり方に、くやしながらも感心せずにはいられなかった。無駄がないというか、知性を感じるというか。表情という視覚情報を排することでより鋭敏えいびんになった私の嗅覚と聴覚と触覚を、一人の処女がここまで巧みに刺戟しげき出来るものなのかと、私は彼女の持つそうした"才能"に、ただただ脱帽しきりだった。


「…舞茸も、お菓子食べていいよ」


「貰っていいの?」


「その代わり、横手さんと二人で食べてね。あとしみチョコとポリンキーは、少し残しといて」


 私がそう言ったら、舞茸はいつも通り「姫ちゃん好き」と言って破顔した。横手さん、横手さん、一つ飛ばして横手さん、の、そのたった一つの間隙かんげきにぴたりと收まるような、紅白帽を首にかけた五歳児みたいなこの笑顔…"彈ける笑顔"なんて言い回しがあったりするわけだが、そのときの舞茸の笑顔は彈けるなんてレベルじゃなかった。

 まあそんなこんなで舞茸さんも教室へ戻ったので、私はぱっぱと用を済ませ、敷物を敷き直し、四限の体育でみだれた前髪をコームで丁寧に整えた。(てか汗かくとおでこに付いてしんどいし、早く美容院行きたい…)


「あ、姫嶋さんおかえり。お菓子頂いてるよ」


「姫ちゃんごちそうさま」


「あっ、あれ…しみチョコが、しみチョコが無くなってる…」


「大丈夫だよ姫ちゃん。食べてないから」


「あぁ鞄に入れてあったのね」


「姫嶋さん…私も一袋貰っていい?」


 どうぞどうぞ、一袋といわず三袋くらいどうぞ。とは言わなかったが、私はサービス精神旺盛なアメ横のお菓子屋さんのように気前よく、杏花様へしみチョコを奉献ほうけんした。


「姫ちゃん…私も食べたい…」


 はいはいどうぞ、と、私は舞茸にも二袋あげて、自分は食べない心算つもりだった。先刻さっきのお礼もしたかったし、今日は無しでいいかなと思ったのだ。

 しかし物欲しそうな目をしたこいつの前に力無く横たわる、既に九割方食い尽くされたと思しきポリンキーの袋を見るやいなや、私の中に萌芽ほうがしたその施しの精神はたちまち半減した。(私、二人で食べてって言いましたよね?)


「舞茸はもう十分食べたでしょ。一袋だけね」


「――じゃあ舞彩ちゃんに二袋あげるね。そうすれば私と姫嶋さんで一袋ずつだから」


 嗚呼、横手さん…貴女はなんって慈悲深いお方なんだ…それにくらべて、私はなんてこすっ辛い女なんだ…

 

「はい、横手さん」


「え、でもそうしたら姫嶋さんの分が」


「いいのいいの、あたしお弁当あるし。だから舞茸と二人で食べてください」


「――ありがとう姫嶋さん。じゃあご飯食べたら、一緒に食べようよ」


「は、はい…///」


 横手さんの手が背中に触れた瞬間、私は耳が熱くなって、何処へ視線を落ち着けたらいいか分らなくなって、たまらず自分のスカートを見た。し教卓側からこちらを眺めることが出来たとしたら、私のこんな有様ありさまは、恐らくお菓子の食べ過ぎでお弁当まで辿たどり着けなかった、哀れな小食しょうしょく女子のように見えたに違いない。

 それからしばらくして私が中食ちゅうじきを終えると、杏花様は私の左腕へその身をお寄せになり「あーんしてもいい?」と仰られた。


「私も、あーんしていいですか」


 されっぱなしなんてとんでもないと、私は勇気を出してそう訊き返した。すると横手さんは嬉しそうにうなずいて口を開けてくれた。――まま時が止まれば…口づけだって出来るかもしれない…

 いい気になってそんな愛の序曲オーバーチュアに浸っていたら、舞茸にあーんを横取りされた。あっという間の出来事だった。

 だが先述した通り、どれだけ苛つこうが忿おこるに忿れないので、私は再度彼女を引き剥がして、半ば即興的そっきょうてきにその小憎らしい頬を油粘土の如くむにむにとねくり回すしかなかった。御世辞を言うつもりもないが、これが見た目にたがわぬ中々のもち肌だった。

 午後一時五分。時計の黒い針がしずかに重なり合ったそのとき、私はまどの外へ目をった。彩度の低い都心の蒼空あおぞらの中を、二羽のからすが立て続けに右から左へと滑翔かっしょうしていくのが見えた。





*¹アラム・ハチャトゥリアン (Aram Il'ich Khachaturian):旧ソビエト連邦を代表するアルメニア人の作曲家、指揮者。

*²ハチャトゥリアン:組曲『仮面舞踏会(Masquerade)』 1.ワルツ 2.ノクターン 3.マズルカ 4.ロマンス 5.ギャロップ。

*³ハチャトゥリアン:『ヴァイオリン協奏曲』 変ニ長調。 第1~3楽章。

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