第十話 優柔不断と絶不調

 矢庭やにわに何をかしやがると思われるかもしれないが、私は自分の優柔不断な性格がすこぶる嫌いだ。だったらうじうじせずに即断即決しなさいよという話だが、も舌に及ばずとうからには、そうみだりに愛の言葉を口走るわけにはいかないのである。まあ話の冒頭をこうした自己否定と弁疏べんそで埋め尽くすことほどナンセンスな行為もないので、似而非えせアウフヘーベンはこの辺でめておくことにする。

 要するに私は、あれから二週間が経過した現在いまも、数学の教科書に恋文を挟んだまま、日々横手さんの顔色をうかがいつつ懊悩おうのうしているというわけです…(これが俗に言う"恋に憂き身をやつす"というやつなのかもしれないが、その割に全くせないのはなんなんすかね…)

 それと、これは横手さんにフラれた場合に備えての完全なる予防線だが、先週の校外学習で起きた"予期せぬ一埒いちらつ"によって、どうやら私は、折角せっかくとろ火になりかけていた舞茸の心のほのおをまたしても強火にしてしまったようなのである。(いやいや、一見言い訳のマトリョーシカみたいになってますけど、これにはちゃんとした理由があるんですよ…)

 ――もう六限だし、たぶん今日も今日とて告白出来ずにおわるだろうから、今回はそのときの話でもしようと思う。


 確かその日は、朝の九時半に雷門前集合。全組AB班(九時半集合)、CD班(九時四十分集合)、EF班(九時五十分集合)といった具合に分けられ、説明が終わった班から順次行動開始という流れだった。人混みが大嫌いつ班決めの際のくじ引きで横手さんと離れ離れになってしまった私は、正直その説明が始まる前から既に帰りたかった。(しっかしなんの因果か、舞茸は"偶々たまたま"私と同じ班だったっつうわけです。)

 そんな状況にてて加えて、当日は舞茸が乗る電車を間違えたとかで十分以上遅刻してきたため、彼女が息急いきせきやって来た瞬間、私は少しあきれたような感じで「はぁ…しっかりしてくれよ…」と言ってしまった。「そのくらい大目に見てやれよ。器の小っせぇ女だな」などと言われるのもしゃくなので一応附説ふせつしておくが、私はその発言以降彼女を邪慳じゃけんにしたり、厭味いやみを言うような陰湿な真似は一切していない。だから胸を張って言いたい。舞茸が来るまでの間、お待たせしている方々へ率先そっせんして頭を下げたのは他ならぬこの私なのである。「私方向音痴だから、姫嶋さん改札で待っててくれる?」と、同じ班の髙梨さんからお願いされ、態々わざわざ集合時刻の三十分前に来て改札口の前に立っていた、この私なのである。(いやぁここまで声高に言うと無粋ぶすいが過ぎて、かえって清々しいですわ。)

 まあそれはいいとして、その後は雷門の前で記念撮影をして、すれ違う人とぶつからないよう若干萎縮しながら仲見世通りを散策して。『どうか私を、横手さんのお婿さんにして下さい! お力添えのほど、何卒よろしくお願い致します!』と御本尊様へお願いし終えたあたりでようやくお昼になったのだが、つかれていたのかなんなのか、集合場所のお店がある建物へ入ろうかというタイミングで、突如舞茸の顔色が真っ青になった。


「――舞茸? どうした?」


「…姫ちゃん…っ…きもちわるぃ…」


 いや、そらそうでしょうねぇ。あなた先刻さっきから揚げ饅頭とかアイスとかメンチカツとか、あぶらっこいものばっか喰ってましたものねぇ。なんて暢気のんきな事は言っていられなかった。勿論今日も今日とてエチケット袋は持っているものの、人目もはばからずその辺の路端みちばたでゲーゲーやろうものなら、これはお嬢様はもとより女子としての沽券こけんにかかわる。(あと私も、人のそれをそこまで手際よく受け止められるか分かりませんし…)

 しかもりにって集合場所のビルの一階、お洒落なイタリアンレストランの真正面でそんな事態におちいるっつうのが、私の常識だの倫理観だの、はたまた咄嗟とっさの機転だのといった総合力を試されているような気がして頗る気が気でない。――つうことは、もう大至急こちらのお花畑へ、青褪あおざめたお嬢様を引っ張り込まねばならんわけです。


「髙梨さん! 申し訳ないんだけど、一ノ瀬さん具合悪いみたいだから、保健委員か長塚先生に伝えておいてもらえる?」


「うん分かった、もし相撲観戦無理そうだったら、A班のグループに連絡して。私が全部伝えておくから」


「ありがとうございます、助かります」


「一ノ瀬さん、大丈夫?」


「伊藤くん、ちょっとトイレ借りていいか、お店の人に確認を」


「了解、すぐ訊いてくるわ」


「…オッケー! 大丈夫だって」


「サンキュー伊藤くんっ! ほら舞茸、急ぐぞ!」


 レストランから出てきた彼とすれ違うようにして、私は「すいません」を連呼しつつ大あわての大急ぎで舞茸をお店のトイレへと連れ込んだ。まじで限界寸前だったみたいで、私が鍵を掛けるよりも早く、それは始まってしまった。


「っこほ、ごほっ…げほっげほっ…げぇぇっごほっ」


 …というこだまが聞こえたような気がしたが、おそらく気のせいだろう。すくなくとも目を閉じた私の耳には、そのすべてがペール・ギュントの朝*¹にしか聞こえなかったから、たぶん聞き違いか幻聴の類である。


「おい…大丈夫か…」


「…」


 自業自得とはいえ、ひる時にこれは、いくらなんでも可哀想過ぎる。もう今日は速攻帰って休んだほうがいい。私はそう心を痛めると同時に、憂慮ゆうりょ憐愍れんびんの入り混じった表情で鞄からウエットティッシュを取り出し、彼女の背中をさすり続けた。――同病相憐どうびょうあいあわれむではないが、私もいじめのストレスで一時期こうなった事があったから、気持ち的には同情を通り越して、舞茸をたすけてやりたい思いでいっぱいだった。


「…朝から具合悪かったの?」


「…ぅ、ううん…途中から…」


「――少し休んだら、今日は早退しな。親御さんに来てもらって、すぐ帰って休んだほうがいいよ」


「…でも、姫ちゃんと同じグループなのに…」


「んなこと言ってる場合か。親友命令だぞ。今日は早く帰って寝なさい」


 私が諭すようにそう言うと、舞茸は声をころしてしくしくき始めた。そこまでキツく言ったつもりも無かったので、この反応には流石の私もたちま狼狽うろたえてしまった。

 …別に…泣かなくてもいいじゃん…

 私はトイレットペーパーのような吐息に、そんな言葉を謄写とうしゃした。何も言わずにふたを閉めて、水洗ボタンを押してティッシュを差し出し、舞茸の心の代謝がおわるのを待った。それがくやし涙であることは魯鈍ろどんな私の目にもあきらかだったし、ともするとここでいたずらに励ますのは何か違うと思ったのだ。


「…ごめんね…遅刻したり…お昼にこんなことさせて…」


「いいから気にすんな。そんな日もあるから。――ほら、洟垂れてるからちゃんとかんで」


「――ありがとう…」


「制服は…大丈夫そうだな。――よし、じゃあ戻って休憩し…」


「ねぇ、姫ちゃんも一緒に待ってて」


「…はいはい。言われなくても一緒に待ちますよ」


 否応いやおうなしに袖を引かれたので、私は致し方なくそう返答した。まだなみだ跡の残る女子にそんなことをされて、きっぱり断れるような奴は最早もはや"人にあらず"であろう。

 一先ず花畑から帰還すると、お店の方がカウンターに水を用意して待ってくれていた。私は微に入り細を穿うがつその心遣いにいた感佩かんぱいして、棚に並んでいたファルファッレとかフジッリとかいう名前のカラフルなパスタを、とりあえず四袋衝動買いしてしまった。


「本当に有難うございました」


 私は偶然の産物ならぬ偶然のお土産を受け取ると、舞茸に代わりお礼を言って、そそくさとお店を後にした。もう少し鄭重ていちょうな礼も出来ただろうが、如何いかんせん店内が賑々にぎにぎしかったので、その時はそれが私の精一杯であった。


「一ノ瀬さん大丈夫?」


「うん」


「もう先生には伝えてあるから、無理しないでね」


「ありがとう。髙梨さん」


 しかして席に着くと舞茸も徐々に落ち着いてきたので、私は今だとばかりに用意されていたお弁当を早食いして、彼女とともに親御さんの到着を待つことにした。

 しかし椅子に座って待つ舞茸のまぁ大人しいこと大人しいこと。それがあまりにもしずかなので、私はちょっとした悪戯のつもりで伏目がちにもくしている彼女の横顔をつらつら見た。


「――もぉ姫ちゃん。あんまり見ないで」


 私には、そう言って微笑む舞茸の顔が容易に想像出来たわけであるが…矢張やはりばつが悪いのか、実際の彼女は視線を移すことなく、只々ただただ申し訳無なさそうにテーブルの上のお弁当を見てしゅんとしていた。

 まああんなお願いをしておきながらこんな色惚いろぼけた事を吐かすと、それこそ「莫迦ばか言ってんじゃねぇ」と愛染明王あいぜんみょうおう様に忿おこられそうだが、その舞茸の表情たるや実につやっぽく、横手さん一筋の私も思わず「あぁ…」と吐息を漏らしてしまいそうになるほど閑雅かんがだったのである。たとえるならそれは、夕陽をいただいてしとやかにきらめく、苅安かりやす色の村雨むらさめに降られて濡れそぼった、空色の紫陽花あじさい花瓣はなびらのようであった。


「――ねえ、姫ちゃん」


「ん?」


「私のこと…ゲロ女って思ってる?」


 て、おい! 食後ですよ食後!


「思ってる訳ないだろっ、あたしは小一男子かっ」


「…」


「…いや、思ってないって」


「…」


「――あぁもぉっ、心配なんだよ…お前が…」


 その長い長い沈黙の糸の先にくくり付けられた餌にまんまと引き寄せられて、私は陥穽おとしあなへ転がり落ちるが如く、さみしい目をした舞茸の手をぎゅっと握ってしまった。ずかしくないと言ったらうそになるが、その時ばかりは誰に見られても構わないとさえ思った。

 …無論その握力は、純粋な愛がもたらした握力などではない。ただ自分の中の漲溢ちょういつを、心の器からあふれかかった惻隠そくいんじょうを、舞茸の手の温もりで発散したかっただけ。…でもそれだけじゃない。彼女をたすけたいという気持ちのかげには、こいつに対する慈愛が、こいつをまもりたいという紛う方無き慈心が、あたかも朱塗りの柱のような鮮やかさでもって確かに存在していたのだ。(まあ今にしてみれば、この行為は惻隠の情どころかむし宋襄そうじょうじんだった訳であるが…)

 しかしそれを併呑へいどんしてしまえば、私は忽ち自縄自縛じじょうじばく自家撞着じかどうちゃくに陥るわけだから、その時はただ『いや違う。私は通りすがりの怪我人を介抱するように、心の傷病者に対してあたう限りの応急処置をほどこしてやっただけだ』と心にも無い言葉を被せて自らの心に蓋をし、自分のどっちつかずを握手という形のスキンシップで糊塗ことするよりほかに手立てがなかったのである。

 と言ったわけで、私はようやっと寝息を立て始めた舞茸の恋心を、文字通り"手ずから"警醒けいせいしてしまったのでした。めでたしめでたし…(――不覚、いや実に不覚であった…)


「姫ちゃん♪」


 チャイムが鳴ると、私のもとへお覚醒めざめになられた方がやってくる。彼女は慣れた様子で私の背後へと囘り込み、本日七度目となるハグを実施する。「三日耐えれば馴れるだろ」と思っていたが、これが四日経っても心労が増すばかりで一向に馴れやしない。――このまま放っておいたら、そのうち御百度参りみたいになるんじゃないか。私はそんな現状に怖気おぞけを震いつつ、横手さんがこちら側へ向き直るのに合わせて控え目に会話を始めた。


「…なぁ舞茸、悪いんだけど、抱きつくのは一日二回までにしてくんない?」


「無理。私姫ちゃんが好きだから」


「…だからって毎日一時間おきに抱きつかれたら、あたしも授業に集中できないんですけど」


 私がそう言うと、舞茸は私の肩に顎を乗せた。

 「ちょっと、ファンデ付いちゃう」と、私が彼女の下膊かはくつかむと、彼女は私の耳許で「すっぴんだよ」とささやいた。

 いやー私の横手さんよくも大概ですけど、やっぱあなたの慾深には敵いませんわ。


「――二人がカップルだったら、美人同士だし完璧だよねー。こうして見てるだけで、なんか幸せだわぁ」


 茫然ぼうぜんとしている最中に横手さんがそう呟いたので、私はより一層茫然としてしまった。背中を押された気もするし、跳ね返された感じもする。路を間違えた気もするし、振り出しに戻ったような感じもする…

 まあ何はともあれ、その言葉によって挑戦者が負傷したからには、本日予定されていた告白計画も残念ながら延期である。


『姫ちゃん。今月中にお返事聞かせてね』


 しかし私がどれだけ横手さんへの告白を延期しようとも、このお方の猛追からのがれることは不可能であった。


『夏休みまで待ってよ。あたしもまだ勉強とかテストのこととかでいっぱいいっぱいだから』


 夜九時過ぎ。私は舞茸にそう返信した。すぐ既読になって、泣き顔のうさぎのスタンプが送られてきた。


『待てないってこと?』


 私が間髪入れずそう返すと、到頭とうとう既読もつかなくなった。九時半になっても十時になっても、それ以降既読がつくことはなかった。(――私に似て、まったく気難しいお嬢様である。)

 それを待って寝不足になると、翌日の私の体調まで泣き顔になりかねないので、その夜は『おやすみ』と連投して、読書を省いて早めに寝た。

 翌朝。アラームを止めてトーク画面を開いたら、しれっと既読になっていた。私は少し安心して、まだ温もりの残る掛け布団の香りを嗅いだ。その香りが、私の制服に染み付いた、あの舞茸の甘い残り香のように思われて。私はからだを起す前から、早速天井に向けて一つ溜息をついてしまった。





*¹グリーグ:『ペールギュント第一組曲』 "朝" (Morgenstemning) Op.46-1。

 

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