第九話 パパと私

 今日は待ちに待った母の日だ。朝八時、手探りでスマホをつかみアラームを止めると、お次はリマインダーが『机 引き出し 母の日』という、さも聯想れんそうゲームのキーワードのようなつたないバナーを出して、さっさとプレゼントを渡すようにと、寝惚けまなこの私へ小うるさく通知してくる。

 …確か昨日は、横手さんへの恋文を認めたあと軽く本を読んで、そこで妄想が膨らみはじめて、とうとう枕を横手さんだと思って全力で抱きすくめて…あーそれで変な姿勢のまま寝落ちしたからか。痛たた。首痛った。しかもほっぺに筋ついちゃってるし。――はぁ。ひとまず起きよう。早く起きて掃除と洗濯を済ませなければ…

 そんなことを考えつつ大欠伸をしていたら、今度は舞茸から電話がかかってきた。


「ふはぁ、もしもし」


「あ、姫ちゃんおはよー」


「おはよー舞茸。朝から電話なんて、何かあったの?」


「うん、せっかくの日曜日だから、今日は姫ちゃんとデートしたいなと思って」


「…あ、あーそういうご用件でしたか…」


 おかしいなー…その文言だけ検閲に引っかかって黒塗りにされたのかなー…あの後に一回と、水曜の告白のときに一回、あと金曜の放課後に一回の計三回、あなたに"もう少し考えさせて"って、私はっきり言ったはずなんだけどなぁ…


「…ダメ?」


「いや、遊ぶのはいいんだけど、今日母の日だからさ。そのー、出来たら来週かテスト明けにしていただけると…」


 そう。これは断じてその場しのぎの遁辞とんじなどではなく、天皇誕生日が国民の祝日であるように、我が家における母の日は、カレンダー上に記載されたありとあらゆる祝祭日の中でも五本の指に入る、わば"絶対的な祝日"なのである。

 つまりこの日に他の予定を入れることなど言語道断。たとえ五十嵐君でも、あるいは横手さんからの有難いお誘いだったとしても、これが我が家の最高法規である以上、そこだけは何としても譲れないというわけだ。(仮にもそんな奇蹟みたいな事が起きた場合には、横手さんを問答無用で私の部屋へ連れ込み、もとい、我が家へ御招待致します。)


「姫ちゃんてほんと家族思いだよね」


「そうでもないよ。――それより、舞茸家の母の日ってどんな感じなの?」


「普通だよ。いつもより多めにお花が届くくらいで」


 なるほど。お嬢様の家は母の日であるなしにかかわらず、どこぞの宮殿みたいに常時花畑状態なのか。いや流石貴族。黔黎けんれいの私には、あなたが花瓣はなびらの布団を掛けて、白百合の花蘂かずいを枕にして心地よさそうにねむっている画しか想像出来ませんわ。


「…舞茸は、ちゃんとお母さんに『ありがとう』って言ってる?」


「…恥ずかしくて、最近言えてないかも。――姫ちゃんは?」


「ふふーん、あたしは毎日言ってるよ」


「さすが姫ちゃん。――私も、たまにはちゃんと言ってみようかな」


「いいねぇ。なら今日は家族と過ごすってことにして、お母さんに『ありがとう』って言ってあげな。――可愛い舞茸に言われたら、お母さんもきっと喜ぶよ」


「…姫ちゃん。ありがとう」


「いやあたしに言われても」


「ふふ。そうだよね。でもありがとう」


「うん///――ま、まあそういうわけだから、日時は明日改めて話し合うということで、ひとつお願いします」


「うん。楽しみにしてるね」


「うん、じゃあまた明日」


 清々しい日曜の朝に、ここまで醇朴じゅんぼくな"ありがとう"をかさねてくるだなんて…ほんと、心底憎めないやつだよ舞茸は…


「あ、ねーちゃん起きた」


「奏おはよー、もうやってるの?」


「なんか服とか靴とか、色々届くって」


「もぉー、ママに一個でいいって言われたのに、パパってばまた爆買いしてるじゃん」


「ねーちゃん、今日は出かける?」


「うーん、出かけるかも。たぶんケーキとか取りに行くと思うから」


「じゃあ俺が受け取っておくね」


 これが十三歳、中学一年生の男の子の"心しらひ"ですか。私はその気遣いに感歎讃歎かんたんさんたん、それでもまだ足りぬと称歎しょうたんしながら、奏とハグをした。

 奏大。君はねーちゃんの期待を裏切らない、まっこと素晴らしい男だ。機転は利くし愚痴一つこぼさない。そのうえ親孝行で成績優秀で笑顔も可愛い。いやまじでこの国の全中一男子の鑑、ひいては全男子の亀鑑きかんだぞ君は。


「奏ありがとう」


「ねーちゃん、いい匂いするね」


「え/// そ、そ?」


「うん、なんか甘い匂いがする」


 うわぁーいかん…ただのなまぐさい雌に向かって、そんな優しい婉曲えんきょく表現を用いたら…いかん…


「そういう奏も、最近一気に格好良くなったよね」


「格好良くないよ。声も変で気持ち悪いし」


「どうして? 男らしくて素敵だよ」


「でも歌うと音痴みたいになるから、俺も早くお父さんみたいな良い声になりたいんだ」


「なるほどねぇ。男の人はそういう苦労があるんだ」


「女の人は、声かすれたりしないの?」


「んー、かすれはしないけど、まったく変わらないこともないと思うよ。私も若干低くなってるし」


「いいなー」


「――大丈夫だよ。奏は今のままでも十分格好良いから」


「ねーちゃんも美人だよ」


 嗚呼主よ、人は何故一度始めた抱擁を自らの意思でかねばならないのでしょうか? 年一くらいなら、とばりが降りるまでハグするような日があっても宜しいのではないでしょうか?

 終日ひねもす抱いていたい。そんな衝動的欲求を抑えきれず、私はまたしても奏を抱きしめ過ぎた。それも意図的に。何せ彼が抱き返してくれるから、その分私もハグしないと年上として申し訳が立たないのである。

 このてのひらに当たる肩甲骨のごつごつした感じと、まだ少年らしさの残るシャープな体躯からだ。奏のゆったりした呼吸に合わせて悠々と膨らみ、私の下膊かはくし返してくる、この前途洋々たる男の胸郭きょうかく…――純粋に愛おしい。とにかく愛おしい。

 たとえ今両手に手錠を掛けられたとしてもそう自供するしかないほど、私の母性の川は、彼の思い遣りの豪雨を受けてはげしく氾濫はんらんしていた。


「奏は、ねーちゃん嫌いになったりしないの?」


「しないよ。いい匂いだから」


 いいぞ奏っ! もっと嗅いでくれっ! こんな変態女の香りでよかったら、心ゆくまで堪能してくれっ! 今なら洗剤の香りが残ってるから、まだそこまで臭くはないはずだ!

 しかしこれ以上奏に乗せられていちゃいちゃしてしまうと、私は愈々いよいよこの国の刑法の幾つかに牴触ていしょくする可能性が無きにしもあらずなので、いつも通り奏の頭をなでなでするに留めた。


「パパおはよー」


「おはよう紗愛。今洗濯中だから、干すのだけお願いできるかな」


「え、もうやってくれたの? まさか掃除も?」


「もちろん終わってるよ。早くしないと、芙美子さんに悪いからね」


 神! うちの男性陣まじ神!

 ともするとまた三歎した挙句、勢いに任せてお父さんにキスしてしまいそうな気分だったので、心の中に湧いた瑞雲ずいうんが去らぬうちに、私は手早くお手洗いと洗顔と歯磨きを済ませた。

 残り十八分。洗濯がおわるまでの間、私は奏の食器を拭き、少し時計を気にしながら、焼きたての食パンに苺ジャムをたっぷり付けてもぐもぐ食べていたのだが…果たせるかなお父さんの緊張しいは今年も健在であった。

 おそらく私達には話せない秘密の目論見もくろみがあるのだろう。さっきから新聞を広げたり畳んだり、席を立ってパンを焼くのかと思えば焼かずに、私の注いだコーヒーを一口すすって小さく溜息をいてみたりと、その緊張感が透けて見えるほどの健気さを動作の端々はしばしにじませながら、仔犬のような目をして独り倥偬こうそうとしていた。――たぶんお母さんも、もうとっくに起きているはずなんだけれど。私とお父さんが「母の日は何もしないで寝てて」なんて連日しつこく釘を差すものだから、おちおち朝ご飯を食べに下へ降りてくることもかなわないのだろう。(なんかすいません。)


「あ、パパ、荷物は奏が出てくれるって」


「あらほんと。――じゃああとは、ケーキとお花か」


「私も一緒に行くよ。パパ一人でケーキとお花持つの恥ずかしいでしょ?」


「はは、それもそうだね。――たぶん紗愛に持ってもらったほうが、お花もケーキも喜ぶよ」


「――去年はレアチーズだったから、今年はショートケーキ?」


「それは、開けてからのお楽しみかな」


 たしかに奏の言うとおり、お父さんの声は耳心地がいい。このコントラバスのような声を通して「お花」という単語を聞くと、ドイツ・ロマン派の詩人達がのこした、あの幻想的な詩の一片を、お父さんが今しがた私へ向けて朗読してくれたような気分になる。それが想起させるのは、決して情景に紛れ込む"花"ではなく、二人の深愛のもとに結実し、蒼空のもと芬芬ふんぷんたる香気を散らして優雅に咲きこぼれる、満開の黄色い"ブルーメン"なのである。


「ねえパパ、奏はザッハトルテがいいみたい」


「あれ、奏大はモンブランじゃなかったっけ?」


「――嘘だよ。ほんとは私が食べたいの」


「嘘つかなくても、ちゃんと買ってあげるよ」


 その言葉と笑顔が示す通り、お父さんは昔から家族のことになると良い意味で冗談が通じない。だから迂闊うかつに「あなた見て、このピアノ素敵ね」なんてお母さんが楽器屋で指でも指そうものなら、その数週間後にはリビングのど真ん中に忽ちヤマハのグランドピアノが鎮座してしまう。

 そんなかつての豪傑ごうけつぶりを熟知しているから、お母さんは今でも度々「紗愛と奏ちゃんがいるんですからね」と、お父さんを要所要所でそれとなく牽制けんせいする。とはいえその結びに「愛してますよ。あなた」と添えてしまうくらい甘々なので、禁止とかダメとか、そういった掣肘せいちゅうを加えるようなキツいことは一切言わない。ゆえにこのあと届く荷物の山を見て一瞬苦笑したとしても、その後即座に「あなたも随分買い物上手になったわね」なんてご満悦の表情をうかべて、今年もお父さんを感涙かんるいさせてしまうに違いない。


「ママおはよー」


「あらおはよう紗愛。…お父さん、もうやってるの?」


 いややっぱり親子っ!


「うん、今からパパとケーキ取りに行くところ」


「今年は何のケーキかしら」


「それはお楽しみだって」


「ふふ、今夜は食べ過ぎ注意ね」


 可愛いわー。そんじょそこらの女子高生より可愛いわー。


「待っててね、ママ」


「――気を付けて行ってきて頂戴ね。今日は人出も多いから」


「ありがとう。行ってきます」


 ひとまずお母さんへの現状報告を終えハグとキスを済ませると、私はとろけきった頭で洗濯物を干して自室へと戻り、一度ベッドの上で横になる。そこで子犬のワルツ*¹を聴いて精神統一というか、"外に出るよ"と自分の心へ優しく声をかけてやり、内面の準備が整ったその段階で、私はようやくパジャマを脱いでクローゼットを開ける。

 もうジャケットやコートで誤魔化せる季節ではない。薄底のサンダルを履いても、デカいやつはデカいまんま。どの色のワンピースが一番背丈が小さく見えるか、なんて、そんなの考えるだけ時間の無駄だ。――それなのに、今日はいけるかも、とか思ってまた似合いもしない若草色や黄蘗きはだ色のワンピースを引っ張り出し、むだな希望で意味もなくベッドの上を散らかしてしまう為体ていたらく。どうせ紺の小花柄しか着ないのに。まったく何やってんだか…

 姿見の前で猫背になりながら、私は横手さんへの恋心によって徐々に色気づいていく青臭い自分を憫笑びんしょうした。「まあ腐ってもCカップの女だろ」と、小さな黒子ほくろのある胸を寄せて谿間たにまを作ってみても、ほこりの付いた黒いブラのせいで寸毫ちっともエロさを感じない。おまけに下着姿で見返り美人の恰好をやると、臀部でんぶの大きさと胴長短足が強調されてそれはそれは見るも無慚むざんな有様なのである。――風呂場でも部屋でも、いつどこで見ても、この破瓜はかの女らしからぬ色気の無さには愕然がくぜんとする。こんなりの無い身体で横手さんの身体を抱き締めて、本当に大丈夫か? バレーで鍛え抜かれた、その程よく引緊ひきしまった艶麗美麗端麗ようれいびれいたんれいな杏花様の御身おんみを、私なぞが抱いてしまって大丈夫でしょうか。――まだ告白もしてないのに、早くも幻滅げんめつされるような気がして胃が重いぞ…

 気付けば私は玄関でサンダルを履きながら、理由もなく目交まなかいに泛んだ横手さんへ悄悄すごすごと謝罪していた。


「ねーちゃん行ってらっしゃーい」


「はーい、行ってきまーす」


「よし、じゃあ紗愛、行こうか」


「うん」


 しかしこうなったら、もう気を取り直してお父さんと手をつなぐしかない。おもねるとかこびを売るとか、そういう変な意味でするのではなく、こうしてお父さんと外出するときが、個人的には一番落ち着くのだ。なぜなら背丈が二センチしか変わらないので、私が目深まぶかに帽子を被ってマスクをしてしまえば、もう傍目はためには背の高い年の差夫婦にしか見えない、はずだからである。


「――紗愛、もう高校生なんだから、お父さんと歩くときくらい、少し離れてもいいんだよ?」


「私、パパと一緒がいい」


「――そっか。――どう? お友達とは、上手くやれてるの?」


「う、うん。まあまあかな」


「それはよかった。――でも何か悩みごとがあったら、必ず家族に話してね。芙美子さんと奏大のほうが話しやすいと思うけど、お父さんも紗愛の味方だから」


「ありがとう。パパ」


「――ケーキ食べて、それからお花屋さんに行こうか。――いや、でもチョコは太るかな…」


「平気だよ、パパは太らないから」


「あらそう? じゃ、お言葉に甘えて食べちゃおうかな」


 「いや女子か!」と背中を叩きたくなるが、このようにうちのお父さんは、昨年出張先でズボンが破れて以来、ずっと自分の体重が増えたことを気にしている。でも言うほどお腹もぷよぷよしてないし、学生時代ラグビーの選手だったことを加味すると、今のお父さんはむしろスマート過ぎるくらいだ。

 だからケーキの一つや二つ食べたところで、それは週末のワークアウトで全て消費されるから大丈夫だと思う。(そもそも休日にスポーツジムなんか行ってる時点で、私のような懶惰らんだな人間とは次元が違うのですよ。)

 それよりこの聖人ぶりが極まりすぎて、近頃「あら」とか「いいのよ」とか言うオネェ言葉を、私やお母さんのみならず奏に対しても使うようになってきたので、何がとは言わないが、私は不安で仕方ない。…まあ要するに、お父さんの中にひそむ真のオネェが、外出先で突如覚醒かくせいするかもしれないことなんかに較べれば、ケーキを食べてふとることなど些事さじも些事なのである。


「あぁ姫嶋さんいらっしゃい。――あら、今日は紗愛ちゃんとデートですか?」


「まさかぁ。紗愛の隣に立つ人は、もっとスマートな人じゃないとつとまらないよ」


「――紗愛ちゃん、あいかわらずスタイル抜群ですよねー。高校生なのに、もうすっかり大人のモデルさんみたい」


「ぁ、ありがとうございます…」


「ほんとにねぇ。綺麗すぎて、一緒に歩いてると僕のほうがドキドキしちゃうよ」


 パパ…


「素敵なお子さんで、羨ましい限りです」


夏帆かほさんの娘さんは、もう四歳だっけ?」


「聞いてくださいよぉ。それが最近、茜に『弟が欲しい』って催促さいそくされちゃって。もうませてるのは分かるんですけど、娘に面と向かってそう言われると、私も不安で不安で」


「焦ることないよ。って、男の僕が言ったら失礼だよね。でも夏帆さんはいいお母さんだから、そんなに焦らなくても大丈夫だよ」


 まあそうは言っても、この女心に寄り添うような寛闊かんかつ声音こわねは、やはり一家の大黒柱たるお父さんにしか出せない声なのである。


「ありがとうございます。こんなおばさんの背中を押していただいて」


「勘弁してよ夏帆さん。君も靖史やすふみ君も平成生まれでしょ?」


「立派な三十路ですよぉ。それに女は男の人と違って、のんびりしてられないんですから」


「そんなこと言われたら、僕なんか昭和生まれの妖怪じゃないか」


 いじけた様子でお父さんが嘆くと、夏帆さんは伝票の確認作業をめて、声も出ないほど可笑しいといった感じで手を叩きながら大笑いした。


「ずいぶん楽しそうだね…じゃあ紗愛にザッハトルテと、妖怪にフルーツタルトを一つ、恵んでいただけますか」


「はい。今ご用意しますので、特等席でお待ち下さい」


 そう言って夏帆さんがショーケースを開けると、私はその符牒ふちょうを受け取り、すぐさま一番奥の席へと着席する。この"特等席"という符牒の生みの親はどうやら夏帆さんではなく、私が幼少のみぎり、夏帆さんのお父さん(つまりこのお店の店長さん)が私と奏の可愛さにたまりかねて生み出した、所謂いわゆる慈愛じあいの符牒らしい。(いや念のため補足しておくとお父さんから聞いた話ですからね? 奏は可愛いけど、自分で自分を可愛いとか言っちゃうような、私そんなやべーやつじゃありませんからね?)

 しかし、家族揃って十年近く通い続けていると街の様子なんかも結構かわるわけで。ここ『パティスリー・クロマティーク(Chromatique)』も、駅前の再開発に伴う一時移転を経て、昨年の秋にようやっとこの新店舗がリニューアルオープンしたばかりだった。なので平日休日問わず、日中は舌のえたお客さんで鱗次櫛比りんじしっぴ大繁昌だいはんじょう。まだ開店して間もないから空いているように見えるが、こんなのは嵐の前の静けさそのものである。して母の日ともなると予約の受け渡しなんかもあるわけだから、夏帆さんもスタッフさんも今日は大忙しだろう。


「お待たせしました。こちらがザッハトルテと、フルーツタルトになります。紅茶はサービスですので、どうぞごゆっくりお召し上がり下さい」


 そんながらにもない心配をしていると、私とお父さんの間に、二皿の宝石と香り高い琥珀こはくきらめきが並んだ。


「まぁ綺麗だ。――先に食べてていいよ。お父さんも一枚撮ったら頂くから」


 心配だ。このままお父さんがお母さんにならないか、心配だ。


「うん、いただきます」


 私は長居したら悪いと思い、お目当てのザッハトルテを少し大きめに切って、アレグレットやや速くのテンポで口へと運んだ。…嘘です。プレスト急速にです。美味すぎて、気付いたら無くなってました。

 それから十数分後、お父さんのお会計を待っていると、早速さっそく団体のお客さんが入ってきた。たところママ友っぽかったが、六人揃って私の背後に立っていたので、ともすると「大きいわねぇー」とか言って嘲笑わらわれやしないかと、私は内心ひやひやした。でもお父さんが寄り添ってくれたおかげで、今日は会釈えしゃくだけじゃなく、夏帆さんにきちんと「ご馳走ちそうさまでした」が言えた。――今更だけど、これからは必ず言うようにしようと、私は夏帆さんのあたたかな笑顔を見ながらそう心にちかった。

 してその後、私達は無事予約していた花束を受け取り家路いえじに就いたわけだが、これがもう黄色い薔薇ばらのみのどデカい花束で。それを私が持つと、今日の服装も相俟あいまって完全にピアノのコンクールかなにかで優勝した人が、そのまま街中へほうり出されたみたいな感じに見えて凄まじくはずかしかった。


「ただいまー」


「おかえりなさーい」


「ねーちゃんお父さんおかえりー」


「奏、ただいま」


「奏大、今日はご苦労さま」


 さ、リビングへ直行だ。私はぱっぱとサンダルを脱いで手を洗い、バッグに忍ばせておいたプレゼントを取り出した。


「――まぁ、今年は黄色いバラにしてくれたのね」


「ママ。いつもありがとう」


「――愛してるわよ。紗愛」


 私が花束とプレゼントを渡して思いっきり抱きしめたら、お母さんのひとみにわかうるんだ。普段滅多めったなことでは泣かないお母さんが不意に見せたそのうるうるによって、私は危うく解脱げだつの境地に達するところだった。


「あら可愛いブローチ」


「よかったら着けてね」


「ありがとう。――紗愛のおかげで、お母さん今とっても幸せよ」


 はぁー。つばめのブローチとはとのブローチで一週間悩んだけど、鳩にしてよかったぁ。


「――あなたも。今日は色々お疲れ様でした」


「ねえ芙美子さん。――僕も、ハグしていいかな」


「何ですあらたまって。ハグなら毎日してるじゃありませんか」


「それはそうなんだけど。――やっぱり僕は、いくつになっても芙美子さんが好きなんだよ」


「あなた…」


 …まさか、それが言いたくて朝からそわそわしてたの? そんな風に思うと、私はごとない胸きゅんに襲われ、思わず二人の真ん前で凝立ぎょうりつしてしまった。

 その夜、お風呂から出てきたお父さんに「緊張した?」と訊いたら、今日はいつにもまして緊張したと言っていた。どうやら真物ほんものの愛を手に入れると、人の青春は十代を過ぎても永続えいぞくするらしい。ともすればそれは、西王母せいおうぼが武帝にあたえたという、あの仙桃ももの実にも引けを取らないほどの、世にも素晴らしき永久とこしえの果実なのであろう。

 ――嗚呼横手さん、あなたの暖かな光を受けて、私の心の蟠桃ばんとうは完熟を通り越して、もうとっくのうに爛熟らんじゅくしかかっておりますよ…

 そんな妄想を捗らせながら、私は教科書に恋文を挟んで鞄に入れた。

 午後十一時。みんなとおやすみのハグをして、洗いたての布団に潜ってリシッツァ*²の行進曲*³を聴いていたら、あんじょう心地良すぎて寝落ちした。

 ところがその心地良いねむりの中で、私はついに横手さんともみの木の下で口づけを交わす夢まで見てしまい、おどろきのあまり夜中の三時に飛び起きてしまった。それからは「正夢だったらどうしよう…」と、布団の中で縮こまりながらかく悶々としてしまい、何度目を閉じても、以後私のもとに眠気が訪れることはなかった。





*¹ショパン:『ワルツ第六番』 "子犬のワルツ" 変ニ長調 Op.64-1。

*²ヴァレンティーナ・リシッツァ(Valentina Lisitsa):ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(現:ウクライナ)生まれのピアニスト。

*³チャイコフスキー:『くるみ割り人形』組曲 Op.71a 行進曲 ト長調(March)。


 


 

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