第九話 パパと私
今日は待ちに待った母の日だ。朝八時、手探りでスマホを
…確か昨日は、横手さんへの恋文を認めたあと軽く本を読んで、そこで妄想が膨らみはじめて、とうとう枕を横手さんだと思って全力で抱き
そんなことを考えつつ大欠伸をしていたら、今度は舞茸から電話がかかってきた。
「ふはぁ、もしもし」
「あ、姫ちゃんおはよー」
「おはよー舞茸。朝から電話なんて、何かあったの?」
「うん、せっかくの日曜日だから、今日は姫ちゃんとデートしたいなと思って」
「…あ、あーそういうご用件でしたか…」
おかしいなー…その文言だけ検閲に引っかかって黒塗りにされたのかなー…あの後に一回と、水曜の告白のときに一回、あと金曜の放課後に一回の計三回、あなたに"もう少し考えさせて"って、私はっきり言ったはずなんだけどなぁ…
「…ダメ?」
「いや、遊ぶのはいいんだけど、今日母の日だからさ。そのー、出来たら来週かテスト明けにしていただけると…」
そう。これは断じてその場しのぎの
つまりこの日に他の予定を入れることなど言語道断。たとえ五十嵐君でも、あるいは横手さんからの有難いお誘いだったとしても、これが我が家の最高法規である以上、そこだけは何としても譲れないというわけだ。(仮にもそんな奇蹟みたいな事が起きた場合には、横手さんを問答無用で私の部屋へ連れ込み、もとい、我が家へ御招待致します。)
「姫ちゃんてほんと家族思いだよね」
「そうでもないよ。――それより、舞茸家の母の日ってどんな感じなの?」
「普通だよ。いつもより多めにお花が届くくらいで」
なるほど。お嬢様の家は母の日であるなしにかかわらず、どこぞの宮殿みたいに常時花畑状態なのか。いや流石貴族。
「…舞茸は、ちゃんとお母さんに『ありがとう』って言ってる?」
「…恥ずかしくて、最近言えてないかも。――姫ちゃんは?」
「ふふーん、あたしは毎日言ってるよ」
「さすが姫ちゃん。――私も、たまにはちゃんと言ってみようかな」
「いいねぇ。なら今日は家族と過ごすってことにして、お母さんに『ありがとう』って言ってあげな。――可愛い舞茸に言われたら、お母さんもきっと喜ぶよ」
「…姫ちゃん。ありがとう」
「いやあたしに言われても」
「ふふ。そうだよね。でもありがとう」
「うん///――ま、まあそういうわけだから、日時は明日改めて話し合うということで、ひとつお願いします」
「うん。楽しみにしてるね」
「うん、じゃあまた明日」
清々しい日曜の朝に、ここまで
「あ、ねーちゃん起きた」
「奏おはよー、もうやってるの?」
「なんか服とか靴とか、色々届くって」
「もぉー、ママに一個でいいって言われたのに、パパってばまた爆買いしてるじゃん」
「ねーちゃん、今日は出かける?」
「うーん、出かけるかも。たぶんケーキとか取りに行くと思うから」
「じゃあ俺が受け取っておくね」
これが十三歳、中学一年生の男の子の"心しらひ"ですか。私はその気遣いに
奏大。君はねーちゃんの期待を裏切らない、
「奏ありがとう」
「ねーちゃん、いい匂いするね」
「え/// そ、そ?」
「うん、なんか甘い匂いがする」
うわぁーいかん…ただの
「そういう奏も、最近一気に格好良くなったよね」
「格好良くないよ。声も変で気持ち悪いし」
「どうして? 男らしくて素敵だよ」
「でも歌うと音痴みたいになるから、俺も早くお父さんみたいな良い声になりたいんだ」
「なるほどねぇ。男の人はそういう苦労があるんだ」
「女の人は、声かすれたりしないの?」
「んー、かすれはしないけど、まったく変わらないこともないと思うよ。私も若干低くなってるし」
「いいなー」
「――大丈夫だよ。奏は今のままでも十分格好良いから」
「ねーちゃんも美人だよ」
嗚呼主よ、人は何故一度始めた抱擁を自らの意思で
この
たとえ今両手に手錠を掛けられたとしてもそう自供するしかないほど、私の母性の川は、彼の思い遣りの豪雨を受けて
「奏は、ねーちゃん嫌いになったりしないの?」
「しないよ。いい匂いだから」
いいぞ奏っ! もっと嗅いでくれっ! こんな変態女の香りでよかったら、心ゆくまで堪能してくれっ! 今なら洗剤の香りが残ってるから、まだそこまで臭くはないはずだ!
しかしこれ以上奏に乗せられていちゃいちゃしてしまうと、私は
「パパおはよー」
「おはよう紗愛。今洗濯中だから、干すのだけお願いできるかな」
「え、もうやってくれたの? まさか掃除も?」
「もちろん終わってるよ。早くしないと、芙美子さんに悪いからね」
神! うちの男性陣まじ神!
ともするとまた三歎した挙句、勢いに任せてお父さんにキスしてしまいそうな気分だったので、心の中に湧いた
残り十八分。洗濯が
おそらく私達には話せない秘密の
「あ、パパ、荷物は奏が出てくれるって」
「あらほんと。――じゃああとは、ケーキとお花か」
「私も一緒に行くよ。パパ一人でケーキとお花持つの恥ずかしいでしょ?」
「はは、それもそうだね。――たぶん紗愛に持ってもらったほうが、お花もケーキも喜ぶよ」
「――去年はレアチーズだったから、今年はショートケーキ?」
「それは、開けてからのお楽しみかな」
「ねえパパ、奏はザッハトルテがいいみたい」
「あれ、奏大はモンブランじゃなかったっけ?」
「――嘘だよ。ほんとは私が食べたいの」
「嘘つかなくても、ちゃんと買ってあげるよ」
その言葉と笑顔が示す通り、お父さんは昔から家族のことになると良い意味で冗談が通じない。だから
そんな
「ママおはよー」
「あらおはよう紗愛。…お父さん、もうやってるの?」
いややっぱり親子っ!
「うん、今からパパとケーキ取りに行くところ」
「今年は何のケーキかしら」
「それはお楽しみだって」
「ふふ、今夜は食べ過ぎ注意ね」
可愛いわー。そんじょそこらの女子高生より可愛いわー。
「待っててね、ママ」
「――気を付けて行ってきて頂戴ね。今日は人出も多いから」
「ありがとう。行ってきます」
ひとまずお母さんへの現状報告を終えハグとキスを済ませると、私は
もうジャケットやコートで誤魔化せる季節ではない。薄底のサンダルを履いても、デカいやつはデカいまんま。どの色のワンピースが一番背丈が小さく見えるか、なんて、そんなの考えるだけ時間の無駄だ。――それなのに、今日はいけるかも、とか思ってまた似合いもしない若草色や
姿見の前で猫背になりながら、私は横手さんへの恋心によって徐々に色気づいていく青臭い自分を
気付けば私は玄関でサンダルを履きながら、理由もなく
「ねーちゃん行ってらっしゃーい」
「はーい、行ってきまーす」
「よし、じゃあ紗愛、行こうか」
「うん」
しかしこうなったら、もう気を取り直してお父さんと手を
「――紗愛、もう高校生なんだから、お父さんと歩くときくらい、少し離れてもいいんだよ?」
「私、パパと一緒がいい」
「――そっか。――どう? お友達とは、上手くやれてるの?」
「う、うん。まあまあかな」
「それはよかった。――でも何か悩みごとがあったら、必ず家族に話してね。芙美子さんと奏大のほうが話しやすいと思うけど、お父さんも紗愛の味方だから」
「ありがとう。パパ」
「――ケーキ食べて、それからお花屋さんに行こうか。――いや、でもチョコは太るかな…」
「平気だよ、パパは太らないから」
「あらそう? じゃ、お言葉に甘えて食べちゃおうかな」
「いや女子か!」と背中を叩きたくなるが、このようにうちのお父さんは、昨年出張先でズボンが破れて以来、ずっと自分の体重が増えたことを気にしている。でも言うほどお腹もぷよぷよしてないし、学生時代ラグビーの選手だったことを加味すると、今のお父さんは
だからケーキの一つや二つ食べたところで、それは週末のワークアウトで全て消費されるから大丈夫だと思う。(そもそも休日にスポーツジムなんか行ってる時点で、私のような
それよりこの聖人ぶりが極まりすぎて、近頃「あら」とか「いいのよ」とか言うオネェ言葉を、私やお母さんのみならず奏に対しても使うようになってきたので、何がとは言わないが、私は不安で仕方ない。…まあ要するに、お父さんの中に
「あぁ姫嶋さんいらっしゃい。――あら、今日は紗愛ちゃんとデートですか?」
「まさかぁ。紗愛の隣に立つ人は、もっとスマートな人じゃないと
「――紗愛ちゃん、あいかわらずスタイル抜群ですよねー。高校生なのに、もうすっかり大人のモデルさんみたい」
「ぁ、ありがとうございます…」
「ほんとにねぇ。綺麗すぎて、一緒に歩いてると僕のほうがドキドキしちゃうよ」
パパ…
「素敵なお子さんで、羨ましい限りです」
「
「聞いてくださいよぉ。それが最近、茜に『弟が欲しい』って
「焦ることないよ。って、男の僕が言ったら失礼だよね。でも夏帆さんはいいお母さんだから、そんなに焦らなくても大丈夫だよ」
まあそうは言っても、この女心に寄り添うような
「ありがとうございます。こんなおばさんの背中を押していただいて」
「勘弁してよ夏帆さん。君も
「立派な三十路ですよぉ。それに女は男の人と違って、のんびりしてられないんですから」
「そんなこと言われたら、僕なんか昭和生まれの妖怪じゃないか」
いじけた様子でお父さんが嘆くと、夏帆さんは伝票の確認作業を
「ずいぶん楽しそうだね…じゃあ紗愛にザッハトルテと、妖怪にフルーツタルトを一つ、恵んでいただけますか」
「はい。今ご用意しますので、特等席でお待ち下さい」
そう言って夏帆さんがショーケースを開けると、私はその
しかし、家族揃って十年近く通い続けていると街の様子なんかも結構
「お待たせしました。こちらがザッハトルテと、フルーツタルトになります。紅茶はサービスですので、どうぞごゆっくりお召し上がり下さい」
そんな
「まぁ綺麗だ。――先に食べてていいよ。お父さんも一枚撮ったら頂くから」
心配だ。このままお父さんがお母さんにならないか、心配だ。
「うん、いただきます」
私は長居したら悪いと思い、お目当てのザッハトルテを少し大きめに切って、
それから十数分後、お父さんのお会計を待っていると、
してその後、私達は無事予約していた花束を受け取り
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
「ねーちゃんお父さんおかえりー」
「奏、ただいま」
「奏大、今日はご苦労さま」
さ、リビングへ直行だ。私はぱっぱとサンダルを脱いで手を洗い、バッグに忍ばせておいたプレゼントを取り出した。
「――まぁ、今年は黄色いバラにしてくれたのね」
「ママ。いつもありがとう」
「――愛してるわよ。紗愛」
私が花束とプレゼントを渡して思いっきり抱きしめたら、お母さんの
「あら可愛いブローチ」
「よかったら着けてね」
「ありがとう。――紗愛のおかげで、お母さん今とっても幸せよ」
はぁー。
「――あなたも。今日は色々お疲れ様でした」
「ねえ芙美子さん。――僕も、ハグしていいかな」
「何ですあらたまって。ハグなら毎日してるじゃありませんか」
「それはそうなんだけど。――やっぱり僕は、
「あなた…」
…まさか、それが言いたくて朝からそわそわしてたの? そんな風に思うと、私は
その夜、お風呂から出てきたお父さんに「緊張した?」と訊いたら、今日はいつにもまして緊張したと言っていた。どうやら
――嗚呼横手さん、あなたの暖かな光を受けて、私の心の
そんな妄想を捗らせながら、私は教科書に恋文を挟んで鞄に入れた。
午後十一時。みんなとおやすみのハグをして、洗いたての布団に潜ってリシッツァ*²の行進曲*³を聴いていたら、
ところがその心地良い
*¹ショパン:『ワルツ第六番』 "子犬のワルツ" 変ニ長調 Op.64-1。
*²ヴァレンティーナ・リシッツァ(Valentina Lisitsa):ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(現:ウクライナ)生まれのピアニスト。
*³チャイコフスキー:『くるみ割り人形』組曲 Op.71a 行進曲 ト長調(March)。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます