第八話 成獣と性獣 後

 私が睚眦がいさいの眼差しを向けると、舞茸は悪戯好きの幼児が母親に見せるような、何ともいわけない表情をしてしらばっくれた。どうやらこいつも、初回から自分の告白を盗み聞きされるなどとは思ってもみなかったようだ。


「ほらあの人だよ、一ノ瀬さんとキスしてた人」

「へぇー、あの子ってレズだったんだぁ」

「てか学校で襲っちゃうとか、あの子結構肉食じゃない?」

「性格もキツいし男っぽいんじゃない? 背も高いし」


 そのかん私の目交まなかいには、早ければ明日から開幕するであろう陰口大会に頻出しそうな文言が続々と泛びはじめていた。――そして無情にもその現実味溢れる文言の数々が、私の希死念慮をも呼びました、あいつらの冷酷非情な言葉まで連れてくる。


「お前邪魔、デカいんだから守備だけやっとけよ」

「私たちじゃ届かないし、ここの掃除は全部姫嶋さんにやらせようよ」

「お前、デカイくせに飯食いすぎじゃね?」

「ねー姫嶋さーん、ジャージ貸してー。――あ、やっぱいいやー。大きすぎて着れないしー」


 『――愚昧ぐまいが…讒謗ざんぼう溝泥どぶどろの中を駆けずり回るしか能のない、この陋劣ろうれつなクソカス共が! クソはクソらしく、屎尿しにょうおぼれてくたばりやがれ! 自らの垂れ流した屎尿をんで、肺腑はいふの奥底までクソにひたりながら、せいぜい苦しみ藻搔もがいてくたばりやがれ!』

 去年の冬は、確かノートにそんなことを書いて、布団の中で大泣きしてたっけ…

 厨二病全開過ぎて、今となっては「愚昧はお前だろ」とツッコみたくなる。そう考えると、柔らかな肉体の成熟とは違い、精神の成熟というのはじつに硬質で冷たく、かつ罪深いものだ。苦痛に満ちた記憶を反芻はんすうしたからといって、もうパニックにもならないし過呼吸にもならない。殊更うらごとを並べ立てる気力も湧かず、だからといってゆるしてやる気にもならない。ただ「あの頃は地獄だったな」と事務的に感想をべて、それでおわりである。

 しかしこの学園内にも幾人いくたりかの地獄の使者が紛れ込んでいると思うと、私はやはりその悪霊のような存在に名状しがたい恐怖を感じ、無意識のうちに息を止めていた。

 そもそも人付き合いがいや(※ただし横手さんと舞茸を除く)だから、大学受験に青春のすべてをなげうつ覚悟で都内の進学校に入ったというのに。このタイミングでどこの馬の骨とも知れないやつに蜚語ひごでも吹聴ふいちょうされようものなら、私は今度こそ保健室登校、乃至ないしは完全不登校という、これまた人生史上最凶レベルの荊棘けいきょくの道を歩むことになるかもしれない。――そうなれば家族に心配をかけるのみならず、横手さんと過ごすはずだった貴重な時間が、横手さんとの間に芽生えた、この優美なる蠟燭のほのおのような関係が、純白のしとねの上にす、非モテ処女の生温かいうれたみのなみだとなって忽ちのうちに保健室全体へと雲散霧消してしまうに違いない。

 ――なればこそ、私はこの間諜かんちょうの暴挙を全力で阻止しなければならない。なぜなら私は、既に横手さんの放ったするどい一矢によって、まるで那須与一の扇の的、或いはウィリアム・テル*¹に出てくる、ジェミの頭上に据え置かれた林檎くらい豪快に、この心のど真ん中をがっつり射貫かれてしまったから…

 …だから絶対告白したい。舞茸の気持ちを踏みにじるような真似をして本当に申し訳ないが、これが今現在の、私の嘘偽りの無い本心なのだ。

 つまりその目的を果たすまでは、間諜だろうが鼠だろうが、一疋たりとも逃がしはしない!

 刹那、私は胸中で静かに十字を切り、正体不明の敏腕レズ諜報員をとっ捕まえてやろうと急いで扉を開けた。


「え!? 片瀬さん、ここで何してるの?」


「あ、あははー…何してたんでしょう…」


 まさしくあに図らんやであった。逃げようとして滑って転んだのか、片瀬さんは痛そうにお尻をさすりながらこちら側を向いて苦笑していた。


「それより大丈夫? 転んだの?」


「姫嶋さん、だ、大丈夫だよ…」


「いいからちょっと座って。足くじいたりしてない?」


「ありがとう姫嶋さん、でも私、本当に大丈夫だから///」


「ならいいんだけど。凄い音だったからさ。――五限始まる前に、ちゃんと保健室行って診てもらってね」


「姫嶋さん…」


「…ねえ片瀬さん。――片瀬さんて、この前二組の相沢さんと、ここでキスしてたよね?」


「へ? し、してませんけどっ?」


「おいやめろ舞茸。そんなの完全にでまかせだろ」


「でまかせじゃないよ。あと、今日一緒に見学してた堀田さんとも、先週ここでキスしてたし」


 えっと…私が無智なだけで、ここってそういうのの聖地なんですか?


「そういう一ノ瀬さんだって、いま姫嶋さんのこと襲おうとしてたじゃん」


「いえ、襲われてはいませんけど…」


「でも私は姫ちゃんだけだよ? 私は片瀬さんと違って、毎週違う人とキスなんてしないから」


「なにそれ、私がビッチだとでも言いたいわけ?」


「まあまあまあまあ一旦落ち着けって舞茸。片瀬さんも少し冷静になって。そんなことで喧嘩しても、良いことなんて一つもないから」


「――じゃあ姫嶋さんは、私のことビッチだと思ってるの?」


「思ってないよ。…あたしこの学校にいる人たちは、みんな違ってみんないいと思ってる人間だから」


「ふーん…それって、姫嶋さんの本心?」


「うーん、まぁ本心といえば本心かな」


「そう」


「いや…もっと下品でいいなら本音で言うけど」


「ほんと!? 言って言ってー」


「…あのーあたし処女だからさ、キスとかセックスとか聞いても、そのへんの自由度が一切わかんないんだよね」


「へー以外。姫嶋さんてモテそうなのに」


「それがデカいし性格悪いから全然モテないのよ…自分でも悲しくなるわまじで」


「私、姫嶋さんみたいな高身長で美人の人、好きだよ」


「え、いいいよそんな励ましてくれなくても。あたし、片瀬さんみたいに人付き合い上手くないし」


「ふふ。――なら、私と付き合ってみる?」


「っ!! ちょっとやめてよ片瀬さんっ! 姫ちゃんは私のものなんだからっ!」


 おいおい鉄壁過ぎだろ。そんな要人警護みたいにしなくても、片瀬さんは何もしないって…


「舞茸、もう怒るな」


「一ノ瀬さんキレすぎー。でも怒るってことはぁ、それだけ姫嶋さんのことが大好きなんだぁー、ふふっ、かわいいねっ」


「片瀬さんも、あんまり挑発しないでくれる。このあと怒られるの、片瀬さんじゃなくてあたしだから」


「ごめん姫嶋さん、ねぇ、よかったら連絡先教えて?」


「いいけど、それなら舞茸とも交換してね」


「それよりなんで舞茸なの? もっと可愛いあだ名で呼んであげればいいのに」


「それが、嫌がるだろうなと思って舞茸にしたんだけど…なんか毎日呼んでるうちに、あたしが好きになっちゃって」


「ヘー、姫嶋さんて、そういうこと平気で言っちゃうんだ」


「…なんかダメなこと言いました!?」


「言ってないけど。――私も姫嶋さんと付き合ったら、絶対一途になっちゃうだろうなぁって。そう思っただけだよ」


「あぁ、それはそれは…ありがとうございます…」


 私が米搗こめつ飛蝗ばったになりながらそう言うと、両者はじっとかおを見合わせ直ちに睨み合いを再開する。女は怖い。スマホを取り出すのが先か、それとも手を出すのが先か。昼休み終了まであと残り二分しかないというのに、なぜか片瀬さんも舞茸相手に一歩も引こうとしない。


「…ねえ片瀬さん、あたし本気の喧嘩とか無理だから、頼むから仲直りして。謝ったほうがよければ私が謝るから」


「…姫嶋さんは何も悪くないけどぉ、一ノ瀬さんには謝ってほしいかな」


「…ほら舞茸、早くごめんなさいって言え」


「でも…」


「"でも"じゃなくて。一旦仲直りして、話すなら三人でグループ作ってそこで話そうよ」


「…片瀬さん…ごめんなさい」


「いーよー、じゃぁ交換ね」


「それと、申し訳ないけど片瀬さんも」


「はいはい。一ノ瀬さんごめんね。私ビッチだから、気が向いたら一緒に遊んでね?」


 もしそこでチャイムが鳴らなかったら、私は舞茸の殺気を全身に受けて喀血し、薄れゆく意識の彼方にフォーレ*²のレクイエム*³を聞きながら、そのまま最寄の病院へと担ぎ込まれていたかもしれなかった。

 さぞかし図太いのでは? と思われるかもしれないが、性悪の甲斐なく、こういった場面に出くわすと、私は怯懦きょうだの生き写しと言っても過言ではないほどの、とんでもなくビビりな小心者へと変貌する。決して猫を被っているわけでもなんでもなく、暴力の"ぼ"の字も無い愛のはこの中でのほほんと育ったため、口先でじゃれあう以外の争い事に対する耐性など一ミクロンも無いのである。なのでいざつかみ合いやなぐり合いの喧嘩が始まったりすると、私は思わず目を瞑り、耳を塞いですぐさまその場にうずくまりたくなってしまう…


「え? 姫嶋さん?」


「お願い片瀬さん…仲良くして…」


 なおその後は片瀬さんと舞茸との間できちんと話し合いの場が設けられたようで。翌日私が教室に入った瞬間から、二人はすっかり打ち解けて、私への挨拶がハモるくらい仲良くなっていた。


「ねー舞彩ちゃん、相性確かめたいから一回ヤらない? 私タチだから、ネコで来てくれると嬉しいんだけど」


「しないよ由唯ゆいちゃん。私は、姫ちゃんを抱くためだけに生きてるの」


「いいなぁ~、じゃぁこのあと抱いちゃえば? ヤるなら私が見張っててあげるよ」


 お前ら私がお母さんのお弁当を食べようとしてるときになんつう話をしとんじゃ。――はぁー胃が痛い…先が思いやられる…


「――姫嶋さんおまたせー、ちょっと話してたら遅くなっちゃった」


「ぁー横手さーん、今日は隣同士でもいいですか?」


「もちろんいいよ」


「ありがとうございます…」


「あ、そうだ姫嶋さん、私、今日なぜかアーモンドチョコ食べたくなってね。朝買ったんだけど、一緒に食べる?」


「頂きます、有難く頂戴いたします」


 最近食べていなかったせいか、横手さんがくれたアーモンドチョコを一粒食べた瞬間「あれ? こんなに美味しかったっけ?」と、私はそのあまりの風味の佳さにおどろいた。チョコの甘さとアーモンドの香ばしさ。そして私の脳裡に泛ぶ、少し大きめの、淡い巴旦杏アーモンド色のカーディガンを羽織った横手さん…うん似合う。チョコレートブラウンだったとしても絶対似合う。――あぁ可愛い…そんなにチョコが食べたかっただなんて、なんて純粋な心の持ち主なの…

 三粒一気に頬張る無邪気な横手さんを間近に見て、私はとびきり良いチョコレートを彼女にお返ししようと腹に決めた。


「うそー、一ノ瀬さん週一なのー? 私こう見えて週五だよ?」


「疲れないの?」


「ぜんぜん。そこまでアレじゃないし」


 …片瀬さん頼む。ご飯中だけでいいから舞茸の唇でも奪って大人しくしててくれ。

 私はふりかけご飯を食べながら、そんなはしたない話柄わへいがどうか横手さんのお耳へ入りませんようにと祈った。

 ところが片瀬さんときたら舞茸の前ではやたら饒舌じょうぜつで、私がお弁当を食べ終えて横手さんと談笑している間も、そのぼやけてるんだかぼやけてないんだか判らない猥談は縷々るるとして続いていた。


「ねえ姫嶋さん」


「?」


「…週一とか週五って、なんだか分かる?」


 南無三方一両損っ!!


「…た、たぶんアルバイト…とか、かな…」


「でも、うちの学校アルバイト禁止じゃなかった?」


「ぇー…それか…塾とか」


「あぁ塾の話かぁ。私てっきりあっちの話かと思ったよー」


 どっちですか!? 私の臆測は既にそっちこっちにとっ散らかってますよ!?


「あ、あっち?」


「――彼氏とデートしてるのかなーって」


 ――何だこの神託みたいな耳打ちは。しかもチョコレートの甘い吐息に導かれて、私の頭の中が秒速で倖せ色に染まっていくぞ…


「デート…したいなぁ…」


「姫嶋さんも、勇気出して男子に告白しちゃえば?」


 いやぁ〜違うんですよぉー横手さぁん…私はたとえ舞茸に憎まれ憾まれたとしても、あなたのことが好きなんですよぉ…

 斯くして、私の中にまた一つ、非モテに似つかわしくないロマンティックな感情が芽生えた。それは初夏の青臭い木々の緑のようでもあり、ともすればけりすぎた春の生温かい微風のような、二進数で截然せつぜんと区切ることを峻拒しゅんきょするようなきわめて有機的な感情だった。


「まぁ私が言わなくても平気か、姫嶋さんモテそうだし」


 今日の晩御飯がオムライスだと判ったときのように、彼女のそんな言葉を聞くと、私の意識は川面をただよう笹舟のようにくるくるとまわりだし落ち着かなくなる。このCカップしかない粗末な胸も、彼女の笑顔の前ではわずかにその息苦しさを増して「これは叶わぬ恋なのでは?」なんて疑念がひと度生じると、そのもやもやはとうとう胃袋にまで伝播でんぱした。


「ねえ…横手さん…」


「ん?」


「あたし…女の子が好きなんだ…///」


 くっ…私としたことが…お腹の音を誤魔化すために、勢い余ってレズをカミングアウトしてしまうだなんて。


「いいじゃんいいじゃん、今どきそんなの関係ないって。青春は一度きりなんだから、好きな人がいたら姫嶋さんもどんどんアタックしたほうがいいよ」


 だがそのアドリブじみた一投が、これまた予想だにしない形でブザービート的に作用した。――さすがは温良篤厚おんりょうとっこうな横手さん。私の思い描いていたとおり、あなたはどの方面にも寛大な、心優しき人格者だ。

 まあ何はともあれ、その障壁が無いと判った以上、私に残された作業は叮嚀ていねいに恋文をしたため、見るも無慚むざんな告白にならないよう、今日の夜から例の常套句せりふ只管ひたすら練習することくらいである。


「…頑張ります」


「あ〜誰が姫嶋さんの彼女になるんだろ〜、めっちゃ気になるっ。――ねえ姫嶋さん、告白が成功したら、私にも紹介してね?」


 その横手さんの言葉を境に舞茸と片瀬さんの猥談は止んだものの、私はその日の昼休みから、到頭とうとう胃腸薬の常備まで真剣に考えはじめたのだった。





*¹ロッシーニ:歌劇『ウィリアム・テル(Guillaume Tell)』。

*²ガブリエル・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré):フランスの後期ロマン派音楽を牽引した作曲家。オルガニスト。ピアニスト。

*³フォーレ:『レクイエム』 Op.48 ニ短調。"イントロイトゥスとキリエ" "オッフェルトリウム" "サンクトゥス" "ピエ・イェズ" "アニュス・デイ" "リベラ・メ" "イン・パラディスム"。

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