第八話 成獣と性獣 後
私が
「ほらあの人だよ、一ノ瀬さんとキスしてた人」
「へぇー、あの子ってレズだったんだぁ」
「てか学校で襲っちゃうとか、あの子結構肉食じゃない?」
「性格もキツいし男っぽいんじゃない? 背も高いし」
その
「お前邪魔、デカいんだから守備だけやっとけよ」
「私たちじゃ届かないし、ここの掃除は全部姫嶋さんにやらせようよ」
「お前、デカイくせに飯食いすぎじゃね?」
「ねー姫嶋さーん、ジャージ貸してー。――あ、やっぱいいやー。大きすぎて着れないしー」
『――
去年の冬は、確かノートにそんなことを書いて、布団の中で大泣きしてたっけ…
厨二病全開過ぎて、今となっては「愚昧はお前だろ」とツッコみたくなる。そう考えると、柔らかな肉体の成熟とは違い、精神の成熟というのはじつに硬質で冷たく、かつ罪深いものだ。苦痛に満ちた記憶を
しかしこの学園内にも
そもそも人付き合いが
――なればこそ、私はこの
…だから絶対告白したい。舞茸の気持ちを踏み
つまりその目的を果たすまでは、間諜だろうが鼠だろうが、一疋たりとも逃がしはしない!
刹那、私は胸中で静かに十字を切り、正体不明の敏腕レズ諜報員をとっ捕まえてやろうと急いで扉を開けた。
「え!? 片瀬さん、ここで何してるの?」
「あ、あははー…何してたんでしょう…」
まさしく
「それより大丈夫? 転んだの?」
「姫嶋さん、だ、大丈夫だよ…」
「いいからちょっと座って。足
「ありがとう姫嶋さん、でも私、本当に大丈夫だから///」
「ならいいんだけど。凄い音だったからさ。――五限始まる前に、ちゃんと保健室行って診てもらってね」
「姫嶋さん…」
「…ねえ片瀬さん。――片瀬さんて、この前二組の相沢さんと、ここでキスしてたよね?」
「へ? し、してませんけどっ?」
「おいやめろ舞茸。そんなの完全にでまかせだろ」
「でまかせじゃないよ。あと、今日一緒に見学してた堀田さんとも、先週ここでキスしてたし」
えっと…私が無智なだけで、ここってそういうのの聖地なんですか?
「そういう一ノ瀬さんだって、いま姫嶋さんのこと襲おうとしてたじゃん」
「いえ、襲われてはいませんけど…」
「でも私は姫ちゃんだけだよ? 私は片瀬さんと違って、毎週違う人とキスなんてしないから」
「なにそれ、私がビッチだとでも言いたいわけ?」
「まあまあまあまあ一旦落ち着けって舞茸。片瀬さんも少し冷静になって。そんなことで喧嘩しても、良いことなんて一つもないから」
「――じゃあ姫嶋さんは、私のことビッチだと思ってるの?」
「思ってないよ。…あたしこの学校にいる人たちは、みんな違ってみんないいと思ってる人間だから」
「ふーん…それって、姫嶋さんの本心?」
「うーん、まぁ本心といえば本心かな」
「そう」
「いや…もっと下品でいいなら本音で言うけど」
「ほんと!? 言って言ってー」
「…あのーあたし処女だからさ、キスとかセックスとか聞いても、そのへんの自由度が一切わかんないんだよね」
「へー以外。姫嶋さんてモテそうなのに」
「それがデカいし性格悪いから全然モテないのよ…自分でも悲しくなるわまじで」
「私、姫嶋さんみたいな高身長で美人の人、好きだよ」
「え、いいいよそんな励ましてくれなくても。あたし、片瀬さんみたいに人付き合い上手くないし」
「ふふ。――なら、私と付き合ってみる?」
「っ!! ちょっとやめてよ片瀬さんっ! 姫ちゃんは私のものなんだからっ!」
おいおい鉄壁過ぎだろ。そんな要人警護みたいにしなくても、片瀬さんは何もしないって…
「舞茸、もう怒るな」
「一ノ瀬さんキレすぎー。でも怒るってことはぁ、それだけ姫嶋さんのことが大好きなんだぁー、ふふっ、かわいいねっ」
「片瀬さんも、あんまり挑発しないでくれる。このあと怒られるの、片瀬さんじゃなくてあたしだから」
「ごめん姫嶋さん、ねぇ、よかったら連絡先教えて?」
「いいけど、それなら舞茸とも交換してね」
「それよりなんで舞茸なの? もっと可愛いあだ名で呼んであげればいいのに」
「それが、嫌がるだろうなと思って舞茸にしたんだけど…なんか毎日呼んでるうちに、あたしが好きになっちゃって」
「ヘー、姫嶋さんて、そういうこと平気で言っちゃうんだ」
「…なんかダメなこと言いました!?」
「言ってないけど。――私も姫嶋さんと付き合ったら、絶対一途になっちゃうだろうなぁって。そう思っただけだよ」
「あぁ、それはそれは…ありがとうございます…」
私が
「…ねえ片瀬さん、あたし本気の喧嘩とか無理だから、頼むから仲直りして。謝ったほうがよければ私が謝るから」
「…姫嶋さんは何も悪くないけどぉ、一ノ瀬さんには謝ってほしいかな」
「…ほら舞茸、早くごめんなさいって言え」
「でも…」
「"でも"じゃなくて。一旦仲直りして、話すなら三人でグループ作ってそこで話そうよ」
「…片瀬さん…ごめんなさい」
「いーよー、じゃぁ交換ね」
「それと、申し訳ないけど片瀬さんも」
「はいはい。一ノ瀬さんごめんね。私ビッチだから、気が向いたら一緒に遊んでね?」
もしそこでチャイムが鳴らなかったら、私は舞茸の殺気を全身に受けて喀血し、薄れゆく意識の彼方にフォーレ*²のレクイエム*³を聞きながら、そのまま最寄の病院へと担ぎ込まれていたかもしれなかった。
さぞかし図太いのでは? と思われるかもしれないが、性悪の甲斐なく、こういった場面に出くわすと、私は
「え? 姫嶋さん?」
「お願い片瀬さん…仲良くして…」
なおその後は片瀬さんと舞茸との間できちんと話し合いの場が設けられたようで。翌日私が教室に入った瞬間から、二人はすっかり打ち解けて、私への挨拶がハモるくらい仲良くなっていた。
「ねー舞彩ちゃん、相性確かめたいから一回ヤらない? 私タチだから、ネコで来てくれると嬉しいんだけど」
「しないよ
「いいなぁ~、じゃぁこのあと抱いちゃえば? ヤるなら私が見張っててあげるよ」
お前ら私がお母さんのお弁当を食べようとしてるときになんつう話をしとんじゃ。――はぁー胃が痛い…先が思いやられる…
「――姫嶋さんおまたせー、ちょっと話してたら遅くなっちゃった」
「ぁー横手さーん、今日は隣同士でもいいですか?」
「もちろんいいよ」
「ありがとうございます…」
「あ、そうだ姫嶋さん、私、今日なぜかアーモンドチョコ食べたくなってね。朝買ったんだけど、一緒に食べる?」
「頂きます、有難く頂戴いたします」
最近食べていなかったせいか、横手さんがくれたアーモンドチョコを一粒食べた瞬間「あれ? こんなに美味しかったっけ?」と、私はそのあまりの風味の佳さに
三粒一気に頬張る無邪気な横手さんを間近に見て、私はとびきり良いチョコレートを彼女にお返ししようと腹に決めた。
「うそー、一ノ瀬さん週一なのー? 私こう見えて週五だよ?」
「疲れないの?」
「ぜんぜん。そこまでアレじゃないし」
…片瀬さん頼む。ご飯中だけでいいから舞茸の唇でも奪って大人しくしててくれ。
私はふりかけご飯を食べながら、そんなはしたない
ところが片瀬さんときたら舞茸の前ではやたら
「ねえ姫嶋さん」
「?」
「…週一とか週五って、なんだか分かる?」
南無三方一両損っ!!
「…た、たぶんアルバイト…とか、かな…」
「でも、うちの学校アルバイト禁止じゃなかった?」
「ぇー…それか…塾とか」
「あぁ塾の話かぁ。私てっきりあっちの話かと思ったよー」
どっちですか!? 私の臆測は既にそっちこっちにとっ散らかってますよ!?
「あ、あっち?」
「――彼氏とデートしてるのかなーって」
――何だこの神託みたいな耳打ちは。しかもチョコレートの甘い吐息に導かれて、私の頭の中が秒速で倖せ色に染まっていくぞ…
「デート…したいなぁ…」
「姫嶋さんも、勇気出して男子に告白しちゃえば?」
いやぁ〜違うんですよぉー横手さぁん…私はたとえ舞茸に憎まれ憾まれたとしても、あなたのことが好きなんですよぉ…
斯くして、私の中にまた一つ、非モテに似つかわしくないロマンティックな感情が芽生えた。それは初夏の青臭い木々の緑のようでもあり、ともすれば
「まぁ私が言わなくても平気か、姫嶋さんモテそうだし」
今日の晩御飯がオムライスだと判ったときのように、彼女のそんな言葉を聞くと、私の意識は川面を
「ねえ…横手さん…」
「ん?」
「あたし…女の子が好きなんだ…///」
くっ…私としたことが…お腹の音を誤魔化すために、勢い余ってレズをカミングアウトしてしまうだなんて。
「いいじゃんいいじゃん、今どきそんなの関係ないって。青春は一度きりなんだから、好きな人がいたら姫嶋さんもどんどんアタックしたほうがいいよ」
だがそのアドリブじみた一投が、これまた予想だにしない形でブザービート的に作用した。――さすがは
まあ何はともあれ、その障壁が無いと判った以上、私に残された作業は
「…頑張ります」
「あ〜誰が姫嶋さんの彼女になるんだろ〜、めっちゃ気になるっ。――ねえ姫嶋さん、告白が成功したら、私にも紹介してね?」
その横手さんの言葉を境に舞茸と片瀬さんの猥談は止んだものの、私はその日の昼休みから、
*¹ロッシーニ:歌劇『ウィリアム・テル(Guillaume Tell)』。
*²ガブリエル・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré):フランスの後期ロマン派音楽を牽引した作曲家。オルガニスト。ピアニスト。
*³フォーレ:『レクイエム』 Op.48 ニ短調。"イントロイトゥスとキリエ" "オッフェルトリウム" "サンクトゥス" "ピエ・イェズ" "アニュス・デイ" "リベラ・メ" "イン・パラディスム"。
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